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第4話

 (らん)はひょこひょこと食料品収集から帰ってきた淵明(えんめい)に近付いた。 「シェルターに行きたい?」  (ゆかり)は眉間に皺を寄せて少し高いところにある顔を睨んだ。 「桃太郎(とうたろう)に近付いたのか」 「粥作ってたら自分で下りてきたんだよ。許してくれ。粥食べさせたし薬も飲ませた」  弘原海(わだつみ)は戯けたように軽く両手を上げた。しかし本気だったのかも知れない。 「何の兆候もないし、感染してないと思うんだけどな、おれ」  民家から奪ってきたばかりの消費期限が2年ほど過ぎた乾パンの缶をひとつ握らせ、縁は怒ったように2階へと上がっていった。  桃太郎は掛布団を蹴って、ぐったりしていた。 「大丈夫か」  声をかけると首がこちらを向く。 「ごめん、オレ………寝てばっかで………」  起き上がろうとするのを制した。 「何か胃に入れたのか」 「うん。あの人がお粥作ってくれたから」 「薬は」 「飲んだ」  いくらか顔色は良くなっているが、まだ歩かせるには早い。額や頬、首の温度を手の甲で測った。熱も下がりつつある。 「お兄さん……あの、さ、めんご」  制止する間もなく桃太郎は起き上がり、胡座をかいた。淵明は首を傾げる。 「シェルターのこと、あの人に言っちゃったんだ」 「本人から聞いた。桃太郎から目を離さないように努めるが、自分の身は自分で守れたほうがいいだろう」  縁は器物を彼に渡した。食料品については期待したほどの数見つけられなかったものの、初心者でも使いやすそうな小型の折り畳みナイフを発見したのだ。 「そろそろワクチンが定着してきて、返り血程度なら感染しないだろう。首だ。ここを刺せ。躊躇えば相手もつらい。相手を思うなら、一思いにな」  桃太郎はぎょっとするが、構わず淵明縁は自身の首を2本の指でタップした。 「なんだか………怖いな」 「感染は防げても噛み傷は痛い。人食いにはならないだろうが、他の病原体に侵される可能性は大いにある」  特に感染から発症後のそこまで腐乱していない個体などは、歯も人肌を齧って折れたり抜け落ちたりしないのだ。しかしこの説明もしなかった。脅したいわけではない。  桃太郎は掌のナイフを見下ろしていた。果物の皮を剥いたり、肉を細かく切る程度にしか使ったことがないのかも知れない。 「俺もなるべく桃太郎からは目を離さない」 「へーき。もうあんま、お兄さんに迷惑かけらんない」  まだ体熱で陽炎う眼に見上げられ、淵明は射抜かれた心地になる。頭の中が白くなった。脈が飛ぶ。 「……無理はするな」  肩を押さえ、まだ本調子ではない彼を横にする。足蹴にされた掛布団を引っ張り腹まで覆った。 「お兄さん」 「どうした」 「なんでもない」 「言いたいことは言っておけ」  桃太郎は無邪気にきゃはきゃは笑った。 「会えてよかったなって急に思った。でもね、優しいところ、怖い。オレが甘えて、お兄さん、苦しくなっちゃうんじゃないかって。オレはオレなりに生き延びるから、置いてってね……一人にしないでってもう言わないから。あの人と、シェルター、行って……」  ぐっと胸が痛んだ。呼吸困難に似ている。 「要らない心配をするな。桃太郎の今やることは、休むことだ」  枕で(たわ)み、反っている毛先が目に入ると彼の髪を撫でずにはいられなくなってしまった。  疎らながら水垢の目立つバーガンディのミニバンの後部座席は高かった。乗り慣れない。  担ぎ上げた桃太郎はまだ眠り続け、縁の膝を枕にしている。(らん)は荷室スペースに集めた食料品やアウトドア用品を積んでいる。 「運転、おれでいいの」 「頼めるか」 「それはいいんだケドさ」  弘原海は何か言いたそうで核心的なことは口にしない。 「俺の運転中にお前が発症するのが一番困る」 「なるほど。安全運転しまーす。っていうか感染してないから!」  戯けていないとやっていられないとばかりである。だが実際感染していない、否、感染しないのかも知れない。