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第1話

 もう既に厚手のコートが必要だ。首筋に伝う水滴の不快さに身を震わせ、雨に打たれて不服げに湿ったコートのポケットをに手を突っ込んで歩き始める。  夜もだいぶ更けてからの呼び出しに、グラスに並々と残ったヴォッカすらおいて飛び出してきたのはつい30分ほど前。俺みたいな三流タブロイド紙の記者に声をかけようなんていう人間は、この広大な国を探したってこの人か、宇宙人やら電磁波の陰謀論者かしかいない。   そのまともな方の稀有な一人、「ツァーリ」とは大学時代からの付き合いだ。俺の仕事は、彼の「アンオフィシャルだが、極めて重要な」情報を、人口に膾炙させること。その他のくだらない噂話を、まことしやかに紙面に載せるのもたのしいが、自分が流布させた噂に人間が踊らされているのを見るのは楽しい。ましてや俺の勤務先は、芸能人のスキャンダルばかり追うタブロイド紙だ。人は信じないかもしれないが、噂を流すのにはうってつけだ。  下品と言われればそれまでだが、この仕事は天職だ。  アプリが震えて、タクシーがついたことがわかる。手土産の一つも持っていないが、彼のところに行けばびっくりするほどお高い酒が待っているはずだ。ではなければ、俺があれだけ残った酒を置いてこれるはずがない。  今日はどんな美味しいネタをくれるのか、楽しみでたまらない。彼からのメッセージは「新しい猫を飼った」。そんなことで人を呼ぶ人間ではないから、何か楽しいことが待ち受けているのであろう。  ぶっきらぼうな運転手に軽く礼を言い、タクシーを降りる。ただの閑静な住宅街の1ブロック先に、今日招かれた家がある。何度も来ている道なので、迷うことなく向かう。  控えめな玄関の光が俺を待っていたことを告げてくれる。2度ノック、1拍空けてもう2回。キョロキョロと見回して、カメラの位置を確認して帽子をあげて見せる。機械的にロックが開く音がして、誰もいないのにドアが開いた。  入り口でターポチキに足をつっこみ、コートを脱いでから手に抱えて奥へと入る。しんと静まった部屋も、ガチャリと奥の施錠が解除された音に導かれるように進めば、一気に温かな空間に足を踏み入れることになる。背後でドアが閉まる音がすると、コートを受け取りに来た青年から微かにため息が漏れた。 「コート、お預かり致します」  控えめに掛けられた声に、コートを差し出してから少し固まった。とても美しい栗色の髪が、蝋燭の光をチラチラと反射して光り輝いている。薄いヘーゼルの瞳に長いまつ毛が影を落とし、綺麗にアイロンがかけられたシャツにサスペンダーが引っ掛けられている。 「きみは?」  不躾な質問を捻り出して、なんの良心の呵責もなく、彼を上から下まで舐めるように見つめる。タブロイド紙などで働いていれば、自然と身につく史上最低な態度だ。  なにせ、16.17ぐらいのいい年の美青年が、まるで7歳が着るようなショートパンツとサスペンダー、白いソックスを纏わされているのだ。すらりとのぞいた足には筋肉が美しくついており、ある意味卑猥に似合っている。それは彼の主人の趣味であろうが……、だいぶ窮屈そうにしている。  それに、事もあろうか、彼の後ろでは本物そっくりな尻尾が揺れてチラチラと視界に入る。  今日呼び出された理由があまりにも背徳的で、俺は笑い出しそうになるのを必死で堪えて彼の返事を待つ。 「ぼくは、」  ただでさえ上気していた白い肌が、かあっと赤く染まる。きっと答えねばならぬものがあるのに、彼の舌はどうやら張り付いたままらしい。 「お客様の問いにも答えられないのか?」    哀れな獣は冷たい声にぞくりと背筋を震わせ、膝が戦慄く。なんとか膝に手をついて、倒れ込むのを我慢しようとしている。腰が不自然にびくびくと動き、肩で大きく息をしながらぼそりとつぶやく。当然だが、俺に彼の声は聞こえない。  「なに?悪いんだけど、聞こえなかった」  今度はぎゅっと俺のコートを握りしめて、絶え入るような声で、俺を見て言う。 