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第3話

 公園の木の陰を掘った。スコップはすぐに見つかった。一緒な持ってきた鎌で刈り取った園内に生えていた花を供える。桃太郎(とうたろう)は長いことそこに膝をついて動かなかった。淵明(えんめい)も彼の傍に突っ立っていた。臭い町風が吹き、どこかで鳥が鳴いている。人食いどもはいなかった。 「やっぱ、置いてっていいよ。オレのこと」  顔も上げず彼は言った。(ゆかり)は首を傾げる。 「どうした」 「離れらんなくなっちゃって。お姉ちゃん独りにすんの、ムリだ。できない」  凍えている後姿を見つめる。縁も寒くなった。透明になり、腐った風が通り抜けていくようだ。 「お前がここを離れることが果たして彼女を独りにすることなのか、俺は甚だ疑問だ」 「ンなこと言われても離れらんない」 「それなら俺もここにいよう。疑問が解決されないのなら」 「行けよ。気、遣うなよ」  また少しの間、2人は穿(ほじく)り返され色の変わった土の前に佇んでいた。桃太郎は相変わらず両膝をついていたが、やがて両手をついて四つ這いになったかと思うと(うずくま)る。 「大丈夫か」  汗ばんだ肩に触れる。体温の上がっている桃太郎はどこも湿(しと)っている。 「……まだ居たんだ」 「俺は彼女を撃った。お前を独りにした責任を取ろう」 「そんなこと、考えてたの」  熱で紅潮した顔にさらに泣き腫らした目がやっと淵明を捉えた。 「オレが一番かっこ悪いの、分かってる?」 「……―分からない」  自虐的な笑みに縁は逡巡した。上手く言葉が出なかった。 「マジ?意外とお人好しなんだね。あんたにゴネて、なのにあんたに親切にされて、ここでシスコン(こじ)らせて、またゴネてんの」 「大切な家族なんだろう。最初からお前の目的は姉の安否だった。別に驚かない」 「冷たそうで怖い人だと思ったけど、お人好しなんだな…………ありがと、これ」  彼は姉の形見を見せた。一度無理矢理に笑みを繕うところまでは気力が戻ったかと思ったが、礼を口にすると桃太郎の双眸は大きく潤んだ。 「ごめん。行くよ。ここまでしてもらってまたゴネられるほど、変な教育されてないから……」  彼は目蓋を下ろし、涙を切った。頬を流れ、顎で滴っていく。  シェルターまでの道程は、この町が人食いだらけでなかったら到底許されない行動の繰り返しだった。空き家から食料品を奪っていく。だがどの家もすでに食べ物も飲み物も切らしていた。ペットボトルが5本と、菓子やパンが数個、米がロール式ポリ袋に半分入る程度のみの収穫で、回った件数からすると少ない。 「まだ歩けるか」  桃太郎が遅れをとりはじめた。彼なくしてシェルターを目指す必要はない。 「へーき」  両膝に手をついて、彼は荒々しく息を切らしている。道は肉片と血糊だらけで、空気まで澱んでいる感じだった。 「少し休もう」  目に留まった家には車があった。探索すれば鍵が見つかるかも知れない。蒸れた身体に肩を貸す。掃き出し窓を叩き割り、ベランダから中へと入った。土足である。やはり人気(ひとけ)はなかった。リビングの木枠のソファーに桃太郎を寝かせ、縁はこの家の中のものを物色する。活動的な子供がいたのかスポーツ用品が多く、今はカビだらけになった冷蔵庫の中も未開栓のスポーツドリンが3本あった。貴重品だ。2本はどこからから持ち出してきた大袋に突っ込む。ストローも見つけたため1本はソファーで意識を失いかけている桃太郎に飲ませた。 「……お兄さん」 「なんだ」 「オレ、まだ諦めてないけど………お兄さんがオレのこと、邪魔だって思ったら、置いてってな」 「何故」  賞味期限の切れているインスタント食品も大袋に突っ込んだ。この家の者たちは早い段階で避難できたらしかった。 「恨んだり、しないから……ここまでしてもらって、満足だよ」 「それは副反応だ。すぐに治る。弱気になるな」 「今だけの話じゃなくてさ…………」 「置いていかない」  改めて口にすると、もう彼は何も言わなかった。姉のアルバイト先からわずかばかり持ってきたパンを食わせた。彼はまた小さく泣いて口に押し込んでいく。 