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第1話
「あ。今日は起きられたんだね」
雛野雅季の朝は今日も、この柔らかい声で始まった。
振り向くと、声と同様に柔らかい笑顔をこちらに向けて雪村瞬が立っていた。
「おはよう」
いつも通りニコニコとしながら、雅季を見下ろしている。
(…朝から爽やかだな。無駄に…)
まだ覚めきらない、ぼーっとした思考の中、自分とは対照的にシャキッと立つ彼を見上げた。深緑色のブレザーの制服に、同系色のチェック柄のネクタイをきちんとしめている。
春休みの間にまた背が伸びたな、と思いながら、たった今出てきたばかりの玄関のドアに鍵を掛ける。
「新学期の初日ぐらいはな」
キーケースをカバンにしまいながら答えると、二人はマンションの廊下を歩き出した。
「起こそうと思って、早めに家出たのに」
「安心しろ。明日から朝練始まるし、これ以上早い時間に自力で起きる自信はない」
低血圧の雅季は、朝にめっぽう弱い。その為、いつの頃からか隣の部屋に住む瞬が、毎朝起こしに来るのが日課になっているのだ。
「そっか。よかった」
それは安心というのか、些か疑問に思いつつ瞬は答えた。
エレベーターホールに着くと、気持ちの良い風が吹き込んできた。七階のこの場所からは、天気が良いと住宅地のずっと向こうに、綺麗に富士山が見える。今日も快晴だ。
「今年こそ、同じクラスになれるといいね」
遠くにくっきりとそびえる富士山を眺めながら瞬が言った。
「いや、無理だろう」
同じ景色を眺めていた雅季は、間を置かずに無感情の声で言い放つ。
「…そんな即効で否定しなくても…」
今朝も変わらずクールな雅季を見てしょんぼりする彼を尻目に、雅季はさっさと二人を迎えに来たエレベーターに乗り込む。瞬は肩を落として、重い足取りで後に続きながら、ぽつりと呟いた。
「…今年こそ、同じクラスになれるといいな」
一階のボタンを押しながら、めげないなと思いつつ雅季も繰り返した。
「…いや、無理だろ」
雅季達の通う高校は、二人の住むマンションから徒歩圏内の距離にある。
マンションから少し歩いて住宅地を抜けると、高校の正門前まで続く緩い上り坂の、長い桜並木の道に出る。今がちょうど満開の時期で、ピンク色に染まった木々たちが見事に咲き誇っていた。
「わあ、すごい! 綺麗だねー」
瞬は桜並木の入り口で思わず立ち止まると、ずっと奥までピンク色で埋めつくされた景色に目を見開いた。
隣に並んだ雅季はそんな彼を見上げ、無邪気に目を輝かせながらその光景に見入っている横顔を見つめる。
(…桜。雪村は、桜みたいだな…)
ますます伸びた長身の体で、柔らかい笑顔で佇む。そこにいるだけで、周りを温かい気持ちにさせる。ふいに風が強く吹き出すと、雅季は思わずギュッと目を瞑った。
「好きだよ、ヒナ先生…」
柔らかい声が、風の音の中に交じって優しく響いた。
瞑っていた目をそっと開くと、隣に佇んでいる背の高い彼を再び見上げた。つい今まで桜を映していた瞳が、雅季だけを見つめている。その瞳は変わらず同じように、無邪気に輝いていた。
風に吹かれてひらひらと舞い散るピンク色の吹雪の中、微笑むその姿は―。
(…桜だ―…)
雅季のスーツの肩に残った花びらを指でつまみあげると、瞬はそれを、恭しい仕草で自分の唇に当てた。
――『好きだよ、先生』
それはもう、今では瞬の口癖のようになっている台詞だ。
彼がどのような意味で、どのくらい本気で、そんなことを言っているのかはわからない。
初めてそれを言われた日の事は憶えている。あれは去年の春、ちょうど一年前のことだった。あの日は年に一度の身体測定の日で、彼は測定を終えたばかりの休み時間に、嬉しそうな顔で廊下を走ってきたのだ。
「ヒナ先生!」
「廊下で走るな」
測定結果の紙を手に握りしめて、息を切らせながら雅季の前に現れた。
「見て、先生! 身長伸びてた!」
彼にしては珍しく高揚した声で、紙に書かれた「身長」の欄を指さして、誇らしげに雅季の目の前に掲げてきたのだ。
雅季はいつも通り無表情なままで、言葉通り目の真ん前に出された紙の、指の先を一瞥した。
そこに並んでいた一七四の数字が、心なしか誇らしげにしているように見えた。
「…よかったな」
何がそんなに嬉しいんだ、と思いながら再び廊下を進み出すと、彼はしつこく追いかけてきた。
「先生、この意味がわかってないでしょ! 先生の身長、やっと抜いたんだよ!」
「……二センチだけな」
(なんだ、勝手に張り合ってたのか。やっぱガキだな)
十代の男子にありがちな、身近な大人の男へのライバル心か。そう納得しつつ、でも少し悔しかったので、たった二センチぐらい、という言い方をした。
「…てか、お前、次の授業は?」
渡り廊下にさしかかった時、授業開始のチャイムが鳴り出した。
気付くとまわりにはもう誰もいなかった。雅季は次の授業は入っていなかったので、本でも読もうと図書室へ向かっているところだったのだ。
「―先生」
改まって呼んだ彼の口調が、それまでと少し色を変えて、緊張を含んだように響いた。
振り向くと、瞬は歩みを止めて、真剣な眼差しを雅季に向けていた。初めて見る表情だった。
「―俺がヒナ先生の身長を抜いたら、言おうって決めてたんだ」
木々が緩やかな風に揺られて、葉のざわめく音が聴こえた。瞬の前髪が風に吹かれると、額に浮かんでいた汗が光った。
「俺、ヒナ先生が好きです」
――あの日は、春にしてはまだ肌寒い日で、なのに額に汗を浮かべながら息を切らせて走ってきたのは、自分を探していたからなのかと気付いた時、雅季の胸の奥で何かが少し痛んだ。
次の瞬間にはもう、彼はいつもの顔に戻っていた。いつもの、柔らかい表情だ。
「あ、次化学室だった。怒られるなぁ…」
彼は頭を掻きながら、来た廊下を戻ろうとした。
「…雪村」
雅季は思わず呼び止めていた。何を言えばいいのかわからなかったけれど、何か言わなければいけない気がしたのだ。
呼び止められた後、少ししてから振り向いた瞬は、優しい眼差しを向けた。
「…いいよ、先生。伝えたかっただけだから」
まるで子供にでも言い聞かせるような言い方だった。
「…でも」
なんだかこれでは、雅季が聞きわけのない子供みたいではないか。
