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第5話

◇  大型ショッピングモールに到着したはいいが、待てども負傷者はやって来ない。すでに空は暮なずんでいる。怪物の足音代わりの揺れはみしみしと近付いている。桃太郎(とうたろう)は彼と別れた方角を見つめていた。(ゆかり)はその横顔、特に角膜の透明感から目が離せなかった。ダイヤモンドのような厳かで嫌みたらしい硬さはなく、水のような不断ぶりもない。強く心惹かれた。空を映す(まなこ)に。しかしこの天涯孤独となった子供みたいなのがその目玉を失ったからといって、どれほどの価値が下がるのか。 「もう待てない」  淵明(えんめい)は広大な駐車場に(そび)える時計を見た。まったくあての外れた方角で砂煙が上がり、時には黒煙が巻き起こる。怪物が破壊活動に勤しんでいる。その巻き添えになったか、或いは車道までをも闊歩する迷惑極まりない歩行者どもに喰われたか、もしかすると肩から肘まで裂けた傷があの男をその仲間たちに変えてしまったか。あの怪我単体で死に至る感じはなかった。 「……分かった」  まだ未練があるようだったが桃太郎は汚された空から視線を切り離した。 「待ってくれてありがとな」 「気にしなくていい。桃太に合わせる」  彼等は屋外に併設された花屋にいた。駅前などにある洒落た雰囲気の、人に贈るような花卉(かき)や鉢植えなどを取り扱っているところではなく、一部は確かにそうだったけれど、主にガーデニング用品や農耕に特化している。縁はそこで手に入れた(くわ)()に腕を掛け、壁沿いに座っていた。 「あ……のさ」 「なんだ」 「もしお兄さんが……オレのお姉ちゃんのこと撃ったの、気にしてるなら…………へーきだから。あの時は、ほんとごめん。お兄さんは、オレを守ってくれただけなのに」 「妙な分別(ふんべつ)を持たなくていい」  桃太郎にはまだ微熱がある。節々も痛むだろう。 「俺を責めても(なじ)っても、俺は桃太の傍にいる。離れない。一人にする気もない」  彼は困惑している。胡座をかいて赤いレンガ敷を眺めていた。アリがいる。 「未来の雇用主を守るのは当然だ。俺は桃太が俺に対して思う以上に、パン屋志望に本気だぞ。冗談でも社交辞令でも忖度でもない」 「うん……」  顔を上げず、澄んだ目が泳いでいる。空は暗くなっていくばかりだ。遠くでは破壊活動の音がする。長く伸びた巨大怪物の腕が蚊を殺すみたいにヘリコプターを叩き払ったのが見えた。 「桃太」  呼ぶと躊躇いがちに顔を上げる。 「まだ熱がある。油断はできない。ゆっくり行こう」  シェルターまではもう少しだ。やはり発熱者には厳しい距離だが、絶望的というほとではない。健康体ならば走ればそれほどかからない。道路にはべちゃべちゃと潰れた肉片や襤褸雑巾みたいになった遺品が散乱していた。変色した体液を踏むこともある。嗅覚は風では到底流しきれない悪臭でおかしくなっていた。町中に籠っている。近くを流れている川もさらに異臭を強くする。この町にここまでの人口がいたのかと驚きがあり、そして非難できなかった者たちも多かった。  桃太郎は中腰になって息を荒げる。少し歩くスピードを速めていた。明後日の方向で破壊活動に勤しんでいた巨大な怪物が近付いてきているらしい。揺れが大きくなっている。アスファルトを叩き割り、ビルを薙ぎ倒す物音も徐々に近くなっている。桃太郎にはそのことを告げなかった。 「厳しいか」 「だいじょぶ。もう少しだもんね」  薄らと滲む汗を拭い、歩き出すかと思えば膝から崩れ落ちた。 「桃太」 「へーき。ごめん。先、行ってて……」  淵明は彼の前に背を向けて腰を下ろした。 「お兄さん……?」 「乗れ」 「へーき。ちゃんと歩く」 「無理はさせたくない」  そのとき、風の流れが微かに変わったのを肌で感じた。地響きのリズムが変わる。ずんずんずんズンズンズン揺れが大きくなる。走ってきている。 「お兄さん、行こう」  桃太郎も異変を覚ったらしい。縁は彼の腕を自身の肩に回した。シェルターを目指し、桃太郎の身体を引っ張る。