人食いどもの闊歩する町で、腐った風に身を浸しても感染者も触れたであろう物品に接触しても感染の兆候が見られない。 ――この男もどこかでL(リマ)ワクチンを打っている……?  L(リマ)ワクチンとはなんだ。咄嗟に出てきた半ば思い違いとして片付けられる型番に縁は戸惑う。どこかで桃太郎同様に打っていたとしてもO(オスカー)417ワクチン以後でないことは確かだった。人食いに対する忌避物質を分泌させるワクチンはO417ワクチンからだ。弘原海という男は人食いに狙われる。この家の前は腐乱死体が累々と横たわっている。彼と共に駆除したものだ。もし接種していたのならL(リマ)ワクチンである。L505ワクチンである。  縁はうんざりしてしまった。彼を置き去りにして、得ている情報が勝手に考察をはじめている。いずれにしろ、弘原海藍は信用ならない人物だ。まず感染疑惑があり、そうでなくとも感染する可能性があり、噛まれたとして人食いと化すウイルスの感染は防げても傷になればO(オスカー)ワクチンだのS(シエラ)ワクチンだのではどうにもならない感染症は起こり得る。感染しないというのなら、表立って出回っていないL(リマ)ワクチンを何故接種しているのかという問題になる。 「出るケドいい?」  運転席に乗り込んだ藍が振り返った。死人が我が物顔でほとんどの生者を駆逐した土地に置き去りにされたとは思えない爽やかぶりだ。彼は寝ている桃太郎をちらと見る。淵明はそれが気に入らなかった。同時に警戒した。活きの良い新鮮な肉に惹かれたのではないかと。膝にしがみついている桃太郎の肩を抱く。 「行ってくれ」  運転席の後姿の一挙手一投足を見逃せない。エンジンがかかり、浮腫み腐りかけた死体を轢いていく。それでいて秩序のあった時代に従い、藍は左右確認のための一時停止をする。他に走る車はもうなく、信号機は機能せず、歩行者は縦横無尽で道の真ん中で寝ているのもいる。()うに人権を失ったように見えるが医療と法治では、肉体を腐らせ意識も感じさせず無限に他者を食らい続ける生体機能を保っていれないほど損壊した人間とも人間でないとも判じらないものをどう扱うのだろう。  タイヤが腐肉を轢くのが分かった。音もある。骨に乗り上げ、折れたのも感じられた。弘原海はそれでもハンドルを切って前方を塞ぐ屍肉たちを避けているようだった。それは彼なりの良心なのか、ただ単にフロントガラスに肉片や変色した体液が噴き上がるのを厭ってか。 「生きているか」  藍は黙っている。直進のみなのが不安を煽る。他の車両のために法定速度を守る必要はないが、衝突や横転でもすれば桃太郎は怪我をする。最悪の場合は落命する。 「おい」  縁は運転席へ身を乗り出す。後姿は動かない。発症したのかも知れない。 「ああ、おれに言った?」  一瞬焦った。怒ったように縁は溜息を吐く。 「ラジオでも点ける?」  返事をする前に運転手はラジオを流した。不来方町の緊急事態が繰り返し報道されている。近隣の市町村も避難勧告が出ているらしい。少し車を走らせただけで空にはトンボみたいなヘリコプターが見えた。しかし。縁が捉えたその翅虫みたいな機体は突然空を回転した。すでにぷすぷすと黒煙の上がるそう高くないビル群に落ちていく。パイロットが感染したとは考えにくい。藍は呆れたような落胆の呻めきを漏らす。 「避難、できたの?」  ラジオから流れるここにはいない女の声に桃太郎は目を擦った。それが哀れっぽい。縁はまた彼の肩を撫で摩る。 「まだだ」 「……そっか」 「まだこの町に生存者がいるみたいだ」  ラジオで女の差し迫った声が報じた内容を告げた。桃太郎はこの報せをどう解釈するだろう。 「そっか……もしかしたらその中に、お兄さんのこと知ってる人、いるかも知れないね」  紙を握り潰すみたいな質感が胸の奥で起こった。眠そうにへらへらしている桃太郎のバレッタを抱いた手に手を合わせた。自分にはもしかすると、親同胞(おやきょうだい)がいるかも知れない。その感じはなかったけれど、記憶が無い以上は否めない可能性だ。だが桃太郎はどうだ。