「オレ、ここから避難できたらパン屋さん開く。お兄さんも行くとこ思い出せなくて、やることもなかったら、そこで働けばいいや」 「分かった。そうしよう」  壁に掛かっている時計はまだ動いている。時間からしてそろそろ薬を飲ませる頃合いだった。シートから2錠、解熱剤を落とし彼の口に運ぶ。ストローを食む姿を縁は見ていられなくなって、2階を漁りに向かった。  車の鍵を探していた。鏡台の抽斗(ひきだし)を下から開けていく。ちらと鏡が目に入った。櫛を通さずともさらさらと下を向く亜麻色の髪。神経質そうな細い眉。切れの長い目に沿った幅の狭い二重瞼。薄情げな薄い唇。通った鼻梁に小振りな鼻先。どこかで見た。目を見開く。その瞬間に大きな物音が階下で聞こえた。肝が冷えた。踵に爆薬を抱えたみたいに彼は階段を駆け降りる。 「桃太郎!」  喉が張り裂ける。大声を出すのは得意ではない。昔からぼそぼそと喋っていたような気がする。リビングに飛び込んだ。心臓が痛いほど速く鼓動する。リビングには桃太郎ではない男が足を肩幅大に開き、しっかりと立っていた。銃は途中で捨ててきた。三枝(さえぐさ)宅で死んでいた男の弾もここに来るまでに使い果たしていた。この町には、否、この国の一般的な家庭で弾丸は補填できない。かといって銃のありそうな事務所を探す気も起こらなかった。斯くなる上は徒手で応じるしかない。  見知らぬ男が振り返った。瞬間、縁は拳を繰り出す。相手はまともに食らったかのように思われたが、放った腕は脇へと払われた。 「あっぶな……」  やはり桃太郎のものではない声がする。生きた人間である。生存が絶望的だった町に、まだ生きた人間がいる。 「……誰だ」  淵明は男を見上げた。まず背が高い。肩幅もある。爽やかな印象で、短く艶やかな黒髪がさらにそれを助長した。あまり日に焼けてはいないが肉付きからしてよく鍛えられている。年代的には縁や桃太郎とそう変わらないだろう。 「生きてる人間さんですか。よかった。久々に喋りましたよ」  質問には答えず彼は朗らかに笑うと背を向けた。足元には怪物が転がっている。それは文字通り、怪物だった。人の形をしているが床に投げ出した片腕は肥大化し、珍しいカエルみたいな粗い凹凸のある体表をしていた。太くなった爪もまた猛禽類のようだである。突き刺されたらただでは済むまい。薄らと血管が浮かんでいる。  男はその怪物から斧を引き抜いた。薪割りに使うような手斧である。頭部をかち割ったらしく、刃からは色の薄い毛と脳髄の滓に鮮血が滴り落ちている。しかし気になるのは()を握る指に巻かれた絆創膏である。いつできたものだろう。絆創膏を巻いておくほどの傷ならば最近だ。どういう過程で傷がついたのか。今の状況で最も会ってはならないのは人食いではなく人間だ。それも感染疑いのある人間である。――S(シエラ)ワクチンを打ったばかりの身体では、噛まれれば感染する。  彼は無事か。 「桃太郎!」  縁はびくりと震えてソファーの上の連れを呼んだ。ソファーが小さく軋み、気怠るげな桃太郎が身体を起こす。彼が真っ先に捉えたのは謎の大男であるから、縁は足から喉元まで()り上がる不快感に耐えねばならなかった。  それから桃太郎は縁と不審人物を見比べた。 「誰……?」 「うん、先にこの家陣取ってたのはおれだけど、乱入しちゃったのもおれだからね。分かった、ちゃんと名乗るよ。弘原海(わだつみ)(らん)と申します。大学生です。趣味は読書とランニングとギター。こっちは相棒の"ハムチャンズ"です」  彼は黒いカーゴパンツから銀色のネズミを取り出した。縁は思わず眉を顰める。 「ハムスター!」  熱に蝕まれ、疲労に満ち満ちた顔が、ふにゃと綻ぶ。触りたがって腕を伸ばす。しかし淵明に言わせればネズミである。 「やめろ、触るな。薄汚い」 「でもハムスター、触りたい」 「今、彼は弱っている。そういう身体に雑菌を近付けるな」  桃太郎の意見は聞かなかった。縁は弘原海(わだつみ)(らん)とかいった男の前に割り込む。大きな手に握られた白と銀と鉄色の毛玉はほんのりとピンク色の鼻を虚空に突き出し、まるで縁の匂いを嗅いでいるみたいだった。 「あ、何?病人なの?」  彼は訝ることもなく縁の奥の桃太郎を覗こうとした。 