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第3話
明らかに熱の上がった瞬を学校の公用車でマンションに送り届けて学校に戻ると、授業に向かおうとしていた相原と廊下ですれ違った。
「雪村を送ってきたって?」
「…ああ」
相原の口から初めて『雪村』という言葉を聞いて、雅季は少し戸惑ってしまう。
「熱だってな。この間の雨のせいだろ」
「…この間?」
「金曜の夜。マンションの前で雨の中、お前の帰りを待ってたから」
「――…」
雅季は瞬の熱の原因よりも、相原と瞬に接点があった事に動揺した。相原の口ぶりは、瞬の雅季に対する気持ちをすでに知っているように感じた。
(…雪村が、突然あんな事言い出したのは相原の所為…?)
平静を装ってその場を離れたが、雅季の心はざわつき始めていた。
「あ、ヒナちゃん」
部活動の時間が始まろうとしていた。雅季が職員室から出るとちょうど瑠璃が声を掛けてきた。
「お兄ちゃん、早退したんですね。やっぱり無理してたんだ…」
「…瑠璃ちゃんも美術部に入ったんだっけ。部長は早退したって、部員に伝えてくれる?」
瑠璃は楽そうだからという理由で美術部に入部したが、兄に負けず絵を描くのは上手い。確か中学の時も、兄妹揃って美術部だったはずだ。
「はい。でもみんな各々で、いろいろな場所で活動しているので伝える必要はないかと…」
「…え、もう?」
部長である瞬の方針『描きたい時に描きたい場所で描く』は、仮入部の期間が終わった途端に解禁されたのか。
「…そうか。じゃあ、大丈夫だな」
瞬のその方針がうけてか、今年の美術部の入部希望者は多かった。主に女生徒だったが。その中の一体何人が、純粋に美術をやりたくて入ったのかは定かではない。
よく見ると瑠璃もどこかに描きに行くところだったのか、脇にスケッチブックを抱えていた。
「帰ったら、様子見に寄ろうと思うんだけど。雑炊でも作ろうか」
「本当ですか? やったー!」
以前瞬が熱を出した時に作った鶏の雑炊をまた作ってやろう。鶏肉とネギがたっぷり入ったその雑炊を、瞬が美味しそうに平らげていたことを思い出したのだ。
お礼を言うと弾んだ足取りで去って行った彼女が、向かった先は弓道場だった。
部屋のドアをそっと開いて中を覗くと、瞬は小さく寝息を立てて眠り込んでいるようだった。起こさないように静かにドアを閉めると雅季はキッチンに向かう。
瞬の黒いエプロンを着けていると瑠璃が側にやってきた。
「お手伝いしてもいいですか?」
「…いいけど。珍しいね」
彼女がキッチンに立つ所を今まで見た事がなかった。料理をするのはいつも瞬で、瑠璃が手伝うのは食卓のセッティングやできあがった料理を運ぶ時ぐらいだ。
「いつもはお兄ちゃんが一人でやりたがるんです! 昨日とかは、わたしがちゃんとお粥作ったんですよー」
誤解されたくないのか、瑠璃は慌てて言い訳を並びたてている。
「お兄ちゃん、ヒナちゃんに何もできないガキだと思われたくなくて、ずっと料理がんばっていたんですよ」
「え?」
「初めて会った時、包丁で指切っただけで泣いたことが相当恥ずかしかったみたい」
クスクスと笑って、瑠璃はその時の瞬が着けていたピンクのエプロンに腕を通した。
「わたしだってもう高校生なんだから、料理ぐらい覚えたいのに」
「…じゃあ、まずネギ切ってくれる?」
「はい!」
元気よく返事をした彼女の包丁を持つ手つきは、あの時の瞬といい勝負だった。
「なんか賑やかだったね」
熱々の雑炊をレンゲに掬って冷ましながら、羨ましげに瞬が言った。彼は午後中ぐっすりと眠れたおかげか、昼間に比べてだいぶ楽そうになっていた。
「似た者兄妹だよな、お前達」
さっきまでキッチンで繰り広げられていた調理実習を瞬にも見せたかった。それは二年前、カレーライスを作ったあの時そのままの光景だった。
「お前はもうとっくにプロ級なんだから、瑠璃ちゃんにも料理教えてやったら?」
「…そういえば、昨日のお粥焦げてたなぁ…」
ぼそりと呟くと、レンゲで冷ました雑炊をパクッと食べた。
「…おいしい! やっぱり先生の作る料理は格別だね!」
次々とレンゲに掬ってはフーフーと息を吹きかけて冷まし、口に運び続けている。
「…別に普通だろ」
瞬はいくらでも凝った料理を作るが、雅季は定番の物を一般的にしか作れない。
「普通じゃないよ、先生の味がするもん!」
「――!」
何気ない瞬の言葉に、思わず顔を赤らめてしまった雅季を見ると、彼はニヤッと笑った。
「先生、今やらしい事考えたでしょー」
「考えてない」
いつも通りの無表情を取り繕うけれど、もう遅かった。
あろうことか昼間の保健室で、瞬の口の中に放ってしまった事が生々しくよみがえった。彼にされた濃厚な愛撫を思い出すだけで、また身体が疼いてしまいそうだ。
「先生のは、なんでもおいしいよ」
目を細めて意味深に言うと、彼は雅季の顎に手を添えた。
「料理も、唇も、セーエキも」
艶めいた声音に乗せて下唇を親指でそっとなぞられると、雅季の唇は自然と薄く開いてしまっていた。瞬はそれを見ると物欲しそうな眼差しで舌先を出し、自分の唇をペロッと舐めた。
その扇情的な一連の動作に、雅季は更に顔を紅潮させながらぼやく。
