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第1話
情を持ってしまったから 多分この身が朽ちようとも その肉が腐ろうとも まだその先を 空想するのだろう……――
爪が温度のないものを引っ掻く感情につられて目が覚める。同時に頭部が鈍く痛んだ。内部のものというよりも外部からの痛みのようだ。
彼は倒れていた。とにかく狭い、猫か逃亡犯しか通りたがらない路地だった。室外機と室外機が左右に入り組む視界の奥に大通りを挟んでビルの行き止まりが見えた。
淵明 縁 は頭を押さえながら身体を起こした。まだ目眩がする。簾のように降りかかるさらさらとした亜麻色の前髪を掻き上げると、神経質そうな細い眉と偏屈そうな眉間の皺、形の良い額が露わになる。薄い二重瞼に切れ長の目が冷淡げな印象を与える。妙な眠りからの覚醒に背中は汗ばみ、異様な気怠さがあった。暫くそこに尻をつけ、どうにかこの肉体に活気が戻りはしないかと様子を窺う。そうしているうちに目の前を怪しい人影が通った。反射に似た所作で彼は滲むような光りで照る黒い金属を構えていた。それは銃である。彼自身が己の与り知らない所持品に驚き、腕を下げる。人影は視界を狭める真横のビルに消えていく。
彼は溜息を吐き、まだぼんやりしていた。いやに静かだった。不来方 町という都市部郊外の工業地で、住民の多くはそこに勤め、またこの町で育った若者たちもここに就職した。都会というほど都会ではないが、緑豊かなドのつく田舎かというとそこまででもなかった。電車やバスを使うのは不便で、タクシーもまた拾うのに難儀する。そのため車の行き来は激しいはずだがその走行音がまるでない。
淵明縁は何か反省するみたいにそこで膝を抱いて蹲 っていた。自身の名前、言語はすらすらと出てくるくせにそれ以外のことが分からない。ここで何をしていたのか、これからどこへ行き、何をすればいいのか、何故ここで寝ていたのか―否、眠っていた感じはない。そういう心地良さに覚えはなかった。妙に生臭い風が吹く。近くに捨てられていた紙が煤けて汚れたアスファルトに掠れた。耳の痒くなるような乾いた音がたち、彼はその存在に気付いて。印刷とは違う手書きの字で、4行ほどの文が記されている。縁はそれを拾った。
―三枝桃太郎を保護し、胸ポケットの
―Sワクチンを打たせ、死守すること。
―またすでに死亡している場合も
―速やかに死体を回収すること。
字は下手ではないが癖が強く、書いた者の性格も読み取ってしまう。異様な文面の紙を彼は懐にしまった。記された名を知っている。しかし顔を思い出せなかった。この字面を見た時から頭の外側の鈍い痛みに内部の鋭い痛みが加わっている。脳に負荷がかかっているらしい。施錠されたドアを力尽くで開けようとして把手やデッドボルト、蝶番が軋むような。
彼は胸元に触れた。そこには箱ごと納めるようなシガレットケースがあった。淵明縁は他のことが分からずとも自身に喫煙の癖がないことは知っている。中を開けた。極彩色の液体が入ったシリンダーが収まっていた。ラベルには黒のインクの手書きでSワクチンとある。この読み方を知っている。「S」とのみ書かれているがシエラワクチンだ。"三枝桃太郎"に打つ分だろう。蓋のついた注射針と押し子が分解され付属品みたいに添えてある。これらを組み立てて使うらしい。シガレットケースをしまう。淵明縁は自分の所持しているものを確認すると、やっと尻をアスファルトから離した。強い臭気が立ち込めている。生臭く、腐乱臭が混じり、ガスや薬品めいた刺激臭もある。この町の建物の壁に染みついているようだ。それでいて雑居ビルたちに割られた微風がそれらを混ぜ、拡散していく。背を押されるように彼は表の通りに出ようとした。だがその瞬間、真横の建物から大きな物音がした。叫びというほど深刻ではなさそうだが声も伴っていた。誰かいる。すぐ真横にある関係者以外立ち入り禁止のアルミ製の戸を開いた。タイルの壁とと曇った軽金の反射が真っ先に目に入る。白い粉を吹いた空間で、置かれている物や匂いからするとパン屋らしい。淵明縁はいつの間にか触れていた重い金属から手を離す。がらと空いた両手が酷く気持ち悪い。澱んだ空気と静寂がそうさせる。
