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第7話

 橙太郎(とうたろう)が激しく腰を振り、弘原海(わだつみ)(らん)は眉根を寄せて3度目を叩き付けた。摩擦がさらに勢いを助長する。 「気に入ったのか、橙太郎」  (ヤン)は藍の胸に倒れ込み、肩で息をしている少年じみた身体に触れた。彼はこくりと頷く。 「も………ムリっす……」  弘原海の形の良い額にも汗が照っている。 「おいで」  ヤンに促され、橙太郎は腰を上げた。 「あぅっ………」  離れる時の摩擦に彼は声を漏らす。そしてヤンのところへ行くと彼女に尻を向け、四つ這いになって(うずくま)る。獲物に狙いを定めて飛び掛かる寸前の猫を思わせた。藍もその様を見てしまった。収斂する箇所から白濁とした液体が流れ出て、コンクリート打ちの床を濡らした。ヤンはそこに指を挿し入れ、体液を掻き出している。 「弘原海」 「なんすか……」  声が嗄れていた。 「ありがとう」  得体の知れないばつの悪さがある。急速に冷えた頭が、コンクリート部屋に響く水音の正体を拒む。 「たびたび遊びに来てあげてくれ」 「いや、おれ……」 「そういう意味ではなく」  猟奇的な匂いのする薄気味悪い部屋から解放され、弘原海は自分に与えられた宿泊スペースに戻った。 ◇  ぼんやり心ここに在らずといった様子の胡散臭い男とすれ違い、(ゆかり)は眉間に皺を寄せた。よたよたと草臥(くたび)れて歩く様が、まるでこの死んだこの町の現在の住人たち染みている。顔色は赤らんでも蒼褪めてもいないが、そのふらふらした姿勢はやはり感染してはいまいか。ワクチンも打たずに抗体を保有しているなどと言っているがどこまで信じられるのだろう。シェルターの女と結託しているのでは。  弘原海の行手には桃太郎(とうたろう)の休んでいる部屋がある。淵明(えんめい)は彼の前方を塞いだ。 「おっ」  藍は縁に気付く。意識が怪しい。包帯から体液が滲んでいることにも自覚がない様子だ。血とも腐汁ともいえない。 「とうとう感染したか」 「してないって」  思い出したように弘原海はへらへらと締まりのない笑みを浮かべた。それこそ取って付けたように突如として現れた。 「傷が開いている」  指摘すると彼はぎょっとした。真っ白な繊維に淡く色が付いている。見たところシェルターに医療機器はなく、まともな処置のできる人間もいない。裁縫針で素人が縫ったのだ。彼の様子からいって痛み止めはあるようだったが果たして合法なのかも分からない。縁は自分とそっくりそのまま性別とそれによる体格差くらいの違いしかない女を信用していなかった。 「痛むのか」  自分の右腕に触れようとした彼の左手を止める。 「全然。気が付かなかった……あ、薬打ったからで、別に感染してるからじゃ……」  病質的なものとはまた違う青白さが彼の強張った頬を覆う。 「縫ってやる。来い」 「え、お兄さん……」  疑いを隠さなかったために彼は素直に警戒した。そういうときも険しさは見せず、あくまでも緩んだ顔に気遣わしげなものがある。 「桃太が驚く。そんな傷を見せたら」  斯く言う縁の左目には破裂した眼球が戻り、半分削げて千切れた左耳も再生したように回復している。頭皮を損失し失った髪もふっさりと生え、破られた脇腹にも支障はなく、骨の砕けて折れた肩や膝も後遺症は見られないどころか何事もなかったようである。奇跡の回復力だ。 「ぃ°っ」  異様な声を漏らし、ぎくりと肩を跳ねさせた弘原海に疑惑の目を向けた。町を徘徊する屍どもも声帯震わせることはできる。 「なんだ」 「桃太郎くんは、元気?」 「元気だが。何故」  やはり彼の中の抗体などというものは効き目がなく、今のうちから美味そうな生肉を狙っているのだ。鋭さの増した縁の目付きに藍はまた情けない声を出す。 「一緒にいなかったから、寝てんのかな?また熱ぶり返したんかな?って思っただけ。別に他意はないって」  弘原海はへらへらと愛想笑いを忘れない。 「来い」  縁は彼の左手を掴むと自分の寝泊まりしている部屋に連れ込んだ。