「~…お前、それでも童貞かよ……」
「ええ~? 何がー??」
前々から思っていたが、彼は自覚なしにさらっとこういう事ができてしまう。
(天然か……。末恐ろしい奴だな…)
このままここにいたら危険だと直感した雅季は、空になった小鍋を持って早々に退散した。
翌朝にはすっかり元気になった瞬が、晴れ晴れとした顔で雅季を起こしに来た。瞬の抱えていたモヤモヤは、雅季の言葉で相当解消されたらしい。
(…いや、されすぎだけど…)
熱に浮かされていたとはいえ、今までの我慢の反動かのように保健室では迫られた。
流された自分が悪いのだが、昼休みで誰が来てもおかしくない場所で、あんな事はさすがにまずかったと後悔している。
(…いや、場所がどうのよりも、もはや当然のように受け入れてしまっている自分が謎だ…)
彼のひたむきな感情を前にすると、理性が働かなくなってしまうのだ。自分の立場や道徳心だとかが、とてもちっぽけなものに思えてしまう。
――今までの我慢の反動が出ているのは、雅季も同じだ。
(…あんな事、言わなきゃよかったのか…)
『心置きなくガキでいろ』―そう言って彼を煽ったのは自分だ。それは本心だった。
高校生になって一人暮らしを始めて、大人の男に恋をして、瞬は急いで大人になろうとした。そんな彼を少しでもいいから、まだ自由な子供でいさせてあげたかったのだ。
本当なら、高校生らしい恋をして、高校生らしい恋愛をして――。
(…相手が俺だったばっかりに…)
雅季はふと廊下の窓から、渡り廊下を通る皐の姿が目に入った。あの先は図書室と美術部の
部室がある旧校舎だ。
雅季と皐は似たタイプだと、いつだったか瞬が言っていたのを思い出した。同じクラスになってから、校内で二人が一緒にいるのをよく見かける。
(…雪村の相手があの子だったら…)
――考えるのはやめた。胸がズキン、と鈍く軋んだ。
「雪村君、また告白されてたねー」
「さっきの子一年だよね? 早っ」
「雪村君って、飯島さんと付き合ってるんじゃないの?」
「ヴェローナに二人でいたらしいよー」
何人かの女生徒が、雅季のいる給湯室の横を騒がしく通り過ぎて行った。
――ピンポイントで特に今、雅季の知りたくない内容ばかりをしゃべりながら。
(…えーっと。まず、ヴェローナってなんだ?)
一瞬の間に詰め込まれたいくつかの情報を消化しきれなくて、雅季はインスタントコーヒーの瓶に伸ばした手を止めたまま固まってしまっていた。
「ヴェローナってのは、図書室の一番奥の本棚の事」
隣にいた相原が、雅季の手が乗ったままの瓶を横から奪い取った。
「カップルのいちゃつき場所だよ。知ってるだろ?」
確かに本棚の奥から現れる男女の生徒に遭遇した事は何度かある。
「…なんでヴェローナ?」
「そこの棚にシェークスピアの本が並んでるんだよ。ロミオとジュリエット」
そこまで聞くと雅季はやっと意味を理解した。
ロミオとジュリエットの舞台はイタリアのヴェローナ。ヴェローナには実際に、物語の舞台となったジュリエットのバルコニーもあるらしい。
「誰が名付けたのか知らないけど、なかなか洒落てるよな」
「…お前、新任なのによく知ってるな」
「雅季が無頓着すぎなんじゃねえ?」
彼は二人分のカップにそれぞれコーヒーの粉を入れて、ポットからお湯を注いでいる。
漂い始めたコーヒーの香りの中で、雅季は女生徒達の会話を反復していた。
(ヴェローナに…二人でいた…?)
そういえば先程見かけた皐は旧校舎に向かっていた。
「モテモテだな、雪村。雪村目当てに美術部に入った新入生もいっぱいいるらしいじゃん」
「…みたいだな」
雅季の反応を試すようにわざと瞬の話を始めた相原から、自分のカップをひったくると足早に給湯室を出た。
瞬がモテるのは今に始まった事ではない。何度も噂を聞いたことがあるし、告白をされている場面に遭遇したこともあった。けれど――。
『飯島さんと付き合ってるんじゃないの?』
『ヴェローナに二人でいたらしいよ』
瞬が特定の女生徒と、そんな噂になるぐらい親密になるのは初めてだ――。
放課後の部活動も終わり最終下校の時間が迫っている中、雅季はやり場のない感情を持て余し、それを仕事にぶつけていた。
もう他には誰もいなくなった職員室で、雅季が奏でるキーボードの音だけが忙しなく鳴り響いている。休むことなく動いていた指先がふと固まった。
いつかボールの音の向こう側で、微かに聴こえた瞬の声が聴こえた気がした。
「…焦燥感…」
静寂に包まれた広い職員室で、あの時の瞬の声に重ねるように一人ぽつりと呟いた。
「…側にいたいんだ…」
「…足りないんだ…もっと…もっと…」
苦しそうに絞り出すようにして、彼が言っていた言葉を声に出してなぞった。
パソコンを閉じて帰り仕度をすると、戸締りをする前に各教室の鍵が全部戻っているか確認する為、壁に備え付けられている鍵の入ったボックスの扉を開けた。
見ると一つだけまだ戻されていない鍵があった。空のフックの上には『旧校舎・美術室』と書いてあった。
旧校舎の廊下は真っ暗で、不気味な雰囲気を醸し出していた。昼間でさえ薄暗くひんやりとしているのに、夜になると尚更ホラー感が増しているようだ。
