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10. 願い
大澤さんは、毎年同じ神社に初詣に行くという。年が明ける前から、叶も一緒に、と言われていたが、正月休みも仕事が始まってからもタイミングが合わず、やっと二人で出かけられたのは、一月も終わる頃だった。
カーナビで、神社の近くに兄貴が通っていた高校があるのがわかって、俺は車の中で正月に実家に帰った時の話をした。
「家族、仲いいな」
と大澤さんは言った。
「そんなでもないけど、兄貴が結婚して母親が落ち着いたかなあ」
「うん」
「近くにいてくれるのがいいみたい。いつも体調悪いから」
「お母さんは、体が弱いのに医者も薬も嫌いなんだね」
黙っていると、運転席の彼はこっちを見ずに、
「そんな話じゃなかったっけ」
と言う。
「つまんないこと覚えてる」
「つまんなくはないでしょう」
大澤さんは、ちらりとこっちを見た。
「次にあなたが寝込んだら、また病院に行く行かないって話になる」
今は、ほとんど大澤さんの家に住んでいるようなものだった。ボロアパートの俺の部屋を、彼は解約させたがっている。
商店街と参道を歩いて行こう、と言って、大澤さんは神社から少し離れた駐車場に車を停めた。
「初詣って、毎年元カレと来てたの?」
何となくそんな気がして、聞いてみた。大澤さんは、隣を歩く俺の肩に手を置いた。
「来てない」
「あ、そ」
肩をぎゅっと掴まれ、手が離れる。
「ここは引っ越した後に、初詣、ご利益でアンド検索して見つけた」
「ご利益って。大澤さん、面白えな」
「最強パワースポット紹介、みたいなサイトがたくさんあるんだよ」
「怪しいやつじゃん」
「でも、叶と会えたから。ご利益はあった」
晴れの休日で、まあまあの人出だった。白っぽい石の大きな鳥居をくぐった先は屋台が並び、香ばしい匂いがする。太鼓橋を渡りながら、これ藤棚だよ、と大澤さんが池の周囲にある木の枠を指差した。
「藤の季節は、今日より人が多かった」
「初詣以外も、来ることあるんだ」
「何度か来た。もちろん一人で。安心して」
俺と会う前のことを話す時、大澤さんは何回かに一回は、安心して、と言ってくれる。大丈夫だよ、と言うこともある。
その言葉を聞きたくて、言わせるためにわざと質問することもあったが、何度聞いても、胸の奥にかすかに感じる嫉妬めいた不安定な感覚は消えなかった。
本堂までの短い階段の下に、参拝の順番を待つ人が数人いた。小さな子供を含めた親子連れが参拝中で、がらんがらんという鈴の音と手を打ち合わせる音が賑やかに聞こえている。
大澤さんは財布を出し、俺も気づいてコートのポケットを探った。
「多めに出すから、叶は控えめでいい」
「え、元々そんなに出す気ないし」
「なるほどね。まあ俺はお礼を含めて、多めに」
順番が来て賽銭箱の前に進むと、大澤さんは二つに折ったお札を差し入れた。俺はびっくりしながら隣で十円玉を投げて、両手を合わせる。柏手の音がしたので、慌てて形だけ音を鳴らしてから、目を閉じた。
叶と会えたから、という大澤さんの言葉が浮かんで、大澤さんと会わせてくれてありがとうございます、と心の中で言った。
あと、そうだ、ずっと一緒にいられますように。あ、健康で風邪ひきませんように。あと、ケンタにごめんなさいって伝えてください。いや、伝言を頼むのは変か。できれば会わせてください。ケンタに、もう一度だけでいい。そしたらちゃんと自分で言いますので。
大澤さんは、本堂の横でお守りと交通安全のステッカーを買った。
「叶は何かいらない?おみくじは?」
「俺は、いいや」
「へえ。たくさんお参りしてたけど、こういうのは興味ないのか」
