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第2話
束の間の静寂が訪れると、次の瞬間にはボールは瞬の手を離れていた。微かに風を切る音が聞こえ、ボールはそのまま弧を描いてリングの手前に当たった。
跳ね返って落ちたボールのバウンドする音が、静寂の中で嫌に響いた。徐々にバウンドが小さくなると、それはやがて転がって雅季の足元に辿り着いた。
「…言い訳があればいいかなって、思ったんだけどな。…失敗」
瞬は口元で笑顔を作りながら、焦点の定まらない目線を細めた。
「……どっちならいいと思った?」
瞬は問い掛けたが、それでもずっと黙ったままの雅季を見ようとはしない。
「ごめん、…忘れて」
鼻先を指で掻くと、一人静かに笑って完結させた。
そしてスケッチブックを取る為舞台の方へ歩き出すと、背後でボールをつく音がした。
雅季は手にボールを戻すとゆっくりと頭上に掲げ、シュートを打つフォームを作った。
―そして言った。
「――入ったら、俺は雪村にキスができる」
美しいフォームから放たれたボールは、そのまま美しく弧を描き――
薄暗さの増した体育館に、ネットを揺らす音が響いた。
その音が雅季の耳に入ってきたのは、瞬に呼吸ごと奪われた直後だった。
「んっ――…」
大きな両手で顔を包み込まれ、噛みつくように唇を塞がれた。
薄く開いていた唇の隙間から、彼の熱い舌が潜り込んでくる。口腔を掻き回されて舌を吸い取られると、雅季の身体は一気に熱を持って痺れた。
「んぅ…、はっ…」
唾液の交じり合った、くちゅくちゅという音が頭の芯を甘く刺激する。雅季はいつの間にか瞬に両腕で必死にしがみつき、夢中で舌を絡ませていた。
――お互いに余裕のない、貪り合うようなキスだった。
雅季は取り残されたボールを拾い、今度こそ片付ける為に体育倉庫に向かった。
唇にはまだジンジンと痺れているような感覚が残っている。
(…越えてしまった……)
ずっと踏み留まっていたギリギリのラインを、自分はついに越えてしまったのだ。
理性で考える余裕などなかった。瞬のあの姿を見たら、あの言葉を聞いたら、考えるよりも先に身体が動いてしまっていたのだ。
(…ファースト・キスって…言ってたよな…)
ボールをカゴに戻すと体育倉庫の暗闇の中で一人、雅季は自分の唇に手を当てた。指で触れるだけでさっきまでの刺激がよみがえる程、そこはまだ敏感なままだ。
(…あれで初めてのキスかよ……)
激しく濃厚に求めてきた瞬のキスを生々しく思い出してしまい、雅季は一人で赤くなる。
(…ガキのくせに…)
最後には頭の後ろを手で押さえられ、深くて長い口付けを強いられた。今にも砕けそうだった雅季の腰は、いつの間にかもう片方の手でしっかりと抱き止められていた。
「―…はぁ…」
大きく声に出してため息をつくと、もう一度自分のしてしまった事を後悔した。
すると後ろから大きな腕がまわってきて、その腕が優しく雅季の身体を包んだ。
「…先生は、悪くないから」
耳元で瞬の柔らかい声が囁く。
「俺が勝手に、したことだから…」
瞬は雅季の立場も気持ちも、全部理解していて全部受け入れてくれる。雅季はそれが嬉しくて、そして苦しい。胸の前で交差した逞しい腕にそっと手を重ねる。
「先生、俺は幸せだよ――」
そう言って瞬は、雅季の髪に優しくキスを落とした。
校舎を出ると辺りはすでに真っ暗になっていた。夜を背景にした桜が、花びらを街灯に照らされてふわっと浮き上がるように見えた。
「…綺麗だね」
漆黒の中で凛と佇むその姿は、昼間の姿とはまた趣が違って美しい。瞬と見上げる景色だから、より一層そう感じているような気がする。
「…ああ、夜の桜、描きたいなぁ…」
桜を映した瞳を僅かに潤ませて、瞬はスケッチブックを持つ手に力を込めていた。
(…本当に、絵が好きだな…)
「先生と見てるから、尚更そう思うのかな」
桜を宿していた瞳に、今度は雅季を映して微笑む。
「―…でも、もう散り始めるんじゃないか?」
同じような事を考えていた自分に内心照れながら、ごまかすように言った。
「明日は入学式なのに、一日雨予報だしな…」
「そっかぁ、残念だな…」
芸術的な事には疎い雅季だが、瞬の気持ちはなんだかわかるような気がした。
儚く美しいものの一瞬を、自分の手で永遠に残す事ができるのならそうしたいと思うだろう。それは誰かにとっての写真だったり、詩だったり、瞬にとっての絵だ。
「先生、今日もサーモン料理付き合ってくれる?」
瞬は気を取り直して、今夜の献立を考え始めている。
「瑠璃のやつ、今夜も友達と外で食べてくるって。もう全然戦力じゃないよ…」
「…俺は飽きないよ。お前の作る料理、どれもうまい」
「え!」
思わず大きい声を出して驚いた瞬に、雅季の方も驚いてしまう。
「本当? いつもは冷たくあしらう先生が、俺を褒めてくれるなんて…」
珍しすぎると狼狽した様子で言われると、雅季は少しイラっとした。
「俺…もう死ぬのかな。今日だけで幸せすぎて、ヤバイ…」
体育館での事を暗に持ち出されて、雅季は些か居心地が悪くなってしまう。
「…小さい幸せだな。あれぐらいで満足なのか」
「――!」
(あ、まずい。なんかこれだと――)
自分の言った言葉が変な意味に響いた気がして、雅季は横を歩く瞬の様子を窺う。隣に瞬の姿はなく、数歩後ろを振り返ると案の定、彼は真っ赤な顔をして固まっていた。
「…っ、…っ」
口をパクパクさせて、声にならない言葉を発している。その様子はやっと、雅季の目に年相応に映った。恋愛に奥手な純情な高校生。
(…あんなキスしておいて、何なんだ、このギャップは…)
自分の言った言葉の意味を訂正しようと思ったけれど、やっと大人の自分が上手になれた気がして、このままでいる事にした。子供じみた優越感だ。
「…夕食、サンドイッチがいいな。できる?」
金魚のような瞬を放置したまま、雅季は勝手に話を元に戻した。
マンションに着くと、雅季は一旦自分の部屋へ帰った。
瞬はまだ胸をドキドキとさせながら、雅季のリクエストであるサンドイッチに使える材料があるか、確かめる為に冷蔵庫を覗いた。野菜室に玉ねぎとキュウリがあったので、サーモンと合わせてマリネにしてバゲットに挟むことにした。夕食にサンドイッチは、瞬の感覚では少し不釣り合いに感じたがそれほど気にしなかった。それどころではなく、瞬は幸福感で胸がいっぱいだ。
―ピンポーン
