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10 香深病人説
「背骨も異常無し。はい、服着ていいいよ」
もそもそとシャツを着ている間にも次の生徒の名前が呼ばれている。かごの中の学生服を手に郁郎は衝立の外へと移動した。
年度が替わり、クラスも替わった。郁郎と香深は同じC組に、安志はB組に入った。
始業式、入学式、身体測定と、どっと行事が押し寄せる。
せわしないが忙しい方が郁郎にとっては気楽だった。あまり物事を考え込まなくてすむ。今日の午前中は内科検診、午後からは部活の説明会だ。
細長い理科室の壁に沿って学生服を脱いだ生徒が一列に並んでいる。
出席番号の早い郁郎はすでにシャツのボタンを留め終わっていたが、後ろの方の生徒はまだ学生服を脱ぎ始めているところだった。
理科室の大きな机の向こう側に香深が立っている。脱いだ学生服を机に置き、襟ををくつろげると白い肌が露わになった。細い顎から滑らかに伸びる首に一点、反抗心の固まりのように喉仏が浮き上がっていた。
香深が衝立の向こうに入ろうとすると、養護教諭が顔を出した。
「ごめん、森君はカルテの番号の関係があるから最後にして」
また見過ぎている。
郁郎は軽く頭を振って学生服を羽織った。
廊下に出ると階段のあたりに人が溜まっているのが見えた。郁郎を追い越して急いでそこに合流する者たちは、小鳥がさえずるように興奮して、香深の名前を口にしていた。
郁郎は黙って通り過ぎようとした。四月に入って、郁郎は自分の中に変化を感じていた。
今までも一人になりたい気持ちはあったものの、人の輪の端っこから、みんながにぎやかにしているのをみるのは楽しかった。だが今は人の輪を見るのも億劫だ。平穏無事な世界で小さな変化を見つけて騒ぎ立てることに、もう付き合いきれなかった。
それでもそこに属している限り、人との交わりは避けられない。
「浦辺も聞いた?森は最後だって」
「聞いたけど……」
それが何だというのだろう。郁郎が口ごもっている間にも噂は盛り上がっていく。
「やっぱ病気なのかな」
「だろ、最後に特別なんて」
「うつるってまじで?」
「結核だって?」
「っぽいよな」
一人一人、別々の人間が、喋るごとに境界を無くしていく。どろりと溶け合ってつながり、灰色の粘塊になっていく。
「やめろよ」
正義感からではない。ただ、灰色の塊に取り込まれたくない一心で郁郎は声を上げた。
「カルテの番号の関係で最後にしてくれって、保健の先生が言ってた。病気の話なんてしてない」
いっせいに向けられた目には反感の色があった。
「……冗談だよ」
どの口かが言った一言にすがりつくように、洒落だ、本気にすんなよ、ネタだろ、と小さな泡が沸き立った。
「冗談?全然面白くねーよ」
郁郎が吐き捨てるように言うと、その場はしんと静まりかえった。それは決して穏やかな静寂ではなかった。
それからすぐ、もうその日のうちに仲間外れは始まった。郁郎が近くにくると黙る、席を外す。外したいなら勝手にすればいい。
それより気になるのは香深のことだ。
色味のない肌や肉の薄い体型は少しだけ病的かもしれない。
だが、体育でしんどうそうにしていることもないし、食事はしっかり食べているようだ。
重そうな鞄を持ってかなりの距離を徒歩通学している姿からは病弱というイメージすら浮かばない。そもそも、一回も学校を休んでいないではないか。
一体どこから具体的な病名までついた噂が流れたのだろうか。
今は二つ前の席に座り、授業のノートをとっている香深はずっと何も変わらない。今日もにこやかに二年生にレンゲを渡していた。
いや、少し変化があった。
香深の方は変わらないのだが、渡された方の二年生は三月までのように無条件で喜ぶという様子ではなかった。
最初はただ嬉しそうだったが、レンゲを手にしてからきゅっと唇をかみしめて、なにか覚悟をするような表情になっていた。その前の日は新入生だったからか無邪気に笑っていたが、その前の日の黄色い花を貰っていた三年生にためらいはなかったか。
そこまで考えて郁郎はシャープペンで頭を掻いた。
知らん顔をしているからといって、こんなに見つめていては、あの香深が気づいていないはずがない。
大体、香深に郁郎の助けなんか必要ないのだ。正義感からではなくただの自己防衛だったのだから、郁郎は自分のことだけ考えるべきだ。
自分のことだけ考えよう。そう決めたものの、自分のことなんて一番考えたくない。
朝起きて、出された食事を食べて、だらだら身支度して、家に居られないというだけで登校する。すべて惰性だ。
校門に着く頃には考えることにも飽きてしまった。せいぜい一人の時は後ろに気をつけるとか、気休め程度のことしか思いつかなかった。
出たとこ勝負で校門をくぐると、今日も香深は人に花を渡していた。よりによって、今日は三年生の男子だ。
噂はますます広まっているのか、彼は花を手に取ろうとして、しおれるように引っ込めてしまった。
香深は口だけはにっこりと笑いの形を作り、白い五弁の花びらを一つ引きちぎった。
「どうしたんだい?毒でも入っていると思っているのかい?」
香深はぺろりと舌を出した。白黒の少年から出てきたそれは思いかけず艶やかな薄紅色だった。
それを認めた瞬間、郁郎は自分のことなどすっかり忘れてしまった。
見ないなんて、無理だ。
香深は舌の真ん中に真っ白な花びらを乗せると、味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
「どうぞ」
花びらが一枚欠けた花をすっと差し出す。
相手は何の抵抗もなく素直に受け取った。その顔には迷いはもう見られない。ただただ、満たされたような笑顔に、郁郎は背筋をふるわせた。
まるで懺悔を終えた信者だ。
「……気持ち悪い」
これが人を許したことがないという香深の「許し」なのだろうか。
その場にいるみんなが、時がとまったように香深を見つめていた。みんなが香深に魅了されていた。
郁郎もその中の一人なのだが、それが郁郎は怖かった。香深が何を知っているかなんて比ではない。もっと得体の知れない怖さだ。
灰色の塊に取り込まれるのを拒絶したつもりでいたのに、気がつかないうちに別のもっと大きくて形のない透明なものに囲まれていた気分だった。
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