「…もう。そんなに振りたいの?」
瞬は困ったように笑うとネクタイを緩めた。
そして身体ごと全部で振り返って、もう一度雅季に向き直った。
「いいよ、どうぞ?」
「――…」
『振る』? …そうか、自分は瞬を振ろうとしているのだと、当の本人に言われて今更のように気付く。何か言わなければ、と思ったけれど、それは間違いなく彼を傷付ける言葉なのだ。
それ以外にないではないか。だって、自分は―…。
「……悪い。俺は…」
言いかけて、視線を足元に落とした。
―瞬の気持ちを考えていなかった。彼にしてみたら、振られるとわかっていて、わざわざ聞きたいはずもない。答えをわかっていて、それでも気持ちを伝えたのだ。
「…それは。…俺が生徒だから? それとも、男だから?」
雅季が言いかけた言葉を引き継いで、瞬はちゃんと受け止めようとしている。
―雅季は胸が締め付けられるように苦しかった。さっき感じた痛みとは、違う痛みだ。
「――俺が、教師だからだ」
絞り出すように答えた。今の自分にできる、それは真実で精一杯の答えだった。
しばらくの沈黙の後、雅季は落としていた視線を自分の足元から瞬に移して、表情を窺った。自分は彼を、わざわざ引き止めてまで拒んだのだ。胸の奥がズキズキと痛んで仕方なかった。
傷付けたのは自分なのに、傷付く彼を見るのがつらかった。―けれど。
雅季の予想に反して、瞬は幸せそうに顔を綻ばせていた。
「――雪村?」
「ありがとう、先生」
綻ばせながら、今にも泣き出しそうな顔をしてもう一度言った。
「ありがとう、大好きだ―…」
(ありがとう…か)
あの時の事を思い出しながら、雅季は職員室の自分の席で、新しく受けもつクラスの出席簿を眺めていた。そこには当然、『雪村瞬』の名前はない。
教師である雅季は、前もってクラス替えの結果は知っている。今頃その結果を知って、がっくり肩を落としている彼が容易に想像できた。その様子を思い浮かべると、思わず顔を緩ませてしまう。
(…救われたのは俺の方だ…)
あの時。何より自分が、瞬を傷付ける存在になることが怖かった。けれど瞬の言った「ありがとう」の言葉が、そんな自分を救ってくれたのだ。
あの日を境に、彼は「好き」という言葉を隠さずに口に出すようになった。何を求めてくるわけでもなく、何を期待するでもなく、ただ伝えてくる。
(伝えるだけの事の、何が嬉しいんだか…)
雅季には彼の気持ちはよくわからなかったけれど、本人は毎日幸せそうにしているので―
(…まあ、いいか)
現状維持。それが最善なのだろうと思う。
日々繰り返される甘ったるい告白を、聴いてやることぐらいは今の自分にもできる。
―予鈴が鳴り始めると、席を立って新しいクラスへと向かった。三年生の教室は二階にある。雅季のクラスは三年三組。瞬は一組だったはずだ。
そんな事を考えていると、ちょうど一組の教室に差しかかった。三組の教室に行くには、一組の教室から順に、横の廊下を通る必要がある。
まだ担任の教師が来ていないのだろう。何人かの生徒は席に着かず、おしゃべりをしている。座席は出席番号順のはずだから瞬の席は…と、だいたいの目星をつけて廊下から一番遠い窓際の席の方に目を向けた。
「…ははっ」
―思わず声に出して笑ってしまった。
瞬は一目で見つかった。長身の背中を丸くしながら両手で頬杖をついて、絵に描いたようにガックリした顔をしていた。溜め息が廊下まで聴こえてくるようだ。想像通りにも程がある。
今日は始業式だけで授業はなく、午前中で下校になった。
雅季はまだ終わらせたい仕事があったので、午後も残るつもりで学校の側のコンビニに昼食を買いに出た。
(いい天気だな…)
晴れ渡った雲ひとつない青空に、桜のピンク色が良く映えている。職員室で昼食をとるつもりだったけれど、なんだかもったいない気がする。
(屋上にでも行ってみるか)
普段の昼休みなら屋上には大抵生徒がいるので、教師の自分は行かないようにしているが、今日なら誰もいないだろう。あそこからなら、この桜並木も見えるはずだ。
屋上に続く階段を上がっている途中、ポケットの中の携帯電話が鳴った。メールの着信音だ。相手は確かめなくても予想がつく。
屋上に出ると、思った通り誰もいないようだった。フェンスの近くまで行くと、学校の正門と左手にプール、そしてその向こうに横一直線に続く桜並木が見渡せた。
(特等席だな)
フェンスの側に腰を下ろしてポケットから携帯電話を取り出す。メールを送ってきたのは思った通り瞬だった。メールに文章はなく、泣いている絵文字がひとつあるだけだ。
「…だから無理だろって、言っておいたのに…」
その絵文字に、先ほど廊下から見かけた彼の姿が重なる。
(…アイツが俺のクラスだったら)
雅季と瞬は学校生活での接点はあまりない。瞬が一年の頃からクラスは別だったし、部活も雅季はバスケット部の顧問、彼は美術部だ。接点と言えば、一年の頃から彼の数学の授業を担当しているくらいか。
―『もしも』自分が瞬の担任だったら。
(…今よりもっと、幸せそうな顔をするのかな)
フェンス越しに桜を眺めながら、もう決して来る事のない『もしも』を想像してみる。
今よりも更に纏わりついてくる彼の姿が、容易に想像できた。いつも数学の授業中に向けてくる笑顔と視線を、もっと頻繁に浴びる事になるのか。
(…疲れるな)
このくらいの距離が無難だな、と結論付けてメールの返信を打つ。
『人生そんなもんだ』
(…まあ、でも。きっと…)
携帯電話をしまいながら再び想像力を働かせる。
(…楽しかっただろうな)
昼食を食べ終え、少しのつもりで寝そべると、心地の良い満腹感と春の暖かい陽気に負け、いつの間にか眠りに落ちていた。
(…あれ。俺…落ちてた…?)
つい今まで顔に感じていた陽射しの温もりがなくなった気がして、心地良いまどろみから目が覚めた。ぼんやりとした頭でゆっくり目を開けると、視界が思いのほか暗い。
「――!」
「あ、起きた」
目の前に瞬の顔があり、驚きのあまり息を呑んだ。
雅季の上半身が瞬の影にすっぽりと覆われていた。彼に組み敷かれているような体勢だ。
「―…おま…、な…」
この状況が飲み込めなくて、やっと出た声も意味をなさない。瞬は雅季を真上から見つめたまま、無邪気な笑顔で答える。
「先生の寝顔、描いてた」
(…描いてた?)
