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8 回鍋肉が食べたい

 隣の席に座る香深のすました顔からは、卒業式の後に見せた苛烈さは感じられない。  白い頬も黒い瞳も、堅くつるりとして動くことを忘れたように静かだ。 『森、お前……どこまで……』  楽々吹良の手下のうめくような声が脳裏に蘇る。香深はどこまで知っているのだろう。この学校に通う生徒、教師、町や浜について、そして郁郎について。  今シャープペンシルを持つ指が郁郎を指したとき、どんな秘密が暴露されるのか――郁郎は密かに身震いがした。  教師が何か言ったのだろう。教室が軽く湧いた。  郁郎は自分が余りにも香深に注目しすぎていたことに気づいた。教室の中で笑っていないのは香深と郁郎だけだった。  安志は郁郎とは少し受け取り方が違った。香深のやり方に感服するばかりで、卒業式の次の日それを香深本人に伝えた。つまり、あの顛末を覗いていたことを明かしてしまったのだ。  郁郎はぎょっとした。あの厳しさで糾弾されてはかなわない。だが、香深は二人のしつこさに呆れはしたが、言いふらさないように念押しするだけだった。もっとも安志はこの時点でもう三人くらいに吹聴していたが。  安志の気軽さにおびえた郁郎は、廊下まで安志を引っ張り出して聞いた。 「怖くないのか」 「森が?おもしれーじゃん。いくろは怖いのか?」 「言われる方になったら、怖くないか?何知られてるのかわからないし……」 「俺たちが、目を付けられてるって言ったから調べたんだろ。ネタは割れてるんだから、あんなに驚きゃしねぇよ」  安志は郁郎より楽天的だ。香深が知っているのは、言ったことの全てで、自分の敵と見なした者には容赦はないが、それ以外には危害は加えないと思っている。 「それに、俺んち元々ここの人間じゃないし、大したこともしてねぇから」 「それは……そうだけど」  郁郎は違う。  安志の流した噂は広がっているらしい。クラスの違う者が、どうかしたら一年生まで教室を覗きにくる始末だ。その渦中にいる香深は何も変わらない。朝に花を贈り、学校が終わればすぐにいなくなる。それは終業式の日も同じだった。 「森君、やっぱり帰っちゃったね」 「朝呼び止めとけばよかったんだよ」  クラスの女子たちがカメラを片手に嘆いている。二年生として登校する最後の日を記念して、写真を撮りあうつもりで持ち込んでいるようだ。  名残惜しく語らっている者もいれば、午後から部活がある者は弁当持参でわいわいやっている。  香深に倣って郁郎もさっさと帰ることにした。とはいえ、黙っていなくなるほど度胸はない。 「俺、帰るわ」  教壇の前でパンをかじりながら談笑していた安志に一声かけて、学校を後にした。  そそくさと下校したが、もうちょっと時間をつぶしたい。  春も深まり、祖父と叔父は忙しく畑に出ている。叔母は仕事で卓郎は保育園だ。家で一人で過ごす時間は郁郎にとって楽しみだったが、昼飯時は祖父と叔父が帰っている時がある。  祖父が居ればまだましだが、叔父と二人きりは気まずい。  手持ち無沙汰のまま、いつものスーパーまでぶらぶら歩いて行き、のどが渇いたので中に入らず出入り口の横にある自動販売機で炭酸飲料を買った。  がたっとボトルが落ちてくる音と同時に自動ドアが開いて、郁郎と同じ黒い学生服姿が現れた。 「わっ」  驚きのあまり思わず声を出してしまったが、驚かれた方の香深は薄く笑って 「やあ」 と右手を挙げた。左手には革鞄と大きく膨らんだレジ袋がぶら下がっている。  我ながら驚きすぎたと照れくさくなった郁郎は香深を怖れる気持ちを押し殺した。 「あ、ああ。おつかい?」 「いや……回鍋肉を作ろうかと思ってね」  袋の中にキャベツと豚肉のパックが見える。 「へぇ、自分で作るんだ」 「簡単だよ。たれは市販で十分だし」 「甘辛くて旨いよな」  なんだか主婦の立ち話みたいだが、動揺を打ち消すためならなんでもいい。  それじゃあまた、と香深が去ってようやく郁郎はボトルの蓋を開けた。店先のベンチに座っても、学生服姿で一人飲み食いするのは誰かに見られているようでそわそわする。時間はまだまだたっぷりあるが、半分も飲み終わらないうちにボトルの蓋を閉めて歩き始めた。  この町には中学生がぶらぶら時間をつぶすようなところは一つもない。  本屋はだいぶ前に無くなったし、コンビニはドライバー客の為のもので町境の国道沿いにしかない。映画館もゲームセンターも漫画喫茶もない。  あるのは図書館だけで、そこは香深の領分だとわかっているからなんとなく近づき難い。  なんのあてもなく、ぼおっと歩いていると自然と足は家への帰り道を辿っていった。  家に帰れば、叔母が冷蔵庫に用意してくれている昼食をレンジで暖めなおして食べる。  朝ちらっとみたところ、焼き魚と人参のきんぴらが冷蔵庫に入っていたから和食メニューだろう。  ただ、さっき回鍋肉の話が出たせいで、口がすっかり中華になっている。  