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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・35

 ほどなくして、テーブルに並べられたコーヒーカップ二つとチーズケーキ。同じ取り合わせは普段から見慣れているのだが、店の雰囲気とも相俟って全く違うものに鞍吉には思えた。バイト先ではシンプルな白い磁器の食器を使っているが、ここのものは重厚感のある陶器だ。鞍吉のカップと夢露のものは形も柄も違う。湯気が鼻腔に届くまでもなく、深いコーヒーの香りが周囲を包む。 「どうぞ。遠慮無く召し上がれ」  愛想良く勧める夢露の様子も、これまでの記憶とかけ離れ過ぎていて気味が悪い。 「は、はぁ。いただき、ます」  毒味でもするように恐る恐る、わずかに切り取ったチーズケーキを口に運ぶ。とたんに、彼の脳内に去来していた疑念は一気に吹き飛んだ。 「え、あ、……美味い」  ずっしりと重量のありそうなニューヨークタイプのケーキなのだが、ほのかに感じるレモンの酸味のせいか意外にも食感は重くない。そのくせ見た目も裏切らないチーズの濃厚さは失われておらず、程良い甘さと若干の塩気が後を引く。コーヒーを含めばほろほろと崩れ、複雑だが調和の取れた風味が口いっぱいに広がった。 「え、マジでめちゃくちゃ美味ぇ」 「だろう?こんな僻地にあって店自体は穴場だが、豆もケーキも他店舗に卸しているほどの人気だ。隠れた名店、ってやつだな」  自らのコーヒーを啜りながら夢露が説明する。そういえば夢露の部屋で出されたコーヒーも香り高いものだったと鞍吉は思い出した。ここで豆を購入しているのかもしれない。  黙々と堪能する鞍吉を、カップ片手にじっと夢露が見つめる。残りあと一口、という頃になってようやく視線に気付いた。かっと頬を染め、俯いた状態で口に放り込む。 「はぁ、ご馳走様でした」  満足げにフォークを置いた様子に、目の前の保健医も嬉しそうに顔をほころばせた。 「お前、普段はどうにも生気の無さそうな感じなのに、ものを食うときはずいぶん良い顔するんだな」  からかうように言われ、また赤くなって下を向く。鞍吉はやっと、今現在一緒にいる相手もその相手に懐いていた悪印象もすっかり忘れて、夢中でケーキを頬張っていたのだと我に返った。 「す、すみませんね、食い意地が張ってて」 「いや、そんな顔もするのかとつい見惚れてた」 「は?」  やはりこの男の真意は掴めない。散々いたぶった挙げ句今度は餌付けでもする気なのかと思えば、改めて精神の破綻さえ疑る。しかし当の夢露はすました体で残りのコーヒーを飲み干すと、少しだけ安堵の色を浮かばせながら言った。 「お前なら喜んで食べてくれるだろうと思ったが。思いの外良い顔が見られて良かったよ」  ぼそりと洩らした言葉をごまかすように立ち上がる。流れるように会計を済ませ、首をやや傾けて鞍吉を呼んだ。 「行くぞ、クラ」 「へっ?あ、ちょ……っ!ご、ご馳走様でした!!」  挨拶はマスターに向けたものだ。もうしばらくはケーキの余韻を味わいつつゆっくりするつもりでいたので、急な移動にあわあわしながら夢露の後を追う。カウンター前を通りすがりながらの言葉であったが、マスターは驚いた様子も見せず、また「ありがとうございました」の声も無く、来店時と同様に穏やかに微笑んで軽く頭を下げた。 「い、行くってどこへ?ってか、こないだの詫びってこの店に来ることだったんじゃねーのかよ?!」  だとしたら飲食後こんなにすぐ退店する必要はない。なんならコーヒーをもう一杯頼んでもいいし、チーズケーキのレベルを鑑みれば本来の好物であるプリンにも少々未練が出てくる。 「まぁ、確かにそれもあったけどな。ちょっと歩かないか?」  一瞬歩を止めたと思いきや、するりと夢露は鞍吉の肩を抱く。びくりと分かりやすく強ばったのを確認してか、否か。 「あの、この手はどうにかなりませんか、ね」 「気にするな、俺は誰にでもこうするんだ。それこそ、光一郎先生や釈七にもな?」  