9 / 10
9 家を捨てる
祖父の葬儀から二日経った。
倒れてから一度も意識が戻らないまま、祖父はこの世を去った。
この一週間の郁郎の記憶はとぎれとぎれだ。
病院の廊下の長椅子にずっと座っていたこと。
葬儀会館に沢山親戚がやってきて、叔父に郁郎が誰なのかをいちいち確かめるのがつらくてほとんど控え室に引っ込んでいたこと。
そのせいで出棺を一番後ろから眺めざるを得なかったこと。
なぜこんなにうしろめたいのか、堂々としていられないのか。
覚えているのは自分のことばかりで、思い出したい祖父の顔は一つも浮かばなかった。
自室のベッドに座ってぼんやりしていると、ドアをノックする音がした。
「昼飯だぞ」
「……いい」
「朝も食ってねぇだろ。まぁ開けろって」
仕方なくドアを開けると、ワイシャツにネクタイ姿の叔父が立っていた。
「どっか行くの?」
「うん、ちょっと今後の相談に。書類出しに行ったり。俺もここで食っていくわ」
そう言うと、おにぎりが山ほど盛られた大皿をドンと郁郎の勉強机の上に置いて椅子に座り、早速ぱくぱく食べ始めた。
「なんか話があるんだろ」
「まぁ食ってからにしろよ」
皿の上のおにぎりは海苔が巻いてあるものと、鮭とわかめのふりかけを混ぜ込んだものの二種類あった。ふりかけの方は大きさがてんでんばらばらで、小さな団子のようにまん丸に丸められたものもあった。
ベッドに座り直した郁郎がそれをつまむと叔父はにやにや笑った。
「それ卓郎が作ったんだぜ」
「へぇ」
「にいにに食べさせるんだってよ」
ずるい。そんな手でこられると、食べざるを得ないではないか。
渋々、ぱくっと一口で食べると塩気が利いていて普通に旨い。おにぎりの素は叔母が作ったのだろうが、小さな卓郎がもうこんなことをするようになったかと思うと、自分が急に老けたようで妙に感慨深い。
しょっぱいものを一口食べると、少し食欲が湧いてきた。
見ると海苔の方は、形も大きさも均一だが、ふりかけの方はどうも不格好だ。
多分、海苔付きは叔母が、ふりかけの大きなおにぎりは叔父が握ったのだ。
郁郎はちらっと叔父を見て、海苔付きのおにぎりを手にした。
海苔付きの方の中身は梅肉だった。すっぱさがますます食欲を押し上げる。すっぱい、しょっぱいを繰り返すこと十分、二人がかりで一皿平らげてしまった。
「で、話ってなんだよ」
郁郎が水を向けると、叔父はちょっと考えてから聞いた。
「……お前、父ちゃん、母ちゃんに会いたいか?」
郁郎はぐっと息を詰まらせた。
「俺に気を回さなくていい。今、思ったままを言ってくれ。後でやっぱりやめた、でもいいから」
「会いたくない」
父とはもう九年、母はもう十年以上会っていない。会いたいような思い出もない。
「そうか。それじゃあもし、居所がわかっても……」
「わかるの?」
「いや、じいちゃん倒れてからずっと探してるんだが、全然手がかりもねぇ。ばあちゃんのことも伝えられてねぇのにな」
祖母は祖父に先立つこと五年、郁郎が小学生の時に事故で亡くなった。
「ほっといたって、いいだろ。母ちゃんは手紙ひとつよこさねぇし、父ちゃんはまたどっかで借金こさえて逃げ回ってるに決まってる」
叔父は困ったように苦笑した。
「それでも、兄貴の方は探さないわけにはいかないんだよ」
「なんでだよ」
「詳しいことはこれから聞きにいくからわかんねぇけど、法律でそうなってんだよ。まぁ、お前はなにも心配しなくていい。言いにくいこと聞いて、ごめんな」
空になった皿を持って、叔父は部屋を出ていった。