間取りはどこも同じだ。 「道具あるん?」  抽斗(ひきだし)の中を見せた。絆創膏数枚に携帯用裁縫セットと包帯が2巻、市販の鎮痛剤が1シートと、そしてよくある工作用カッターナイフ。これでどうにかしろと言わんばかりだった。食料品や衣料品は充実しているように思えたが、この町の有様のなか、負傷した者がシェルターに入ることはそもそも想定されていないのかも知れない。  ラインナップを見て藍は大きく顔を顰める。 「痛み止めは効いているな?」 「ちょ、でも、怖………っ」  温順しく差し出されていた腕が引っ込む。 「貸せ」 「こ、怖いって。ムリ無理むりムリ、マジでほんと、むり!」  激しく首を横に振り、弘原海は部屋の隅まで逃げてしまう。 「それはどうやって処置されたんだ?」 「あんた等と別れた後に、どっかで寝たんだよ。ンで、起きたらこうなってた。だからどうやってここに来たのかも知らないんだ」  胡散臭そうに淵明は黒い双眸を見つめた。彼の口角は上に吊られていく。そういうところがだらしなく感じられた。 「なるほど。それで、縫わずにどうする気なんだ。今なら薬が効いているんだろう。今しかないと思うけれどもな」 「分かっ………てる…………」 「俺はお前の体内にあるとかいう抗体ってものを信じてない。いずれ、発症すると思う」  ひっ、と弘原海の顔から笑みが消えた。そこに事勿れ主義みたいな明るさは戻らない。 「おれはなんとかワクチンってやつ、打ってないもんな」  縁は頷きもしない。 「おれは避難もできなかったし、ワクチン接種にも選ばれなかった」 「そういう危険な体液を垂れ流しで振り撒かれるのは困る。桃太に打ったS(シエラ)ワクチンも絶対に感染を予防するわけでもない。外で負傷した人間が一番危険なのは変わらない」  愛嬌のあった精悍な面構えにもう愛想笑いの気配もない。 「あの姐さんに言われて、分かったんだ。お兄さんが怖いのは守るものがあるから仕方ないって。で、おれにはもうなんにもないから、身勝手で居られるんだなって」  冷ややかな目を向けていると俯いていた彼は頭を上げた。 「縫われる覚悟はできたのか」  紙製のケースから曇りひとつない針を摘みかけた。 「いや、出て行くよ。ここは守り守られる人たちが安全で暮らすべきだもんな。不安にさせて、すまん」 「そうか。ありがたい話だ。最期に縫ってやろうか」 「おれが感染させちゃうかも知れないってリスクは、お兄さんにもあるはずでしょ」  けろりと言って弘原海は部屋を出て行く。姿が消えてすぐに廊下で話し声が聞こえた。ひとつは先程の男で、もうひとつは桃太郎だ。2人のやり取りを覗くと、藍が先に気付き、彼の視線を追うように桃太郎も縁を認める。近付いて2人の間に割り込んだ。意を決した男とは反対に桃太郎は気拙(きまず)げだった。 「藍さん、出て行くんだってさ。危ないってば。考え直そうぜ。なんでだよ?そんな怪我して……」 「いきなりやるコト思い出したんだよね」 「こんなときにかよ?命投げ出してまで?そんな大切なこと?大学とか?どこもやってないだろ、こんな状況じゃ」  弘原海は愛想笑いを繕うだけで流そうとして答える様子はない。 「感染の(おそれ)があるから、出て行ってもらう」  緑が打ち明ける。藍は明後日のほうへ首を曲げ、目を逸らす。 「ここまで来て、まだそんなこと言ってんのかよ?」  桃太郎に服を引っ張られる。非難めいた眼差しに縁は睫毛を伏せる。 「出て行くことないよ、藍さん。あとはここで救助待つだけだろ?せっかくここまで来たのに、そんなのってないだろ!縁さんは、ちょっと心配性なんだ……」 「ありがとよ、心配してくれて。でもお兄さんを責めちゃダメだ。心配し過ぎが丁度良い。真っ当な不安だよ。誰も悪くない。強いて言うなら怪我したおれの自己責任。ありがとうな」  左手が桃太郎の頭に伸びかけ、淵明は弘原海を睨んだ。彼は思い直したように左腕を引っ込める。 「藍さんってなんでそうなんだよ?車の時も『おれ置いて逃げろ』とか言うし、別れたときもそうだったろ。自分が怪我したら、フツーは助けてって言うもんだろ。