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第19話 6月4日 10:00 揺れる現状維持
3ヶ月前の響が俺たちが恋人になった経緯をはっきり俺に告げなかった理由を、今になって理解できた。
朝、先に気が付いたのは響の方だったらしい。
シャワーを浴びた後、そのまま俺が起きるまでベッドの傍らで待っていてくれた。
「――本当に、すみませんでした」
「……本当に、悪かった」
起きたと同時に俺たちの間で交わされたのは、謝罪の言葉だった。
「俺が一方的に文さんに八つ当たりした挙句、無理矢理襲ってしまって……」
「そんなつもりは無かったんだ。いや、もしかしたらあったのかもしれない。けど、俺は――」
頭を下げお互い口々に言い合ってから、はっと顔を上げる。
「――え?」
「――えっ?」
響の綺麗な瞳には、俺が映っていた。
寝乱れ、呆然とした表情で彼を見つめる俺の顔。
おそらく俺の瞳にも同じ響の顔が映っていたんだろう。
「……響、」
最初に口を開いたのは、俺だった。
何か言わなければ。
今この時も、きっと大きなターニングポイント。
ここでしっかり気持ちを言葉にして響に伝えないと、最悪の未来に繋がってしまうかもしれない!
「――いえ、俺に謝らせてください」
けれども言葉を引き継いだのは響の方だった。
「先日、先輩の気持ちを聞いて驚いたのですが――何故か、とても自然にその気持ちを受け止めることができたんです。まるで、こうなることが当然だったかのように……」
俺の気持ち?
そういえば、響は昨日もそんな事を言ってたような気がする。
俺はいつ、何を響に伝えたっていうんだろう。
「ですが先輩はどうやらそれを覚えていないようですし……その後も他の相手――日辻先輩たちとよく話すようになって」
それは、未来の響のためにも公演を成功させたかったから。
「一度気になってしまったら、それ以降どんどんひっかかりが増えていって……事故に遭ったという大切な人や日辻先輩に、正直嫉妬していたようで……」
「響……」
目の前にいる相手の言葉を、ただただ驚いたまま聞いていた。
こいつが、俺のことを気にしてくれた?
嫉妬をしてくれた?
まるで、3ヶ月後の響のように――
「先輩……」
「いや、その……よかったら、名前で呼んでくれ」
俺はなんとか言葉を絞り出す。
「女性っぽい名前だから正直あまり好きじゃなかったんだけど……お前になら、呼ばれたい」
「先輩……文さん」
響は目を見開いてじっと俺を見つめる。
きっと俺もさっきまで同じような表情をしていたのだろう。
「ごめん、俺は……確かにお前に何を言ったのか覚えてない」
響の顔が失意に歪む。
それを見ているのは酷く胸が痛むから、俺は急いで次の言葉を続ける。
「だから……改めて言わせて欲しい」
これが正解なのかどうかは分からない。
けれども、きっと伝えなければいけない言葉。
「俺は、響のことが……好きだ。お前の……未来の役に立ちたいし、守りたい」
絶対の真実を、俺は宣言する。
響はじっと俺を見つめ――ほうと小さく息を吐いた。
「あの時と同じですね」
「え、なに、が……」
俺の疑問には答えず、響はそっと俺を抱き締めた。
「――俺も、文さんと全く同じ気持ちです」
「あ……」
響の腕の温もりが、その言葉が、俺の全身を駆け巡る。
同じだ。
3ヶ月後の響と全く同じ。
これで、全て上手くいったのか?