「あっちの家、キャンプ好きみたいでさ、飯炊く器具あったからなんか作るよ。米拾ってきたし」  彼はまた別のポケットから生米を取り出した。惜しみなく食料を分け与えようとする弘原海に淵明は目元を眇めた。 「だいじょぶ……あんま、食べたくないし……」 「いやいや、身体が資本よ。ちょっと取ってくる」  彼はハムスターをまたポケットにしまうと話も聞かずに行ってしまった。桃太郎は桃太郎で自身の寝ているすぐ真下に怪物が横たわっていることなど気付かない様子で淵明を見ていた。 「逃げるぞ。すまないが無理をしてくれ」  食料品を集めた大袋を抱え、縁は桃太郎の腕を取る。 「逃げんの?」 「争いになる」  指に傷があった。しかしそのことは伏せた。 「助け、合おうよ」 「俺はお前以外信用できない」 「……でも、悪い人じゃなさそうだった」 「今は、な。お前は幸い空気感染を免れた。だがあいつもいずれ発症する。ワクチンはまだお前の中で定着していない。その間に噛まれでもしたらどうする?」  人食いに成り変わる直前の感染者にはS(シエラ)ワクチンの効果によって放たれる忌避物質が効かない。傍にいれば感染者の理性では抑えられない飢餓感によって、桃太郎などは簡単に肉にされてしまう。そして直接傷口に叩き込まれたウイルスはたちどころに彼を歩行可能な遺骸にしてしまう。しかしこの説明を縁は省いた。やはりなんの確たる証拠もない、思い込みと思いたくとも拭い去れない彼の中の確信だった。 「逃げるぞ」  縁は桃太郎の腕を引いた。彼は一度立ったがまともに歩けそうにない。 「背負う」  ソファーに戻してみるが熱の出ている彼はそのまま横たわってしまった。 「ムリだよ、オレ多分お兄さんより重いもん。あの人危ない人なら、お兄さん、逃げて。オレは十分良くしてもらったから……」 「お前と逃げなきゃ意味がない」  苦しそうに息をする目と視線を交わす。ある案が浮かんだ。戻ってくる前に、あの男を秘密裏に―…… 「ごめんな。助け合おうとか言っといてさ、助けられてばっかで、助ける比率、断然、お兄さんのが多いっていうか、オレ、何もしてない……」  喋るのも重労働らしかった。レースカーテンから入る外光が彼の汗ばんだ皮膚を白くしている。 「パン屋でお前は俺を殺さなかった」 「だって武器もなかったし……」 「行き場のない俺を家に招待してくれた。それだけで十分で、俺はお前の大切な姉を撃った。尽くす意義がある」 「訳分からん」  彼は呻きながら額に手を乗せた。 「動けそうにないか」 「ほんと感謝してるよ。色々乱暴な口利いたことはごめん。謝るよ。これ、洗ってくれてありがとな。ずっと大事にする。お姉ちゃん埋めるの、手伝ってくれたことも……」  バレッタがきらと輝いた。胸に抱いて寝ていたらしい。 「置いていかない。ひとりにするわけないだろう。ひとりにするなとお前も言った」 「あれは………、寝言みたいなもんだろが……」 「寝ていろ。起こして悪かった」  スポーツドリンクをまた飲ませ、縁は逃亡を諦めた。彼から寝息が聞こえると、その真下にある怪物の処理を始めた。桃太郎の寝床の脇にあるのは相応しくない。おそらく打たれている可能性の高いO(オスカー)ワクチンによって空気感染は防げているのだろうけれど、理屈とはまた別の衛生観念がこういう怪物を恐れた。内側から鍵を開けて玄関前まで死体を運んだ。リビングからここに至るまでべったりと血の痕がついている。頭をかち割られた亜麻色の髪も真っ赤に染まっている。そして気付く。どこかで見た服装だった。顔半分も爬虫類のように変貌し、さらには斧を振り下ろされて大きく歪んでいる。だがそこに残る面影は、間違いなかった。三枝家の風呂場で桃太郎の姉に食われ、絶命していた男である。同時に彼は家中を物色していと時に鏡を目にし、気に掛かっていた事柄を思い出した。同じ顔なのである。この怪物と……  死骸を捨てた。頭蓋を砕かれ、脳味噌の断面を晒している自分と瓜二つの死骸が玄関アプローチの階段をずり落ちた。二度目瞬く。言いようのないなだらかな感慨が湧き起こり、縁の目からは涙一筋落ちていった。驚きはなかった。納得に似ていた。