懐中電灯を手に階段を上がって行くと、四階に近付くに連れて美術室から漏れる光がうっすらと感じられた。ドアの窓から中を覗くと、大きなキャンバスに向かっている見慣れた広い背中が見えた。
彼の邪魔になるかと少し躊躇ったが、雅季はそっとドアを引いた。それは小さな音だったが、静まり返った教室にはやけに響いてしまい、結局瞬の注意を引く結果となってしまった。
集中していた彼はその音にビクッと驚いたが、それが雅季だとわかると笑みを零した。
「先生…どうしたの?」
「…夢中で時間忘れてただろ。もう誰もいないぞ」
「え、…」
瞬は腕時計に目をやると心底驚いた。
「もうこんな時間? あ、瑠璃の夕食!」
まず妹の夕食を慌てて心配するその様子は母親のようだなと雅季は思った。
瞬はかばんに入れっぱなしにしていた携帯電話を取り出すと、瑠璃からメールが入っていたらしく、ほっと胸を撫で下ろした。
「友達と食べるって。よかった…」
「…何描いてたんだ? 油絵?」
油絵の具の独特な匂いが漂っている中で、瞬は色とりどりの絵の具でまみれた白衣を着ている。制服に油絵の具がつかないようにする為だろう。
そんなに夢中になって描いていたものが何か気になって、雅季はキャンバスに近付いた。瞬の側に来ると彼は自然な仕草で、雅季の腰に手を添えた。
雅季はその手を引き剥がそうとしたが、その前にキャンバスに目を奪われてしまっていた。
「――桜」
そこにあったのは満開の桜。大きなキャンバスに溢れんばかりに咲き誇る一本の桜だった。淡い紅色を纏った最も美しい一瞬の姿が、キャンバスの中で永遠になっていた。
「――…綺麗だ」
幾度となく二人で見た様々な姿の桜が、このキャンバスの中で重なって見える気がした。
「…先生の方が綺麗だよ」
瞬の描いた桜を潤んだ瞳で見つめるその横顔は、彼の目には息を呑むほど美しく映った。
「…お前って…よく照れずにそういうこと言えるよな…」
「え、だって本当のことだもん」
さらっと答える瞬に、なんだか聞いている自分の方が恥ずかしくなってきて、それ以上何かを言うことはやめた。
「あと少しで完成なんだ。やりきってもいい?」
「…いいよ。待ってる」
彼の邪魔にならないよう気を使ってキャンバスの近くから離れると、持て余した時間を使って、滅多に来る事のなかった美術室の中を見てまわる事にした。
後ろの壁には美術部員が描いたと思われる絵が所狭しと並んでいる。それぞれの絵でテーマは違うようだ。一慣性のない数々の絵はクリーム色の壁をカラフルに彩っている。
その中に瞬の絵を見つけた。どの絵にも名前は添えられていなかったが、彼の絵は雅季には一目でわかる。
それは油絵で描いた雪景色だった。雪に埋もれた山間の村で、夜の静寂の中を茅葺き屋根の古民家から洩れる柔らかい光が、積もった雪をほのかに照らしている。
(この間の冬休みに行っていた所か…)
瞬は連休や長期休みになると、ふらっと一人で旅に出ては絵を描いていた。
行く時には必ず雅季を誘ってきたが、二人で旅行など行けるわけもなかった。瞬もその事は理解していて、それでも誘っていたのだろう。雅季にはその気持ちがわかる気がした。
(…楽しいだろうな、絶対)
二人で知らない土地へ行き、旨いものを食べて、初めての景色を見て、瞬は思う存分絵を描いて。――想像しただけで幸せを感じる。
(これは…粘土細工か? こういうのもやっているのか…)
廊下側の棚には、色とりどりの粘土細工が並んでいた。粘土で作ったフランス人形や動物、建物やデコレーションケーキなんてものもある。
(…これはなんだろう)
ひとつの作品に目が行った。何かの建物の一部を再現しているのか、緑の蔦の絡まるレンガの壁に、窓のような穴が開いていて、その窓には白い柵が張り出してついていた。
(…バルコニー…。ジュリエットのバルコニーか?)
昼間に相原に聞いたロミオとジュリエットの話を思い出した。そういえば、いつか写真で見た事のある、ヴェローナのジュリエットのバルコニーに似ている。
(よく考えたな…)
嫌なことを思い出しながらも、感心して眺めていると真後ろで瞬の声がした。
「先生、終わったよ。後は片付けしたら帰れるから」
バタバタと彼が準備室へ向かうと、雅季の真正面に彼が完成させた桜が佇んでいた。
窓の側に置かれたそのキャンバスは、窓の外に広がる夜空と月を背景にして夜桜のようにも見える。
たった今まで瞬が座っていた椅子に腰掛けてその夜桜を観賞していると、すぐ横の作業机に置いてあった彼の携帯電話が鳴った。メールではなく電話の着信のようだった。
「俺の携帯鳴ってるー? 誰から?」
着信音に気付いた瞬が準備室から出てきた。促されると、自然と携帯電話の画面に目が行った。
無言で座ったままの雅季の横から、瞬は電話を取ろうと手を伸ばす。視界に白衣の袖を捲くった腕が見えると、雅季は無意識にその腕を掴んでいた。
「――先…」
掴んだ手を握りしめて、その指を自分のそれに絡ませながら立ち上がると、至極当然の流れのように瞬の唇に口付けた。
唇が触れると同時に挿し込まれた舌は、瞬の口腔をゆっくりと味わうように蠢き始める。
「――っ」
伏せた目は瞑らずに時折瞬の目を見つめると、絡み合った指先の中で解けた親指で、優しく掌を撫でた。――その艶めかしい姿態は、一気に瞬を興奮させた。
「――っん!」
