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第2話

 淵明(えんめい)は少し離れて歩く桃太郎(とうたろう)を気にした。武器にもならないデッキブラシを抱き締めるように握っている。彼の姉のアルバイト先のパン屋から持ってきたものだ。 「離れるな」 「だ、だってさぁ」  人食いたちはこの2体の新鮮な肉にはまるで関心を示さなかった。透明人間になったように2人は人食いたちが縦横無尽に蹌踉(そうろう)している街を北に歩いた。アスファルトは大根おろし器よろしく肉片混じりの赤黒い血液が付着している。傷口を筆にして行き先を教えているものまである。体液に濡れた靴や鞄もその辺に放り出され、長閑な町は無法地帯と化していた。 「打ちたくないのなら打たない」 「信用できるかよ……」 「お前に渡しておこうか?」 「い、いい。お兄さんのことは嫌いじゃないけど、ちょっと怖いから……1人イヤだし離れたくもないけど、近付きたくもない……」  桃太郎は縁の機嫌を損ねまいと(おもね)る態度をとっておきながら、その言動は正直だ。 「そうか」 「傷付いた?」 「いいや」 「よかった。ほんと、お兄さんのこと嫌いになったとかじゃなくて……」  淵明は桃太郎の前方でふらふら突っ立っている人食いの頭部を撃ち抜いた。ぶよぶよになった頭皮が内部の骨ごと破裂する。火薬が鼻腔をつき、爆音に桃太郎は肩を跳ねさせた。縁もまた発砲の衝撃で身体中の骨が軋んだ。近くで で鳥の群れが羽撃(はばた)き、まだ他の生命を感じられる。 「びっくりしたな、もう」  呼吸を忘れた彼は、胸を押さえて大きく溜息を吐く。頭部の半分を失った屍人はよたよたとその場で足踏みをして膝から落ちた。浮腫んだような肉が体重をかけられて(たわ)む。獣臭さと腐敗臭が漂った。 「耳鳴りする」  桃太郎は立ち止まってしまった。片耳を押さえている。淵明は彼の周りを見回した。人食いどもはやはり生鮮食品よりもその辺に斃れている死骸や、ばったりぶつかった同士を食っている。歯の抜け落ちた顎には腐汁で柔らかくなった人食いの肉が丁度良いのだろうか。デッキブラシを手にしているだけの脅威のない餌をむしろ避けてさえいる。  どこから得たかも分からない知識だが、S(シエラ)ワクチンを接種するとあの怪物たちが忌避する匂いを放つ効果があるという。今まさに、そういう状況にないか。 ――彼はどこかですでにワクチンを打っている?  縁の疑問を解決したのも、また縁自身だった。Sワクチンとはまた別のワクチンのことが脳裏を掠めた。しかし辿っていけども、淵明はそのワクチンを知る過程を思い出せない。レパートリーとして知っている。だがそれを知り得たプロセスが掘り起こせない。何故知っている。彼は自身を疑った。 「オレも隠し事とかしないからさ、お兄さんも、何か思い出せたらちゃんと言ってよね。こんな状況だし、お兄さんがヤクザ屋さんでも、引かないから……」  モデルガンではなかった重く固い金属の塊を一瞥して桃太郎はいくら躊躇いがちだった。 「ヤクザではない、と……思う」 「ヤクザ屋さんじゃないのに、鉄砲持ってるなら、お巡りさんとか?」 「警察官でもない……気がする」  すとんと落ちるものが何ひとつない。ワクチンについて断片的な知識を拾った時にあった記憶を引っ掻き回すような閃きに似た痛みとその混乱も起こらなかった。 「まぁ、いいや……でも、変な注射(クスリ)打つのはやめろよな。そんな色のやつ、打ったことないもん。あ、注射が怖いワケじゃないかんね。車に轢かれた時いっぱいぶすぶす注射したもん。熱中症起こしたときも。だから注射は、別に全然、怖くないんだかんね」 「そうか」 「ほんとだかんな」  何故そこまで注射が苦手でないことを主張したいのか分からず、淵明は苦い顔で相手を見遣る。 「打ちたいわけじゃないけどさ!」  仕方なく縁は頷いた。どうやら信用を欠いたのみならず怒らせてしまったらしい。  想定していた危機はなかった。だが生きている人間には会わなかった。時折桃太郎が呑気に人食いを指しては知り合いであることを溢した。