彼の手元に目をやると、側にスケッチブックと鉛筆が置いてある。この角度だとよく見えないけれど、開かれたページには鉛筆で描かれた絵があるようだった。
「気持ち良さそうに寝てたよ」
雅季の上からゆっくりと退いて、彼は鉛筆に手を伸ばす。
「…お前、なんでここに…」
やっと落ち着いてきた思考回路の中、ゆっくりと身体を起こした。
(帰ったんじゃなかったのか…)
「ここからの桜景色を描こうと思って来たんだけど、もっと描きたくなる対象がいたから」
ニッコリと笑って、サラサラと滑るように鉛筆を動かし始める。
「……」
雅季は上半身だけを起こしたまま頭を掻いた。紙の上を走る鉛筆の音が耳に響いている。
「…お前、何かした?」
雅季の言葉に反応して、リズミカルだった鉛筆の音が止まった。
「…何かって? キスとか?」
「――…」
目覚めた時の状況が状況なだけに、瞬の気持ちを知っているだけに、少し躊躇ったが確かめずにはいられなかった。
瞬の聞き返した言葉には答えなかったけれど、雅季は思わず自分の唇に手を触れてしまい、その仕草を見た瞬は、少し照れたように頬を染めた。
「…しないよ。眼鏡忘れちゃって、よく見えなかったから覗き込んじゃった」
そういえば彼は、授業中や絵を描く時にはいつも眼鏡をかけている。
「本当はしたかったけどね」
ニッと口の端を上げながら言われると、今度は雅季が赤くなる番だった。
「でも俺のファースト・キスは、相手にもちゃんと知っていてほしいから」
彼はスケッチブックに視線を戻すと、最後の仕上げに取り掛かった。
「え?」
雅季は今、予想外の言葉をさらっと言われた気がした。
「え?」
「…え?」
お互いに何度かの「え?」を繰り返すと、しばしの沈黙が訪れる。
「…お前、キス…したことないの?」
先に口を開いた雅季は、おそるおそる訊いてみる。
「うん」
さらっと答えられると、なぜか雅季の方が動揺し始めていた。
「…じゃあ、もしかして、誰かと付き合ったことも…?」
「ないよ」
――予想外だった。
(いや、だって…。俺を好きだと言ったって、一年前からだし…、てっきり…)
それ以前には普通に、経験があるものだと勝手に思い込んでいた。
瞬は、男の自分から見てもハンサムだと思うし勉強も出来る。運動部ではないのにスポーツも得意だし、何より人当たりが良い。誰に対しても同じように優しく接するし、教師からの評判も良い優等生だ。瞬はモテるという噂が耳に入った事も一度や二度ではない。
「…でもお前、モテただろ?」
「中学の時? そんな事ないよ。俺、チビだったし」
「…いや、でも。高校入った時は、そんなでもなかったろ?」
初めて会った頃を思い返してみる。自分より背丈が低かったのは確かだが、チビというほどではなかったはずだ。
(―いや、待てよ。そもそも対象は女じゃないのか? 男の俺を好きって事は…)
もともとの恋愛対象が男なら、そのような機会がなかった事にも納得はいく。
「え、だって高校入ってからは先生がいるもん」
「―え?」
「え?」
「…え?」
ついさっきと同じやりとりをまた繰り返して、再び沈黙が訪れたが、今度は瞬がそれを破った。
「…俺、先生ひとめぼれだよ? 初恋だし」
「――!」
この短時間で新事実が次々と発覚して、雅季はもう何が何だか分からなくなっていた。頭がクラクラするのは、この暖かい陽気のせいではないはずだ。
雅季は二年前の春、瞬が入学したのと同じ年に、この学校に赴任して来た。
学校に近いという理由で、春休みの間に今のマンションに越した。このマンションは、一人暮らしには少し広すぎたけれど、朝の弱い自分には学校までの近さが何より魅力的だった。逆に駅までの距離は遠い為、広さの割に賃料は安い。
運良く、マンションの中で一番小さい間取りの部屋が空いていて、内覧に来た時には七階の部屋から見える景色も気に入ったのだ。周りには古くからの住宅街が広がっていて、一戸建ての家々が並んでいるだけだったので、部屋から眺める景色は何にも遮られず、遠くまで見渡すことができた。
―そうして引っ越してきた最初の日の夜、瞬と出会ったのだ。
段ボールの箱を全て開け終わり、片付けもある程度目途が着いた頃。まだ夜も遅い時間ではなかったので、今のうちに周りの住人へ引越しの挨拶に行ってしまおうと、用意していた挨拶の品が入った紙袋を手に取ろうとした。―その時。
―ピンポーン、ピンポーン
突然、玄関のインターホンが鳴った。まだ慣れない音のせいか少し驚いてしまった。
―ピンポン、ピンポーン
間をおかずに連続で鳴り響いている。
(…なんだ…?)
怪訝に思いながら、ドアを開ける前に覗き穴から外の様子を窺った。
そこには半泣き状態の少年が立っていた。―手に包丁を握りしめて。
(――…包丁って…)
――状況がわからなすぎる。
開けるべきか躊躇したが、インターホンが鳴り止まない事と、不思議と危険な感じは受けなかったので、鍵を外すとドアを開けてその少年と向かい合った。
「…どうした?」
少年はドアが開くと、雅季を見るなり堪えていた涙を溢れさせた。
「指切ったー!」
少年は泣き叫んで、包丁とは逆の手を雅季の目の前へ伸ばして見せた。
「――は?」
掲げられた人差し指は、切り口からじんわりと血が滲んでいる。
よく見ると、少年はスリッパを履いていてピンクのエプロンを着けていた。右手には包丁を握りしめて、わんわん泣いている。―突然、他人の家へ来て。
「―あはははっ」
そのあまりの滑稽な状況に、雅季は思わず吹き出すと涙が出るほど笑ってしまっていた。
少年はその様子をきょとんとした顔で見た。彼はいつの間にか泣き止んでいた。
片付けたばかりの救急箱を取り出して、少年の指を手当てした。
「一人で料理してたのか?」
「…うん。ありがとう」
彼は雅季の部屋のソファに座って、指に巻かれた包帯を見つめている。落ち着きを取り戻して我に返ったのか、照れたようにおとなしくなっていた。
「家族は?」
「春から父さんが海外赴任で、母さんと妹も一緒に行くことになって…」
「じゃあ、一人なのか?」
「俺は春から高校に通うから、こっちに残ったんだ」
ある程度の事情を理解すると、ようやくさっきの状況も納得がいった。滅多に包丁なんて使った事がなかったのだろう、十代の少年なら当然だ。
「…何作ろうとしてたんだ?」
「…カレーライス」
予想した答えがそのまま返ってくると、ふっと笑みが零れてしまっていた。
そんな雅季を、少年は恥ずかしそうに口を結びながら上目遣いで見てきた。
「…教えてやるから、一緒に食べてもいいか?」
雅季がそう言うと、少年はパアッと目を輝かせて大きく頷いた。
―少年は『雪村瞬』と名乗った。彼の部屋のキッチンで、野菜の切り方や米の研ぎ方、料理の基本を一通り教えてやった。今まで経験がなかっただけで飲み込みは早く、すぐに自分のレベルなど超えるだろうな、と雅季は密かに思っていた。
できあがったカレーを食べながら話をするうちに、二人が春から同じ高校に通う事がわかると、瞬はますます目を輝かせた。
「雅季さんのクラスになれるといいな」
彼は嬉しそうに、初めて作ったカレーライスを口いっぱいに頬張った。
(…そうか。あの日から…)
初めて出会った日の事を思い返しながら、雅季は遠い目をしていた。
(…ひとめぼれする要素なんてあったか…?)