夕食の準備はとっくに終わり、やっとインターホンが鳴って出迎えると、雅季は手に魔法瓶とブランケットを持って現れた。
「夜桜、描くとしたら何で描く?」
唐突に何の脈絡もない質問をされて、瞬は面喰った。
「えっと…パステルかなぁ。すぐに仕上げられるし」
「よし。じゃあそれとサンドイッチ持って、着いて来い」
「??」
瞬は状況が全く理解できなかったけれど、言われるがままに従っていた。
二人はエレベーターに乗ると最上階である十二階に向かった。
住居の並ぶ廊下を一番奥まで進むと、住居用の扉よりも簡素で少し小さめのドアがあった。雅季はそのドアに見慣れない鍵を挿して開けると、中の階段を上がった先にあるドアにも同じように鍵を挿した。
その扉を開けた瞬間、屋外のひんやりとした風が吹き込んだ。外に踏み出すと、新鮮な空気を全身に感じる。頭上には夜の空が満天に広がっていた。
「ここ、屋上? こんな所あったんだ…知らなかった」
学校の屋上よりは少し狭いけれど、十二階建ての高さのこの屋上は、何とも言えない解放感だ。
「その鍵、どうしたの?」
「管理人室に行って借りてきた。学校の課題で、屋上でやりたい事があるって言って」
鍵をポケットにしまうと、雅季はそのまま進んで柵の所まで行った。
「見ろよ、こっち」
促されて雅季の後を追い、柵まで辿り着くと瞬はその光景に息を呑んだ。
「学校の屋上からよりは遠いけど、あそこは高台にあるから、ここからでも充分見える」
「っ―……」
眼下に広がるその光景は、瞬の思い描いたキャンバスそのものだった。
住宅街の明かりがキラキラと星屑のように一面に広がり、その上で光を浴びながら帯状に浮かぶ淡い花霞。視界の全てが夜空と溶け合って、それは満天の星の中をふわふわと漂う細長い舟のように見えた。薄くピンクに色付いた、儚くも美しい一隻の舟。
言葉を失って佇んでいた瞬が、おもむろに鼻を啜った。
「――先生、俺、やっぱり…」
瞬の瞳が捉えていた美しい世界が霞んだ。
「幸せすぎて、死にそうだよ――…」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、雅季に向けて微笑んだ。
ブランケットに包んで持ってきたランタンに火を灯し、揺らめく明かりの中でサーモンマリネのサンドイッチを食べた。魔法瓶には淹れたての熱いコーヒーが入っている。
「ふふ、デートみたい」
臆面もなく嬉しそうに言ってサンドイッチを頬張る彼を、雅季はコーヒーを啜って見ていた。
(…これぐらいで、そんなに喜んでくれるなら…)
胸の中がじんわりと温かくなっていく感覚がする。
―食欲を満たし一息つくと、瞬はランタンの明かりをたよりに絵を描き始めた。
「…それだけの明かりじゃ、色とかわからないだろ」
「あんまりね。でもそれもおもしろい」
雅季は瞬の向かいの柵に寄りかかってブランケットに包まると、絵を描く彼を眺めた。雅季の眼差しを一身に受けると、瞬は困ったようにはにかんだ。
「…先生、そんなじっと見つめられると照れるんだけど…」
「…うん」
「…先生、見てるだけで退屈じゃない?」
「…うん」
何度か相槌を返すだけの会話をしている内に、小さく寝息を立て始めた雅季を見て、瞬は愛おしそうに目を細めた。
「…先生、大好き…」
「…ん…」
まどろみの中でまだ微かに相槌を続ける雅季に、瞬は顔をほころばせた。
ふと目を覚ますと向かいに居たはずの瞬は、雅季の肩に頭をのせながら隣で寄り添うように眠っていた。
(…絵…描けたのか…?)
ランタンの火ももう消えていて、辺りは真っ暗で絵の様子もわからない。
空を見上げると、漆黒の中でいくつかの星が輝いているのが見える。
見上げた先には夜空の他には何もなくて、まだぼんやりとした意識の中で、もしかしたら星に手が届くんじゃないかという気がしてくると、思わず手を伸ばしていた。
星には触れられないまま宙を彷徨った雅季の冷えた左手が、夜空の中で瞬の右手に暖かく包まれた。
重なり合った手は地上に降りるまでに何度か形を変え、最後には指を絡ませて繋がれた。その手に引き寄せられるように向かい合った二人の顔が、暗闇の中で静かに重なる。
触れるだけの、幼いキスだった。
翌日は予報通り朝から雨だった。
「もうー! なんで雨なのよー!」
おろしたての制服が雨に濡れないように、大きめの赤い傘で守りながら瑠璃が嘆いた。しっかりとした雨が降り続く中、瞬と瑠璃は並んで桜並木の坂を歩いている。
「…散っちゃうなぁ…」
容赦なく雨に打たれながら、花びらが雨の滴で艶めいている。
「お兄ちゃん、恥ずかしいからカメラ首から下げるのやめてよー」
瞬の首には立派な一眼レフカメラが下げられていた。
「え? だってちゃんと写真に撮って送れって、母さんが…」
「こんな雨なのにー?」
心なしかマンションを出た時よりも、雨足が強くなっているようだ。
瞬はズボンの裾が、雨のせいですっかり色が変わってしまっていることに気が付いた。元はネクタイと揃いの深緑色のチェック柄だったのが、膝下辺りから柄を無くして黒っぽく見える。
「あ、ヒナちゃんだ!」
正門の前に何人かの教師が立っていた。新入生を迎える為のようだ。瑠璃はその中に雅季がいるのを目ざとく見つけると、水たまりに気を付けながら小走りに向かった。
「おはようございます!」
元気よく挨拶をされてそれが瑠璃だと気付くと、雅季は教師の顔を少し緩めて挨拶を返した。瑠璃の後ろから現れた瞬が首にカメラを下げているのを見ると、傘の中でクスクスと笑った。
「貸して。撮ってやる」
手を差し出されると、瞬は少し恥ずかしそうに唇を噛みながらカメラを首から外した。
「あの生徒会長さん、すごく綺麗だったー!」
自宅のキッチンで夕食の準備を手伝いながら、瑠璃はうっとりとした表情を浮かべている。生徒会長である皐は、入学式で在校生代表として壇上で祝辞を述べた。
「日本人形みたいだったー! 美しすぎて眩しかったー!」
瞬の耳には些か大袈裟に聞こえたが、本人はいたって真剣なようだ。瑠璃は昔から綺麗な物や人が人一倍好きだったが、ここまで高揚した様子は初めて見る。
「お兄ちゃん、友達なんでしょ? 鮭あげたって言ってたよね?」
「…うん、まぁ…」
友達…と言っていいのか。皐とはよく話すようになったが、本人が個性的なので瞬にはまだよくわからない。そういえば今朝も、ずぶ濡れで登校した瞬に、彼女は無言で制服を乾かす為にドライヤーを貸してくれたっけ。