だが大きな化物の歩幅もまた大きかった。暗くなった視界に巨大な岩石みたいな色濃い影が映っている。距離感がいまいち掴めない。弘原海(わだつみ)の右肩を抉った凶暴な爪が伸びてくる。縁は咄嗟に持っているものをすべて手放し、桃太郎に飛び付いた。そのまま2人、バランスを崩し汚らしく臭い道路に叩きつけられるはずだった。しかし首が折れるほどの空気抵抗を感じ、あらゆるものに焦点が合わなくなるまでに視界が大きく揺らめいた。硬いごわごわとした感触が腰と背に巻き付く。あの怪物の掌中に収まっている。2人の脚が宙を掻く。 「お兄さ……ん……」  むくりと縁の両腕の中から恐れ慄いた目が現れた。 「伏せていろ」  怪物は人間2体を握った手を振りかぶる。文字通り投げ飛ばされたのはその直後だった。ボールの投擲である。縁はより固く桃太郎を抱き締める。  身体中が破裂するような衝撃に襲われる。視界は赤く爆ぜた。ごりごりと嫌な質感は、頭部を粗い路面が削る摩擦によるものだ。首が激しく痛んだが、骨はどうにか折れていないらしい。着地した瞬間に、左肩はもう砕けているのか感覚がない。大量の汗が噴き出す。左半身はもうほとんど壊れていた。左耳の半分が削れ、眼球は破裂したのか右目しか見えないかった。 「桃太……」  呼ぶや否や、彼は生き残っている片腕で桃太郎を自身から引き剥がすと、潰れた肩の上で血反吐を吐いた。前後、左右の区別が付かない。苛烈な回転の中に放り込まれているみたいだった。 「お兄さん……!」  耳鳴りの中でかろうじて彼の声が聞こえた。水音が鼓膜の奥にある。 「1人で逃げられるか。怪我は……?」 「してない。置いてけるわけないだろ!」  桃太郎の感触はまだ手にあるけれども、姿は見えない。見えるものは緑がかったモザイクと、脳裏で白いものが掻き回されている光景だけだ。生臭さが喉元まで(かさ)を増してきている。 「逃げてくれ」  左膝も動かない。ずしん、ずしん、と怪物が近付いてきている。フック状の爪が天にある。幸いにも、巨大な化物の最優先事項は桃太郎ではないらしい。 「逃げてくれ、桃太」  鼻血が噴き出る。喋ると喉が(つか)えた。腹を叩かれたみたいに血が爆ぜた。  ぼやけた視覚と何も聞き取れない耳鳴りばかりの聴覚、腐った匂いが掻き消えるほど鉄錆びの匂いに上塗りされた嗅覚ではもう桃太郎とは行けそうにない。 「頼む……」  何も見えてはいなかったが、汗を帯びながらも乾いた手を握った。じゃりじゃりとした砂埃の感触もある。動こうとしない桃太郎に負けた。縁はむくりと起き上がる。そのまま体重を支えきれなかったのか、それとも桃太郎を庇ったのかは分からない。爪は無防備に晒された淵明の背を狙う。反射的に転がった。しかし避けきれず、脇腹が破れる。急速に寒くなった。下に敷いた桃太郎はそう優しくない。助かりそうにない淵明縁の腕を引いた。担ごうとしている。だが焦りのあまり、彼は上手いこと淵明を連れ出せない。 「お兄さん、一緒に逃げなきゃヤダ!歩いて、歩いて!」  桃太郎に乞われ、立ち上がる。破けた腹から大量の血が流れ出ている。  淵明の特徴的な亜麻色の髪が靡いた。どこからか現れたヘリコプターがスポットライトを2人に浴びせた。熱を感じる。縁のグリーンにモザイク処理された視界もぱっと明るくなる。回転式の機関砲が怪物を撃つ。耳鳴りが乱れる。鉄錆の匂いに焼け焦げたような匂いが混ざった。圧迫された空気が肌理(きめ)を叩いていく。引っ張られ、歩かされていく。強力な照明の届かない場所まで引き摺られ、それは縁の意思ではなく、桃太郎の力だった。彼は休ませることなく、淵明を引っ張った。海を泳ぐマグロである。止まることは許されない。もし歩みを止めたなら、あとは崩れ落ち、もう立ち上がることはできない。そして桃太郎のほうでも、もう立ち上がらせて支えることができないのを分かっているのだろう。それは必ずしも体力的な意味合いだけではない。  やがて怪物の咆哮が夜空に響く。耳鳴りと不穏な流水音を劈いた。聞き入って確認することはない。一心不乱に左右の足を回転させる。  シェルターが見えてきた。膝の骨はすでに限界を越え、持主の身体を支えきれない。