受け身だった彼が突如、熱を帯びた舌で雅季の舌をぬるりと絡めとると舌先を強く吸った。
雅季に求められる快感に、激しく昂った彼はすぐに主導権を奪い取った。
繋がれた手を離すと、両手で雅季の身体を掻き抱く。その拍子に椅子が音を立てて倒れ、勢いに圧された雅季の背中が作業机にぶつかると、彼は力強い腕で雅季の腰を持ち上げて机の上に座らせた。
「はっ、…んっ」
仕掛けていたはずのキスを奪われて、今度は雅季が濃厚に求められる。
雅季がゆっくりと煽ったのとは対照的に、瞬の舌先は荒々しく口腔を掻き回し、唇の端から零れ落ちる唾液も厭わずに淫らな音を立てて貪った。雅季は縋るように彼の首に腕を巻きつけて夢中でそれに応えた――。
――携帯電話はいつの間にか鳴り止み、着信画面に出ていた『飯島皐』の文字も消えていた。
「…先生―…」
唇が離れると、雅季は腕を巻きつけたまま凭れるように瞬の肩に額を乗せ、息を切らせていた。
「先生……好きだよ…」
熱い息が首すじにかかり掠れた声で囁かれると全身が甘く痺れた。
「…たまらない――…」
「――っ…」
欲情に震えた声音に、雅季の官能は一気に沸き立った。浮かされるように彼の肩から右手を下ろすと、そのまま白衣の隙間をぬってベルトの留め金に触れる。
「! 先せ―…」
片手で器用にベルトを緩めると、ゆっくりとファスナーを下ろしていく。ジ、ジと小さく音が立つと、すでに張り詰めていたそこはますます窮屈さを増した。
首すじにかかる熱を帯びた息が、段々と荒くなっていくのを肌に感じると、左手に力を込めてギュッと抱きしめると同時に、彼の下衣の中に手を入れた。
「アッ――…」
そっと触れると、熱く猛ったそれは雅季の手の中でビクッと打ち震え、瞬の声が甘く掠れた。その声が鼓膜に鋭く響くと、共鳴するように更に雅季の欲情を駆り立てた。
彼の大きな昂りは雅季の手には収まりきらなかったが、先走りで潤んだ先端からぬり込めるようにゆっくり上下させてやると、そこは硬度を増して熱り立っていく。
「ん――…、はぁっ…」
手の中でドクドクと脈打つ熱に、たまらなく感じてしまった雅季は激しく手を動かすと、息を上がらせながら彼の耳に夢中でしゃぶりついた。
クチュクチュと耳を犯す淫靡な音と雅季の甘ったるい呼吸は、瞬の鼓膜を刺激してやまなかった。腰の中心で暴れまわる快感と合わさって、耐えきれず絶頂を迎えそうになる。
「ッ―…先生、…俺、もうっ…」
訴えられると、雅季は一層激しく手を動かそうとした。
「クッ――…」
低い呻き声と共に、瞬は自身に絡み付いていた雅季の手を止めた。
「――…何…?」
彼は自身の根元をきつく握って、必死に快感をやり過ごそうとしている。
「……一緒に、イキたい……」
「――…っ」
瞬は切なげにそう言うと、若干荒っぽい手つきで雅季のベルトに手を掛けた。
そして早急に雅季の反り返った屹立を取り出すと、そのまま机の上に押し倒した。
「…先生の、触ってないのに、もうこんなに膨らんでる……」
「っ…うるさ―」
瞬を感じさせるはずが、雅季の身体は彼のその姿態を見て浅ましく高ぶってしまっていた。恥ずかしさのあまり声を荒げてしまう雅季の身体に、瞬が余裕のない笑顔で乗り上げてくる。
「ごめんね、先生…。嬉しすぎて、…やばい」
自身の屹立と雅季のそれをピッタリと合わせて手で包むと、淫らに指を絡ませて扱いた。
「あっ…んっ」
触れ合ったところから瞬の熱が生々しく伝わり、雅季は耐えきれず甘く啼いていた。
「……先生、…かわいい…」
恍惚に歪む笑顔で覆いかぶさると、腰を重ねてゆっくりと動かし始めた。
「あんっ―…」
合わさった腰の中心から、ジンジンとした痺れが熱を持って全身を駆け抜けていく。
二人の体液が擦れて溶け合い、ヌチュッ、クチュッと淫猥な音を立てては揺れている。
「…先生…気持ちいい…?」
耳の奥で熱く問い掛けると、腰の律動に合わせるように舌で中をいやらしく弄んだ。
「…ん…、あぁん―…」
雅季は耳を刺激されると快感に我を忘れ、微かな返事は喘ぎ声に埋もれて消えた。無意識に瞬の腰に足を絡み付け、彼の動きに合わせるように自ら腰を揺すり始める。
「ンッ――…」
雅季に貪欲に求められると、瞬はますます高揚して苦しそうに息を詰めた。どちらからともなく舌を絡ませ、互いの唇を飽きることなく貪り合う。
「あっ…、瞬っ…、もうっ」
「ッ、ンアッ――…」
快感の渦の中でふいに懐かしい呼び名を聴いた瞬は、それだけで今にも達しそうになるのを必死で堪えた。雅季の腰を抱え直し、律動を激しくしていく。机の軋む音が大きくなると、その間隔は短くなっていった。
「あっ、瞬…、イク―…っ」
「…雅季さんっ――…」
「ぁああっ――…」
耳の奥に打ち込むように名前を呼ばれた瞬間、雅季は頭が真っ白になり欲望を解放させた――。
―ほぼ同時に、耳に低い呻き声が届くと、雅季はうっとりと蕩けるように目を閉じた。
絶頂を迎える直前に、瞬が二人の屹立を彼の白衣の裾に包んでいたおかげで、二人の衣服は汚れずに済んでいた。そういえば保健室でも、服を汚さないよう彼の口で達することを強いられた事を思い出した。
(…なんか…むかつく)
自分が快感に夢中になってしまっている間、彼は余裕で後処理の事など考えていたのか。
(…まあ、そのおかげで助かっているんだけど…)