唯一の姉は死んでしまった。撃ち殺してしまった。 「そうしたら桃太郎を紹介する。何か思い出しても、お前との約束は変わらない」 「へへ、ありがと」 「だから心配しなくていい」  桃太郎は身体を起こすが、その数分後にはまた眠った。縁の肩に凭れかかる。バックミラーで藍が後部座席を確認したのが見えた。桃太郎を一瞥していた。発症前の猛烈な空腹感で、獲物を値踏みしてはいないか。 「なんだ」 「怖いよ、お兄さん。後方確認でしょ、フツーに」  弘原海は軽快ににやにやと、しかつめらしい表情を崩した。 「桃太郎を見ていたからだ」  冷やかすような口笛が上がる。 「お兄さん、記憶が無いんかい?」  計算していた。どう答えるのがこの信用ならない男に対して有利なのか。そして返答のタイミングを逃すと、肯定の空気へ変わっていく。 「ひとつ訊いていいか」 「おれの質問にも答えてくれてないのに?でもいいよ。何」 「俺にはこの町がこうなる前の記憶がない。けれど全く分からないわけじゃない。だから、妙な真似をしたら許さん」 「しませんて」  淵明の刺々しい態度に弘原海は気分を害した様子はなかった。朗らかに苦笑している。余程、人が好いかこういう類いの扱いを心得ているのだろう。 「で、お兄さんの訊きたいコトって?」 「何故、あの家にいた?」 「ああ、そんなコト?車あったから。そうしたらアンタ等が入ってくるだろ。会ったらヤバいじゃん?物資の取り合いになる。でもフツーの人間殺せるハズないだろ。だからトイレに逃げ込んでたワケ。そしたら長居するつもりだったみたいだったからビビったね。あの変な怪物来てくれたのはおれとしちゃむしろラッキーだったくらい―」 ―と言ってから彼はばつが悪そうにした。 「ごめん、あれって………」 「怪物は怪物だ。俺の何でもない」  同じ顔の異形をこの男は双子かそれに類するものと思い込んでいるらしかった。だが縁にはやはりその感覚がなかった。脳髄が震えるような異様な情動がない。元々そういう能を備えていなかったのかも知れない。だからこそ、桃太郎の姉を躊躇いもなく射殺できたのかも知れない。 「たとえ俺の片割れだったとしても、俺も彼の姉を撃ち殺した。人のことをとやかく言えない」 「言えるだろ。言えるだろっていうか、言っちゃうんじゃないか……」  淵明は眉根を寄せた。 「とりあえずお兄さんが分別のある人でよかったよ。言われても困るからな」  直後、彼はいきなりハンドルを大きく切った。縁はシートベルトを着けていない桃太郎を抱き留める。座っていた右側のドアが大きく歪んだ。車は大きくカーブし壁に激突する。フロントガラスが雹になって降り注いだ。助手席は凹み、天井は運転手の首元まで迫る。運転席のドアは(こそ)ぎ取られ、外が見えていた。 「何?」  桃太郎にしがみつかれる。縁は運転手を見た。真っ赤に染まった右肩がシートの奥に見える。 「()っり。逃げてくれ」  弘原海は生きている。しかしその声音には苦痛が滲んでいた。桃太郎の目が獲物を定める猫みたいに爛とした。 「外に出ていろ」  彼に言い置いて、淵明は(ひし)げたミニバンのドアを内側から蹴り飛ばす。巨大な怪物がいた。かろうじて残った亜麻色の髪に見覚えがある。それから猛禽類の爪を何百倍にも大きくした腕は爬虫類を彷彿とさせる粗い凹凸を以って硬化し、アスファルトに引き摺っていた。あれが車を襲ったに違いない。上体は岩石のようだが、その割りに下半身は華奢だ。  砂煙を撒き散らし、怪物は近くの建物を薙ぎ払った。開いたハッチバックドアの中から金属バットを抜き取る。対峙した。サイズが大きく違った。相手は巨岩に足が生えているようなものである。目の前を走ると、暗赤色の汚れのこびりついた亜麻色の毛束の下の滑稽なほど相対的に小さくなってしまった貌が縁を追った。ビルに貼り付いたミニバンとは反対方向に走る。頭上を風が切る。すぐ腋の建物が砂の城の如く崩れ去る。物陰に隠れ、粉塵が視界を遮った。 「逃げよう!お兄さん!」  桃太郎が聞こえる。彼が脱出する時間は稼げたらしい。