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01.
「阿澄 〜、この後俺らと遊びに行かねぇ?」
大学の講義を終えた後、背後から声が掛かる。振り返れば男女5人が騒いでいた。声の主はたまにつるむ程度の男で、彼について行くとろくでもない事になるというのは、過去の経験上知っていた。
「俺はいいや」
誘いをかけられた阿澄織 は短くそれだけ返して講義室を後にした。背後から残念そうな声を聞くのはもう何度目だろうか。阿澄は幾度となく誘いを断り続けているが、彼らに諦める気はないようだった。けれど別に面倒だから、という理由で誘いを断っているのではなく、ちゃんと用事があるからなのである。
ここ一週間、レポートに追われていてまともに睡眠さえ取れていない。当然ながら趣味や娯楽に浸る時間もなく、心身ともに疲れ切っていた。
阿澄には、少なくとも先程の彼らには隠しておきたい秘密があった。多ければ毎日、少なければ週に三度は顔を出している行きつけのバーがある。このバーには十八の頃から通っていて、マスターとはかなり信頼を置いている仲だ。当時年齢を偽って忍び込んでいたが、今ではマスターだけその事実を知っている。
所謂普通のバーとは違って、どんなセクシュアリティの人でも大歓迎な、性別のアイデンティティーを超えて楽しめる場所だった。阿澄は物心付いた頃から自分は同性愛者だという自覚があった。親にでさえ隠して、なるべく人との距離を置いて生きてきた。精神が擦り減っていく毎日を過ごして行く中で、ここでの時間は唯一の癒しだった。
大学から三駅過ぎて、大通りを抜けた路地。そこは所謂穴場のバーだった。店内は落ち着いたジャズが流れており、ほんのり温かい照明と賑わう酒の席。加えて清潔感も漂う上品なバーだ。
「あら!しーちゃん久しぶり!」
「久しぶり、カエデさん」
店に入るや否や、このバーのマスターであるカエデに抱き着かれる。
「最近見なかったから心配してたのよ〜!会いたかったわ!あぁ〜今日も綺麗で可愛い♡」
頬擦りをされてまるで猫を撫でるかのように頬や頭を撫でられる。けれどそれが嫌ではない阿澄はされるがまま、彼が落ち着くまで動かないでいる事にした。緩く巻かれた胸元までの長い髪を横に流した彼は、この上なく嬉しそうに微笑んで最後の仕上げと阿澄の頬にキスを送った。
阿澄にとって彼はもはや家族のような存在であり、親よりも理解してくれる、阿澄にとって良き理解者だった。ただそれ以上でもそれ以下でもなく、二人の間に恋愛感情などはない。
「さあ座って。いつもので良いわよね?」
「うん、ありがとう」
いつも通りカウンター席に案内され腰を下ろす。酒はあまり得意ではないけれど、カエデが特別に作ってくれるカクテルは度数もそれほど高くなく、フルーティーで酒特有に苦味も全く感じない。気持ちよく酔えるこれが好きだった。
「凄い疲れた顔してる」
「課題とバイトで最近忙しくて」
「あまり詰め込み過ぎちゃダメよ。休める時はちゃんと休まないと」
「大丈夫だよ。ここに来る事が俺の癒しだから」
「おまたせ」と差し出された鮮やかなオレンジ色のカクテルに口を付ける。甘酸っぱくてすっきりとした味わいだ。
「隣、いいかな?」
暫くカエデと二人で談笑を続けていると、不意に声が掛かる。視線を上げると、この場に似合わない上質なスーツ姿の男が立っていた。場の空気を読んだカエデは、軽く頭を下げて別の客の所へ移動してしまう。
「………はい、どうぞ」
阿澄がほんの一瞬躊躇ったのには明確な訳があった。垂れ目が印象的な甘いルックスで、爽やかな笑みを浮かべる彼はやけに魅力的で、端的に言うとタイプだった。ばっ、と顔を逸らしてそれだけ返すと彼はゆっくり隣に腰を下ろした。フゼアがふわりと香って、妙に距離を詰められたような気がした。
「若そうに見えるけど、いくつ?」
「…21です」
「本当に若いね。俺は橘颯汰 。良かったら君の名前も知りたいな」
なるべく目を合わせないように正面を向いていたが、橘と名乗った男は阿澄の顔を覗き込むようにして目線を合わせている。グラスに口を付ける瞬間でさえ視線を常に感じてなんだか気が引けた。
「阿澄織です」
「なる程、凄く綺麗な名前だ。君に似合って美しい」
「…そんな事、初めて言われました」
彼の唇から溢れるそれは落ち着いた耳に心地良い低音で妙に胸が高鳴った。初対面だと言うのに、初めての感覚だった。あからさまな口説き文句にでさえ不覚にもときめいているようで、しっとりとした空気に息を飲んだ。
「君はここによく来るの?」
「はい。貴方は…見ない顔ですね」
「ああ、初めて来たんだ。でもここは…こういうのもアリなんだろう?」
するり、とカウンターに置いていた手に彼の一回り大きな手が重ねられる。男らしい無骨な手だったが、指が長く綺麗な手だった。
確かにこのバーには、一晩限りの相手を求めて来る客も少なくはない。阿澄自身も実際に何度か経験はあるが、ここ三ヶ月はご無沙汰だった。というのも、いい加減こういうふしだらな行為を改めようという、阿澄なりの決意だった。
「君さえ良ければなんだけど、今夜一緒に過ごしたい」
まともな恋愛経験は一握り程度。自分には真面目な恋愛なんて向いていないと思っていたし、だからこそ中途半端な行為を続けてきた。この誘いが今までと同じような“そういう意味”での誘いだなんて事理解していたが、思わず即答してしまいそうな程に彼は魅力的だった。
熱い手を妙に意識してしまう。指を撫でるように絡められると肩が揺れてしまって、頬がじんわりと赤らんだ。助けを求めるようにちらりとカエデへ視線を送れば、ばっちりとウィンクが返ってくる。
「自分でも驚いているけど、君を一目見た時から凄く惹かれているみたいなんだ」
「……いつもそうやって口説いてるんですか?」
「気を悪くさせちゃったかな、誤解だよ。こんなわかりやすい口説き文句使っちゃうくらい、君に夢中なんだ」
これが本心なのか、そうでないかなんてどうでもいいと思ってしまいそうだ。ただどうしてか、この機会を逃したらもう二度と会えないような気がして、小さく深呼吸をした。
「…わかりました。いいですよ」
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