「誰かいるのか」
確かに先程の物音には人の気配があった。左見右見 して厨房に踏み入る。足音を殺した。中にはまだ焼かれていない白いままのパンがケースいっぱいに並んでいた。ドライフルーツの埋め込まれたものや、ソーセージを包んだもの、チョコレートソースかブルーベリーソースと思しきペンで書かれたキャラクターを模すパンなどが日常の風景を窺わせていた。それでいて投げ出されたように作業台に乗る衛生キャップや、散乱している調理器具が今この状況を象徴しているようでもある。この厨房に人はいない。
彼はもう一度、同じ台詞を吐く。返事はない。焼かれたパンが縦に数段並ぶカウンターから店内の様子に耳を欹 てた。パンが薫るだけだった。手の甲で触れてみる。冷たい。店内に通じる引戸を開けた。慎重だった。レジカウンターの裏側に出る。パンの香りが強くなった。店内はショーウィンドウ兼陳列台の什器がついたガラス張りで照明は落ちていたが十分明るかった。飲み物やアイスを売る冷蔵庫、冷凍庫が小さく唸っている。身体を重くしている金属の塊を手にしていないと落ち着かない。空気が全身の肌を急き立てている。
彼はカウンターを抜けた。瞬間、視界の端に入った物体が動いた。躊躇いの時間もなく彼はこの国では禁止されている器物を構えていた。咄嗟の銃口と共に視界の横で蠢いたものを捉えた。人である。半袖シャツに日に焼けた肌、傷み過ぎて毛先は色の抜けている茶髪。大きく見開いた目が淵明を見上げている。よく濡れた瑞々しいその眼を認めた時、彼は脳天から電流を通されたような衝撃を受けた。それは通り抜けたくせ、執拗に胸に残る。数秒息を止められた直後の苦しさと、静電気に囚われた痺れに戸惑う。
「生きてる………人?」
照準が定まらない。彼は、驚いたまん丸の双眸にたじろぎ、そして相手の声で我に帰った。銃を下ろす。
「よかった、生きてる人だ。でも……」
10代後半から20代前半だろう。淵明とそう年は離れていないのだろうが、彼から見て、青年というよりも少年の色が強い。背は小柄という印象ではないが目立って高くもない。年齢の平均といったところだろう。がっちりとはしていないが袖から伸びる腕にはしなやかな筋肉がついている。
この子供みたいな青年は下ろしたままの銃を見、なぞるようにして縁の顔を見た。揉みくちゃにする手付きから緊張と不信感が漂っている。
「お兄さん、ヤクザの人なの?」
「どうしてそう思う」
「銃、持ってるから……モデルガン?」
彼の声音は硬い。淵明は手にしている銃を見た。これが本物なのかモデルガンなのか、所持している本人も分からない。モデルガンを持ってみたことがなかった。それでいて本物を知っているらしい。しかし淵明にはその体験についても自信がなかった。
「変なコト訊いてごめんなさい。オレ今来たとこでさ。お姉ちゃん探してんだけど、ここにはいないみたい」
へら、と引き攣った笑みを浮かべる少年然とした男の後ろ、ガラス張りの奥にいる人影に淵明は意識を取られた。傷だらけの両腕を前に出し、跛行 している。左脚は膝から下が可動域とは反対方向に曲がり、赤い血肉が晒されていた。裸足で、浮腫んだような青い足はアスファルトに擦られ、爪先を失っている。だが歩く者は己の足に頓着した様子がなかった。
「お兄さんは?」
「物音がしたから来ただけだ」
「ああ……さっき、ボウル落としちゃったから」
「じゃああの音はお前だな」
淵明はただでさえ冷淡な感じのある目で少年とも青年とも判じられない男を睨んでしまった。彼は強張り、うんと頷く。
「それならいい」
外では、また別の人影が増えた。やはり両腕を前に、膝の力が脱けたような歩き方をしている。乱れた髪が異様な感じを与えた。
「あのさ、お腹減っちゃったんだけど、こういう時ってお金置いとけば万引きにならないかね?」
意識が店内へ引き戻される。
「こういう時?」