怪物の散らかした瓦礫に隠れ合流する。右腕を抱いた藍もいる。 「こっち」  桃太郎は淵明の姿を砂埃の中で認めると負傷者の服を摘んで引っ張った。ミニバンの激突したビルの裏に導いていく。彼の歩みは不安定で、怪我人もまたよろめいている。  目の前から伸びてきた腕に金属バットを打ち込んだ。握らせ、縁も走る。 「こっち!」  桃太郎は膝に手を着いて息を切らす。顔がまた赤くなっている。まだ熱は下がっていなかった。真後ろに気配を感じ、淵明は全力疾走で彼に突撃する。踵がアスファルトを離した。自分とは別の体重を抱いて転がった。肩と肘を強打した。ぱらぱらと上方で小気味良い音がする。次第に轟音へと変わったのは、怪物がビルの壁面を殴り、抉ったからだ。コンクリートには(ひび)が入り、徐々にずれていく。 「大丈夫か!」  弘原海が叫んでいる。桃太郎は淵明の腕の中から這い出た。 「だいじょぶ!」  まるでこの大声のやりとりが影響したかのように崩壊していく。よろよろと立ち上がろうとする桃太郎をもう一度引き寄せ、爆風から庇う。粉砕された様々なものが頬を掠め痛痒い。小さなものが無数に弾けているみたいだった。 「お兄さん」 「平気だ。桃太は」 「オレも。守ってくれてありがと」  紅潮している彼の顔が汚れている。淵明はそれを拭った。頬骨と歯列を感じる。痩せてしまった。だがそれを嘆いている余裕はない。 「すまん!おれはここまでだ。ありがとな!無事で逃げろよ!」  姿の見えなくなった怪我人の妙に明るい調子が届いた。怪物の爪を受けたあの男は感染した。近いうちに発症する。傍に置くのは危険だった。縁にとっては都合の良い話に違いない。しかし連れがそれを良しとしなかった。 「ヤダ!ここの先にNION(ニオン)があるから、そこで会う!」  へし折れた看板が大型ショッピングモールまでの距離を示している。2kmだ。発熱者と負傷者が外敵から追われながら歩くには厳しい距離だ。  桃太郎は提案し、縁を振り向く。汚れた顔がすまなそうだ。 「ごめん……」 「無理はするな」  頷くのを見た。 ◇  藍は大きく息を吐いた。数度に一度はそうなった。痛みを逃すためだ。肉を抉られた右肩から肘にかけて強く疼く。傷以外は身体中冷めている。汗が塵を肌に留めた。  怪物は気の好い高校生みたいなのと無愛想な男を追ったらしかった。だが藍もそれを気に掛けていられる間はない。大きな傷を負った身では、腐った死人どもを斃すのは今までのように容易にはいかない。おまけに大量の出血でさらに引き寄せている。そこにさらに視界のぼやけが加わった。彼は自身も人食い死体同然に、よろよろと、ほぼ無意識に歩き、撲殺し、刺し殺していた。ポケットが蠢き、可愛らしい毛玉の生き物が現れる。 「ああ、生きてたん?お前……」  シルバーのハムスターはひょいひょいと怪我人の身体を登り、忙しなく宙を嗅いでいた。この小さな友人を擦るように撫でて靴裏を削るが如く足を動かした。脚を負傷しなかったのは幸いとしかいいようがない。  長い道を歩いた。町の中の大通りらしく、家具屋やガソリンスタンド、パチンコ店、家電屋などが並ぶ。それでいて近くには大型ショッピングモールがある。この辺りの地理はそこまで詳しくなかった。藍は通学のために引っ越してきた。しかし生活圏は反対の方角である。  汗が止まらない。誰かが待っているというのが重い。諦めろ、と身体が訴えている。それは甘美に聞こえた。歩き続けるだけ、生きようとしている。無抵抗のまま餌になれない。だが現実問題、大型ショッピングモールには辿り着けそうになかった。血が止まらない。汗も噴き出したままだ。視界も思考もぼやけ、熱さと寒さの間を行きつ戻りつしている。眼球が真上へ引き付けられる。大通りにぽつんと佇む、この騒動とは関係なしに廃業したらしき小さな店の窓をぶち破るので体力を使い果たした。スタッフルームに踏み入り、壁伝いに腰を下ろす。肩にいたハムスターを剥がし、床に下ろした。何かしらのエサにされるか、野垂れ死ぬか、野生のネズミと繁栄するか、あとのことはもう分からない。  