確か台所に袋入りのインスタントラーメンが買い置きされていたはずだ。鍋から直接ラーメンをすすりこむのも悪くない。もやしがあったら思い切って一袋、どっさり麺に乗せてしまおう。ネギがあったらぱぱっと切って……と想像だけはしてみるが、あんまり料理はしたことがない。  実際作るところを見たわけでもないが、香深は手慣れた風だった。  食事を用意してくれている叔母には悪いが、自分の食べたい物を食べたい時に食べられるのはなかなかうらやましい。 「今日は縁があるみたいだね」  郁郎は文字通り飛び上がった。先日楽々吹良の小さい方の手下が下っていった階段を、今日は香深が上ってきた。帰る方向は同じなのだから不思議でも何でもないが、一度別れてからまたばったり出会うとは間の抜けた話だ。 「う、うん。そうだ……な。あ、あの……つけてたわけじゃないよ。この前みたいに」  香深はわかっている、という風に微笑んでいる。 「浦辺君も家はこっちなのかい?」 「え、知らないの?」 「知っていると思っているの?」 「え、だって、あんなに……知っているのに」  ははは、香深は声を上げた。 「この前のを見たからかい?そんなに怖がらなくていい」 「怖がってなんか……」  強がってみせてもあんなにびくびくした後では全く説得力がない。 「君の家も知らないし、君が好きな人も知らないよ」  途端に無防備な叔父の身体が目の前に浮かび、郁郎の頭は沸騰した。  熱くなった顔をぶんぶんと振ると、香深は意味ありげににやっと口の端をあげた。  その表情に恥ずかしいより何より腹が立ってきた。 「いねぇよ。好きな人なんて。そういう冗談やめろよ!」  リュックサックをぶん回す勢いで郁郎はずんずん歩き始めた。怖がっていたのが馬鹿みたいに思える。……今でもちょっと怖いが、もう知ったこっちゃない。  ところが、香深は郁郎の後を歩いてくる。 「ついてくんなよ」 「しょうがないよ、僕の家もこっちなんだから」  坂をのぼると春のうすぼんやりとした青空が徐々に視界に広がっていった。ぬるんだ空気に促されるようにすくすくと育った柔らかな若葉が海風に吹かれてさわさわと音を立てる。  黙り込んだまま坂道を上りきって、二人は三叉路にたどり着いた。 「じゃあ、また」  香深はあまり懲りていないのか、いつのも通りの薄笑いを浮かべていた。  家に戻って、用意されていた昼食を食うと皿も洗わずに郁郎はこたつに入って横になった。  味なんかもうどうでもいい。昼飯を食ったという事実を残しておくための作業だった。  横になって、寝てしまいたかったが、香深の言葉が頭の中をぐるぐると回る。 『君が好きな人も知らないよ』  たまたま図星を指しただけで、香深は「知らない」のだから、ちょっと怒りすぎたかもしれない。好きな人、という単語に郁郎が過剰反応しているだけなのだ。  だが、いかにもうまく鎌をかけてやったぞ、というあの顔を思い出すとむかついて仕方がないし、好きな人がいると思われているのは恥ずかしくてたまらない。 『好きな人じゃないんだよ』  小学校に上がる直前から一緒に住んでいて、小さい頃は何とも思わなかったのだ。  こんなに過剰に反応するようになったのは中学生になってからだ。  きっと自分の恋愛対象は成人男性なのだ。それはもう、諦めがついている。  その属性に当てはまる人間がたまたま身近にいるので時々心ざわつく場面が訪れてしまうのだろう、と郁郎は考えていた。  叔父が結婚すると決まった時、同居は続けるというのに妙に寂しい気分がしたが、子どもなんてそんなもんだろう。  それにしても、香深があんな冗談を言うとは思わなかった。人を食ったような態度からは真面目一方という感じもしないが、いきなり惚れた腫れたの話が出てくるとは意外だった。あまりそういうことには興味が無いような気がしていたのだが、勝手な印象だっただろうか。  遠くで列車の出発ベルが鳴る。  この列車に乗らないと取り残されてしまう。  必死に走ろうとするが、足がもつれて動けない。  どうすればいい。どうすれば……。  はっと気づくと、薄暗い天井が見えた。  こたつに入り込んで寝ていたからか、随分汗をかいていた。眠りたいと思って横にはなったが、悪夢は勘弁して欲しい。  だんだん目が覚めてくると、本当に電話のベルが鳴っているのに気づいた。  大人の家族はみんな携帯電話を持っているので今はあまり使っていない、居間の隅にある固定電話だ。近頃はセールスの電話しかかかってこないので、取らずにおこうかとも思ったが、ずっと鳴っている。  立ち上がって液晶ディスプレイを見ると叔母からの電話だった。 「もしもし……」 「あ、郁郎?今から迎えに行くから、待ってて」  叔母の声は慌てふためいていて、要領を得なかった。 「ど、どうしたの。迎えって、どこ行くの」 「病院!おじいちゃんが……倒れたって……」

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