「ぼくは、ご主人様の猫です」  潤んだ瞳から、ついにまつ毛を濡らして綺麗な雫が伝う。不自然に腰を引いたまま、彼はギクシャクとしながら俺のコートをハンガーに掛けるために歩いていく。可愛い尻尾が彼に合わせてゆらゆらと動く。  その後ろ姿を眺めながら、俺はようやく今日俺を呼び出した男に話しかけた。 「久しぶりだな、元気にしていたか?」  ツァーリ、と彼を学生時代のあだ名で呼ぶと、片眉だけをぐいっと上げて答えてくれる。   「随分と可愛らしい猫を手に入れたじゃないか。従順で」 「従順になったのさ。覚えは悪いが、見目はいい。親によく似て頭もいい」 「おまえの辣腕にかかれば、誰だって従順になるさ。それにしても賢さだけは手に入らないからな。それは大いに感謝すべきだ」  欲しかった酒が入ったグラスが手渡される。あの場末の酔えれば良いだけのものとは違って、香り高く、うまそうだ。  差し出されたものを、わざと手に触れるように受け取ると、ぎりぎりと歯噛みして怖気を噛み殺そうと必死な様子もいじらしい。  チェイサーも、などと柄にもないことを言って、彼を動かすのは楽しい。恨めしそうな目をしながら、もつれる足を引きずって、なんとか俺の要求に答えてくれる。  息を整えることもできずに、がくりと主人の横に膝をついた可愛い猫は、すっかりと出来上がっている。股間が窮屈そうに張り詰めているが、しっかりと躾けられた彼はそれを隠すことも許されていないらしい。  膝を緩く開き、両手は膝の上に置いて主人の傍に侍る。問いには目を合わせて答え、嘘偽りは許されない。全てを主人に委ねて、飼い猫というより犬のように躾けられている。 「どこで手に入れたんだ?こんなに毛並みが良さそうなのは野良じゃないだろ」 「見てみろ、見覚えないか?」  ぐいっと顎を引き上げて猫の顔をこちらに向ける。伏せられた瞼を咎めるように、顎を掴む手に力が入ると、子猫は顔を真っ赤にしてこちらを見つめた。 「ああ!イヴァンの息子か?……たしか、名前は……なんだったかな」 「アレグ。彼の父は、強盗殺人で亡くなってしまったから、私が引き取ったんだ」 「強盗殺人、ねえ……」  子猫は今度は顔を青くして小さく震える。青くなったり赤くなったり忙しいことだ。  「イヴァンはおまえの政策に反対していたな。で、なぜか家に強盗が入って殺されたんだよな」 「強盗は酷い奴でな、イヴァンの前でこの可愛い子を凌辱してから殺したらしいんだ。この可愛い子を」  ぎゅっと瞼が閉じられる。屈辱と、血の匂いが彼の記憶を呼び起こしているのであろう。  かわいそうに、まだ二十歳にもなっていないだろうに、この世の煮凝りを全身で喰らわされたんだ。 「だから私が保護したんだ。もちろん下手人は逮捕されたが、またいつ襲われるかわからない。加えて彼の成績は極めていい。なのに父親の庇護を失っては、どうなることかわからないだろう?それに、母と弟の面倒も見ないとならないしな」 「おまえのやり方は本当に悪人だな」 「慈善家と言え」  家財を盗まれ、家に火を放たれて、主人を殺された一家に手を差し伸べたのは、政敵だった男だ。自分が出世して補佐官となるなら、それまで家族に掛かる全ての生活・教育費を免除してくれるのだと、訝しむ母親を説得したのがこの子猫らしい。 「選択に後悔はない?」 「は、い……、ございません」 「ご主人様に拾われてよかったな」 「はい、ぼくには身に余るご高配を頂いて、おります」  薄いヘーゼルの瞳は怒りで燃えている。震える手は、怒りなのかそれとも、絶え間なく羽音を響かせる玩具の刺激を耐えるためなのだろうか。  気まぐれなツァーリの手が、首筋を本物の猫を撫でるように撫でると、彼の瞳はどろりと欲に溶ける。膝立ちで待機していた姿勢が保てなくなり、ペタリと床にへたり込む。体が柔らかいのはこの場合とても良いことだ。顎を辛うじて主人の掌に載せたまま、へたり込んだせいで余計に食い込む玩具に体を震わせる。

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