大人の自分の方が、経験の浅い彼に気を利かせられるなんて―。恥ずかしいような情けないような複雑な気分だ。
その上、後悔したばかりだったのに幼稚な嫉妬心に駆られて、またしても校内でこんな事をしてしまった。いくら、もう誰もいないからといって――。
「先生、すっごく可愛かった……」
途中だった美術室の片付けを終わらせると、瞬は自己嫌悪に陥っていた雅季を後ろから抱きしめて、大人の男にとっては屈辱でしかない言葉をうっとりと囁いた。
「くっつくな」
「えぇ~…」
冷ややかな声で腕を剥がされると、瞬は不満そうに嘆いた。
さっきまでとは打って変わって冷静さを取り戻した雅季に、彼は意地悪く後を続けた。
「そんなに出てほしくなかったの? 会長さんからの電話」
「――!」
思わず目を見開いて彼の顔を見上げると、その顔はニヤッと笑っていた。
(―気付いてたのか、コイツ…)
見透かされていた事に尚更恥ずかしくなって、雅季は唇を噛むと視線を逸らした。溜まっていた感情がまた沸き上がってきてしまう。
瞬はめげずにもう一度、今度は前から包み込むようにして抱きしめた。
「先生、嫉妬してくれたんでしょ? 俺、嬉しかった…」
(…ほら、まただ…)
素直に感情を言葉にする彼を前にすると、意地を張っている自分が馬鹿らしくなってくる。今度は抵抗することなく大人しく腕の中に収まりながら、小さな声で呟いた。
「…お前、最近よく、あの子と一緒にいるな…」
「うん、なんか気が合うんだよね。無表情で無口なところが先生に似てるし。美人なところも。…実際はだいぶ変わってるけど」
思い出したように失笑する彼の姿に、雅季は黙り込んでしまう。
「会長さんは、ただの友達だよ?」
「……ヴェローナにいたって…」
「え?」
大人気ないと思ったが、ここまで話したら今更止める事はできなかった。
「二人でヴェローナにいたって、本当か?」
「…ああ、うん。…でも、そういうんじゃないから! 話してただけ」
何かを隠すように歯切れ悪く答える姿が癪に障り、雅季は再び彼の腕を押し退けた。
「先生~、信じてよー!」
「うるさい」
そのまま足早に美術室を出ようとする雅季を、瞬は慌てて荷物を手に取ると追いかけた。
「俺には先生だけだって、知ってるでしょー! そもそも会長さんは――」
そこまで言いかけると瞬は口を噤んだ。
雅季は振り返り、続きを促すようにジッと彼を見たが、逃げるように視線を逸らされると、それが答えとばかりに、まだ彼が残っていた美術室の明かりをバチッと消した。辺りは一瞬で闇と化した。
空を覆っている重苦しい灰色の雲から、シトシトと細い小雨が降っている。その所為か、いつもの昼休みよりも学校全体が静寂に包まれているように感じた。
雅季は今日も図書室で一人、昼休みを過ごしていた。ヴェローナの話を聞いてから奥の本棚の様子が気にはなったが、敢えて誰かいるかを確かめようとはしなかった。
瞬とはあのあと普通に一緒に帰宅し、朝もいつも通り一緒に登校しているけれど、雅季はまだ彼に対して不機嫌な態度を貫いている。
皐と何かあると本気で思っているわけではなかった。彼の自分に対するひたむきすぎる感情は良く知っている。
(…嫌なんだよ、ただ単に…)
くだらない嫉妬。独りよがりな焦燥感。隠しごとをされたことも、原因の一部を担ってはいたけれど、瞬と距離をとっているのには他に理由があった。
(頭…冷やさないと……)
このまま彼の側にいたら、どんどん我慢が効かなくなってしまうと思ったのだ。一度冷静になって、少し前まで保てていた距離を取り戻したかった。――そうすべきだと思った。
「きゃあああ!」
旧校舎の静寂の中で、突然響き渡った悲鳴に雅季は耳を疑った。立て続けに何かが転げ落ちるような激しい音も聞こえると、反射的に立ち上がっていた。
咄嗟に図書室から飛び出すと階段の方へと走り出した。悲鳴も音も一階ではなく階上の方で聞こえたような気がする。上に人がいるとしたら四階の美術室か。
三階から四階へと続く階段まで駆け上がると、踊り場に女生徒が二人重なるように倒れているのが見えた。二人の周りにはスケッチブックと色鉛筆が散乱している。
「おい! 大丈夫か!」
慌てて駆け寄ると、もう一人の女生徒を下敷きにして倒れているのが瑠璃だと気付いた。
「瑠璃ちゃん!」
彼女は下になった生徒に庇われるように腕で守られていた。雅季の声を聞くと瑠璃ははっとして、取り乱した様子でもう一人の生徒を窺った。
「皐さん! しっかりしてください!」
悲痛な声で叫ぶ瑠璃の言葉を聞いて、雅季はもう一人の生徒が飯島皐だとわかった。彼女は頭を強く打ったようで意識を失っているようだ。額からは薄っすらと血が滲んでいる。
「皐さん! 皐さん!」
泣きじゃくりながら皐を呼び続ける瑠璃の顔はひどく青ざめている。
「瑠璃ちゃん、しっかりして。俺が下まで運ぶから、保健室に行って小林先生を呼んできて。救急車を呼んでもらうんだ」
なんとか彼女を宥め、養護教諭を呼びに保健室へ行かせた。他に駆けつける者はいなかったので、旧校舎には他には人がいなかったのだろう。
瑠璃と皐に付き添って雅季も病院に向かった。小林先生が付き添いを申し出てくれたが、平静を失っていた瑠璃が心配で自分が行く事にしたのだ。