喉が渇いた。苦い風味が口腔を支配する。腕の激痛に遠退いた意識を引き戻されてしまう。合流を断らなかったことを後悔する。蒸れた背を動かし、少しでも乾かそうとした。暗くなっていく外に内心安堵した。爪先がなんとか見える程度の暗闇に自身の息遣いが(こだま)する。  まだ膝の辺りで遊んでいるハムスターに苦笑した。思えばこの毛玉にさえ噛まれさえしなければ、今頃は大学生の避難バスでこの町を離れられたはずだ。訳もなく引き攣った笑い声を上げ、突然黙った。  首に走る鋭い感覚に目が覚めた。両腕が無くなったように軽かったが、失ったわけではない。両手を翻す。そういう動作をしても裂けた右腕は痛まなかった。血塗れだったはずの左掌は適当に拭われ、皺に沿って汚れが残っている。  人間の限界点を彼は咄嗟に想像した。痛みを突破し、おそらく無痛のアディショナルタイムだ。しかし痛みは消えたけれど、喉の渇きは依然治まらない。  不思議な感覚に浸っていると爪先の奥に人影が見えた。びくりと肩を跳ねさせた。誰かいる。まるきり気付かなかった。丸く黒い革靴で、フリルの付いた靴下を履いている。それからやはりフリルの付いた黒いスカートとその下にはカーテンを思わせるレースが伸びている。一気に見上げた。亜麻色の髪の女が立っている。地味ではあるが装飾過多な服装にハムスターを抱き上げているのがどこか釣り合っていない。ブロウの引かれた神経質そうな細い眉、通った鼻梁に小振りな鼻先。薄い唇には青みの強いレッドのカラーが塗られている。幅の薄い二重瞼の真下には大きく反った長く濃い睫毛に覆われた目。見覚えのある容貌だった。気の好い高校生みたいなのと一緒にいた偏屈そうな男の顔が多少骨格に丸みと細さを加えてそこに在る。妹だと思ったが、姉かも知れない。頑固親父の素質は十分に感じられたが、高く見積もっても30代前半だった彼に、10代半ばから20代前半ほどの娘がいるとはすぐには考えが及ばなかった。10代半ばで父親になれば無理な話ではない。しかし双子のように似ているのだから姉か妹と見做したのは致し方なかった。そうでなければ、直感的に女性と判じたけれど、あの神経質で刺々しい男が上手いこと女装をしているのか。しかし骨格や肩幅を上手いことやっても、背丈は下方に誤魔化せまい。目の前の人物は女性としては高いようだが、男性として小柄だ。  冷めた目に見下ろされている。彼女にそっくりな男にもそのような眼差しを向けられた。 「君、お兄さん居る?」  喋ると乾燥した喉がひりついた。彼女はハムスターを撫でている。爪は暗い色で塗装されていた。身形からして現実離れしている。食うに困っている様子はなく、妙に小綺麗だ。 「もし居たら、会ったよ。NIONにいるかも知れない……」  喉が痛み、咳をした。ペットボトルを差し出される。 「いいんかい?感染してるかも知れないから、回し飲みはもうできないよ」  言ってから後悔した。そういうところがある。損すると分かっておきながら、正直に打ち明けてしまうところがある。今まで大した後悔はなかったけれど、この時ほど己の迂愚(うぐ)ぶりを認めざるを得ないことはなかった。だがペットボトルを下げられることはなかった。未開栓の水を受け取り、喉を潤す。溺れるほど飲んだ。ペットボトルの中の半分が消える。 「ありがとう、助かるよ。君は?」 「(えにし)………」  彼女はぽつりと溢すように言った。消え入ってしまうような儚い声だった。 「おれ、藍」  ハムスターを握る娘は興味も関心も無さそうだった。性差あれど顔立ちが似ていれば性格まで似ている。 「よろしく―」  フリルのついた袖が伸びてきた。ちくりと首に針を刺された痛みがある。そこから脳味噌を吸い出されるような前後不覚に陥る不思議な感覚があった。ハムスターが虚無を嗅いでいる。毛むくの小さな旧友が浮世離れした娘に連れ去られていく。こつこつと靴音が遠くなる。外は暗く、腐乱死体が跋扈しているというのに――……

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