どんなに考えてみても、心当たりはひとつも見つからない。
「…先生、大丈夫?」
突然黙りこくって回想を始めていた雅季の横で、瞬はただオロオロとしている。
(あの頃に比べて、だいぶでかくなったな…)
今では雅季の方が彼を見上げる。体格も、華奢な自分と違って逞しくなった。
思った通り料理の腕もみるみると上がり、最近では雅季の方がご馳走になってばかりだ。
―あの頃の少年は、いつの間にか『男』になっていた。
(…中身はたいして変わってないけど…)
無邪気で純粋な部分だけは、今も変わらず少年のままだ。
スケッチブックに描かれた自分の寝顔が目に入る。繊細なタッチで描かれた絵は、描いた本人のように温かみがある。
(…俺なんて、やめとけばいいのに…)
瞬のまっすぐで純粋な気持ちに答えてやれない自分は、彼にはふさわしくない。自分が、彼の貴重な高校生活の邪魔をしているような気がしてならない。
(―あの時)
初めて告白されたあの日。
(あの時。あんな言い方をしないで、もっとキッパリと、振るべきだったのか…)
瞬を傷付けることになっても、彼が前に進めるように解放してやった方が、結果的にはよかったのではないか。そんな思いが駆け巡る。
「悪い。俺は――お前の事は、好きになれない」と――。
(嘘を、ついてでも――)
「あ、雨…」
瞬の声に引き戻されると同時に鼻先に雨粒を感じた。
「晴れてるのにね…」
変わらず青い空を見上げながら、瞬が呟く。
「狐の嫁入りって言うんだっけ?」
わりとしっかりとした雨粒が、二人の頭上に降ってくる。
「先生、中戻ろうか」
スケッチブックの中の自分の頬に、雨粒が染み込んだ。
(――泣いてる)
瞬がそれを閉じて立ち上がろうとしたのを、咄嗟にジャケットの裾を掴んで止めていた。
「!」
瞬は驚いてバランスを失うと少しよろめいた。
「先生? ……どうしたの?」
彼は優しく問い掛けながら、俯いたままの雅季の顔を覗き込もうとした。
――その瞬間。雅季は瞬のネクタイを掴んで、自分の方へと引っ張っていた。
あと数センチの距離――二人の唇が、そこで止まった。――お互いの息遣いを感じる。瞬の前髪が雅季の額をかすめる。鼻先が触れ合う。
今までで一番近い距離で瞬は、じっと真剣な眼差しで雅季を見つめていた。
「――…っ」
雅季はキスをするつもりだった。
けれど、身体が固まって――ここから先に進めない――。
「――いいよ、先生。無理しないで…」
あの時と同じ、言い聞かせるように優しい瞬の声。
「ありがとう。大好きだよ―…」
雨粒がひとつ、雅季の頬を伝って落ちると、瞬はその跡をそっと指で拭った。
雅季が仕事を終えて校舎を出る頃には、もうすっかり日が暮れていた。
天気雨はあの後すぐに止んだ。自分は職員室に戻り、瞬はそのまま屋上に残ったようだった。あれから本来の目的だった、桜景色を描いたのだろうか。
桜並木の坂を下り住宅街に差しかかると、どこからともなく夕食を作る、おいしそうな匂いが漂ってきた。
(カレーかな…)
瞬とキッチンに並んで、カレーライスを作った時の光景がよぎる。
(あの春休みは、よく一緒に過ごしたな…)
初めて出会ったあの日以来、毎日のように夕食を一緒に作った。一人暮らしを始めたばかりの彼を放っておけなくて、いろいろと世話を焼いた。
春休みのうちに誕生日を迎えた瞬の為に、ケーキを買って二人で祝った。プレゼントした男性用の黒いエプロンは、今でも大事そうに使っている。
―弟のように感じていた。
あの春休みはまだ、自分は瞬の教師ではなかったから。瞬は自分の生徒ではなかったから。――彼を『瞬』と呼んでいたのは、唯一あの春休みだけだった。
マンションのエントランスの自動ドアを入ったところで、携帯電話が鳴った。ドキッとして立ち止まると、思わず身体が固まっていた。―メールの着信音だ。
(――雪村)
屋上での事が一瞬で脳裏によみがえる。
「あ、ヒナちゃんだ」
エントランスで立ち竦んでいると、後方で自動ドアの開く音がして声を掛けられた。紺色のチェックのワンピースを着た小柄な少女が入ってきた。
「瑠璃ちゃん…」
「お帰りなさい。お兄ちゃんからメール来ました?」
「…ああ、今鳴ったのがそうかな?」
馴染みの少女と連れ立って郵便受けへと歩くと、会話に後押しされる形で携帯電話を取り出す。
「今日の晩ごはんはお鍋だって。ヒナちゃんも誘うって言ってましたよ」
メールを開くと彼女の言ったことが瞬の言葉で並んでいた。なんて事のない、普段通りの瞬のメールだ。
「両親が向こうの鮭を送ってくれたんです。大量だからしばらく鮭料理づくしになるって、今朝お兄ちゃんが言っていました…」
彼女は大袈裟に声を出して大きくため息をついた。
「鮭、好きだけどな」
ちょうど待機していたエレベーターに先に乗り込むと、瑠璃は勢いよく振り返った。
「わたしだって好きですけど! でもキングサーモン一尾丸々ですよ! こんなおっきいの!」
小柄な身体で両手を大きく広げて、興奮気味に訴える。
「……切り身じゃないのか」
それは確かに、二人で食べると考えると想像しただけで飽きるな、と少なからず同情した。
「今朝早くからお兄ちゃん、張り切って捌いていました…」
瑠璃はもう一度盛大にため息をつき、七階に着いたエレベーターからトボトボと降りる。
(アイツ、魚まで捌けるようになったのか…)
野菜を切っただけで怪我をして泣いていたのが、嘘のようだ。
部屋の前まで来ると、瑠璃はまた勢いよく振り返り、真剣な眼差しで雅季に宣言した。
「ヒナちゃんにも協力してもらいますから!」