小林先生に瞬への伝言を頼んだので、彼もすぐに病院に来るだろう。
皐は頭を強く打った事で脳震盪を起こしていた。額の傷は落ちた拍子に切れたもので大事には至らなかったが、瑠璃を庇った時にくじいたと思われる捻挫を右足に負っていた。
瑠璃は皐に庇われたおかげで少しの擦り傷だけで済んでいた。
「ヒナ先生!」
皐の家族へ公衆電話から連絡した直後、病院の廊下を瞬が駆けてくるのが見えた。
「先生、瑠璃と会長さんは? 無事?」
狼狽した様子で現れた彼を落ち着かせてから二人のいる病室へ案内した。
皐の眠る病室で、瑠璃は彼女の傍らに座り泣き腫らした目で皐を見守っていた。その様子をドアの隙間から窺うと、瞬は声を掛けずにそっとドアを閉めた。
「…入らないのか?」
「うん。…後でいい」
瞬はそう言うと病室の外の椅子に腰掛け、雅季から経緯を聞いた。先程少し落ち着きを取り戻した瑠璃から聞いた話だ。
昼休みに二人は美術室で絵を描いた後、教室に戻る為階段を降りようとした。瑠璃は四階の階段部分が雨で濡れている事に気が付かなかった。足を滑らせて落ちそうになった彼女を、皐が咄嗟に庇うようにして転げ落ちた――と。
「…大事に至らなくて、本当よかった――…」
瞬は話を聞き終わると心底ほっとしたように呟いた。
「先生が近くにいてくれて、助かったね。ありがとう――…」
涙目で安堵する瞬の姿を見ながら、雅季は瑠璃の話に小さな違和感を抱いていた。
皐の家族が病院に到着したあと雪村兄妹を家に帰し、雅季が学校に戻った時にはすでに放課後になっていた。
職員室に戻る前に旧校舎に立ち寄った。図書室に自分の荷物を残したままだったし、確かめたい事があったのだ。
二人が倒れていた踊り場に着くと、そこに散乱していた荷物は跡形もなく無くなっていた。誰かが片付けてくれたのだろう。そのまま四階に上がったが、雨に濡れた跡ももうなかった。時間が経ってしまったので乾いたのか、あるいは事故を聞いて誰かが拭いたのかもしれない。
美術室のドアを開けると、中にいた三人の部員達が一斉に雅季の方を見た。
「ヒナちゃん! 瑠璃は大丈夫ですか?」
「飯島先輩は?」
彼女達は一年生のようだ。一人は瑠璃と一緒にいるのをよく見かける子で、確か名前は長谷あずさと言った。彼女は仲の良い瑠璃の事がとても心配なのだろう、ひどく動揺しているようだ。
一年生の授業を持っていない雅季はうろ覚えだったが、後の二人は瀬戸と赤城と言ったか。二人も口々に心配の声を上げた。彼女達を宥めてから、階段の事を訊いてみた。
「雪村さんの荷物なら、私達が拾い集めておきました。階段の上の水溜りも私達で」
三人の中で一番落ち着いていた瀬戸が答えた。
事故後、最初に美術室に来た彼女達が片付けてくれたらしい。礼を言ってそこを後にすると、雅季は職員室へ向かった。
教頭と皐達それぞれの担任に状況を説明し、終わり間際の部活にも顔を出してから、やっと自分の席に落ち着くと、自然と深い溜め息を吐いていた。
パソコンを開きながら、事故現場に駆けつけた時の事を思い返していた。
(そういえば、あの二人仲良かったんだな…)
二人とは瑠璃と皐の事である。皐と仲の良い瞬を通じて友達になったのだろうか。
(なんであそこにだけ……)
思い返してみても、雅季の感じていた違和感は拭えなかった。
パソコンを立ち上げると、Eメールが一件受信されていた。見覚えのないフリーアドレスだったが、とりあえず開いてみる。何か添付もされているようだ。
「――…!」
本文を開いた瞬間、自分の感じた違和感が確信に変わった。
――『飯島皐、雪村瑠璃をこれ以上危険な目に遭わせたくなければ』――書き出しはこうだった。やはり事故ではなく故意なものだったのだ。
あの踊り場に辿り着くまでの階段にはどこにも雨の痕跡なんて見当たらなかった。それなのに四階のあそこにだけ水溜りができるなんて不自然だ。
後に続く文面はこうだ。――『又、この動画を公開されたくなければ、以下の事を実行しろ』その下に箇条書きが続いていた。
・雪村瞬と別れる事
・雪村瞬と授業以外で接触しない事
・この事を口外しない事
(――瞬、か。動機は…)
添付された動画をクリックするのに、雅季は少し躊躇した。内容は大体想像がついていた。
―それはこの間の夜の、美術室の映像だった。音声はなく、カメラは固定されているようで一定の場所だけを映している。ちょうど瞬が桜の油絵を描いていた場所だ。彼は美術室で作業する時はいつもあの位置で行っていた。
(それを知っていて、雪村をずっと見る為に―…)
映像には予想した通り、桜の絵を背景にした雅季と瞬の親密な様子が映し出されていた。
――雅季が瞬の手を取ってキスを仕掛けるところ。瞬が雅季を抱きしめてキスを返すところ。
幸い…と言っていいのか、その後に繰り広げられた更に親密な場面は、カメラから見切れて映っていなかった。
(…俺のせいだ…。俺が――…)
――『教師』でいる事ができなかったせいで、瑠璃と皐を傷付けた。そして…。
雅季は両手で目頭を押さえるようにして顔を伏せた。
――そして、これから瞬を傷付けるのだ――…。
前日から降り続いた雨は、翌朝には打ちつけるような激しい雨へと変わっていた。地面を叩き続ける雨音が騒音のように鳴り響いている。