今がどういう世情にあるのか、厭な静けさと町中に吹く臭い風の正体を掴めそうで掴めていない。一度は災害を疑った。しかし店内から見える町の風景に建物の倒壊や地割れは見当たらない。
この質問は相手を不思議そうな顔にさせた。
「お兄さん、どっから来たの……?」
心配そうに彼は首を傾げる。馬鹿にしているわけではないことは伝わる。
「すぐそこの路地にいた」
「すぐそこの路地にいたって……」
正直に話したつもりだが、淵明は相手をさらに困惑させただけらしい。
「もしかして、長いこと家に引き籠ってた、とか?」
「…………分からない」
さらにおそらく年少と思しき彼を困らせる。人懐こげな顔が曇っていく。
「ごめん、色々訊いちゃって……えっとね、今、町にいっぱい人食いがいて……避難命令出てて、避難するはずだったんだけどさ、乗り遅れちゃって。もしかしたらお兄さんの家族、先に避難してるかもよ」
ざっくりした説明だったが、縁は外を徘徊する不審人物を眺めていると疑うこともできなかった。
「テレビは人狼 って呼んでるけど」
「どうして避難に遅れた?」
「うーん、多分だけど、オレん家 、両親いないんだよね。だからだと思うな。世帯人数多いところ優先って感じで。町民ナンバーがなかなか届かなくて」
彼はがりがりと頭を掻いた。ふいと顔を背けられてしまう。
「そうか」
「朝普通に大学行ったら、ここの地域ヤバいってニュース入って、お姉ちゃんがここでバイトしてるから来てみたんだけど……」
「居なかったんだな」
「もしかしたら避難優先されたのかも。パン屋さんのみんなで。なら、いいんだ」
淵明も店内を見渡した。今まで背を向けていた方角では人らしきものが道の真ん中に横たわり、それを頭髪を毟り取られたような者が食っていた。一部は頭皮ごと失い、組織液が滲んでいる。直接口を死体に寄せ、噛み千切れない肉を引っ張っている。
「これからどうする」
「分かんない。決めてない。お姉ちゃんに会えるつもりで来てたから」
「避難しないのか」
「だって外、人食いいっぱいいるし。この辺りはまだ少ないほうだけど」
彼はにかりと笑ったが、徐々にその笑みを萎めていった。考えるのも疲れたといった様子だ。屈み込み、カウンターに凭れて蹲ってしまった。
「そんなの持ってるくらいだから、何も知らないってことはないんだろうけど、オレも、何も知らなきゃよかったな」
膝頭に顔を埋め、彼は鬱 ぐ。人食いの姿と人が食い千切られている様がよく見える。売り物のパンを外側から見せるはずの造りが今は残酷だ。
「お兄さんは?どうするの。これから」
「俺にも予定はない。予定も何も……」
「ヤクザ屋さんじゃ、ないの?」
「分からない。自分が何者なのかも。すぐそこの路地で目覚めたことだけしか」
気怠げにここで出会った男は膝に伏せた顔を上げた。
「頭、打った?」
「打ったみたいだ。後頭部を」
いくらか嫌味っぽい顔と問いに淵明は気付かない。吊り上がり薄くなった唇ばかり見ていた。薄皮が剥けている。
「……記憶喪失じゃん」
「記憶喪失……」
「すぐ良くなるよ。言葉は出てくるみたいだし。オレも高校のとき、体育でそういうことあった…………なんて、こんな状況だと無責任なこと言いまくりだね。打ったところ見してよ。傷になってるかもだろ」
縁は彼に背中を向けて腰を下ろす。
「お兄さん、オレがこんなこと言うの変だけど、もう町が人食いだらけになって、ちゃんとしてるのが自分しかいなかったとき、一番怖いのって人食いじゃなくて、ちゃんとしてる人間に会っちゃった時だと思うから……」
「何故」
「なぜ?なぜって、食べ物が奪い合いになるじゃん。武器とか……」
「それなら何故、お前は俺を襲わない?」
淵明はそのままの姿勢で振り返った。カウンターに凭れるもう1人の"ちゃんとしてる人間"はきょとんとしている。
「だってお兄さん、銃持ってるし、勝てそうにないし……なんでだろ?今いきなりそうなるよなって考えが降ってきた。本当はそれでズドンとやって欲しかったのかも。弾ムダになるから一撃で済ませてくれるだろうし」