いや、あとはもっと……俺と響の仲を深めなければいけない……
「ところで、文さん……」
頭の中で必死に思いを巡らせる俺に、響は少し声の調子を変えて問いかける。
「結局……その、どうなんでしょう?」
「え、な、何が?」
どこか心配そうな戸惑った口調につられ、俺も言葉が揺れる。
「……文さんは、今までこういった……男に抱かれた経験があったのでしょうか?」
「い……いや、ないよ!」
意外な部分を蒸し返され、俺は慌てて首を振る。
「その……響とが、初めてで……」
それは、間違いない。
色々ややこしい経験ではあったが、記憶の上でも、身体の上でも、響が初めてだ。
「そうなんですか……」
響は少しほっとしたように、しかし確認するように言葉を続ける。
「確かに、身体の反応は初々しかったようですが、初めてとは思えない程哭いて声をあげていましたし――」
「い、いやお前何冷静に思い出してるんだ!」
響の言葉につい昨日の痴態を思い出し全身が熱くなる。
「安心してください。この部屋は防音なので声は漏れません」
「そうじゃなくて!」
「……試してみますか?」
「あ……」
俺はまだ、響の腕の中にいた。
響はその言葉が嘘ではないと言うように、両腕に力を籠める。
「お、お前こそ……どうなんだよ!」
俺は夢中で響に言い返す。
「どうなんだ、と言いますと……」
「妙に男との経験に慣れてるようだったし……お前だって、他の誰かと……」
思わず言った自分の言葉にずきりと胸が痛んだ。
けれども響はすぐにそれを否定する。
「――俺も、文さんが初めてです」
「あ、そ、そう、か……」
「試してみます?」
「試して……分かるのかよ!」
一瞬の緊張後の緩和に緩んだ俺の身体に、響の腕が絡みつく。
「文さん……愛しています。何度でも……文さんは、俺が守ります……」
「あ、響……」
俺の抵抗する力は響の言葉に完全に削がれ、そのまま二人で再びベッドに沈み込むことになった。
それ以降、俺たちの生活には僅かな変化があった。
響は大学に通いながら劇団の練習に参加する。
俺は家事をしながら響に付き合って劇団に顔を出す。
日辻は俺の参加自体は特に気にしていないようだったが、練習に口出しすると毎回酷く不機嫌になった。
しかし俺は諦めなかった。
選択材料のひとつとしてしつこく場面場面のイメージを書いて日辻に渡していく。
ほとんどが破棄されてしまったが、そのうちのいくつかは日辻の手元に残ったままになっていることを俺は知っている。
そして家に帰って俺が夕食を作り、二人で食べる。
大きく違っていたのは、そのまま二人で響の部屋に向かうこと。
響と俺はそのままひとつのベッドで毎晩のように愛し合った。
そう、俺たちは恋人同士になった。
何度も何度も愛し合った。
芝居も、順調に完成していった。
全てが、順調に進んでいるように思えた。
――表に見える部分だけは。
愛し合いながら、言葉を交わし合いながら、俺はふと不安に思うことがあった。
響は、どうして俺を選んだんだろう。
それは、3ヶ月後にも思った疑問。
あの時、響はこう言った。
(文さんは……俺が本当に望んでいたものをくれたから)
俺は響にそれを渡すことができたんだろうか?
聞きたいと思ったこともある。
けれども、もし逆に聞き返されたら……
俺はどう答えればいいんだろう。
たしかに響は外見も内面も良く、まるで本当の王子かと錯覚してしまうほど素晴しい男性だ。
……といっても、一緒にいる間にそのメッキはかなり剥がれてきたのだけれども。
だけど、その少しだらしない所も金銭感覚も愛おしいと思ってしまうのだから、俺もかなり重症だ。
でも、一番肝心なことを俺は響に説明できない。
3ヶ月後の、俺の脚本を信じてひたむきに頑張ってきたその姿。
崩れた目玉焼き。
どう説明したらいいんだろう。
未来のお前が愛しくて、だからそれに繋がる今のお前が好きなのだと。
それを伝える術を持たなくて、そして響の本当の気持ちも分からなくて。
愛し合っている幸福の絶頂でも、ふと心許なさに惑う。
不安の種はもう一つあった。
それは、今完成しつつある公演。
芝居自体の出来は俺がイメージした通りの素晴らしいものになっていた。
けれども、公演の告知がなされ前売りがスタートしたが、その売上は思わしくないらしかった。
劇団員たちは課されたノルマに日々暗い顔をしていたし、日辻も関係者への連絡が多くなっていた。
実際に、響自身からも売上については聞いていた。
「――ですが、まだ当日券があります」
響は励ますように言ったが、俺は知っていた。
その前売りもあまり捌けず、会場には空席ができてしまうことを。
「何か……あ、いや……」
何か対処を考えた方がいい。
そう言いかけ、俺は慌てて出かかった言葉を止めた。
3ヶ月後の俺と響が接近した切っ掛け。
それは、公演の評判が思わしくなく、客の入りが少なかったことが大きな要因だったのではないだろうか。
だったら……客の入りが少ないのは、必要な要素?
だとしたら、このままチケットの売れ行きは少ないままでいるべきじゃないのだろうか……
「どうしよう……」
分からない。
劇団員としての響のためを思うなら、チケットは売れた方がいいだろう。
けれど3ヶ月後の響の行く末を考えるなら、今のままでいくべきか。
いや、そもそも単純にチケットの売り上げを増やす術を、俺は知らない。
だったら、現状維持しか道はないか……
響の持つ前売り券を眺めながら、俺はそう結論付けた。
そうこうしている間にも、時は飛ぶように過ぎていった。
響は日々俺を求め、俺も時間を惜しむように響を受け入れた。
そして、運命の日がやって来た。
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