雅季は瞬にメールを送ると彼を待たずに学校へ向かった。
学校に着くと体育館へは向かわず、『旧校舎・美術室』と書かれた鍵を手に旧校舎へ行った。
瞬が美術室に現れるのを待つ為だった。
今朝は雨が降っているし、最近の彼は美術室で描く事が多いのを知っていたので、朝なら誰にも見つからず二人きりで会えると思ったのだ。
美術室を選んだのには他に理由があって、『脅迫者』に、仕掛けられたカメラを通して見せる為だった。―自分が瞬を振る様子を――…。
彼の作業スペースには、桜の絵がまだそのまま置いてあった。あの時と同じように絵の前に置かれた椅子に座り、瞬が現れるのを待った。
――それは永遠のようで、また、一瞬の事だったような気もする。
「先生、おはよう」
雨に濡れて現れた彼は、雅季の姿を見るといつも通り愛しそうに顔を綻ばせる。
雅季はその顔を見て今にも泣き出してしまいそうになるのを、必死で堪えた――。
「なんでここにいるの? 先に行ったから用事あるのかと思った」
雅季は黙ったまま答えない。それはいつもの事なので、瞬は特に気にする様子もなく続けた。
「雨すごいねー。傘差してたのに、こんなに濡れたよー」
「……」
「今朝会長さんから連絡あって、今日休まないで来るって。大事取って休めばいいのにね…」
「……」
「会長さん松葉杖だからって、瑠璃の奴駅まで迎えに行ったけど…。この雨の中、大丈夫かな?」
「……」
作業机にカバンを置いて、その横に脱いだ制服のジャケットを乾かすように広げると、彼は雅季の座っている隣に椅子を持ってきて腰掛けた。
「…先生、まだ怒ってるの?」
彼は不安そうに雅季の顔を覗くと、思わず息を呑んだ。
「――…」
今までに見た事のないような思い詰めた表情の雅季を見て、瞬の胸が騒ぐ。
「…先――」
「雪村」
ずっと沈黙していた雅季が突然張り詰めた声で発すると、瞬は身体を強張らせた。
「――別に、元々付き合ってるわけじゃないから、こんな事言うのは変だけど」
顔を伏せたまま続けたその前置きは、それだけで瞬の身体を金縛りにした。
「もう、お前とは付き合えない――」
――訪れた沈黙の中、窓の外で降り続ける雨音が更に激しくなって二人の間に割って入った。
「…ごめん、先生…」
沈黙を破ったのは瞬だった。彼は取り繕うようにわざと明るい声を出した。
「俺が無理矢理、いろいろ…したから。困らせて…ごめん。もうしないから! 先生が…先生じゃなくなる日まで、俺、ちゃんと我慢するから―…」
無理に明るく装う彼の声が僅かに震えているのがわかり、雅季は自分の目が痛むように熱くなるのを感じた。
「―そうじゃない。俺は、…お前の気持ちには応えられない」
瞬の顔を見るのが怖くて、雅季は顔を上げる事ができない。けれど彼が今どんな顔をしているのかは手に取るようにわかってしまう。
再び沈黙が訪れると、雅季は耐えきれずに立ち上がった。
「一緒に登校するのも、もうやめよう。…授業以外では、あまり会わないようにした方がいいと思う」
「っ――…」
自分の発するひと言ひと言が、ナイフで刺すように彼を傷付けている。その感触がナイフを持つ自分の手にまで生々しく伝わってくる。
「…今までうやむやにしていて、悪かった」
――彼は何も言わなかった。言わないのではなく、声が出せないでいるのだ。雅季はそれをいい事に、告げるだけ告げてその場を去ろうとした。
「――…な…んで…」
絞り出すような苦しい声と必死に腕を掴んできた震える手が、雅季の足枷となった。
「先…、なんで…、だって…あんなに――…」
――「あんなに」その後に続く言葉の光景が、二人の目の前に広がっていく。
「――俺が一度でも、お前を好きだなんて言ったか?」
雅季の冷酷なひと言に、震えた彼の振動が掴まれた腕から雅季に伝わった。
「――…それは…」
「…流されただけだ。もうしない」
震えた手が、力なく雅季の腕から滑り落ちると、それを合図に雅季は部屋を出て行った――。
――(…泣くな。泣くな、泣くな。)
階段を駆け下りながら、呪文のように自分に言い聞かせていく。
(俺には、泣く資格なんてない――…)
瞬は一人でヴェローナにいた。ここなら誰にも会わずに済むと思ったのだ。こんな泣き腫らした目は、さすがに誰にも見せられない。
「…夢…だったのかな…」
何の前触れもなく突如突き付けられた雅季との離別。ただ振られただけでなく、側にいる事さえ拒否された。
最近雅季が不機嫌だったのは知っていた。でもそれは単に皐との事を濁したことに拗ねているだけだと思っていた。
あまりに突然の事で、現実ではないのではないかと虚しい希望に縋った。
「…違う。幸せだった方が、夢だったのか…」
「あんなに」――そう言った時、雅季が今まで彼に与えてくれた幸せの数々が、目の前に浮かんでいた。
キスしようとしてくれたこと。『言い訳』を受け入れてくれたこと。夜桜を見せてくれたこと。熱に気付いてくれたこと。嫉妬をむきだしにしてくれたこと。求めてくれたこと―。
言葉では一度だって好きだと言われた事はなかったけれど、雅季は何度も態度で示してくれた――そう思っていた。
「俺が一度でも、お前を好きだなんて言ったか?」――雅季には立場があるから言葉にはできないのだと、そう理解していた。
「…自分に、都合のいいように……」