「お兄ちゃんばっかり美人と仲良くてズルイー!」
雅季の事を言っているのか。瑠璃は初めて雅季を見た時も「美人だ」と言って興奮していた。
「あれ、そういえば今日はヒナちゃん食べないの?」
浮かれていた瑠璃は、今更ながら二人分の準備しかしていない食卓を見た。
「うん、今日はいいって」
今日もメールで誘ってみたが、いつもと同じそっけない言葉で断りのメールが返ってきた。特に理由も書いてはいなかった。
「さては、逃げたな~」
自分の事は棚に上げて瑠璃が言う。
瞬は呆れた顔で、テーブルに今夜のメインである鮭の香草焼きを置いた。
雅季は今朝洗って水切りカゴに入れておいたひよこのマグカップに手を伸ばしかけたが、少し考えた後、あまり使っていない予備のカップを二つ食器棚から取り出した。
「一人にしては広い部屋だな。使ってない部屋とかあるだろ」
「…まぁ、物置状態だな」
コーヒーをカップに注ぐと、ひとつを相原の前に置いた。相原は家主の許可を得てから、煙草の箱とライターを取り出す。
「でも学校近くていいよな。俺、居候しようかな」
相原は冗談とも本気とも取れる言い方で、にっこり笑うとカップに口を付けた。
「雅季の淹れるコーヒーは、昔からうまいな」
また呼び捨てにされた事にピクッと反応する雅季を見て、彼は薄笑いを浮かべた。
「もう学校じゃないぜ?」
「…そもそも先輩を呼び捨てにするのは、どうなんだ…」
カップの中で小さく呟いたのが聴こえると、今度は声に出して笑い出す。
「今更だな」
遅くまで職員室に残って仕事をした後、彼に誘われて少し居酒屋に寄った。明日に残らないように、雅季はビールを一杯飲むだけで済ませた。相原は結構飲んでいたけれど、昔から酒には強いので酔ってはいないようだ。彼が電車で帰宅する前にコーヒーが飲みたいと言ったので、雅季の部屋へとやって来たのだ。
(…雪村は、今日も鮭かな…)
今頃隣の部屋では、夕食を終えて後片付けをしている頃か。
(次は俺が、鮭じゃない他の物を作ってやるか…)
「物思いにふけるなよ」
無意識の内に雅季は、カップを口に運んだまま遠い目をしていた。
「…別に」
一旦相原の方を見てから、再びカップの中のコーヒーに視線を落とした。伏せた目が長い睫毛の下で揺れている。相原はそれをじっと見つめた。
―相原がこの春に雅季と再会したのは、雅季が大学を卒業して以来の事だった。
大学時代、二人は同じ学部で同じサークルに所属していて、何かと波長が合い一緒にいる事が多かった。
雅季はその頃から今と変わらず不愛想で口数も少なく、整った顔立ちはハンサムというよりは『美人』という表現の方が合っていて、その風貌もまた近寄りがたい雰囲気を醸し出していたのだ。相原はそんな雅季に興味を抱き自分から近付いた。高校時代にバスケ部だったと聞くと、バスケットボールのサークルに誘ったのも相原だった。
在学中の大半を一緒に過ごしたが、雅季の卒業後、こうして再会するまで疎遠になってしまっていたのには理由があった。
――彼は二本目の煙草に火を付けた。
「そういえば、サークルで一緒だった梶と森田さん、今度結婚するんだって」
大学の頃に想いを馳せていた相原が、おもむろに言った。
「…へぇ」
「…知ってたか? 森田さん、大学の時お前に惚れてたんだぜ」
「……」
「お前、モテたもんなー。男女問わず」
「…それは自分だろ。俺と違って社交的だったし」
雅季には自分がモテていたという記憶は全くない。雅季に話しかけてくる人なんて限られていたし、告白された事だってほとんどない。
「ああ、それ。実は俺がだいぶ阻止していたんだよね」
空になったカップを手の中で持て余しながら、相原がポロッと告白した。
「みんなお前の外見だけで、中身なんて何も知らないくせに好きだとか言うから、ムカついて。雅季には長年の恋人がいるって噂流したりしてさ」
「……」
二人の間に短い沈黙が訪れたが、そこに流れた空気は共通の思い出を辿っていた。
「…さて、帰るかな。ごちそうさま」
相原が椅子から立ち上がると、連れ立って玄関へと向かった。
一人になった相原は七階のエレベーターホールで、ちょうど開いたエレベーターの中から降りてきた少女とすれ違った。彼女の顔に見覚えがあるような気がした。
「…あれ、相原先生…ですよね?」
彼女の方も同じだったらしく、少し間を置いたあとに話しかけられた。
「わたし、雪村瑠璃です。新入生の」
『雪村』と言われて思い出した。今朝校門の前で、雅季が写真を撮ってあげていた女生徒だ。雪村瞬と一緒に――。
「あ、もしかしてヒナちゃんの所からの帰りですか?」
「…ああ。…君は?」
彼女の服装は白いパーカーにピンクのジャージというラフなものだった。手にはコンビニのビニール袋を下げている。
「うち、ヒナちゃん家の隣なんです。アイス食べたくなって、下のコンビニに行った帰りで」
マンションのすぐ隣にはコンビニがある。ラフな服装なのを気にしてか、彼女は照れながらビニール袋を掲げた。
彼女の履いているクロックスが目に入ると、相原は先日雅季の部屋を訪問した時に見た玄関の様子を思い出した。雅季の革靴の他にサンダルが二足並んでいた事を。
「…アイス二個?」
「あ、家族の分ですよ! 一人で食べるんじゃないです!」
瑠璃はより一層顔を赤くしながら慌てて否定する。
「家族って…お兄さん? ご両親は?」
「両親は今海外にいて。お兄ちゃんと二人暮らしなんです」
「はぁー…」
瑠璃はリビングに入るなり、盛大にため息をついた。
「ちゃんとした格好で行けばよかったー!」
「それより、こんな時間に外出るなってー。どこ行ってたの?」
ちょうど風呂から上がったところの瞬は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと時計に目を向けた。もう少しで十一時を回るところだ。
「…下のコンビニ。お兄ちゃんもアイス食べるでしょ?」
頬を膨らませて口を尖らせながら、ビニール袋からアイスクリームを取り出している。
「今そこで先生に会っちゃってー。イケメンの前でこんな姿晒しちゃったー!」
まだ喚いている瑠璃の言葉に、瞬は咄嗟に反応した。
「―先生って?」
雅季の事なら『先生』とは言わないはずだ。
「相原先生。ヒナちゃんの所に行ってたんだってー。仲良いんだね」
瞬はもう一度、時計に目を向けた。
「――何」
真夜中に突然現れた瞬を、雅季は不機嫌そうに出迎えた。
「―っ! 先生、裸で出てこないでよ!」