閉ざされた門の前で、彼は右膝のみで落ちた。それだけで傷だらけの全身には、脳天を叩き割られるような衝撃が突き抜ける。激しい嘔吐がぶり返した。左右に開く門柱から降り注ぐ光芒が冷たい。 「お兄さん……」  アスファルトに塊混じりの血をぶちまけた。よくもまだ体内にこれだけの血液が残っていたものだと関心してしまう。腹からも大量に出血し、おそらく体内でもそれが起こっている。 「お兄さん」  桃太郎に抱き締められ、彼の薄汚れた服を赤く染めた。シェルターは閉まっている。不確かな情報でここまで付き合わせてしまった。 「すまない」  喉は擦り切れ、濁りを帯びてほとんど声になっていなかった。 「ありがとう、お兄さん」  右手を取られ、小物らしきものを強く握らされる。彼の姉の髪飾りだ。失血のあまり不自由になった目を桃太郎に向けた。 「お兄さん……」  彼の汗と砂埃臭い服に頬を寄せた。繊維が血を吸い込んでいく。耳鳴りとは別の、実在する音を拾う。ハイヒールの音だ。呑気に、この現状でヒールを履いている。そのリズムは生きたものだ。接近している。息を呑む声が真上で聞こえた。淵明はまだ自身が安心して眠れないことを知る。なんとかまだ耐えている片膝に力を込めて立ち上がろうとしたが、柔らかく抱き留められて叶わなかった。 「やめろよ」  桃太郎は誰かと喋っている。淵明は拳銃を向けられていた。向けているのは、背の高い女である。亜麻色の髪の、神経質そうな細い眉に気難しそうな眉間の皺と、通った鼻梁に小振りの鼻先、薄い唇等々……  桃太郎は銃を構える人物が誰かに酷似していることも分かっていない様子で、重体の怪我人を庇った。 「やめろよ!この人は……」  言いかける桃太郎の腕を、女は引き掴んで淵明から離そうとする。 「お前の役目はここまでだ、(よすが)」  銃は放っておいても明日の朝には死んでいそうな縁の頭部に当てられた。彼は無抵抗に銃口を見る。 「やだ!」  爆音が耳鳴りを跳ね除け空に響く。火薬臭さが鉄錆びと腐った匂いを突き抜けた。桃太郎は銃の照準を女の腕にしがみついて逸らした。 「何するんだよ!」  淵明をそのまま女にしたような人物は桃太郎を冷たく一瞥する。 「マスターがお待ちです」  敬語の割りにその態度は横柄で、縁によく似ていた。 「中に入っていてください」 「お兄さんは……?」 「この者は所詮捨て駒。三枝様を迎えに行くだけの兵隊です」  桃太郎は両手を広げて女と縁の間に入る。 「や、やだ。お兄さんも一緒じゃないならオレも行かない……」 「桃太。我儘を言うな。俺は大丈夫だから、行くんだ」  左目は光を失っていたが、右目は明るさと陰の動きがモザイクの中で分かった。耳鳴りは相変わらず酷く、桃太郎の声も実のところしっかり聞こえていない。 「行かない!お兄さんと一緒じゃなきゃヤダ。オレもうお兄さんしかいないのに……」 「そいつの代わりはいくらでもおります。―(よすが)、例のものは打ったのか」  縁は口の中で転がる歯が溢れ出る。唾液には血が塗混じり、地面に転がる。目を閉じた。 「S(シエラ)ワクチンなら打ってある。副反応が出ているから、しっかり休ませてやってほしい」  喋るのも一苦労だった。鼻血が逆流し、吐き捨てる力もなく口角から垂れていく。 「S(シエラ)ワクチン?お前、(よすが)ではないな」  意識が遠退き、桃太郎の腕の中で身体が傾いた。ぴぃ、ぴぃ、と肺の辺りから隙間風のようなら音がしている。 「お兄さんは、(ゆかり)……」  桃太郎が代わりに答えた。縁に瓜二つの女は考えた様子を見せ、銃を下ろす。 「お兄さんの、家族ですか……」  震えた声で彼は訊ねた。桃太郎も気付いていなかったわけではないらしい。縁を労るように抱き締め、泣きそうな顔をしている。 「いいえ」 「じゃあ……えっと……」 「どうぞ、中へ」  縁にそっくりな女は桃太郎の話を遮って門に促すものの、彼は自力ではすでに歩けなくなった淵明を立たせることに難儀していた。 「諦めちゃだめだ、お兄さん。歩かなきゃ……立って!」  叱咤を聞いても縁の身体はもう動けなかった。