玄関のドアは鍵が閉まっていたので、瑠璃はインターホンを押した。
雅季の脳裏には今も、屋上での事が焼き付いていて離れない。彼がいつも通りの笑顔で、雅季を迎えてくれる事はわかっている。―それがつらいのだ。
しばらくすると鍵を外す音が響いてドアが開いた。
「おかえり」
中から顔を出した瞬は瑠璃に言ってから、雅季の方を見た。
「先生、一緒だったんだね」
いつも通りの笑顔で、いつもと同じエプロンをつけて。
「おかえりなさい」
自分は何度、この笑顔に救われるのか――。
「またヒナちゃんのクラスになれなかったんだね。お兄ちゃん、運なさすぎ」
今日のクラス替えの結果を聞いて、瑠璃はケラケラと笑うと瞬にその事を思い出させた。
雅季は我関せずで、カナダ産のビールをグラスに注いでいる。
瞬達の両親が鮭と一緒に送ってくれたものだ。もちろん未成年の子供達の為ではなく、何かと彼らの世話を焼いてくれている隣人の為に。
「なんでかな…。俺、良い子にしてるのに…」
瞬は普段から自身が雅季を慕っている事を隠そうとはしていなかった。まさか恋愛感情を抱いているとは、瑠璃も思ってはいないようだけれど。
瑠璃は瞬の二つ年下の妹で、最近まで両親と海外で暮らしていた。高校受験を機に一人だけ帰国し、今は瞬と二人で暮らしている。この春から雅季と瞬の通う高校の一年生だ。
「下心があるからじゃない」
冗談のつもりで言ったのであろう瑠璃の一言に、雅季の方が思わずドキッとして、勢い余って注いでいたビールをグラスに溢れさせてしまった。
「やっぱり、そうかなぁ…」
瞬は雅季のこぼしたビールをふきんで拭きとりながら、相変わらずガッカリした様子だ。
(いや、否定しろよ…)
心の中で突っ込みを入れながら、雅季の為に甲斐甲斐しく鍋を取り分けている彼を盗み見る。
「神様はちゃんと見てるのよ」
瞬に向けて言ったはずの瑠璃の一言が、雅季の心に刺さった。
さっきまで瞬のつけていたエプロンを、今度は雅季がつけて夕食で使った食器を洗っていた。瞬の家でごちそうになった時は、雅季が片付けを担当するのが日課になっている。瞬がそれを手伝うのもまた日課だった。
瑠璃は早々に自室へ引き上げていた。友達と携帯電話でおしゃべりをしているのであろう、微かに笑い声が漏れてくる。
「あれ、先生。ビール結構飲んだねぇ」
テーブルの上に並ぶ空瓶を片付けていた瞬が気付いた。
「大丈夫? そんなに強くないのに…」
雅季は皿を淡々と洗いながら答えない。
「明日から朝練って言ってたよね? ちゃんと起きられる?」
瞬は一向に返事のない雅季の背中を訝しげに見つめた。
「―後は俺がやるから、帰って早めに寝たら?」
空瓶をシンクの横に置いて隣の顔を覗くと、雅季は顔をほんのり赤く染めてトロンとした目で瞬を見上げてきた。
「――…っ」
その様子に瞬は息を呑むと、雅季とは違った意味で赤くなってしまう。
雅季は見上げた瞳をもう一度伏せて、長い睫毛の下で潤ませた。
「……俺を見てたのかも」
「え? 何が?」
雅季の艶っぽい姿態にドギマギしていて、突然言われた言葉の意味がわからなかった。
「…神様」
そう言われると瞬は少し考えた後、夕食の時の瑠璃の言葉に思い当った。
「…なんで?」
雅季は顔を伏せたまま唇を噛んだ。その動作さえ瞬には扇情的に映る。
「…お前と…同じクラスになったら、…俺が、……」
シンクの縁を握っていた雅季の両手に力が籠もる。
「…俺が、…教師でいられなくなるから―…」
絞り出すように言葉にすると、それまで渦巻いていた感情が朦朧とする思考回路の中で、酔いに後押しされて溢れ出していった。
「俺が…解放できないから……、俺が…手放せないから…、俺が―…」
一度溢れ出した感情は、赤裸々な言葉となってとめどなく零れ落ちた。
―気付いた時には、瞬の腕の中にいた。
痛い位に強い力で、微動だに出来ないほどきつく抱きしめられていた。呼吸する僅かな振動さえも二人で共有する。瞬の熱い息遣いが耳に当たると、ただでさえ酔いのせいで火照った身体が更に熱を帯びてしまう。
「…雅季さん……」
「っ―…」
あの頃の呼び名を、耳元で呼吸に交じるように囁かれると雅季の脳内が甘く痺れた。
「ごめん、俺――…」
雅季を抱きしめる腕に、更に力が籠る。
「んっ―…」
息苦しさが増し、熱さも相俟って眩暈がする。
「――…嬉しい――…」
じんわりと耳に沁み渡る瞬の声。雅季は彼のシャツを握りしめた手に力を込めた。
「……瞬…」
彼の温もりは苦しくて熱くて、クラクラするほど気持ちいい――。
―ピンポン、ピンポーン
インターホンの音が二日酔いの頭にガンガン響いた。
「……うるさい」
朝がとっくに始まっていた。眠りは早々に覚めていたけれど、頭が重くてベッドから起き上がることが出来ない。
「先生―! 起きなきゃ遅刻するよー!」
ドアの向こうで瞬の声がしている。
(……日常だ…)
もう何度も迎えた朝の光景だ。天井を見つめながら、昨夜の光景を思い出してみる。
昨日はいろいろな事があって、酒に強いわけでもないのにだいぶ飲んでしまっていた。朦朧としてはいたけれど、記憶を無くす程ではない。
(二年ぶり…か)
「雅季さん」と、囁かれた息の感触がまだ耳に残っているようで熱い。
「先生―!起きてー!」
ドンドン、とドアを叩く音が聞こえ始めた。
「……うるさい」
雅季は渋々ゆっくりとベッドから起き上がった。
「おはよう」
鍵を開けるとそれを合図に勝手にドアが開き、さわやかな笑顔が飛び込んできた。
「……」
いつも通り無表情で瞬を一瞥し、洗面所に向かう。
「酔いは醒めた? 頭痛くない?」