瞬は上半身裸の雅季を見るなり、一気に顔を真っ赤に染めて視線を泳がせた。
(…自分こそなんだ、その格好は…)
彼は風呂上がりなのか、肩にタオルをかけたままで髪も濡れている。
「…なんで裸なの?」
瞬は雅季から視線を外したまま、抱えていた不安を更に募らせていた。
「風呂入る所だったんだよ」
苛立ちを含んだ声で即答すると、背中を向けて部屋の奥へ戻って行った。雅季はバスルームへは向かわず、寝室からシャツを羽織って現れた。
瞬はリビングに足を踏み入れた瞬間に、憶えのある苦い香りに鼻腔を刺激された。
――相原の煙草の香りだ。キッチンには濡れたままの、洗い立てのマグカップが二つ並んでいる。二つともいつものひよこのカップではなかった。
「――相原先生と何してたの?」
突然彼の知らないはずの事を言われ、怒りを抑え込んでいるようなその響きに雅季は驚いた。
「…別に。話してただけだ」
煙草の匂いがまだ部屋に残っている事に雅季も気付いていた。煙草を吸わない雅季の部屋には似つかわしくないその香りが、瞬を眩ませているのか。
「先生、あの人と何かあるの?」
充満する苦い香りが、嫌でも屋上での出来事や廊下で見た光景を鮮明に思い出させる。
「…何かって何だよ」
「――…」
それを言葉には出来ないほど、瞬にとっては考えたくない事だった。
「…そんなこと聞く為に、こんな夜中に来たのか?」
カップを片付け始めた雅季の腕を、瞬は強引に掴んだ。
「!」
その拍子に手に持っていたカップを床に落としてしまい、音を立てて転がったそれは少し欠けてしまっていた。
「お前、何す――」
腕を振り解こうともがく雅季を、壁に押し付けると瞬は手首を掴んだまま掻き抱いた。荒い呼吸が耳元で聞こえたかと思うと、次の瞬間熱い舌が耳の中に侵入した。
「っ―…!」
熱い吐息に交じって、くちゅくちゅと湿った音を立てながら中で抜き差しを繰り返される。その動きは雅季の官能を刺激して鼓膜まで響いた。
「っ…あっ…」
ゾクッと背筋が粟立ち、反射的に甘く掠れた声が漏れてしまう。
彼の濡れた髪や身体から発する洗いたての芳しい香りに紛れて、欲情の熱を感じると雅季は思わず身震いした。
耳の奥を執拗に弄っていた舌先が今度は耳朶をねっとり舐めると、唇に含んで優しく噛んだ。
「んぁっ……」
甘く強引に蠢いていた舌が首すじを這い出すと、同時に彼の手がシャツの間を縫って素肌に触れた。熱い舌先とは対照的な冷たい指先に腰を撫でられて、ビクンと身体が跳ねる。
背中の窪みに沿うように優しくさすり上げられると、指先の触れた場所からゾクゾクと熱を帯び出していく。
「…はぁっ…」
雅季は徐々に足の力が抜けていき、甘い熱に思考を奪われていくのを感じた。手首を掴んでいた瞬の手が離れ、その指先で顎を持ち上げられる。
「…先生……」
彼の欲情に掠れた声が震え、雅季を呼んだ。
その熱い息を唇に感じた瞬間、雅季は僅かに残っていた理性を振りしぼって、解放された手を瞬の頬に打ち付けた。
パンッ、と乾いた音が鳴り響くと、雅季は足の力が抜けてズルズルとその場に崩れた。
シャツがはだけて露わになった肩を上下させて息を切らせながら、じんじんと熱を持って痺れたままの耳を覆うように手で押さえて瞬を見上げた。
彼は頬を打たれた状態のまま、その場に立ち竦んでいた。その肩からはいつの間にかタオルが落ちていた。
「…お前…、帰って頭、冷やせ……」
息も切れ切れに雅季が言うと、彼は腕で目を拭って部屋を出て行った。
――一人きりになった部屋で、雅季は立ち上がることもできずただ呆然としていた。
瞬によって官能を呼び起こされた身体は、なかなか静まってはくれなかった。
煙草の匂いと嫉妬に駆られてぶつけられた瞬の欲情は、雅季の全身に強烈に痕を残した。
「…くそっ、耳、弱いんだって……」
誰に言うでもなく、一人嘆いて膝を抱えた。
――「あの人と何かあるの?」――瞬の苦しそうな台詞を思い出す。
彼が何を知りたがったのかはわかっていた。けれど自分は誤魔化した。彼の不安を拭ってあげたかったが、今真実を知ってもその不安は解消できないと思ったのだ。
床に落ちていたタオルを拾って鼻に当てると、ほのかにシャンプーの香りが残っていた。それは煙草の残り香で充満したこの部屋で、唯一の安らぎになった。
翌朝、いつもなら雅季を起こしに来る時間になっても瞬は現れなかった。
(……弱虫)
想定内とばかりに身支度を早々に済ませていた雅季は、自ら瞬を迎えに行った。
「あ、ヒナちゃん! お兄ちゃん、珍しく起きてこないんです。どうしたのかなぁ」
瑠璃はすでに制服を着てかばんを持っていた。
「わたしもう行くんで、あとお願いします!」
勝手にそう託すと、彼女は腕時計に目をやりながら騒々しく出て行った。
とりあえず形だけ彼の部屋をノックし、返答がないとわかるとすぐにドアを開けた。
「雪村、起きろ」
瞬はまだベッドの中だった。頭まで布団をかぶっていたが、雅季の声にビクッと反応したのを見ると起きてはいるらしい。
雅季は遠慮なく部屋の中まで入るとベッドの端に腰掛けた。その重みでスプリングが少し軋むと、再び瞬の身体が布団の下で跳ねた。
「一緒に行かないのか?」
「………」
「起きないのか?」
「………」
何を訊いても、彼は一向に話そうとしない。雅季は話しかけるのを諦めると、おもむろに瞬の上に乗りあげた。
「――!」
瞬は突然の重みにびっくりして思わず布団から顔を出した。その瞬間、目の前にあった雅季のいつもの無表情と目が合ってしまう。
「!」
彼は顔を赤くして、慌ててもう一度布団の中に潜った。
雅季は布団の上で瞬を覆うようにして乗ったまま、少し迷ったが言おうと決めた。
「昔、相原に告白された」
「――」
布団の奥で息を呑む音が聞こえた。
「俺は男に興味なんてなかったし、相原をそういう風には思えなかったから断った。でもあいつは強引な奴だから、無理矢理迫られて――」
そこで言葉を切ると、耐えられなくなったのか、息巻いた瞬が布団から顔を出した。
「迫られて――?」
怒りを露わにした表情の彼を見て、雅季はニヤッとほくそ笑んだ。
「! 騙したの?」
「いいや。本当の事だよ」
瞬を布団から出す為に、途中で言葉を切ったのは確かだが、話した内容は全て事実だ。
「―迫られて、俺があいつを殴って、それっきり」
そして雅季の学校に相原が赴任してきて、数年ぶりに再会したのだ。