どう考えても納得しかねる言い分を返されたところで、鞍吉はよけいに縮こまるばかりだ。身を捻ってもなぜか逃れられない手を持て余す。 「……だから気にするなとか無理だっての」  口を尖らせ、聞こえないほどの小声でぼやいたつもりだった。ところが夢露は笑みを引き、意外な問いかけを継いだ。 「この肩はもう既に誰かのもの、というのなら、俺は手を退かせなければなるまいが?」  先とは別の理由で、鞍吉の身体が強ばる。 「それ、は……」 「なら、手ぐらいいいよな。俺がこうしても」  力が加わり、ぐいと引き寄せられる。もちろん鞍吉にはそもそも「他人に身体を触られるのが苦手」という事情もあるのだが、今はさほど当て嵌まらない。夢露の手に生温い体温は感じられず、いまだ、冷たい。 「ふん、やはりまだ悩んでいるのか。進展は無し、だな」 「あんた、一体何をどこまで……」 「釈七のマンションに戻れない」とこの男が先刻指摘したのが不意に気にかかった。彼の現在の居候先を知っている者は少ない。当事者たちと光一郎、それに司くらいのものだろう。言いふらすようなことではないと考えていたし、もともと釈七は他人をほとんど部屋に入れないらしいから、どうしてそうなったのかと経緯を問われるのも気恥ずかしい。  オーナーから聞いたのかとも考えたが、鞍吉の口からは美李に伝えていない。釈七にしても、公にするのを鞍吉が恥ずかしがっている以上やたらと言い広めたりはしていないはずだ。 「あぁ、それも単純な推理だ。あれだけ頻繁にお前に電話をかけていた光一郎先生が、最近ぱったりとその素振りを見せなくなった。帰宅の連絡すら入れている様子がないのは、すでに宮城家にお前がいないためだろう。別の所にいても一人ならばどうしているか、と探りそうなものだがそれもない。ということは、別の誰かが傍にいる……それも、おいそれと電話を入れづらい親密な相手。ならば、『一緒にお前を迎えに来た』釈七と捉えるのが筋だろう?」 「あんた、やっぱ保健医より探偵か何かやった方がいいんじゃねぇの?」  うんざり顔で応じる鞍吉に、夢露はまた愉しそうなくすくす笑いを零した。「心理学は一通り学んだからな」と付け加えつつ、 「それも、お前の事ならば尚更、だ」  などと思わせぶりにのたまう。 「で?また誰でも良いとか誰も信用してねぇとか言いてぇのか」  心の奥で粘つく澱が再び膨張していくのを感じながら、ぎり、と歯噛みするように鞍吉は問う。だが夢露は挑むでもなく、平穏な口調でまたしても予想もしなかった返答をした。 「詫びだ、と最初に言っただろ。真面目に相談にのってやってもいいかと思い直したんだよ。二人のことも、多少お前より知っているからな」  知っている……光一郎はともかく、あの日もこの男が知っている釈七の秘密を訊ねるために鞍吉は乗り込んだのだ。結果があの始末だったから、実際そんなものを知っているのかただのはったりだったのかはわからない。しかし少なくとも、鞍吉と出逢う前の彼等のことを夢露は知っている。例えば、「和宏とどう関わっていたのか」を。  とはいえ、和宏の名をまず出すのは躊躇われた。光一郎に関しては手紙の一件である程度理解しているし、本人の弁明は嘘ではないと信じたいのだ。客観的な見解を聞いてみたい気もするが、済んだ話を蒸し返すだけになるようにも思う。その上釈七の感情まで知れば、わだかまりが更に深まりかねない。  鞍吉が和宏に向ける劣等感だって、この心理学が得意な保健医はおそらく承知している。公園で顔を合わせた時も、それらしき何かを匂わせなかったか。 「あき……釈七、さんのことを、教えてくれるのか?今度こそ」  なので振り出しに戻って、そこから尋ねてみる。夢露は前を向いたまま、変わらず本心の読めない口調で淡々と告げた。 「なりゆきによっては。いや、それは本人の口からきちんと聞いた方が良いかもしれない」  後ろの方は独り言みたいに濁し 「それより、お前自身はどうなんだ。『答え』は定まっているのか?」  率直な問いかけに、鞍吉の肩はまたぴくりと跳ねた。

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