惨状に感情が湧かないのか、はたまた肝が据わっているのかそこに取り乱したところはなかった。淡々と、どこの誰でどういう人なのか、淵明に話しているのか独り言なのか本人も分かっていない様子で語っていた。  三枝(さえぐさ)家は住宅地の中にある。一度来ただけでは忘れそうな似たり寄ったりの外観で、目立ったところはない。アーケード付きの1台置ける駐車場とその横に駐輪場、大きな段で盛られた子供が少し遊べる程度の庭のある2階建てで、そう大きくない家だ。この辺りも人食いが屯していた。コピーアンドペーストしたような家々が並んでいるため、庭から駐輪場に降りた際、両膝を折った人食いもいて、道まで這ってきていた。車が歩く腐乱死体を引き摺った跡もある。轢かれた肉塊は道路に臓物を撒き散らし、水気の多過ぎる皮膚をべったりと癒着させても、かろうじて原型を留めていたが起き上がる気配はなかった。  生臭い空気に身を浸しながら淵明は桃太郎の家に案内される。玄関に入った途端、彼は縁を警戒した。 「これはここに置いておく」  Sワクチン入りのシガレットケースみたいなのを淵明は靴箱の上に置いた。小型のサボテンが置かれている。 「ごめん」  潔い対応は彼に罪悪感を覚えさせたらしかった。態度は一変し、今度は(しお)らしくなる。 「警戒するのも無理はない」  縁は冷静に言って三和土を見ていた。女物の靴がある。桃太郎も彼の視線に気付くと「あ!」と声を上げ、慌てて中に入っていった。縁は置いたばかりのシガレットケースを回収することもなく桃太郎を追った。弟は何らかの理由で人食いから襲われないようだが、果たして姉もそうなのだろうか。パン屋からここに至るまでの道筋を同じくしたとは限らないけれども、この住宅地を跋扈(ばっこ)する活動的な死体の数だけでもやはり無事であるとは考えにくかった。 「お姉ちゃん!」  叫び声が聞こえた。淵明は桃太郎の居る場所をほぼ反射的に理解し、現場へ駆けた。開け放たれたそこは風呂場である。亜麻色の髪の男と思しき長身の人物がバスタブに凭れ、髪の長いこちらは女と思われる者がそれを食っていた。ざちゅ、ざちゅ、と血を啜る音がする。礼儀も作法も文化も慣習も要らなくなった世界に身を置く彼女は咀嚼音を気にすることもなければ、食事を中断して訪問者を気にすることもない。 くちゃくちゃ、じゅるじゅると湿った音が撥水素材の室内に響いた。 「お姉ちゃん!」 「よせ、近付くな」  縁はおそるおそる近寄ろうとする桃太郎の肩を掴んだ。 「なんでだよ!」 「噛まれたらどうする」  鎖骨から首の骨まで見えている亜麻色の髪の男も、今はおとなしく項垂れて、その肉を食わせているが、いずれは立ち上がるのかも知れない。これは感染症である。また意図しない断定的な知識が頭の中に閃き、痛みを伴った。彼を噛ませてはならない。それでいて、桃太郎は屍人から避けられているはずだった。 ――O(オスカー)417ワクチンは弱毒にのみ感染抑制の効果がある。空気感染は抑え込めるが……  脳裏が閃光する。桃太郎の肩を掴む力で、訳の分からない情報の爆誕に耐える。眩暈がした。Oワクチンを、彼はすでに打っている。これもいやにはっきりした思い込みだった。それは確信に近い。 「放せよ!」  肩の骨を掴む手を剥がそうと桃太郎は躍起になっていた。 「お姉ちゃんなんだよ!お姉ちゃんなんだ!放せよ!」 「ワクチンを打て。話はそれからだ」  焦りと怒りに燃えた顔が沸騰する。 「ふざけんな!」  怒声が響きやすい造りの部屋に(こだま)する。淵明は冷淡に熱くなっている桃太郎を見つめる。 「あんたに家族はいないのかよ?」 「いないみたいだ。居たとしてもお前を止める」  口にしてみて、やはり自分に家族のいる気配はなかった。淵明の理性的な部分では分からないが、閉鎖的になっている脳も反応しない。家族がいないと知った自身に縁はいくらか落胆があった。  桃太郎が淵明に怒りをぶつけている間に、亜麻色の髪の持ち主を食う彼の姉というのが動きを止めた。長い髪を揺らし、振り返る。乱れた毛に絡まるバレッタが痛々しい。  第三者のあかの他人であるということだけでなく、彼の気質にもよるところだが、淵明縁に狼狽する理由はなかった。