あの頃から時は経ち、もうお互い大人になっていたので、その過去には敢えて触れず旧友として振る舞った。
「………」
真実を知って何を思っているのか、瞬は黙り込んでいる。
しばらくして口を開いた時、彼の声は少し震えていた。
「俺も…男だよ……」
(知ってる。なのに、俺は――)
「お前はお前だよ」
思いがけない返答に、瞬は嬉々とした瞳で顔を上げたが、またすぐに思い出したようにつらそうにその顔を歪ませた。
「俺も…先生に、無理矢理…」
―昨夜の事を言っているのか。
「…別に嫌だったわけじゃない。お前が、頭に血が上ってたから―」
照れ隠しか、いつにも増してぶっきら棒に答える雅季を見て、瞬の顔がみるみる輝いていく。
「叩いたのは…まぁ、悪かった」
そっぽを向いてベッドから降りようとすると、瞬が後ろから抱きしめた。
「先生、ごめん…。ごめんね…」
ふわっと彼の香りに包まれると、雅季は自分の心が安堵するのを感じた。
「――じゃ、俺行くから」
瞬の手を払いのけると、スクッとおもむろに立ち上がった。
まだ余韻に浸っていた瞬は、雅季の一瞬の切り替えに呆気に取られる。
「え? 待っててくれないの?」
「朝練に遅刻するだろ。女々しいお前が悪い」
ズバッと言い放たれ羞恥に頬を染めるが、真実なので言い返すことができない。
その間も雅季は着崩れたスーツを直すと、すぐに足元に置いていたかばんを手にした。彼に引き止める隙も与えず、さっさと出口に向かう。
「あ、そうだ」
雅季が部屋を出ようとした時、何かを思い出したように振り返ると、瞬は何か嬉しい言葉をかけてもらえると思ったのか、期待に満ちた眼差しで顔を上げた。
「昨日お前のせいで欠けたマグカップ、ちゃんと弁償しろよ」
冷やかに言い残して部屋を出て行った。
「………」
一人取り残された瞬は、誰もいなくなった開いたままのドアを虚しく見つめる。
すると、行ったと思っていた雅季が、もう一度顔だけ覗かせてダメ押しをした。
「ひよこはやめろよ」
―遠くで玄関の閉まる音が聞こえた。たった今まで漂っていたはずの甘い空気は、もう跡形もなく消えていた。
―見事に咲き誇っていた桜はだいぶ散り、すでに若葉が芽吹き始めていた。雅季は図書室へと続く渡り廊下に佇みながら、心地良い葉擦れの音を聴いていた。
今年もまた身体測定の日が来た。去年のその日、この場所で瞬に想いを打ち明けられたのだ。
「考えてること、当てようか」
柔らかい風に乗って、柔らかい声が耳に届いた。
誘われるようにゆっくり振り向くと、その光景が去年の姿と重なっていく。瞬は手にあの時と全く同じ、測定結果の紙を持っている。
「…もう身長自慢はいいって」
少し悔しげに雅季が言うと、彼はそんなことはお構いなしにまた高らかと紙を掲げた。
「先生とちょうど十センチ違いになったよ」
(――屈辱だ)
瞬の事は放置すると決めると、雅季は無言で足早に図書室に向かった。
「ちょっ、先生!」
「さっさと戻れ。次、体育だろ」
雅季に無視を決め込まれ、咄嗟に後を追おうとした瞬は足を止めた。
そのまま言うことを聞いて教室に戻って行ったのは、雅季が自分の時間割を把握していた事が嬉しかったからだ。
図書室は旧校舎のはずれにあった。建物はだいぶ古く、今では一階の図書室と四階の古い美術室を美術部が部室として使っている以外は、もうほとんど使われずに空き教室になっている。
図書室に続く廊下は昼間でも薄暗くひんやりとしていて人気がない。
雅季は昼休みや授業のない時にはよくここに来ている。ほとんど誰も寄り付かず、本校舎からも離れているので静かで落ち着けるのだ。時々本棚の奥から、カップルであろう男女の生徒が気まずそうに現れることもあるのだが。
今日はもう午後の授業は入っていなかったので、ホームルームまでの時間をここで過ごそうと思っていた。読んでおきたい資料があったのでここなら集中できるだろう。
図書室に入ると、案の定今日も誰もいないようだった。雅季は自分の指定席になっている窓際の席に着くと本を開いた。
そのうち僅かに射し込む木洩れ日が心地良くて、頬杖をついたままウトウトと睡魔に襲われ始めていた。
次に気が付いたのは耳元で、吐息で囁くように名前を呼ばれた時だった。
「雅季…」
耳に生温かい息を感じ、反射的にビクッと身体が跳ねて飛び起きた。
相原が背後から雅季の身体をすっぽりと覆うようにして密着していた。
「……近い」
不機嫌そうに相原の胸板を肘で押し退けると、彼はいつもの薄笑いを浮かべて押されるままに身体を離した。
「なんでいるんだよ」
どのくらい寝入ってしまったのか、不安になって腕時計で時間を確認する。
「雅季のお気に入りの場所だって言うからさ。どんなものかと思って」
「一人になれるから気に入っているんだ」
わざと棘のある言い方をしたが、相原は少しも悪びれる様子を見せずに、棚に並ぶ本を物色している。
雅季は耳元で彼の体温を感じた時、一瞬にして過去の記憶が脳裏によみがえっていた。もう何年も前の事だったので彼と再会しても薄らいだままだった記憶が、今になって鮮明に思い出されたのだ。相原に押し倒された日の事を――。
「…俺、もう行くわ。もうすぐホームルームだから」
相原の反応も待たずに足早に図書室を後にした。
相原の事だから、雅季の態度に何か思ったかもしれない。昔から何かと鋭い奴ではあるが、特に雅季の反応には敏感だった。
薄暗い廊下を逸る気持ちで歩きながら、雅季は無性に瞬に会いたいと思った。
ホームルームを終え、一組の横を通った時にはすでに彼の姿は教室になかった。
もう帰ったのかとも思ったが、今は新入生の仮入部の時期だった事を思い出すと、きっと美術室だろうと見当をつけた。早めに行って準備をしているのだろう。
(あれでも一応部長だからな…)
自分も早く体育館に行かなくてはと思ったが、足は旧校舎に向かっていた。
先程から嫌に響くこの動悸は、瞬に会わない事には鎮まらない気がしたのだ。美術部とは全く関係のない雅季が美術室にいるのを、他の生徒に見られたら不審に思われるかとも思ったが、それが足を止めるには至らなかった。
一気に四階まで駆け上がったせいか、息を切らせながら部室のドアを勢いよく開ける。広い美術室の中には誰の姿もなかった。
「――…」
しばらく息を弾ませて呆然としていると、奥の準備室から瞬が顔を出した。
「! 先生? どうしたの?」
こんな場所にはいるはずのない雅季に驚いて、目を丸くしている瞬の方へ足早に駆け寄った雅季は、そのまま彼の手を取ると準備室の中へ引っ張ってドアを閉めた。