左半身のほとんどの骨が砕けるか折れるか傷んでおり、血を失い過ぎていた。先に行っていたハイヒールが戻ってくる。  シェルターは前衛的で近代的な外観をしていた。晴れた日は目に眩しいほどの白を基調としている。内部もそうだった。電気が通っていて食料もある。  縁は観光地のホテルみたいに清々しい内装の部屋を覗いた。今日は晴れである。町の惨状を小馬鹿にしているみたいに朗らかな雰囲気を作り出していた。シャワー室から水を叩く音がする。大きなベッドがひとつと、ソファー、そして机とセットの椅子がある。そこに、右肩から右肘に掛けて包帯を巻いて半袖シャツを着たのが座っていた。艶やかな短い黒髪に形の良い額は見覚えがある。しかし縁は気さくに手を振った男の顔を思い出すよりも早く、この状況下で大怪我をしている点に意識を奪われてしまった。感染し、発症したならば、桃太郎が食い殺されてしまう。恐ろしいことだ。淵明は見覚えのある男を取っ捕まえにかかった。 「ちょっと、お兄さん?」 「その傷はなんだ」  ふざけているだけだと思ったのか、黒髪の男は直前まで人懐こく笑っていた。 「え?ミニバンでいきなりさ―」  怪物が、バーガンディのミニバンを破壊したのだ。巨大な爪が運転席のドアを抉り取っていったではないか。縁はす……っと頭の中から何か吸い出されていくような感覚を覚えた。 「大丈夫なん?大怪我したって聞いたけど」  縁は立て続けに眩暈に似た浮遊感に陥る。 「いいや、お前ほどじゃない」  縁に痛みはない。しかし目の前男は病原菌保持者に爪で大規模に肉を削がれたのだ。淵明は包帯を睨む。 「また感染がどうって?おれ、抗体持ってんだって。シェルターの人から聞いたけど」  彼は微苦笑した。本人も戸惑っている様子である。 「どのワクチンだ」 「ワクチン?ワクチンの話なんてされなかったケド?え、何、ワクチンとかあんの?」  彼は大袈裟に目を丸くした。 「ワクチンも無しに抗体が?」 「ワクチンっておれ、小さい頃にしか打ったことないんだケド……小学校でやるやつ」  腕は痛まないのか、負傷した右手の人差し指で、左腕を刺して見せた。縁は飄々としている男から目を逸らす。シャワー室からずぶ濡れの桃太郎が現れた。 「縁さん!」  身体も拭かぬまま飛び付かれる。 「身体を冷やす」 「まだ途中……縁さんの声が聞こえたから………よかった、また会えて。よかった……」 「心配かけた。よく温まれ。きちんと身体を拭いて、冷やすな」  水滴を纏う彼を放す。うん、と頷いてシャワー室に戻る瞬間、頭痛に似た閃きが起こる。 「桃太」 「うん?」 「熱はもう下がったのか」  桃太郎はまたうん、と頷いて、中にシャワー室に入っていった。 「お兄さんてさ」  ぽりぽりと左手で後頭部を掻きながら黒髪の男は不思議そうな表情をくれた。 「なんだ」 「妹いる?」 「いない」 「ああ、そう?じゃああのシェルターのお姉さんは?」  思わず訳の分からないことをいう男に険しい顔を向けてしまう。 「俺のことよりお前の抗体だ」  彼はぎょっとした。感染がどうの、発症がどうのとまた疑われ、責め立てられ、弾かれると思ったらしい。 「ハムスターだな」  女の、しかしそれでも女にしては低めの声が割り込んだ。黒髪の男は首ごと廊下に面した窓に向けたが、縁は視線だけ向けた。淵明縁に瓜二つの女は窓を開け、その枠に両腕を掛ける。弘原海(わだつみ)(らん)とかいったのは不躾にちらちらと女と縁を見比べる。 「ハムスター……」 「"ハムチャンズ"?っていうかハムチャンズどうした?誘拐されたんだよ、お兄さんの妹みたいな子に。名前は……」  縁に酷似した女が彼の言葉を引き取った。 「(えにし)γ(ガンマ)」 「なんて?」 「エニシγ」  彼女は無愛想に答える。 「何それ」 「型番」  2人のやり取りから縁は外れた。自ら距離を取っていた。 「(えにし)、そう、その子は(えにし)って言ってたケド……お兄さんに似てたんだ。その子も。それで、お姉さんも……」  女の目が、2人から背を向け顔を逸らす縁に映った。それから弘原海に戻る。 「クローンだからな」 「嘘~ん」  それでいて藍の顔は蒼褪め、冗談とは思っていない節が窺えた。 