境内を一通り歩いて回る間、いくつもある小さな鳥居の前で大澤さんはいちいち手を合わせた。たまに奥のお社を見に行って、賽銭を投げることもあった。一段と古びたお社で、ミニサイズの賽銭箱に百円玉を入れるのを見て、
「さっきお札入れたのに、まだ入れるか」
と思わず口に出てしまった。彼は吹き出した。
「だめ?」
「いやあ、別にいいけど」
「面白いよね、こういうの。感覚が違うんだな」
屋台を覗きながら鳥居まで戻ると、俺たちが来た時よりも神社に向かって歩く人が増えていた。
「ごはん食べに行こうね。で、行く前に二軒寄り道する」
「何買うの」
「あそこ。和菓子屋さん」
少し先に短い行列ができているのを、彼は指差す。
「さっきも並んでた店か」
「お客さんに持っていくものを買いたい。その後、あっち側の店でコーヒー豆を買う」
「へえ、わかった」
小さな和菓子屋の前で、彼はにやっと笑って、
「じゃ、どっかその辺見て待っててくれる」
と言った。
「そうする」
俺は列に並ぶのが大嫌いで、買い物が好きな大澤さんを何度か困らせた結果、彼の買い物中は別行動をとるようになっていた。
「この先に、お店がいろいろあるよ」
「まあ、多分コンビニかドラッグストア」
小さく手を振って、商店街を歩き出した。
すぐにドラッグストアを見つけた。外の陳列棚のペットボトルが安い。どこで食事をするつもりか聞いていなかったが、車で移動することを考えると、水を買っておいてもいい。一本手にとって店の中に入った。
チャイムが鳴り、いらっしゃいませ、と声がかかる。正面がレジだったので、店内を見て回るのも面倒に思えて、そのまま進んでカウンターにペットボトルを置いた。
「きょう?」
顔を上げると、カウンターの向こうにいたのは、ケンタだった。
「え……ケンタ?」
「おお。キヨだよな、ほんとに。あー驚いた」
少しだけ戸惑いの色を含んで、彼は嬉しそうに呟いた。
転職したんだ。水曜定休じゃなくなったのは本当のことだったんだ。頭はその程度しか働かず、俺は呆然として彼の顔を見上げた。
「元気そう。お参りに来たの?」
ケンタは穏やかに言って、ペットボトルにセンサーを当てた。ピッと音がした。
「そう、お参り。あの、転職したんだ」
ガラスのカウンターに両手を置いて、彼は首を傾げた。
「転職はしてない。ここ、うちの店よ。最近改装して大きくしたけど」
白衣の胸の名札には、「店長 薬剤師 武藤」と書いてあり、俺は自分の勘違いに初めて気づいた。
「そうか。なんか、君は不動産屋さんだと思い込んでた」
「ああ。言ってなかったもんなあ」
彼は俺の目を覗き込み、ゆっくりほほえんだ。
「キヨが熱出した時、ね」
「うん」
「あれ、ここの改装オープンの日だったんだよ。だから帰らないとまずかった」
ケンタは自分の名札をちょっと指で触った。
「俺から連絡するって言って、結局しなくて、ごめんな」
「いや……」
「あ、お支払い方法は?」
俺はポケットに手を入れて、財布を掴んだ。
「あの、俺、あの時のお金払ってなくて」
ケンタが何か言いかけたと同時に、入店のチャイムが鳴り、彼は目を上げて、「いらっしゃいませ」と俺の背後に声をかけた。
次の瞬間、「叶」と呼ばれ、コートの背中を指で突かれた。大澤さんだった。
「お待たせ。水買うの?」
俺が頷くと、大澤さんはカードケースを取り出して、レジに手を伸ばした。
「ポイントカードはお持ちですか」
ケンタが聞き、大澤さんがないですと答える。
「ボタンで選んでいただいて、音が鳴るまでタッチしてください」
小さなボタンを押して、大澤さんはカードリーダーに薄い革のケースを押し当てた。
ケンタを見ると、目が合った。彼はわずかに口角を上げて、
「ありがとうございました」
と言った。
「レシートは、結構です。行こう」
大澤さんに促されて俺は水のボトルを掴み、大澤さんが自動ドアに向けて歩き出したのを見て、ケンタを振り返った。