背中を晒す桃太郎を己の後ろに押し込むと、重い金属の中にある最後の一発を人食い死骸と化した女に撃ち込む。浴室の壁に血液が繁吹(しぶ)く。背後で息を呑む音が聞こえた。暫く無言だった。数秒後に縁は突き飛ばされた。だが踏み(とど)まり、死体に接近しようとする弟を引き留める。 「サイテーだ!オマエ!」 「あれはもうお前の姉じゃない」 「お姉ちゃんに決まってるだろ!」  桃太郎は腕を振り払おうとするが、淵明は放さなかった。 「ワクチンを打たないなら、俺はお前を止めるしかない」 「放せ!放せよ!」  ある程度加減していたが、聞き入れられそうになかった。縁はふと目を伏せた。それから覚悟を決めたように桃太郎の首を掴むと死体が2つある浴室とは逆方向に投げた。喚く男は床に横たわり、淵明は彼に跨った。 「ワクチンを打って姉を弔うか、ワクチンを打たずここを去るか、選べ」  黙っている桃太郎ではない。顎と首を捕らえている腕を引っ掻いた。薄皮が剥け、薄紅色を帯びていく。 「打ってやるよ!どうせお姉ちゃんは死んだんだ!もう好きにしろ!」  自暴自棄になり、顔を真っ赤にして咆哮する彼の上顎の内側が見えた。淵明の脳裏にふたたび眩い確信が爆ぜる。 ――サンプルはすべて三枝桃太郎専用に作ってある。  優位に立っておきながら淵明は浮遊感を帯びた頭痛に上半身の均衡を緩やかに崩してしまった。ふらつきからどうにか持ち直す。桃太郎は顔を両腕で覆っていた。威勢よく吠えていたのが今では怯えている。 「お前を憎んでいるわけじゃない。お前の邪魔をしたいのでもない。ただ、感染させたくない」 「怖いよ。怖いだろ……あんたとは初対面で、いきなり注射器ちらつかされて、あんたは躊躇いもなくお姉ちゃんを撃ち殺した!怖くないわけないだろ!」  また怒鳴り散らしたかと思うと、直後には歔欷(きょき)している。淵明はまた長い睫毛を伏せた。殺意も害意もないことを伝える(すべ)がない。 「俺が弔う」 「あんたがそんなことして、何になるんだよ。分かったよ、打てよ。どういうつもりか知らないけど、あんたのためじゃない。お姉ちゃんのためだから」  しゃくり上げながら彼は合意した。勿論それは積極的なものではなかった。淵明縁は泣いて戦慄く桃太郎の上から退く。そして玄関にあるシガレットケースみたいな入れ物を取りに戻った。桃太郎は目元を拭いながらリビングと思しき階段前の部屋に入っていった。  注射を終え、桃太郎はリビングのソファーに倒れてしまった。しかしそれはワクチンによるものではなく、凄惨な状況と長い移動、姉と死別による疲労のものらしかった。重げに泣き腫らした目蓋を開閉している。 「何か使えそうなものを探してくる。ゆっくり休め」  そう言って淵明は彼を残し、もう一度風呂場を覗いた。鉄錆びの匂いが漂う。同じ名前だといった桃太郎の姉の肉はまだ腐っていなかったが、肌の下で変色していた。次に調べたのはこの亜麻色の髪の死体だった。首の付け根を大きく食われている。布のように千切れた皮膚の一部は乾き、乾涸びた薔薇の花弁を彷彿とさせた。顎を上げ、顔を見る。色の白く、薄い唇で、鼻梁の通った小振りな鼻先をしている。眉は気難しそうな細さである。開いたままの目蓋からは瞳孔の開いた(まなこ)が窺えた。軽く触れて閉ざす。こうなる前まではなかなかの美青年だったのだろう。さらさらとした亜麻色の髪が淵明の手に触れて揺れた。   しかし目についたのは死体の端麗ぶりではない。その服装だ。縁と同じなのである。銃も所持していた。例のシガレットケースも持っている。しかし未使用だ。ラベルには手書きで"Rワクチン"とあった。傾向グリーンが毒々しい。また激しい目瞬きに似た稲光が頭の中に蘇る。R(ロメオ)404ワクチンだ。  息苦しさに襲われる。喉元を掻き毟りたくなる衝動だった。しかし実際、掻痒感があるわけではない。原因は頭の中にある。Rワクチンに関する情報が流れ込んできている。 ――O(オスカー)ワクチンは定期的に接種させなければならない。Rワクチンを打つことで、定着させることができる。 だが肝心の、その情報源を彼は覚えていなかった。