「相手がそこまで考えていなかったらどうする。そこまで考えていたとして、一撃で済ませてくれるかも知れないが、期待どおりに死に至らしめるとは限らない。相手を反撃不可能にすればいいのならな」
「そっかー。でも騒がれたりしたら困るんじゃない?あと意外と、そういうヤバいときって痛いの忘れてたり。オレも車に轢かれたときそういうことあった」
彼はけらけらと乾いた笑い声を上げた。
「お前を信用する」
「えっ、なんで」
彼はカウンターから背を剥がし、前のめりになった。
「お前が本当に俺を襲うつもりなら、ここで妙な疑心を植え付けるのは不都合だ」
「理屈じゃそうだけど、オレもそこまで考えてないかも知れないじゃん。オレ結構バカだし。信用勝ち取って、後から襲うかもよ?それか、牽制してるか」
鳶色の瞳と見つめ合う。互いを注意深く監視しているようでもあった。
「不毛な会話だね、これ」
相手は溜息を吐いて、今度は自嘲している。
「まぁいいや。頭の傷見せてよ。ガーゼも、包帯もここにはないけど」
また無防備に縁は出会ったばかりの人物に背中を向ける。
「特にそれらしいの見当たらないや。痛い?」
「いいや」
「そう。頭打つのって時間差でクるんでしょ。具合悪くなったら言ってよね。何かできるわけじゃないけど」
それは2人でいることが前提になっていた。ガラス張りの店内から人食いが彷徨し、共食いするのを眺めていた。少年みたいなあどけなさのある男は拗ねたようにまだ蹲っている。腹がきゅるる、と鳴っている。
「腹が減ったのか」
「うん」
食べる物ならば目の前にある。四方を囲んでいるくらいだ。
「食えばいい」
少し離れたところでは身体中をずたずたに食い破り、骨までしゃぶられたようなのが、また同じような者を食っている。血を啜り、皮を剥ぎ、生肉をぱくついている。
「良心が痛むってやつだね」
淵明は壁際の剥き出しにされたパンではなく籠に入った包装されたパンを取って差し出す。
「このままカビたほうが悪だ」
「じゃあさ、この町が元に戻ったら、その時にこのパン屋に返すよ。誓うね。えーっと、」
パンを受け取りながら彼は上目遣いで淵明を見た。名を訊いている。
「淵明だ。淵明縁」
「名前かっこよ。お姉ちゃんと名前一緒だし。ははは」
自分がどういう状況下にあるのかも忘れたように軽快に笑い、彼は固く口を閉じるテープの下から袋を破いた。
「同じ名前じゃ、もう信用しちゃうよ、そんなの。なんの根拠もないけど。オレは――…」
その瞬間、縁は耳鳴りを起こした。紙片に書かれた名ではあるまいか。"三枝桃太郎"ではあるまいか。鬱陶しい聴覚の中で「サエグサトウタロウ」と名乗ったのが聞こえた。
「桃太 って呼んで。太郎ちゃんって呼ぶ?あ、そっち?みたいな」
ろくに話を聞いていられなかった。
「字はどう書く」
「普通に、三本の枝。三本の枝でサエグサ。ミツエダじゃないのでよろしくです。名前はピーチにそのままよくある太郎。よく間違われるけど百 太郎じゃないよ」
パンを齧りながら宙に字が書かれていく。怪文書としかいえない紙切れに記されていた人物の名と一致する。
「お前の姉は、医療従事者か」
「違うけど」
一体誰が、この小市民じみた男にワクチン接種をさせようとしているのだろう。場合によっては死体回収とまであった。淵明の得ている情報のみで絞ると姉以外にない。
「―でないなら研究者?」
「いや、フツーにここのバイト店員。そのままここで正社員みたいになるって聞いてたけど。なんで?あ、お姉ちゃん美人だし、カレシいないよ!」
キャラメルソースかメイプルソースか分からないものが挟まったサイコロ状のパンを食いながら桃太郎と名乗った彼は目を輝かせた。縁はその意図を汲めず、また汲もうともしなかった。
「お兄さん、もしかして実はお医者さん可能性 ある?」
「医者が銃を持っているのか」
「モデルガン集めがシュミとか!」
「そういう趣味は、おそらく無い……はずだ」
淵明も自身のことといえど、そこまでは分からなかった。確たる否定もできない。今の段階で黒く重い金属の塊を見て、ときめくところがなかった。しかし咄嗟に銃を引き抜いていたことや、扱い方を知っていることがまたきちんとした否定をさせない。
