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第十七章 静と死④
この日、彼は、夜になる手前――赤い夕焼けが青く染まり始める頃、男の家にやってきた。いつもはぴったりと閉じているはずの部屋の扉が、何故かこのときは開いていた。部屋に足を一歩踏み入れると、つん、といやな匂いが彼の鼻を刺激した。彼は、この臭いを知っていた。タイヤの下敷きになった母親からも、これと同じ臭いがしたからだ。
和室に、男がいた。男は、床に倒れ、赤い液体が、その頭と腹から大量に流れていた。男の手には、黒く光るものが握られていた。彼は、その禍々しい黒い物体を、生まれて初めて、見た。男の身体は、ぴくりとも、動かなかった。
――いつか見たことのある光景が、彼の脳裏によぎった。
彼は、男の身体に寄り添うように、四肢を丸めて、座り込んだ。そして、ゆっくりと、目を閉じた。男が目を覚ますまで、このまま眠っていよう、と思った。彼の黒い尻尾が、ゆらゆらと揺れ、その痛々しい傷跡を癒すかのように、男の赤黒く染まった腹を、やさしく撫でた。初めて出会ったとき、自分を看病してくれたとき、この部屋で過ごしたいくつもの時間、男が、いつも彼にそうしてくれたように――
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