瞬は洗面所の入り口まで後を追うと顔を洗っている雅季の様子を見守った。
「…痛い」
タオルで顔を拭きながら、籠った声が聞こえた。
「トマトジュース持って来たけど、飲む?」
「…歩きながら飲む」
雅季が着替える為に寝室に戻って行くと、瞬は新聞受けから取り出した朝刊を置きに、リビングへ向かった。
ダイニングテーブルの上に、ひよこの柄の黄色いマグカップが置いてあるのが目に入る。去年の雅季の誕生日に、瞬がプレゼントしたものだ。
贈った時は「子供っぽい」とか「またひよこか」「なんで二つもなんだ」等と、散々文句を言っていたけれど、愛用してくれているのは落としても、落としてもすぐに着く茶渋でわかった。
「雪村、行くぞ」
ネクタイを手に持ったスーツ姿の雅季が現れた。
「帰ったら茶渋落とすね」
嬉しそうに言われると、雅季は置いたままにしていたマグカップに目が行った。昨日の朝、コーヒーを淹れようとして豆を切らせていた事に気付き、そのままにしていたのだ。
「…ああ」
いつもの無表情の中に微かに赤みが差したのがわかって、瞬はますます嬉しそうに微笑んだ。
「あ、そうだこれ」
玄関で靴を履いていた雅季に、瞬は背後からおもむろに紙袋を差し出した。
「鮭弁当と鮭のおにぎり。おにぎりは朝ごはんに食べてね」
「……」
上機嫌でニコニコと手渡されると、雅季は昨夜の瑠璃の言葉を思い出していた。
(……やっぱり俺も戦力か)
「あれ、また鮭? 今朝も鮭のおにぎり食べてなかった?」
昼休み。雅季が職員室の自分の席で今朝渡された弁当を広げていると、隣から同僚の相原が覗き込んできた。弁当箱の中には焼鮭をメインに、鮭の混ぜご飯、鮭と野菜の炒め物が入っている。
「…そんなに好きなのか?」
「…ほっとけ」
相原に横で笑われながら、机の上に置いていた携帯電話の受信ランプが光るのが目に入った。
仕事中は音が鳴らないようにマナーモードにしている。
『今夜はサーモンクリームパスタだよ❤』
「………」
携帯電話の画面を見つめて、呆れたような、照れたような妙な顔をしていたのを不思議に思ったのか、相原が再び横から画面を覗いてきた。
「…お前の彼女、鮭好きなの?」
言い返す言葉が見つからず、雅季は無言で弁当の鮭に箸を伸ばした。
「ヤサオ君のお弁当、鮭づくしだね」
三年一組の教室。瞬は今夜のパスタの付け合わせを考えながら雅季と同じ中身の弁当を食べていると、頭上から声がした。見上げると瞬の机の前に女生徒が立っていて、真上から弁当をじっと覗き込んでいる。
「…ヤサオ君?」
「あ、ごめん。名前覚えるの苦手で。あだ名ね」
彼女はそう言いながら、無表情のままで鮭をずっと見下ろしている。
「…ヤサオって…何?」
「優男のこと」
即答されると瞬は思わず苦笑いを浮かべ、的を射ているなと自分の事ながら思った。
「…それって、褒め言葉なのかな?」
「褒めたつもりはないけど。けなしたわけでもない」
彼女は感情のない単調な声で淡々と話している。
「鮭好きなの? ヤサオ君」
「…まあ、好きだけど。これは――」
鮭づくしの弁当の経緯を説明すると、彼女は表情一つ動かさなかったが、興味津津な様子で聞いている事が瞬にはわかった。先生に似たタイプだな、と密かに思った。
「優男。気だて、心根の優しい男。優美な男。柔弱な男。」
サーモンクリームパスタを啜る雅季の向かいの席に座って、瞬が携帯電話で検索した『優男』の意味を読み上げた。
「…先生、俺はどれだと思う?」
「…最後のだろ」
「え~、やっぱりそうかなぁ…」
雅季は付け合わせのサーモンとホタテのカルパッチョに手を伸ばした。
(うまい…)
よく同じ食材で、こうもいろいろな種類を作れるな、と感心してしまう。
今夜の夕食の食卓に瑠璃はいなかった。彼女も今日の昼には同じ弁当を食べたのだろう。早々に飽きて逃げたのか。
「…誰かに言われたのか?」
「うん、会長さんに…」
しょんぼりした顔で、雅季のグラスに冷えたお茶を注いでいる。
(会長……ああ、生徒会長か。確か一組だったっけ…)
雅季は自分の記憶を辿ってみる。
彼女の名前は、飯島皐。成績は常に学年首位の秀才で、細身で長身の美人だ。長い黒髪と愛想のない無表情が日本人形のようだな、と感じた事を思い出した。
「あ、会長さんがね、鮭大好物なんだって。今日の帰りにたくさんおすそわけしたから、結構減ったよ」
(おすそわけ…。じゃあ、ここに来たのか…)
瞬が女友達を家に呼んだ事なんてあったっけ…と振り返ってみる。仲の良い女友達自体、今まで聞いた事がない。
(……まあ、いいけど)
雅季はグラスのお茶をグイッと飲み干した。
自分の部屋へ帰ろうとすると、瞬が今朝言っていたマグカップの茶渋を落とすと言ってついてきた。ダイニングテーブルでパソコンを開いて仕事を始めると、彼はキッチンに立って塩を使ってカップをこすりながら茶渋落としに専念し始めた。カウンター越しに、その真剣な表情が見える。
静寂の中で、カタカタと小気味よく鳴り響いていたキーボードを叩く音がぱたりと止むと、それに気付いた瞬が顔を上げる。
その拍子に目が合うと、雅季はドキッとして思わず視線を逸らしてしまっていた。するとキッチンからフッと笑う音が微かに聞こえて、自分の頬が赤くなるのを感じた。
「これ落とし終わったら、コーヒー淹れようか」
「あ、豆……」
今日の帰りに買って、かばんに入れっぱなしだった事を思い出す。
―ピンポーン
立ち上がろうとした時、インターホンが鳴った。二人が同時に時計を見ると、もうすぐ九時を回るところだ。怪訝に思いながら、インターホンの受話器を取る。