「クローンなのか」  縁は訊ねた。驚きはなかった。どこか腑に落ちてしまった。 「あの怪物も……」 「(よすが)だ。お前が駆り出される前に、派遣された」 「な、なぁ……じゃあ、なんでその人だけ、あんなことになっちゃったの……」  藍は縁にいくらか気遣わしげだった。 「原因はまだ定かでない。あれに打ったL(リマ)ワクチンが未完成だったからだと考えられる。―お前に打ったS(シエラ)ワクチンは完成品だから心配するな」  女は藍から縁を見遣る。そしてまた藍に戻った。 「ワクチンなんかあったのかよ!」 「お前は完全に予想外の異分子だった」  女はそれだけ言って去っていく。弘原海は小さく唸った。 「どういうコトなんだ?どうしてワクチンがあったのにこんなコトになってる?」 「未完成品ばかりで、出回らなかったんじゃないか?」 「開発してるなんて報道もなく?感染が爆発的だったから……?っつーか…………なんであんな短期間に、ワクチンなんか作れたんだよ」  八つ当たりめいた強い語調が、ふと虚ろになった。そして彼は混乱を極めたのか小さく呻く。 「訳分からん。だめだ。寝る。あの子によろしく」  彼は部屋を出て行ってしまった。それから少ししてシャワーの音が止まった。桃太郎が腰なタオルを巻き、髪を拭きながら現れた。 「藍さんは?」 「寝るらしい」 「そうなんだ。縁さんはちゃんと寝れた?」  縁は適当にタオルドライをする桃太郎が許せず、傍まで寄った。タオルを奪い取り、水滴を垂らす髪を拭く。 「……寝られた」  縁は目を伏せた。 「よかった。やっと縁さん、休めるね」 「そういうふうに呼ぶのか?」  少し下にある目線をタオルの影から覗き込む。 「同い年だったんだって。シェルターのお姉さんに聞いた」  肌も唇も髪の感じも栄養状態が少し良くなっている。指の背で目元を撫でた。 「縁さん、ちょっと大人っぽいから、年上かと思った」  へへへと笑う口元に迫る。接近を分かっていながら後退りも、突っ撥ねもしない彼に甘えた。むしろ桃太郎は頬に添えられた手を取ってまだ水滴の落ちていない胸で抱いた。どくりと縁の中で温かいものが込み上げている。触れ合った指先が爛れるようだ。異様な疼きが心地良い。 「桃太」  呼んでおきながら返事も待たずに唇を塞いだ。電流が迸って四方八方へ蕩けてゆく。触れ合って、一瞬だった。それだけで縁は鈍い陶酔に浸ってしまった。円い目にきょときょと見つめられる。 「縁さん」  離れたばかりの唇に舌が這った。悪い遊びを覚えた淵明は、中に隠れていく薄紅色を追う。 「縁さ、……」  胸で握り締められた手をすり抜け、今度は彼の上から握り締める。猛烈な、解決法が他に見つからない情動に戸惑っていて、しかしそれを桃太郎に知られたくないことははっきりしていた。心臓の辺りから何かが引き裂いて、目の前の守りたくて仕方のない人をこの身体の中に引き摺り込んでしまいそうだ。  夢中で唇を吸った。混乱している。舌を捕らえて、離せなくなった。  下に引き寄せられかける。立てなくなった身体を支えた。着痩せする筋肉質でしなやかな質量と反発を感じる。 「桃太……」  手の中で蒸した彼の指が戦慄いている。唇を放した。桃太郎の瀞んだ目はすぐに縁を捉えた。 「すまない。寒かったか」 「ん……ちょっと火照ってきちゃったよ、逆に」  なかなかすぐに手放せない。抱き寄せて、腕の中に閉じ込めておきたい。 「縁さん、寂しかったの?」  揶揄の色を含んでいるのも気にしない。 「少しは」 「ありがとな、縁さん。縁さんのおかげで、ここまで来れたの。で、また、元気になってくれて嬉しい」  笑って細まる目には水の膜が輝き、濡れた髪があちこちに跳ねている。 「まだきっと色々やることあるんだろけどさ、今は、もうちょっとだけ、休みたいし、縁さんも、まだちゃんと休んでて」  タオルごと桃太郎の頭に手を回し、さらに強く抱擁した。何か大きく欠けたものを彼で補う感じがあった。

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