鍵を掛ける音が瞬の耳に届いた次の瞬間、彼の広い胸に雅季はすっぽりと収まっていた。
「!」
瞬は言葉にならない声で更に驚いて目を見開いた。この状況が幸せすぎて、思考が追いつかないでいるようだ。
「…先生? どうしたの?」
雅季は瞬のジャケットの襟を両手で握りしめて胸に顔をうずめている。その手が微かに震えているのに気付くと、瞬はそっと華奢な身体に腕をまわして抱きしめた。
そのうち雅季の呼吸が大きくなって深呼吸のようになった。瞬の匂いを思いきり嗅いでいるように見える。
「せ…先生?」
最後にもう一度、一番大きく深呼吸をすると顔を上げた。
「よし」
すっきりしたような表情で頷くと、雅季は何事もなかったように廊下側のドアから部屋を出て行った。
「??」
一人取り残された瞬は訳がわからず呆気に取られながら、高鳴っている鼓動を持て余すしかなかった。
入学式から日も経ち、教師達もだいぶ落ち着いてきたこの日、金曜日だった事もあり少し遅めの新任教師の歓迎会が行われた。
学校から桜並木の坂をもう少し進んだ所に居酒屋がある。この居酒屋は学校から近い事もあって、以前から教師達の行きつけになっている。先日雅季が相原と飲んだのもこの店だった。
純和風の店内には少人数向けの仕切りで区切られた半個室と、大人数用の座敷がいくつか並んでいて、それぞれの座敷の真ん中には昔ながらの囲炉裏がある。
雅季は元々飲み会の類は苦手だったが、大人の付き合いとしてそうも言っていられないので渋々参加していた。あまり飲まないようにして、タイミングを見て早めに切り上げようと考えていた。
「雛野先生、どうぞ」
新任の若い女性教師・竹下が皆にお酌をしてまわっていた。雅季はお礼を言って注いでもらったが、手はつけないでおこうと決めていた。
「お前弱いんだから、あんまり飲むなよ」
つい今まで持ち前の社交性で年配の教師達と話を弾ませていた相原が、気付いたらもう雅季の隣に腰を下ろしている。
「お二人は大学が一緒なんでしたっけ。仲良いんですね」
相原のグラスにもビールを注ぎながら、竹下が会話を続けた。
「お二人とも若くてかっこいいって、女生徒達の間で評判ですよ」
「光栄ですね」
営業スマイルと言うのか、相原は慣れたように上辺だけでにっこりと笑う。
彼女は顔を赤らめながら、更に話を続けようとしたが、後ろの方からお酌に呼ばれてしまい、名残惜しそうにこの場を離れて行った。
「…お前に気があったな」
彼女が去ると雅季はビールの注がれたグラスをテーブルに置いて、かわりに水の入ったグラスを手に取った。
「興味ない」
二人きりになった途端、作り笑いをやめた相原が冷やかに言った。
二人はしばらく黙り込み、周りの喧騒を聴いていた。
「…大学の頃みたいだな」
相原はあの頃から外面が良く社交的で、飲み会でも常に上手く立ち回っていたが、その内に雅季の隣に落ち着き、今のように二人で喧騒を眺めることが多かった。彼はいつも、雅季の前でだけは素の表情を見せていた。
「…疲れないのか」
「…大学の時も、そう聞かれたっけ」
雅季の問いかけに、相原はふっと笑って目を伏せた。瞼の裏にサークルの飲み会の光景が映っていた。
「聞かれて、俺が何て答えたか憶えてる?」
雅季は答えなかったが、憶えていないわけではなかった。正確には、思い出していた。
「…俺は」
畳の上で隣り合っていた指先が僅かに触れた。
「お前がいてくれるから、疲れない――って」
相原の手がテーブルの影に隠れて雅季の手に重なった途端、雅季は反射的に逃げるようにその手でグラスを取った。そのまま口に運び一気に飲み干す。それがビールだと気付いたのは、グラスが空になった後だった。
「雛野先生、すごーい! 良い飲みっぷりですね!」
竹下が戻ってきていた。相原は何食わぬ顔で彼女に再び笑顔を向けた。
「もっと注いでやって。女性に注いでもらうと進むみたい」
「えー、大丈夫ですかぁ?」
口先だけ心配すると、彼女は嬉しそうに空になったばかりの雅季のグラスに注ぎ足していく。
意地悪く逃げられない状況を作られて、すでに酔いが回り始めた据わった目で睨む雅季に、相原はにっこりと微笑んだ。
陽が落ちてから降り出した雨が、暖かかった晩春の夜を冷やしていた。
瞬は何度も電話を掛けているのに一向に繋がらない雅季を心配していた。飲み会は早めに切り上げて帰ると言っていたのに、もう日付も変わってしまっている。
じっとしていられなくて、しばらく前から雨に濡れるのも気にせずにマンションの前をうろうろと歩いていた。
新任教師の歓迎会と言っていた。敢えて確認はしなかったが、そこに相原がいるのは明らかだ。その事が瞬の不安をより一層濃くしていた。
携帯電話をポケットから取り出しもう一度掛けようとした時、目の前にタクシーが一台停まった。しばらくして車内から降りてきたのは、酔いつぶれた雅季と彼を抱えた相原だった。
「――」
車内から瞬に気付いていたらしく、相原は真っ直ぐ瞬を見据えて降りてきた。自分の肩に雅季の腕をまわし、腰を支えるように抱いている。
瞬はその状態に苛立ちを隠せず、真っ先に酩酊しているらしい雅季に駆け寄った。
「――今は俺だけだからよかったけど、もっと気をつけた方がいいんじゃない?」
雅季のかばんを瞬の胸に押し付けると、相原が苦言した。
「いくら家が隣だからって、生徒がこんな時間に教師を心配して待ってるなんて、普通じゃないだろ?」
「――…」
正論で釘を刺されると、瞬は言葉を返すことができなかった。自分勝手で幼稚な嫉妬心に駆られ、そんな事にも気付けなかったのだ。
「変な噂が立ったら、雅季が迷惑する」
冷ややかに言い放たれると、瞬は唇を噛んだ。
「――すみませんでした」
悔しさを飲み込んで真摯な態度で謝った瞬に、別の反応を予想していた相原は少し驚いた。
瞬の声に引き寄せられるように、雅季は相原の腕を離れて瞬の方へとすり寄る。
「―先生…?」
呼びかけても反応はなく、小さく寝息のような音を立てている。
無意識であろう雅季の姿態を見て、相原は舌打ちをするとタクシーへと戻って行った。
相原の背中を見送りながら、瞬は大人の彼と、自分との差を痛感していた。
ひどい頭痛の中で目が覚めた時、雅季は自分のベッドの中にいた。
(…確か……相原にどんどん飲まされて…)
昨夜の記憶を辿ってみるけれど、どうやってここまで帰ってきたのかは思い出せない。
(…相原か…?)