勘違いと決め付けに等しい。 ――この者は、Oワクチンの接種者に、Rワクチンを投与しに来た……?  何も分からない。そのほうが良かった。縁は自ら壁に頭をぶつけた。Oワクチンの接種者を1人しか知らない。そして彼にはすでにS(シエラ)ワクチンを半ば強引に打ったばかりなのである。荒げた息のまま、縁は蛍光グリーンの入ったシガレットケースをすでに空になった懐にしまう。この不運な、だが得体の知れない死骸はまだ他に気になるものを持っていた。紙片だ。淵明縁が拾ったものと同じ筆跡である。内容はほぼ同じである。"三枝桃太郎"を保護し、ワクチンを打ち、死んでいるのならば遺体を回収しろという旨だ。  縁はさらに死体を漁った。よくあるメーカーの端末機を持っている。しかしバッテリーが不足していることを告げていた。それもポケットにしまうと、彼は桃太郎の姉をバスタブの蓋の上に寝かせ直した。脚を揃え、顔には積まれていたタオルを掛けておく。そういう作法もどこかで得ていた。  彼女の死骸からバレッタを抜き取る。絡まる毛を一本一本取り除き、洗面台で洗う。どこで覚えたのか定かでない消毒法も淵明は知っていた。Rワクチンと家庭によくある洗剤を使ってできないわけではなかった。外が暗くなっていく。幸いにもガスコンロのある台所と洗面台を行き来しながら生成した特殊な消毒剤でバレッタを清める。桃太郎の爪で薄皮を(こぞ)ぎ落とされた腕が痛んだ。水気を払い、リビングに戻ると暗い視界の中で寝息が聞こえる。淵明は彼の眠る近くに座った。2人暮らしにしては広い家だ。生活感のある家具が夜目(よめ)に映る。外ではほぅほぅとフクロウらしきものが鳴いていた。思っている以上にこの町は自然溢れる田舎なのかも知れない。  淵明は眠らなかった。肉体に寝るという習慣がないらしい。夜更けに寝息の調子が変わったことにもすぐに気付いた。手持ちのライトで明かりを点けると、まず桃太郎の肌の汗に気付く。火照ったような色合いは、言い争いをしていたときよりも紅潮している。 「トウ太郎」 「………はひ、はひ……………お兄さん、」  揺さぶると不穏な息遣いで彼は目を覚ました。 「つらいか」  見て分かる。尋常ではない。強い特殊な消毒剤で荒れた手で桃太郎の額の汗を拭った。 「ちょっと、歩き過ぎた………かも。高校の部活ぶりだったし…………」  Sワクチンには副反応がある。この薬液で体内の組織が大きく変わるのだから、肉体が抗い、そのために負荷がかかるのも無理はない。何より桃太郎は体力的にも精神的にも疲弊した。その影響はより強まるのだろう。 「すまないが、充電器はあるか」  端末を見せると震える手がリビングの隅を指した。 「ついでに何か探してくる。ここから動くな」  汗ばんだ手に亡姉の髪飾りを握らせた。 「お兄さん」  背を向けた途端に呼ばれた。寝返りをうったらしくソファーが軋む。 「なんだ」 「ごめん……」 「どうしてお前が謝る」 「なんでもない」  淵明は玄関に鍵を掛けて外へと出た。星空が見える。そして自ら爪先や足首をアスファルトで擂り減らし、声帯を鳴らす町民たちが影絵になっていた。  散策をしていると住宅地に入る前に目印のようなコンビニエンスストアがあった。電力は通っていないらしい。手動でドアを開く。レジカウンターには好きに商品を持って行って良いと書置きのある気の利きようだった。棚はほとんど空で、倉庫を捜索する。人気(ひとけ)はやはりなかった。さらに遠出をしてやっと1本ペットボトルの水とスナック菓子そして菓子パンを手に入れた。民家の窓を抉じ開けて強奪したものだが、おそらくそこの家主と思われる人物へ居間のテーブルで首を吊っていた。わずかな食料には手付かずだった。孤独と飢渇の不安と恐怖に耐えられなかったのかも知れない。礼の代わりに縄から下ろすことしかできなかった。この町にもはや弔いはない。また別の家では子供用の吸熱シートと解熱剤、簡易食品のショートブレッドを手に入れた。  生きた屍たちが賑わう町の中を歩いて彼は三枝宅に帰る。リビングで荒い寝息を聞く。彼は背丈に多少の差はあるものの、そう体重の変わらない桃太郎を軽々と抱き上げると2階へ連れて行った。