あんな状況でそれ言ったらマジで行かれちゃうかもって不安になるだろ。なんで藍さんて、簡単に自分のこと切り捨てられんだよ」  前のめりで近付く桃太郎はまるで喧嘩を売っているようだった。弘原海がいつ発症し、その肩や首やもしかすると鼻先に齧り付くかも分からないのに無防備だ。淵明は桃太郎を離させる。藍は苦々しく笑っていた。 「縁さん!」 「いけないよ、桃太郎くん。桃太郎くんを守ろうと必死なんだよ。ナーバスな縁さんを(わざ)わざ刺激する必要もない。色々とありがとう。引き留めてくれて嬉しかったよ。おれには何も無いと思ったケド、今、宝物になった」 「何もないなら、オレだって何もないよ!」 「そういうコトじゃないんだな。だいじょーぶ、桃太郎くんにはお兄さんが居るだろ。明るいうちに出て行きたいんだ。もしまたどこかで会えたら、声掛けてくれな」  弘原海の背中を追おうとする桃太郎を止めた。 「なんで?ここまで一緒に来たし、感染しなかったじゃん。抗体あるって、シェルターのお姉さんも言ってた……!」 「信用ならない。俺は桃太郎を守れるならそれでいい。桃太郎に害になるものは排斥(はいせき)するだけだ」  エレベーターのほうに曲がっていく弘原海の後姿が霞んで見えた。 「でもオレは、藍さんにあんなこと言って欲しくなかった。自分のことで精一杯になってもいいのにさ……でもオレはこんなこと言えんのも、縁さんが守ってくれたからなんだよな…………?」  ハイヒールの音が近付いてきている。縁は悄気(しょげ)ている目の前の人物しか見ていなかったが、彼は足音に反応する。 「仲間割れか」 「藍さんに会ったんですか」 「出て行くそうですが」  走り出そうとする桃太郎をやはり淵明縁は許さなかった。 「採肉、採毛、採血、採精、必要なものはすべて済んだ。こちらとしても用はない」 「なんだよ、その言い方!用はないってなんだよ!」  片腕で抱き竦められながらも桃太郎は女に食ってかかろうとする。彼女は自分とそっくりな縁を見ていた。 「それを言いに来たのか」  暴れる桃太郎を抱き寄せた。女の冷えた視線が彼に移るとしたら、それが気に入らない。彼女に背を向けてまで淵明縁はできるだけ桃太郎を女から離す。 「おい!縁さ、!」 「桃太に近付くな」  女の眼差しは凍てつき、今度は自分と瓜二つの男ではなく、彼に庇われた桃太郎を捉える。ハイヒールを鳴らしながら一歩一歩、焦らすようだ。意味ありげな歩調に桃太郎が怯えている。 「来るな」 「それならお前が採血しろ。次に打つのはV(ビクター)だ」  ケースを放り投げられる。上手いことキャッチした。しかしV(ビクター)ワクチンというものに引っ掛かりがない。予備知識が真っ白である。 「(えにし)φ(ファイ)の記憶にもない」  そのときに期待していた脳震盪じみた目眩がやってくる。しかし今度は質が違った。頭が痺れるようだ。(えにし)φ。その名を知っている。探り出そうと思案すると痛みを呼び起こす。 「俺の、1つ前だな?」 「1つ前?お前のコピー元だ。あの異分子を齧ったハムスターが、そいつの連れだ。因果だな」  淵明縁は一瞬、目を伏せた。頭痛はまだ尾を引いている。 「Vワクチンは打てるのか」 「結果次第では。S(シエラ)ワクチンよりも効果は跳ね上がるみたいだ。あの異分子を排他する必要は無くなるかもな」 「じゃあそれ……」  桃太郎が動く。押し留める。不信感に満ちた目を向けられる。 「副反応は?」 「報告書には70%の確率であるとあったが」 「重いのか」 「最悪の場合は意識不明だが、軽ければ多少の倦怠感で済むようだ」  桃太郎はついに縁を押しやる。 「それ打つから、藍さんを連れ戻す!」  今から追ったところでもう間に合わないだろう。縁の指は宙を掻く。その瞬間に彼は冷汗をかいた。青褪めていく。桃太郎を逃したことで次の動きに遅れる。身体が軋み重く感じられた。 「案ずることはないです」  女が桃太郎を、その物腰の割りにはぞんざいな所作で捕まえている。 「なんでだよ!藍さんは!」 