「はい。……なんだ、お前か」
雅季は受話器を置くと玄関へ向かおうとして、行きかけに瞬の方を振り返った。
「お前、出てくるなよ」
「!」
瞬に釘を刺してから、リビングを出て行った。
「どうした、こんな時間に」
ドアを開けると、切れ長の目を眼鏡の奥でいたずらっ子のように細めて微笑む姿があった。
「悪いな、取り込み中だった?」
相原はわざとらしく言うと視線を足元に向けていた。女性用の靴が置いてあるのを想像したのだろう。しかしそこには雅季の革靴と、サンダルが二足置いてあるだけだった。
「あれ。彼女帰っちゃったの?」
「…何の用だ」
問いかけを無視して先を進めると、相原は諦めたように書類を取り出して渡した。
「この資料、ないと困るかと思って。明日から連休だしな」
差し出された資料は確かに、この週末に自宅でやろうと思っていた仕事に必要なものだった。
「ああ、ありがとう」
「お礼にコーヒーぐらいは呼ばれてやるけど?」
「助かったよ、悪かったな」
肩をポンと叩きそう告げると、早々にドアを閉める。
「…薄情な奴だな、相変わらず」
ドアの向こうで相原の文句が聞こえたが、気にせずリビングへと戻った。
リビングへ続くドアを開けると、目の前に瞬が立っていた。
「…盗み聞きか?」
「今の、誰?」
出てくるなと言われた事も効いているのだろう、ムスッとした顔で拗ねたように訊いてくる。
(旦那の浮気を疑う妻みたいだな…)
不満気な顔の瞬を横目に、テーブルの上に渡された書類を置いた。
「…同僚。相原だよ、昨日の始業式で紹介されただろ」
相原皇はこの新学期から赴任して来た英語教諭だ。瞬は式の間は眼鏡をかけていなかったので舞台上は見えていなかったが、そういえば女生徒達が色めき立っていたのを思い出す。
「…なんか親しげだった…」
彼はなかなか引き下がらず、口を尖らせてぼそりと呟いた。
「……大学が一緒だったんだよ。俺の、一個下の後輩」
「――」
黙り込んでしまった瞬の気持ちがどう動いたのか、手に取るようにわかった。
「…コーヒー、飲むだろ?」
かばんから豆を出してキッチンへ向かうと、新品のように綺麗になったマグカップが二つ並んでいた。ひよこの顔がこちらを向いて満足そうにしているように見えた。
―コーヒーのいい香りに包まれた静寂の中、二人はテーブルに向かい合って座った。
「…冷めるぞ」
瞬は促されると、半ば無意識にコーヒーの入ったカップに手を添える。
「…先生」
(…やっとしゃべった)
ずっと拗ねた様子で黙っていた彼の口がやっと開いて、雅季は内心ほっと息をついた。
「…彼女って何?」
(――相原の言った事か…)
一瞬何の事かわからなかったが、雅季はすぐに思い当ると同時に、今度は口に出して大きくため息をついた。
「それはお前のせいだろうが…」
首を傾げる瞬に、メールにハートマークを使うなと散々言って聞かせたが無駄だろう。
美術部には、運動部のような朝練なんて大層なものはない。放課後の活動も基本的には自由参加で、気分が乗らない日に描いても仕方ない、『描きたい時に描きたい場所で描く』というのが部長である瞬の方針だった。
彼は毎朝、雅季を起こすとそのまま一緒に登校し、持て余す時間を一人で絵を描いて過ごしていた。新学期が始まってからの最近は、屋上から見える桜景色を描いている。朝の屋上は誰もいなくて、今の時期は気候も暖かくて気持ちがいい。
もともとは雅季と一緒に登校したくて始めた日課だったけれど、今ではこの時間自体を好きになっていた。
今朝も週明けでますます寝起きの悪い雅季をなんとか起こし、一緒に登校してから一人屋上にやって来た。今日もいつも通り誰もいないと思っていた。けれど―。
屋上に出ると真っ先にフェンスに寄りかかった男性が目に入った。彼はドアの開閉の音でこちらに気付いたようだ。
「あ、見つかった」
彼は手に持っていたライターをジャケットの内ポケットにしまいながら、いたずらを見つかった子供のように言った。煙草に火を着けたところのようだった。
「……おはようございます」
男性が何者かわからなかったけれど、スーツを着ているところを見ると学校の関係者なのだろう。
「おはよう。ここで吸っていた事、内緒にしてくれる?」
「…はあ」
「赴任してきたばかりなのに、不良教師だと思われるなぁ」
――昨夜の来訪者だ。瞬はそのセリフを聞いて、即座にそう確信した。声にも聴き憶えがあった。『相原』――先生の、大学時代の後輩。
「それスケッチブック? 絵を描きに来たの?」
尚も話しかけられると、瞬は動揺を悟られないように平然と振る舞おうと努める。
「はい、ここで描き途中の絵があって…」
「へぇー。見てもいい?」
手を差し出されると、深く考えずにスケッチブックを渡していた。
瞬は彼をまじまじと見つめた。身長は自分より少し高いだろうか。整った顔立ちで切れ長の目には眼鏡を掛けている。全体的に冷たそうな印象を受けるが、そこが女性にはうけてモテそうだなと思った。始業式で女生徒達が騒いだのも頷ける。
「上手いもんだね」
紫煙をくゆらせていた煙草を携帯灰皿に入れ、瞬の描いた絵をパラパラとめくっている。煙草の苦い残り香が大人の男である事を瞬に感じさせていた。雅季と同じ大人の男だ。
「――」
――マズイ、と気付いた時には遅かった。
「あれ」
一定のペースでスケッチブックをめくっていた相原の手が、あるページで止まった。雨粒の染みが残ったページだった。
「これ、雅季?」
「――――」
――衝撃が。雅季のスケッチを見られた事よりも、今受けた衝撃に動揺が走る。
『雅季』――今、そう言ったのか?