ケンタは、「元気で」と口の形だけで言い、カウンターの上で、ピアノを弾くように両手の指を動かした。
俺がついてこないことに気づいた大澤さんが振り向き、俺はもう一度ケンタを見た。
「ごめんね」
小声で言うと、聞こえたのか聞こえなかったのか、ケンタは、
「ありがとうございました」
と俺ではなく、大澤さんに向けて言った。
「待たせたね」
駐車場に戻る道を足早に歩きながら、大澤さんが言う。
「てか、待ってない。大澤さん、買い物早くなかった?」
「買わなかった」
「どうして」
俺を見返って、追いつくのを待ってから、
「嫌な予感がして、かな」
と彼は言った。
「今の店員さん、知り合い?」
違うと言ってもごまかせないのはわかっていたが、言葉が出てこない。大澤さんは黙って歩き、俺はケンタのことを考えた。
大澤さんはエンジンをかけたが、シートベルトをする様子はない。俺はペットボトルを助手席のドリンクホルダーに入れた。ナビが起動してヒーターがつき、低い音でラジオが流れ始める。
ケンタは、髪の色が暗めになったほかは、何も変わっていなかった。不思議と白衣に違和感はなかった。
待ち合わせの時、俺を見つけるといつも嬉しそうな顔をした。元気で、と声を出さずに言ったさっきの笑顔と重なった。
大澤さんが、叶、と呼びながら俺の右手を取って温かい指を絡めた。
「叶」
「うん」
「アパートに看病に来てくれたのは、さっきの彼なのか」
最初から説明しなくちゃいけない。言葉を探して、大澤さんを見る。
「あの店にいることは、知ってた?」
「知らなかった」
「そうか」
彼は突然、力を込めて手を引き、俺の肩を抱いた。
「どこにも行かせる気はない」
顔を上げると、怖いほど真剣に俺を見ていた。
「誰とでも好きに会っていい、とは言ってあげられない」
「そんなの、わかってる」
俺は震える声で囁いた。
「わかってる、わかってるけど」
「けど、何? あいつがかわいそうか」
大澤さんは俺のうなじを掴んだ。
「俺は、叶がかわいそうだよ」
唇を塞がれ、しばらく離してもらえなかった。逃げようとすると、ますます激しく貪られた。
俺を解放した後、シートベルトを締めてから、
「連絡先は、消しなさい。あなたは何をするかわからない」
と大澤さんは静かに言った。
「何もしないよ」
「じゃあ、なんで泣く。悲しいんでしょう」
顔を触ると、濡れていた。俺は首を振った。
「悲しいんじゃない」
車が走り出して、すぐにケンタの店の前を一瞬で通り過ぎた。
唇を噛んで堪えたが、涙が溢れて、止めることができなかった。子供の頃のように手の甲を歯に押し当て、俯いて声が出るのを抑えた。
「叶」
信号で車を停めた時に、大澤さんが呼んだ。
「無理に忘れなくてもいい。いつかは忘れる。俺が忘れさせる。俺といてくれるなら。ティッシュかハンカチ持ってないのか」
どこかから出したブルーグレイのハンカチを、彼はそっと俺の膝に置いた。
そのうち涙は止まり、大澤さんは、泣き止んだ俺をまた美味しい店に連れて行ってくれた。そして、その後に続く何年かの間、二人でたくさんの楽しい時間を過ごした。
もう一度叶うとしたら、何を願うだろう。
若い頃にやり損なって、日曜日と水曜日の恋人を持った話。傷つけたこと。水曜日の恋人がピアノを弾く手つきで寄越したさよならの合図。日曜日の恋人の甘くて激しいくちづけ。俺を縛ったあのかっこいい素敵な腕時計。
全部が遠くに過ぎ去った後で、小さな抽斗の奥に、ブルーグレイのハンカチだけが残った。
それを見て、胸の奥がかすかに揺れ動くなら、やり直したいことはたくさんあるけれど、日曜と水曜の出来事はそのままとっておきたいと俺は願うだろう。
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