一瞬、最悪の状況が頭をかすめたが、スーツのジャケットがハンガーにきちんと掛けて下げられているのが目に入った。自分の服装を見ると、ジャケットを脱いでいる以外昨夜のままだ。とりあえずは服を着ていた事に安堵し、重い頭を抱えて寝室を出た。
玄関ポーチに揃えられた革靴の向こうに鍵が落ちていた。靴棚の上には鍵を外したキーケースが置いてある。外から鍵を閉めて郵便受けから中に鍵を入れたのだろう。
律儀な対応をして行った相手に検討はついたが、どういった経緯で昨夜彼の世話になったのかはわからずじまいだ。
冷蔵庫を開けると昨日にはなかったはずのトマトジュースが入っていた。
月曜日になるまで瞬には会わなかった。
携帯電話には飲み会の夜に彼からの着信履歴が多数残っていた事もあり、一応介抱の礼のメールを送ったが、瞬にしてはそっけない文面の返信が一通送られてきただけだった。
休日はバスケ部の練習があったので雅季はそっちに掛かりきりになり、特別気に留めることもなく週末は過ぎたが、月曜日の朝受け取ったメールで瞬の異変を感じ取った。
『先生、ちゃんと起きた? 俺やる事あるから先に行くね』
月曜日、最初に彼に会ったのは三年一組の教室。数学の授業だった。
「雪村」
瞬のぼんやりとしていた意識の中に、突如雅季の声が入り込んだ。
はっとして顔を上げると、授業中の教室で教壇に立つ雅季が彼を直視していた。教師につられて何人かの生徒も振り返って瞬を見ている。
「保健室行け」
雅季の台詞を受けて、教室の中が少しざわついた。
「――」
瞬は微かに息を弾ませて額にうっすら汗を滲ませながら、雅季を見て呆然としていた。
「クラス委員、付き添ってやって」
「は、はい」
歴然とした態度で指示をする雅季に促されて、クラス委員の男子生徒が慌てて立ち上がる。
彼が手を貸しながら立たせてやると、瞬はふらつく足でよろめいた。その拍子に椅子がガタッと音を立てて倒れ、教室中のざわめきが大きくなる。
「雪村君、具合悪かったんだ…」
「全然気付かなかったー」
二人が出て行った後、何事もなかったように授業に戻った雅季を、皐がじっと見つめていた。
―授業を終えると、次は昼休みだったので雅季はこのまま保健室に向かおうとしていた。教室を出ようとした時、女生徒の声に呼び止められた。
「これ、ヤサオ君のかばん。担任に会ったら早退したって言っておきます」
『ヤサオ君』――いつか瞬が言っていた皐の呼び方だ。
「――ありがとう」
漆黒の瞳に見据えられ、雅季は全て見透かされているような感覚に陥った。
それは気のせいではないだろう。自分が真っ先に保健室に行こうとしていた事を彼女に気付かれていた。
養護教諭は一日外出の予定だったので、保健室には瞬しかいなかった。
閉じられたカーテンをそっと開くと、彼は眼鏡を掛けたままで仰向けになって眠っていた。教室で見た時よりも汗の量が増えているように感じる。
雅季は皐から預かったかばんを椅子に置くと、ベッド脇に添えられたもう一つの椅子に座って彼の顔を眺めながら、今朝感じた異変はこれだったのかと考えを巡らせていた。
額に手を当ててみると思ったよりも熱かった。授業中にはいつも掛けている眼鏡を外そうとして、彼の顔に手を伸ばすと、外された感覚に気付いたのか目を開けた。
「…先生」
虚ろな瞳で彷徨った視線が、雅季の顔を確認すると力なく微笑した。
「…お前、まさか週末ずっと寝込んでたのか?」
「……」
返事がないところをみると図星か。
「なんで言わないんだよ、言ってくれれば―」
声を荒げて病人を責める雅季の声を、瞬の言葉が静かに止めた。
「俺、もう一緒に登校しない事にする」
「――え?」
いきなり何を言い出すんだと、何の脈絡もなく宣言されて雅季は戸惑った。
「…噂になったら困るし」
「噂?」
(もう何年も一緒に通っているのに、なんで今になってそんな事…)
雅季は半ば呆れ顔だったが、瞬が涙ぐんで言うものだから無下にもできず会話を続けた。
「男同士で、別に噂になんてならないと思うけど」
「…男同士だから、余計変に噂になるかも…」
「…今更だな」
深く溜め息をつくと、雅季は声を苛立たせた。
「―俺がお前と入学前から知り合いなのは、先生方は皆知っているし、家が隣なのも知ってる。お前の家の事情もな。全部、最初に俺が話した。保護者代わりみたいなものだと思われてる。
―だから俺は、お前の担任にはならないんだよ。日頃の行いでも神様のせいでも何でもない」
学校の方針で、家族や親せきなど親しい間柄の生徒の担任にはなれない決まりなのだ。
特に秘密にしていたわけではなかったが、今まで敢えて話さなかった事を全部打ち明けてしまった。
瞬は雅季の話を聞くと、ベッドから身体を起こした。
「……知らなかった」
涙ぐんだ目は相変わらずそのままだったけれど、さっきまでの悲観していた色は消えている。
「なんで急にそんな事考え出した」
瞬は少し眉間に皺を寄せると黙り込んだ。話すつもりはないらしい。
雅季はその様子を見ると問い詰めるのは諦めて、椅子から移動してベッドに腰掛けた。
「…お前、俺に追いつこうとしてるのか、何なのか知らないけど」
―瞬は核心を突かれてギクリとする。
「大人になる必要なんてないから」
雅季は片膝をベッドに乗り上げるようにして、瞬に正面から向き合った。
「十も年下のガキに対等になられたら、大人として俺の立場がない」
いつもと変わらない静かで落ち着いた声が、瞬の心に沁み渡っていく。
「…あと威厳とか」
おまけのように取ってつけた一言が瞬の顔を綻ばせると、その表情は雅季の顔にも伝染した。