「…雛野先生だろ?」
下の名前だとわからないと思ったのか、名字で言い直される。
黙り込んだまま鋭い眼差しで相原を見据える様子に違和感を覚えたのか、彼はもう一度スケッチブックに描かれた雅季の寝顔に視線を戻した。
「…君、三年生? 名前は?」
「…雪村瞬。三年一組です」
相原の手からスケッチブックを取り戻すと、張り詰めた強い口調で答えた。
「…雅季のクラスじゃないんだ。一・二年の時の担任?」
わざと『雅季』という言葉を使われたような気がした。
「いいえ」
そこまで聞くと一瞬相原の眼光が鋭くなったように見えた。
「…ふーん…」
今度は相原の方が値踏みするように瞬を凝視してくる。
「…失礼します」
瞬は本来の目的を中止して、踵を返すとドアの方へと向かった。
「サーモンクリームパスタ、俺も食べたかったな」
去ろうとした瞬の背中に、突如何の脈絡もない言葉が投げ掛けられた。
――相原に見られたメールの事で、雅季に説教された事が瞬の頭をよぎる。この男は鎌をかけようとしている、とすぐにわかった。
足を止めて振り返ると、睨むように相原を見た。
「鮭、好きなの?」
二本目の煙草を取り出し、微笑みながらも挑戦的な眼差しを向けてくる。
「――好きです」
何の事を言っているのか、わからないふりをする事もできた。そのまま無言で去ることもできた。けれど瞬は、受けて立とうと決めた――。
校舎に入り後ろ手にドアを閉めた後、早鐘のように打ち続けている鼓動を鎮めようとしていると、横に皐が立っているのが目に入った。
息を切らせていた瞬に、彼女は無表情の眼差しを向けてくる。
「ゴメン、ヤサオ君。聞いていた」
「……ハァ…」
息切れなのかため息なのかわからない深い呼吸を発して、瞬は強張っていた顔を緩めた。
「…教室、戻ろうか」
――二人が教室のドアを開けると、そこはまだ誰の気配もなかった。
瞬はざわつく胸の痛みをなかなか鎮められないでいた。額を窓に押しつけるように凭れかかると、呼吸をする度にガラスが曇る。
「…そんなに好きなんだ」
その様子を黙って見守っていた皐がぽつりと呟いた。
「鮭」
答えあぐねていた瞬は「鮭」と言われると、思わず吹き出してしまっていた。
「ははっ…鮭ね。そうだね…」
普通に聞いていたら、単に食べ物の話をしていたとしか思わないに決まっている。
「鮭って、美人先生の隠語?」
「―…」
さらりと核心を突く皐に、瞬は思わず言葉を失った。―さすが学年首位。彼女にはやっぱり、全部お見通しだったのか。
「…それもあだ名?」
「うん」
窓の向こうで、朝の清々しい光がグラウンドに射し込んでいるのが見えた。その中を陸上部が声を出しながら走っている。
「うん。俺、美人先生が好きなんだ―」
皐の醸し出す不思議な空気に包まれて、瞬はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
一時間目の授業を終えると、雅季は職員室へ戻る為に一組の教室の横を通りかかった。つい無意識の内に視線は窓際の席に向いてしまう。窓際の、後ろから二番目の席。
「―…」
その席は、机の前に立つ女生徒に隠れて見えなかった。長くて艶やかな黒髪をした女生徒。歩くにつれて変わる角度で、僅かに見えた彼は皐を見上げて笑っていた。
「雅季!」
突然背後から名前を呼ばれると、思わず肩をビクンと跳ねさせてしまっていた。
「…相原、下の名前で呼ぶな。しかも声でかい…」
大学時代そのままの相原に、ここは学校だと戒める。
「ああ、悪い。ついクセで」
彼は特に悪びれもせず口先だけで謝ると、自然と雅季の肩に手を置いた。
相原の話に相槌を打ちながら、雅季はたった今見た光景が目に焼き付いて離れないでいた。
放課後に職員会議があったので、雅季がいつもよりだいぶ遅れて体育館に着いた時には、あともう少しで練習の終わる時間に差しかかっていた。
キュッキュッとバスケットシューズのゴムの擦れる音が体育館中で響いている。部員達が顧問の姿に気付き、方々から挨拶の声が飛び交うと、雅季は軽く手を上げて答えた。するとコートの向こうの舞台の上に、いつもはないはずの人影が目に着いた。
彼はスケッチブックをあぐらの膝の間に置いて、熱心に練習風景をスケッチしているようだった。雅季が近付いて来るのに気付くと、気まずそうにスケッチブックで自分の顔を隠した。
「…何してんの、お前」
瞬はスケッチブックの向こうから、おそるおそる目元から上だけを覗かせた。
「先生、おかえり!」
雅季はわざと元気を装って笑顔を取り繕っている瞬の側にしゃがむと、スケッチブックを彼の顔の前から引き剥がすようにして取り上げた。見るとそこにはバスケ部の練習風景が、躍動感溢れるタッチで描かれている。
「…今度はバスケ部スケッチさせてもらおうと思って…」
「…顧問の許可は?」
「先生いなかったから! でも倉田がいいって言ったよ!」
言い訳じみた様子で、瞬の友達でバスケ部の部長でもある倉田に責任をなすりつける。
「……」
無言で睨まれると、彼は大きな背中を小さく縮めて余計なひと言を付け加えた。
「…かっこよく描くならいいって…」
練習が終わって解散した後も、瞬は無人になったコートを前に鉛筆を走らせ続けていた。
外は陽が落ち始めていて、電気の消えた体育館の中は徐々に薄暗くなっていく。
雅季は体育館の隅に取り残されていたボールを見つけると、ゆっくりとドリブルしながらコートの方へと進んだ。
「…お前、大丈夫?」
ボールをついて前を見据えたまま問いかけると、瞬はやっと顔を上げたようだった。
「…なんか変」
そう言われて瞬は、手元の鉛筆の線がもう見えない程に辺りが暗くなっている事に気が付いた。
――瞬は昼間見た光景を思い出していた。
一時間目を終えた休み時間、教室の外で相原が雅季を呼ぶ声が聞こえたのだ。廊下に目をやると、相原が雅季の肩に手を置くのが見えた。
そして彼は瞬の方を振り返ったのだ。見せつけるかのように――。
「……焦燥感」
「え?」
ドリブルの音にかき消されて、瞬の呟いた言葉が雅季の耳には届かなかった。それに気を取られ一瞬手元から目を離した結果、ボールは雅季の手を離れて転がった。
そのボールを、描くのをやめて舞台から降りた瞬が拾い上げる。
「…先生の側にいたいんだ」
手にしたボールを見つめながら、思い詰めたように呟く。
「……いるだろ。隣に住んでるんだし」
「足りないんだ」
眉間に皺を寄せて、苦しそうに感情を吐き出す。
「もっと、…もっと――…」
瞬が剥き出しにしたその感情は、雅季の心を掻き乱した。胸の奥がズキンと甘く痛むと、そのまま止まらなくなった。
――再びボールをつく音が体育館に響いた。
瞬はドリブルをしながらゆっくり進むと、スリーポイントラインの辺りで立ち止まった。
雅季はその様子を黙って見守っている。
「…こんなのどうかな」
立ち止まったまま、その場でもう一度ボールをバウンドさせると、シュートを打つように額の前でそれを構えた。
「――入ったら、俺は先生にキスができる、とか」
前方に佇むゴールリングから一切目線を外さずに言った。
自分に言い聞かせるように言葉を発した彼を、雅季は瞬きもせず息を詰めて見ていた。
束の間の静寂が訪れると、次の瞬間にはボールは瞬の手を離れていた。
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