「三枝様がVワクチンを打つまで、こちらで保護します」  乱雑に桃太郎を留めている彼女の目が、彼から離れ淵明をじとりと捉まえる。―そういうことでいいな。 ◇  文化センターの名残の強い事務所裏の倉庫で藍はよくあるキャスター付きの椅子に縛り上げられていた。相手が女だからと油断もあれば手加減もした。だがそうせずとも結果は同じだったのかも知れない。背凭れを巻き込んで上体に食い込む縄は非常に固く、その手のプロフェッショナルを思わせた。  やはり自分は人狼(じんろう)になるのだ。藍は目を閉じて考えていた。何もここで捕縛せずとも外に出れば文字通り野に放てるというのに何故あの女は自分を捕まえたのか。戸惑いと変貌の恐怖に長いこと瞑目もしていられない。不安と緊張と恐れ、焦燥の中にあると怒りを以ってコンプリートしなければならない。しかし怒りの矛先として適当な人物が見つからない。様々な人物の顔が浮かぶけれど、藍は一人ひとりに真っ当な理由があることで次々と候補から外していってしまった。誰もがこの状況で、自分やその親しいものを守りたいのは仕方のないことだ。根が悪人というわけではなく、悪意も害意も持ち合わせてはいなかったはずなのだ。そういう者たちに怒りを持ち合わせる自身を彼は許せなかった。また怒りも湧かなくなった。この町の者たちを受け入れられなかった外部の人間たちに対しても……  ヤンが戻ってくる。彼女は少し顔色が悪いように見えた。 「姐さん。こんなことしなくてもおれ、ここ出て行くっすよ」 「出て行かなくていい」  彼女は煙草でも吸うのかシガレットケースを弄びはじめた。鰐革の質感がある。彼は大学の友人がそういうバッグを持っていたのを思い出す。 「いやだっておれ、ちょっと自信がなくなってきたんすよ」  彼は苦笑した。そしてまたやってしまったと後悔する。自分の頭の悪さに呆れてしまった。町に放り出されたいかと言われたら、本音はシェルターに留まっていたかった。だがあの神経質で心配性の男と、実は同い年だったという高校生みたいなのを脅かしてまでかというとそうではない。 「何の自信だ」 「抗体があるとかっていう……」 「抗体があることに自信を持っているやつなんぞただの莫迦だ」  彼女はシガレットケースから煙草を1本取り出した。藍は唇に紙巻きの筒を押し込まれる。 「待っへ、おへ、タバコ吸わなひ……」 「知らん」  気の好い彼は咥えさせられた煙草を落とすこともできなかった。ライターが火を吹く。今度は膝に落としそうで火傷を恐れた彼はそのまま唇で支えておくしかなかった。  苦味がまだ鼻先で燻っている。女のしなやかな指が煙草を取り上げ、藍は咳き込んだ。 「お前にワクチンを打つ」 「はぇ?」  煙が喉の辺りに閉じ込められている気がして彼は咳払いをやめられずにいる。涙目になって彼女を見上げると、彼女も藍を冷淡に見ていた。 「三枝桃太郎仕様だからな。お前に打ってどういう反応を起こすかは分からない。実際 (よすが)は怪物になった。三枝桃太郎本人も副反応を起こしている」  藍に振られた煙草を吸いながら彼女は言った。いつからあるのか分からないガラスの灰皿に灰を(はた)き落とす。 「打つか?」 「なんでそんな……桃太郎くんって何なんすか?どっかの偉い人の息子さんとかっすか?」 「ワタシたちの原本、つまり元の人間が……惚れた。オアシス計画というんだ。彼と自分とそのコピーたちだけの世界」  藍は壮大な話に、否、あまりに突飛な話に首を捻った。 「おれ、頭良くないんで、全然違ったらごめんなさいなんすケド、あの人狼病って……」 「人為的に引き起こされた。すべては三枝桃太郎のために。ワタシもあの男も(よすが)も、お前を追っていった(えにし)もそのために作られた。あそこにいる橙太郎もな」  意味不明で支離滅裂な夢をみているようだ。しかし言葉の意味は繋がる。あのおかしな奇病が故意的に起きたものとは考えられない。考えたくない。実はすべて盛大な作り話ではないのかと思い始めてきた。最近、有名な動画サイトに蔓延る、再生数のためならば手段も選ばない悪質な実写動画クリエイターもいる。あまりその方向に明るくない弘原海もそれくらいのことは知っていた。