自分は町の悲劇を起こした側か、或いはこの町の惨状を食い止める側の人間だったのかも知れない。まだそこまでは記憶を取り戻せていなかった。しかしただの小市民ではなかったのだ。それはワクチンに関する爆誕的な情報でも窺えた。  顎から落ちた雫が足元のセメントを濡らす。遠くで空が轟いた。雨が降るらしい。 「おーい!持ってきたぞ!」 斜向かいの家から(らん)が呑気にやって来る。手には様々なアウトドア用品を抱えていた。そして道路を凝らす死骸の惨たらしい顔を一瞥して、不思議そうに縁の顔を見比べた。 「双子……?」  みるみるうちに青褪めていく。この異形に誰が斧をぶち込んだのか思い出したらしい。 「桃太郎には黙っておけ」  縁は踵を返した。  雨音が激しくなり、雷がすぐ近くまで来ている。藍は手慣れた様子で米を炊き始める。室内だった。今更家一軒を燃やしたところで苦情の出処もない。外の雨のリズムに合わせることもなくカセットコンロの上の飯盒はぷすぷす、しゅーと鳴っている。シンク下からペットボトルの水の買い置きが見つかったのは運が良かった。 「話がある」  言った瞬間、室内が雷光で浮き彫りになった。 「うーん?どうぞ」  落雷の耳を(つんざ)く音に怯みもせず、弘原海はカセットコンロの火を眺めている。 「少し離れたい」  意味ありげに寝ている桃太郎に目配せする。弘原海はカセットコンロの火力を調整してから腰を上げた。廊下に出る。住宅地によくある構造だがなかなか立派な家だった。二世帯住宅らしい。 「その指の傷はどうした」 「ああ、ハムチャンズに噛まれた」  ハムスターは今、ダイニングテーブルの上のダンボールの中にいる。 「本当だな?」 「傷口みる?」 「あのネズミはどこで」 「おれの家に来たのさ。どこかから逃げ出してきたみたい。それか、町がこんなだろ?飼い主が逃したんじゃないか。ネコとかカラスに食われるかもだケド、餓死よりいいだろ、多分……」  質問内容に藍はいくら拍子抜けしたらしかった。 「話って、それ?」 「大切なことだ」 「おれが人狼(じんろう)に噛まれたと思ってたワケね。避難するときも、これで断られたから、まぁ気持ちは分かる」  淵明は絆創膏の巻かれた指を見下ろした。 「傷はいつできた」 「避難バスが2日前だったから、3日前くらいじゃないか?確か」  彼は左手の指を折っていく。縁は黙った。空がばりばり裂け、リビングが光った。 「あれ、もしかしておれ絶望的?困ったな。マジでハムスターに噛まれただけなんだけど」  爆音の影で藍はへらへら笑っている。 「分からない。だが桃太郎には近付くな。俺もお前から目を離さない」 「お、おう。でもせっかく会えたんだからよ、ちゃんと役に立てるようにするし、輪には入れてくれよ?」  軽妙な態度で彼は先にリビングに戻った。そうこうしているうちに粥ができあがる。紙皿に盛り、縁は横になったままの桃太郎に食わせた。歩かせたのが祟ったらしい。ワクチン接種直後よりも熱が高いようだ。毛布に包まり震えている。スポーツドリンクに挿したストローを咬ませた。美味そうに吸う。 「重いん?」  粥をプラスチックのスプーンで掬いながら弘原海は訊ねた。 「疲労が積み重なった」 「風邪薬とか探して来ようか」 「あるにはある」  「ああ、そう」と藍は引き下がる。  雨足が強まる。だが気が付くと雷は遠ざかっていた。 「お兄さんたちの名前、まだ聞いてない」 「必要か」 「おれ名乗ったし」 「淵明縁だ。彼は三枝桃太郎。満足か」  藍は小さく鼻を鳴らす。 「ま、初対面だし警戒心丸出しなのは仕方ないよな!これからよろしく。多分そのうち仲良くなれるさ、こんな状況だし」  淵明は顔を背ける。仲良くする必要性が見当たらない。協力は不要だ。一人で事足りている。むしろ危険因子である。この男を後ろに歩かせるわけにはいかなくなった。 「結構嫌われちゃったな、おれ。そう警戒するなよ。お兄さんがおれのコトでその子が心配なら、近寄らないって」 「助かる」  カセットコンロの火が揺らめく。 「その子とは、仲良いん?」 「まだ会って数日も経ってない――――はずだ。しかし縁は彼をもっと前から知っているような気がしてならない。