ベッドに放る。家庭の匂いが充満していた。 「お兄さん………?」 「食えるか」  菓子パンを千切って口元に寄せる。熱に潤んだ目が枕元で(ひざまず)く縁を見上げた。 「お兄さんは……?お兄さん、何も食べてないじゃん…………」 「俺は要らない」  眠ることと同様にして、やはり食事も彼の慣習になかった。 「でも……」 「今はお前だ。食え。薬が胃に沁みるぞ」  さらに菓子パンの欠片を近付けると、彼は乾いた唇でそれを食った。もう食えないというところまで食わせ、薬を飲ませる。 「お兄さん」 「ここにいる」  泣きそうな声が胸を殴る。縁は異様な苦しさに戸惑った。まだ言えないようなことがある気がして、しかしそれが分からない。すべて開示したつもりで、まだ引っ掛かっている。 「明日、お姉ちゃんのこと、埋めたい」 「分かった」 「近くに公園があるから、そこがいいや。お姉ちゃんと、小さい頃いっぱい遊んだ。父ちゃんと母ちゃんとね、ピクニックしたの」 「手伝おう」  桃太郎はうっうっと泣き出し、やがてまた眠った。縁は彼が先程よりいくらか安らかになったのを見て取ると充電器に繋いだ端末を開いた。6桁のパスコードロックがかかっている。 ―7月14日。  烈日の前で目瞬いたみたいな明滅がまた起こる。ある日付が咄嗟に浮かんだ。指がいつの間にか3桁を入力している。だがあと3桁足らない。 ―0714  とりあえず4桁打ち込み直した。瞬間的に、次の2桁がまた入ってくる。10である。 〈100714〉  キーパッドが震える。これではない。 〈071410〉  何の合図もなしに画面はホーム画面を示した。パスコードが解かれた。ディスプレイの壁紙はブルー一色で入っているアプリケーションも同じようなのが乱立している。手紙の封筒のアイコンは赤い円形に白抜きの数字を掲げていた。押す。 〔三枝桃太郎が抵抗する場合、三枝由紫の身柄も保護せよ〕 〔南西にシェルターを用意した。そこに連行すること〕  このテキストには住所が記されている。同じく不来方(こずかた)町内の番地である。  まだ熱いモバイルバッテリーごと彼は端末をシガレットケースの失せた懐に突っ込んだ。シェルターの一言に惹かれる。そこならば桃太郎に食わせる食料品があるかも知れない。  熱に呻く桃太郎の脇で夜を明かした。乾涸びた吸熱シートを貼り替え、水を飲ませる。まだ半分残っている菓子パンを千切り千切り、起きたばかりの彼の口に押し込んだ。 「お兄さん…………」 「なんだ」  青白いくせ局所的に赤い顔が哀れっぽい。縁は手の甲で体温を測るがまだ熱は引いていない。 「ごめん、昨日」  「何が」 「ごめん。謝るから………一人ぼっちに、しないで………」 「しない」  バレッタを握る手が白くなって怯えている。熱が彼を身体だけではないところまで弱らせている。 「シェルターが近くにあるらしい。そこに避難する」 「……お姉ちゃん」 「埋めてから」  彼はもぞもぞと頷いた。そしてまだ十分に回復していないうちから起き上がった。 「寝ていろ」 「お姉ちゃん、早く埋めてあげたいから……もう、大丈夫」  そう言ってベッドから立とうとすると大きくよろめいた。彼の蒸し暑い身体を抱き留める。 「無理をするな」 「シェルターって、秘密基地みたいなところってこと……?そのシェルターに行けばさ、お兄さんもちゃんと寝られるじゃん。オレばっか楽してめんご。ほんとはこういう時って、見張り番、代わりばんこするはずじゃん」  へらりと笑う顔から淵明は反射的に顔を逸らした。 「俺が無理をいって打たせた。気に病むな」 「シェルター着いたらちゃんと休むよ。お姉ちゃん、早く埋めてあげたいんだ。頼むよ。たくさん世話になったんだ。一人暮らしなら今より楽できたかも知れないのに、親でもないのに(オレ)がいるせいで、色々諦めるしかなかったんだ」  もう聞き入れそうにない。淵明縁の腕を擦り抜けて、彼はよろめきひしめき部屋を出ようとする。そういう状態の桃太郎と言い争いをしたくない。

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