「――心置きなく、ガキでいろ」
雅季は子供にするように、手を伸ばして瞬の頭をポンポンと軽く叩いた。
そしてわざと大人ぶった表情を作って、ニッと口の端を上げた。
伸ばされた大人の手を掴むと、今度は瞬がいたずらを思いついた子供のようにニッと笑った。
その笑顔を見た瞬間、嫌な予感がしたけれど、逃げようとした時にはすでに押し倒されていた。
雅季の両手を拘束している瞬は、ニコニコといつもの顔に戻っている。
「…どけ」
「やだ」
彼は満面の笑みで拒否すると、次に続くのであろう雅季の文句を封じにかかった。
「んっ―…」
雅季は文句を言う暇も与えられずに唇を塞がれた。
重なった唇を舌で優しく舐められると、思わず開いた唇の隙間からすかさず舌が侵入してくる。その舌の熱さを感じて、彼に熱があった事を思い出す。
「…っ、お前、熱っ―…」
僅かな息継ぎの合間に、呼吸を乱しながら訴えるが瞬は全く聞く耳を持たない。
いつもより熱い瞬の体温が、深まっていく口付けと溶け合うと雅季に甘い眩暈を起こさせた。
「はぁっ―…」
貪り合った唇が名残惜しげに離れると、雅季は酸素を欲して深い呼吸をした。
視界が開けると真っ白な天井が目に入って、ここが保健室だった事を再確認する。瞬は雅季に覆いかぶさったまま耳元で荒い呼吸を整えていた。その熱を帯びた息遣いにさえ、雅季は敏感に刺激されてしまう。
「熱…上がったんじゃないか…?」
「…先生、俺ね…」
雅季の心配をよそに、瞬は熱に浮かされたように話し始めた。
「…本当はちゃんと、待つつもりだったんだよ。…先生が、先生じゃなくなる日まで…」
(…知ってる。お前は想いを伝えただけ。それ以上を求めようとはしなかった…)
「告白した時、『教師だから』って、言ってくれて嬉しかった…。キスを、…しようとしてくれて、嬉しかった…」
(俺は…結局お前を、惑わせただけだ…)
息を切らせながら紡ぐ彼の言葉は、ひとつひとつその光景を目の前に浮かび上がらせていく。
「…だけど、俺、ガキだから…。そんな悠長なこと、言っていられなくなった…」
夕暮れの体育館で、瞬が提案した『言い訳』を雅季は自ら受け入れたのだ。
「俺…もっと先生に触りたい…。もっとキスしたい……」
雅季の頭を抱き抱えるようにして、頬に唇が触れるほど擦り寄った。
「先生を、抱きたい――…」
「っ―――…」
欲情に濡れた瞬の声が、強烈な甘い痛みとなって雅季の全身を貫いた。
その声だけで、達してしまいそうだった―――。
これまで幾度となく彼に刺激されてきた雅季の官能は、今までにないほど高ぶってしまっていた。無意識の内に縋りつくように彼に抱きつき、疼いた身体をその重みで満たそうとした。
「んぁっ…」
張り詰めた中心が瞬の腹の辺りで圧迫され、その刺激に思わず甘ったるい声が出てしまう。
「先生……さわってもいい…?」
「…っ」
返事を待たずに、瞬の大きな手は雅季の足の付け根を優しく撫でるように触れた。
「すごく…硬くなってる…」
「おまっ…、言うなっ―…」
掠れた声で囁きながら頬にキスをされると、雅季は羞恥に顔を真っ赤に染めた。布地越しに形をなぞるようにやんわりと揉まれる。
「あ、…んっ」
いつの間にかネクタイが緩められていて、露わになった首すじをねっとりと舐め上げられると、雅季は快感に耐えられなくなり、瞬の手に自身を擦りつけるようにして腰を動かしてしまった。
「っ―」
鎖骨の辺りで息を呑む音が聞こえると、次の瞬間にはベルトの留め金を外す金属音がカチャカチャと鳴っていた。
ウェストが緩んだ途端に潜り込んできた、彼の熱い手に自身を直接握り込まれる。
「あっ…」
「…ふふ…。濡れてる…」
瞬は嬉しそうに笑うと、雅季を辱めるようにわざとゆっくりと言葉にして、潤んだ先端を親指で円を描くように優しく撫でた。
「あぁ…んっ」
「先生、かわいい…」
緩急をつけて淫らに動き始めた瞬の指に煽られて、そこは硬度を増して猛っていく。
「あっ―…んっ…」
雅季は声を抑えられなくなると、咄嗟に瞬の襟もとを掴んで引っ張った。
噛み付くようにキスを求められて、最初こそ驚いた瞬だったが、すぐに蕩けるような表情に変わり、濃厚に舌を絡ませる。
「ぅんっ―…」
声を塞ぐ為に求めたキスだったが、クチュッといやらしい音を立てて絡まる舌の動きは、余計に快感を募らせるだけだった。
そのうち瞬の唇が名残惜しそうに離れると、彼は汗ばんで火照った顔でニッコリ笑った。
「先生、ごめん。俺の口に、出して…」
そう言うと身体をずらして、瞬の頭は雅季の太ももの間に沈んだ。
「は、あぁ…んっ――…」
限界まで張り詰めた高ぶりを一気に根元まで咥えこまれると、強烈な快感にたまらず嬌声を発した。熱い口腔に包み込まれ、ジュプッジュプッと淫猥な水音が響く。
強引に高みへと追い上げられながら、雅季は布団に顔を埋めて漏れる声を必死に堪えた。
「っっ―――…」
雅季の欲望は瞬の口の中で弾けた。打ち震えるそれを、彼は最後まで絞り出すように根元を手で扱きながら先端を余すことなく吸い取った。
――布団に顔を埋めたまま、しばらく肩で息を切らせていた雅季が、まだ快感に潤む瞳を瞬に向けた。
「…飲んだ…のか…?」
「うん」
さらっと返事をすると、瞬はますます上気した顔で口の端をペロッと舐めた。
「ごちそうさま」
爽やかな笑顔を向けてきた彼を、雅季は顔を真っ赤に染めて蹴り飛ばした。
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