ワクチンに関連してまさに霹靂の如く現れた情報には桃太郎に纏わるものが含まれていた。 「そうなん?めちゃくちゃ仲良しに見えた」 「俺は彼の姉を撃ち殺した。そういう仲だ」 「そりゃ事情があって……だろ。こんな世の中だと」  藍は苦笑した。淵明は目を伏せる。 「さぁてと。寝るか」  アウトドア用品の中に寝袋があった。嚢の中には入らず、それを敷いて彼は横になる。 「彼はベッドで寝かせる」 「それがいいやな」  縁は毛布ごと桃太郎を抱き上げて2階寝室に連れて行った。夫婦でひとつのベッドを使っているらしく広かった。この移動によって彼はまた目を覚ます。 「起こしたか」 「ううん………さっきの人は?」 「下にいる」 「喧嘩、してない………?」  頷いたのを彼は見えているのか定かでない。湿気を放つ身体をベッドに寝かせ、布団を掛けていく。他人の家の匂いが落ち着かないだろう。縁も落ち着かなかった。 「お兄さん……ちゃんとごはん食べた?」 「食べた」 「お兄さん…………」  か細い呼び声に疼きを持った焦燥感を煽られる。 「どこにも行かない。桃太郎を置いていったりしない」  バレッタを離さない握り拳に手を重ねた。 「桃太郎がいないなら、俺はやることなんぞ何もない」  息苦しそうに彼は笑っている。 「何言ってんの……」 「昔のことを思い出しても、俺は桃太郎とパン屋をやる。約束する」 「お兄さん、かっこいいから、女のお客さんいっぱい来ると思うな。こんなかっこいい人いるんだなって初めて見たとき思ったもん。へへ。オレは必死でパン捏ねるから、お兄さんは接客頑張ってね」  苦しげにまた「くくく」と笑っている。 「お兄さんが奥でパン捏ねてて、それで厨房の窓からちょっと見えてるほうが、エモいかな」 「分かった。店長に従う」 「一番人気はね、タマゴサンド………ふふふ、へへへ……」  彼は笑った拍子に啜り泣きはじめた。 「寝ろ」 「ごめん。迷惑かけて」 「迷惑なんてかかってない」 「うそだ」  桃太郎は目元を拭いた。傷んだ髪を撫でる。肌に刺さるように硬い。 「そう思うなら、終身雇用してくれ。桃太郎のパン屋で。それでチャラだ」 「当たり前じゃん。辞めたいって言っても、辞めさせないかんね…………」 「辞めろと言っても辞めない」 「お店の名前………決めとかなきゃ」  手櫛を入れている間に彼はまた眠りについた。雨の音が子守唄になっている。 『俺が、守る』  声を殺して呟いていた。汗の止まらない額を手の甲で撫で、頬で止まる。胸に広がっていく熱波を上手く理解できなかった。  寝ている桃太郎を背に淵明は端末を確認した。新しいメッセージはない。シェルターの住所を送った者は、この端末の持ち主がどうなったかを知らないのだろう。縁は何度かメールアドレスに指を触れかけた。自分のことを知る相手かも知れない。コンタクトをしようと思えば、できるのである。知ったときどうするのだ。この惨状を引き起こした側の人間であったら?桃太郎の安寧を奪った人間ということになる。  ベッドが小さく軋む。寝返りをうったようだ。自分の素性も正体も知らなくていい。彼とパン屋を営む未来を潰すほど取り戻したいと願うものではない。不便はなかった。むしろ都合が良い。過去を捨て去り、彼の店で働ける生活を選べるのだ。桃太郎の示す淵明縁がここに在れば十分のはずである。  だが頭部の割られた怪物の顔が脳裏に焼き付いたままなのだ。片方が変貌し、そして斧によって(ひし)げた自分とそっくりな顔……  明朝に外で音がして出てみると弘原海が車のハッチバックドアを開けていた。 「あ、おはよう、お兄さん」  縁はもしかすると双子かも知れない死骸を一瞥してから朝早いにもかかわらず爽やかなつらをしている藍に向き直る。 「車の鍵があるのか」 「おん。お宅さんたちがここに来る前に拝借したよ。あの子は?大丈夫?」 「いいや」 「どこか行きたいところある?」  車の鍵を先に取られていたのは厄介だった。他の車を探すことにはなるが人食いよりも厄介な感染疑惑のある、または今後感染する可能性の極めて高い生きた人間を遠ざけられるのは好い報せだ。

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