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09.
体が怠い。随分長い間眠っていた気がする。心地良いシーツの感触にもう一眠り、と寝返りを打った。ぼんやりと歪む視界の中に映る、揺れる柔らかい髪は凄く見覚えがある。
「おはよう。体、大丈夫…じゃないよね」
無理させちゃってごめんね。と申し訳なさそうに眉を下げる彼は子犬のようで可愛らしい。彼の言う通り正直全く大丈夫ではないし、きっと足腰に力が入らなくて暫くは立てないだろう。今日は講義があったのにこれじゃあ行けないな、なんて諦めて息を吐いた。
「…おはようございます」
「軽く作ったけど、食欲はあるかな?ああ、先に水飲んで。それから朝食を持って来るから」
「あ、ありがとうございます」
未開封のミネラルウォーターを手渡されて彼はリビングへと姿を消した。確かに声が枯れている。喉を潤してから上体を起こすと、想像以上の激痛が腰を襲った。記憶は曖昧だが、昨日は気を失った後彼が二回イクまで付き合わされたのだ。
壁に掛かっていた時計に目をやると、午前十時を指していた。この時間までいるという事は、彼は休みなのだろうか。
「これ…橘さんが作ったんですか?」
「ああ、簡単なものだけど」
レタスに卵、それからベーコンにトマト。程よく焼けたパンに挟まれた具は彩りも良く、バターの香ばしい香りが鼻腔を擽った。温かいコーンスープとコーヒー。朝食を疎かにする事が多い俺にとっては充分過ぎるものだった。
「……美味しいです!とっても」
「口に合ったみたいでよかった」
嬉しそうに微笑んだ彼は、湯気が立つマグカップを片手に広いベッドの端に腰掛けた。薄く開いたカーテンの隙間から差し込む朝日が彼の色素の薄い髪を明るく照らして、ただそんな光景でさえ目を奪われる。何をしていても、凄く絵になる人だなと思った。
「ふふ、……口に付いてるよ」
そっと口の端を彼の親指が撫でる。それから彼が指に付いたそれを舐めとるまで、スローモーションのように見えた。触れた体温で昨晩熱く絡み合った記憶がまざまざと思い起こされるようで、火が付いたように一瞬で顔が熱くなった。名前を呼び合って、何度も濃厚なキスをして、彼の熱くて硬いそれを何度も何度も深く受け入れて。
「…ぁ、りがとう…ございます」
「真っ赤になっちゃって、可愛いなあ。昨日も俺に付き合わせちゃったけど、後半の君は甘えてきてくれて凄く可愛かったよ」
「っ、!?」
サラサラと大きな手が俺の頭を撫でる。後半と言うと、そんな記憶は全くない。目が覚めると愛しい人が傍にいて、美味しい朝食で持て成してくれる。まるで新婚みたいだな、なんて自惚れてしまう自分がいた。
「…橘さんって、意外と意地悪なんですね」
「ごめんね?織 が可愛くて、つい。でも俺は、織の色んな表情を見れて嬉しいよ」
不意に名前で呼ばれて、心臓が跳ねる。頭から頬へと流れた彼の熱い手が、愛おしむように撫でるものだから、目を閉じて猫のように擦り寄った。こうしてお互いの体温を分け合う事は幸せなんだと、初めて知った。
「ああ、そう言えば。カエデさんから聞いたんだけど、織はこの近くの大学に通ってるんだよね?」
「え、…はい」
大きな窓の外に見える景色には、妙に見覚えがある。確かに目を凝らせば通っている大学が見えそうだった。
「いずれ渡すつもりだったけど、それなら都合がいいね。ここから行く方が便利だろうし、織さえ良ければいつでも来てくれると嬉しい。それとも、いっそここに住む?」
「へっ…」
「冗談だよ。もっとちゃんと、お互いの事を深く知ってからがいいよね。……体の方は良く知ってるけど」
すっと縮まる距離に、手に持っていたコーンスープが波打った。鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、鼈甲色の瞳が意地悪く細められる。
「〜〜ッ」
こんな悪そうな表情でさえかっこよくて、胸が高鳴る自分は重症だと思う。やっぱりこの人は意地悪だ。
「意外とすぐ赤くなるよね。織は見ていて飽きないな」
いつもとは違うラフな部屋着姿の彼は、普段窮屈そうにネクタイをきっちり締めている人だとは思えなかった。ああそれと、と彼は続ける。
「抱いてる時に思うんだけど、織はもう少し肉を付けた方がいい。それ、ちゃんと全部食べるんだよ。離れ難いけど、俺は部屋で仕事してくるから。何かあったら遠慮なく言って」
「…はい、ありがとうございます」
柔らかく微笑んだ後、すっと離れていく手に少し寂しさを感じて。この人が好きだ。
優しい彼の事だから、俺を一人にして会社には行けなかったのだろう。温かいコーンスープがじんわりと体に沁みていく。幸せ過ぎて罰が当たりそうだ。
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