友人たちの話題にも挙がれば、悪い意味での比喩にも使われる。 「いずれ分かるさ。お前に頼みがある」 「なんすか……」 「ワタシはお前にワクチンを打つ。お前はそこにいる橙太郎を連れて……………逃げろ。どこへでも」  一瞬彼女は言葉を詰まらせた。 「姐さんは?まだやることあるんすか」 「ワタシはもう長くない。あの男も近いうちに終わるだろう。お前に今ワクチンを打って、副反応が治まる頃まで動いていられるか分からん」  彼女は注射器を組み立てはじめた。 「ちょっと待って!」 「ただの善意でお前を引き留めたと思うな」 「分かった!分かんないすケド……あの地下の子は?あの子はどうなるんすか」 「そこまで長くは生きないだろう。ワクチンの治験用に作られた子だ。本物と違って身体もそう丈夫じゃない」  女の唇から紫煙が漏れ出た。 「話は終わりだ。明日には高熱が出るかも知れないが悪く思うな」  よくあるマーカーペンのピンク色みたいな毒々しい液体の入った注射器に藍は目を見張った。縄が緩められ、左腕に刺されたようだが痛みはほぼなかった。ヤンが目の前に来て接種が終わったことを知るが、1分もかからなかったように思う。 「姐さん……おれ、シェルターにいていいんすか」 「抗体があると証明された時点で、ここに居ようと居まいと懸念事項じゃなかった。お前は本当は誰よりも優先的に避難バスに乗れていたはずなのに残念だったな」 「今ここで生きてるし、まぁ……いいかな」 「橙太郎を頼む。それだけは忘れないでくれ。それから、ワクチンを打ったことは言うな。あの男と争いになる。生まれつきの殺人部隊だ。お前じゃ敵わん」  緩んだ縄が解かれ、ついでに包帯も取り替えられた。傷は生々しく開きかけてまた閉じたようだ。痕は残るだろう。  新しく割り当てられたのは1階奥の座敷の部屋だった。元は文化センターだけあって、花道や茶道の教室や囲碁・将棋の教室などに使われていたのかも知れない。ヤンがそこに布団を敷く。 「橙太郎を寄越すから、何かあったら言え」  藍はどきりとした。あの子供が苦手だ。同い年とは思えない。まだ中学生くらいに見えた。そういう相手の肉体を暴いてしまった自分の欲望と向き合えない。布団の上で座っているうちに橙太郎がやって来る。首輪が付いているのがどこかやはり猟奇的で直視するには苦しさがある。彼はひょこひょこと藍の傍に来て甘えた。髪が濡れ、ボディソープの匂いがする。服も着替えてあった。 「お兄ちゃん」  彼は無邪気に藍の唇を啄んだ。感染、感染疑惑、発症という言葉を散々浴びせられた身は、瞬間的にぎょっとした。 「いけないよ、こんなことしちゃ。いけない」  藍の下肢を跨ぎ、彼の股に手をついて、首を伸ばす橙太郎を宥める。切断されたらしき手のない腕が藍の豊満な胸筋を摩ると、そのままそこをベッド代わりにして頭を寄せた。顔立ちこそ桃太郎と瓜二つだが、弘原海からするとヤンと猜疑心の強い心配性のあの男ほどは似ていると思えなかった。雰囲気によるものなのかも知れない。  彼の祖母の家の人懐こく自由奔放な八割れの猫を思い出した。桃太郎は犬のようであるが、この中学生みたいなのは猫に似ている。少し重いけれども支えられないほどではなかった。横になるかこのままでいるか考えているうちに一度引き返したヤンが戻ってくる。彼女は水のペットボトルと簡素な食事を枕元に置く。 「体調はどうだ」 「何ともないっす。意外と何にもなかったりするんじゃないすか」  彼女は訊くだけ訊いて、聞いているのか分からない。藍の上半身をベッドにする橙太郎を見ていた。 「クローンでもこのザマだ」  彼女は橙太郎の顔を顎でしゃくる。真下にある寝顔にはケロイドがある。 「手もすぐに腐って、切り落とした」 「マジすか」 「脅したわけじゃない。お前に打ったものはそれなりに保証がある。幾人もの橙太郎が死んだがな。ワタシは三枝桃太郎を殺害するのが決着のように思う」  彼女の呟きに藍は同意しなかった。

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