父親の話になると、不安で胸がうずく。父が帰ってくることを郁郎は恐れていた。もう何の抵抗もできないほど小さな子どもではないが、なにしろあっちは「親」なのだ。連れていくと言われたらどこまで拒否できるだろう。
拒否したところで、ここに残ってどうなるのか。「何故お前はそこに居るんだ」という声は大きくなるばかりではないのか。
郁郎は叔母に断って家を出た。
季節は郁郎が閉じこもっている間にも進んでいて、桜は満開になり、大地は緑に肥え太り膨れ上がって来ていた。
全てが上へ上へと向かって伸び上がり、空には甲高いヒバリの声が響いている。
明るくて、にぎやかな春がいつの間にかやってきていたのだった。
自販機で飲み物を買って、海に出た。
波止の先に座り込み、ペットボトルの蓋を開けようとして、自分が泣いていることに気がついた。いつ泣き出したのかもわからない。ずっと泣いていたのかもしれない。郁郎は涙を止めようとはしなかった。泣けば泣くほど力が抜けて、身体が空気に溶けていくような気持ちよさがあった。
泣き疲れて何も考えられなくなった時、ふと祖父の言葉を思い出した。浦辺家の先祖はこの波止を作ったのだと。
郁郎の先祖は浜に住んでいたらしい。
祖父曰く、当時は海運業をしていて、江戸時代に藩から港の改修を命じられてこの波止を作った。ということだが、「作った」が実際に石を積んだことなのか、指揮を執ったのか、資金を出したのか、よくわからない。それが何故丘に上がり、田畑を開くようになったのかも聞きそびれてしまった。
こういう話は香深の方がよっぽど詳しそうだ。何を知られているのかとおびえていたが、今はなんだか、知っていて欲しいような気がする。
沖を白い船が行く。船は孤独で、優雅に見えた。
振り返って浜の町並みを見ると海と山に挟まれた細長い土地に小さな家がぎゅうぎゅうに立っている。それはそれで愛らしい。
もしも先祖が丘に上がらなかったら、あの中に家があったかもしれない。
毎日船に乗って、なんのわだかまりもなく仲間とわいわい楽しく過ごし、時折信じられないほど遠くへ行く。その土地が気に入れば、家を捨てて移り住む。
小気味いい空想にしばし郁郎は酔った。あまりの都合の良さにため息が出ると同時に、この夢物語で唯一、実現できそうなことに気づいた。
家を捨てる。
祖父という結節点が無くなった今、家族の関係は変わった。
祖父の孫と、祖父の息子家族から直接、叔父と甥の関係になってしまった。
多分、叔父夫婦も卓郎も今までと変わらず家族として郁郎を受け入れてくれるだろう。
だが、それは郁郎には喜びとともに苦しみになる。
叔父が実の息子のように親身に接してくれるほど、罪悪感が募る。
家を出てしまえばその苦しみは消える。
さらに言えば、父の幻影からも逃れられるかもしれない。
一度思いついた夢想は頭の隅にこびりつき、家に戻ってもしつこく離れなかった。
叔父は一度家に戻ってきて、作業着に着替えるとすぐにまた出かけたらしい。居間のテレビにちょいとかけられたネクタイをぶつぶつ言いながら叔母が片づけていた。
「あ、おかえり」
「ただいま」
叔母の顔を見ると家を出るのなんのと一瞬でも本気で考えたことが恥ずかしくなり、すぐに二階に駆け上がりたくなった。
「あ、ちょっと待って」
振り返ると叔母がクリーニングから戻ってきた学生服を手に立っていた。
「ありがとう」
自分でも声がかすれているのがわかる。叔母は心配そうに郁郎の顔を覗きこんだ。
「明日、学校行けそう?」
郁郎は無理にでも笑うしかなかった。
「行くよ」
ともだちにシェアしよう!