「医者の知り合いはいないのか」
「うん。かかりつけのお医者さんはいるけど、知り合いってほどの関係じゃないしなぁ。どうして?」
「いいや……」
桃太郎の目を見ると急かされているような心地になる。縁はふいと鼻先を逸らす。
「何か思い出せそうなの?」
首を横に振る。彼は「そっか」と言ってサイコロ状のパンを口に放った。そして割り切ることができたのか飲み物をひとつ取った。縁は投げられたものを受け取る。
「お兄さんも食べて飲んでおかないと。人食いの大群が押し寄せてくる前に逃げないとだよ。あーあ、大きなカバン持ってくればよかった」
彼はペタリと座り、オレンジジュースを飲む。淵明縁はこの大学生を観察していた。淵明とは違う丸い目がどこかを見ている。その視線の先を追う。人食いの共食いを所在なく眺めている。人食いはヒトの筋を噛み切れず、苦戦している。むしろ粘着剤に噛みついて口が離せなくなっているようにさえみえた。それを食い入るようにショコラ玉が見つめている。肝が据わっている。水晶体を縁も凝らしていた。彼にワクチンを打つことはおそらく容易い。そこに相手の意思がなくとも。まるで無防備だ。先程の忠告は牽制にもなっていない。
「お兄さんとは、ここでバイバイかも」
「何故」
「やっぱ家帰るわ。お姉ちゃんがちゃんと避難してるならいいんだ。でもお姉ちゃんがもしオレのこと待ってたら……」
「何度もすれ違うことになるかも知れない」
桃太郎は叱られたみたいに眉を下げた。
「うん、そうだけど……迷うし。自分の気持ちにキリつけておきたい」
彼は片方の掌に拳を入れた。あの紙片のとおり、Sワクチンを投与するなら今しかない。淵明はそこに、あの路地で寝る前の己を知る鍵がある気がした。或いは、桃太郎本人がSワクチンを介して何か知っているかも知れない。淵明縁はSワクチンの入ったケースを服の上から撫でていた。
「お兄さんも、行くところなかったら、オレん家 来る?外出るから危なくなるけど……」
機嫌を窺うように彼は訊ねた。躊躇いは十分に伝わる。止めてくれるな、とも受け取れれば、止めてくれ、とも受け取れる。迷わないための選択に迷っている。
「遠いのか」
「うん……でも歩いていけない距離じゃないんだ」
この店から外を見る限り、生きた人間は通りがかっていない。道には好き放題、人間だったものが食い散らかされ絶命したかと思いきや徘徊をはじめるのである。ここで働いていたという桃太郎の姉が避難せず帰宅を選択していたところで無事だとは、淵明には考えられなかった。
「俺としては勧められない」
Sワクチンのケースを取り出す。桃太郎の目はその入物になっているシガレットケースを追った。そしてそこから蛍光黄色の液体が入ったシリンジが現れると、彼は驚いた顔をした。
「何それ?」
注射器を組み立てていく。
「S ワクチンだ。打て」
打てと言っておきながら、実際皮膚に刺し押し子を押すのは淵明である。
「は?えっ、やだ……なんだよ、それ!」
そのままの姿勢で桃太郎は縁から後退る。期待した情報を彼は持っていない様子だった。
「あの怪物を避ける効果がある」
淵明は口走った途端に頭痛を覚えた。そう強くはないが、鋭いものが耳の少し上辺りに閃き、額を横断していくような感覚だ。このワクチンのことを知っている自身を淵明縁本人は知らない。だがこの蛍光カラーの液体の正体が、ほぼ反射的に分かってしまった。
桃太郎の表情は胡散臭そうどころではなく、激しい警戒を示している。
「お兄さん、記憶喪失だって言ってた……」
「今、思い出した」
「い、いやだ。打つかよ、そんなの」
まだ押し子をシリンジに突き刺していないため、このまま分解すれば元に戻せた。淵明は素直に彼の拒否を聞き入れる。そんな縁を桃太郎は意外そうに見たが、短い時間で築き上げた2人の初対面なりに打ち解けた関係は崩れ去ってしまった。
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