ぽつりと呟いた声は、雨の音に掻き消されていった。
三時間目、三年一組の数学の授業。思った通り教室に瞬の姿はなかった。
早退したのか雅季の授業だけサボっているのかは定かではなかったが、予想通りだった事に胸が痛むも少しほっとしていた。彼の泣き腫らした目など見てしまったら、自分の決心が揺らいでしまいそうだった。
(今日さえ、乗り切れれば――)
授業が終わると皐に声を掛けた。彼女は額の傷にガーゼを当てて、松葉杖を机に立てかけて座っている。
「具合、大丈夫か? 足は?」
皐はじっと、雅季を上目遣いに見つめた。
「はい。昨日は先生に助けていただいたそうで、ありがとうございました」
表情を変えずに机につきそうなほど深々とお辞儀をした皐に、少々面食らったが瞬が彼女を「変わっている」と言っていたのを思い出した。
「朝からヤサオ君の姿を見かけてないのですが、何かあったのですか」
「――」
かしこまった言い方で突然核心を突かれると、今度は少々面食らう程度ではすまなかった。
「…さあ。朝はいたけど」
お互いに無表情のまま無言でじっと見つめ合っていると、それに気付いた生徒が笑った。
「ヒナちゃんと飯島さんって、なんか似てるよねー」
辺りが夜を迎え始めると、雨もやっと小降りになってきたようだ。
瞬はあの後誰にも言わずに早退した。朝は雅季以外には会わなかったので、欠席扱いになっているだろう。
自分のベッドに寝転がって天井を見ていた。時々雅季の言った言葉がリアルに浮かんでは視界が霞む。
玄関のドアが開く音がすると、瑠璃の声が家中に響いた。
「お兄ちゃん、いるのー?」
しばらくして部屋をノックされたが、掛けられた声は瑠璃のものではなかった。
「ヤサオ君、話がある」
――「わたし最近、上履きに画びょう入れられていた」
瞬の部屋のデスクチェアに腰掛けると、皐が何の脈絡もなく言った。
「…え?」
「古典的だよね。後はカミソリの刃とか、ガラスの破片とか」
想定外すぎる告白に瞬は戸惑っていた。ただでさえ動揺している頭が追いつかないうちに、皐の告白はどんどん続いていく。
「毎朝必ず入っていた。最初の時、姫の上履きにも入っていたって聞いたから、その後は姫が登校する前にわたしが処分していた」
『姫』―理由は知らないが、皐の瑠璃に対する呼び名だ。
「―…なんで、二人が…?」
「昨日の事故、故意だと思う」
「――…!」
思いもよらなかった事をさらっと言われると耳を疑った。皐の痛々しい足首の包帯が目に入る。狼狽えている瞬に、彼女は淡々と先を続ける。
「でも今朝は、入っていなかった」
「…? …どういうこと?」
全く意味を理解できなくて困惑している瞬の赤い目を、皐はじっと見つめた。
「今朝早く、美人先生と何かあったでしょ」
鋭く見抜く皐の言葉に瞬はビクッとなるとますます動揺した。
「突き放された?」
「―――」
痛みのど真ん中を的確にえぐった彼女の言葉に、瞬は言葉を失ってしまう。
「――美人先生も目、赤かった」
「―え…?」
俯いた顔を上げると、彼女は少し躊躇する素ぶりを見せたがやがて口を開いた。
「ヤサオ君と、親しい人間を攻撃している」
「――…」
「今朝上履きに何も入っていなかったのは、一番の攻撃が成功したから」
瞬の脳裏に、雅季の思い詰めた顔が鮮明に浮かんだ。
皐は松葉杖を掴むと、足を庇うようにしてゆっくりと立ち上がった。
「―みんな、美人先生とわたしが似ているって言うけど」
瞬を見下ろすいつもの無表情の中に、強い意志が宿って見えた。
「本当に似ているなら、攻撃されっぱなしで終わらないと思う」
雅季は手に携帯電話を持ったまま、部屋の明かりもつけずにベッドに座っていた。
瞬の番号を画面に出した状態で、ずっと発信ボタンを押せないでいる。
(今更…なんて言えばいいんだ…)
今朝自分が傷付けた彼の様子が、一日中頭にこびりついて離れなかった。
『脅迫者』に屈服するつもりはなかった。従ったところで完全に脅威が去るわけではないのだから、早急に犯人を割り出さなければと思ったのだ。
その為にはまず、犯人に従ったと思わせる必要があった。だからわざと、仕掛けられていたカメラの前で瞬を振ったのだ。
送られてきた動画に音声は入っていなかったが、音声を拾わないカメラだとは限らない。職員室でメールを開く事を考慮して、音声は消して添付したとも考えられる。たとえ音声は拾えていなくても、瞬の今日一日の演技ではないリアルな反応を見れば、脅迫が成功したと思うだろう。
(…このままでいた方が、お互いの為なのかもしれない)
自分がずっと悩んできた彼との関係が、不本意な形ではあるが、元々そうするべきだった所に収まったのではないか。
――なのに自分は今、瞬に今朝の真実を打ち明けようとしている。
『脅迫者』は瞬に想いを寄せる誰かのはずだから、彼には思い当る人物がいるかもしれない。協力してもらう為に真実を話す。――というのは表向きで、一番の理由は自分の為なのかもしれない。
(…誤解されたままでいたくない…。傷付けたままでいたくない―…)
何よりこのまま彼の気持ちが、自分から離れて行ってしまうことがたまらなく怖かった。
――もうどのくらい時間が経っただろうか。いろいろな想いが駆け巡って、なかなか踏み切れないでいると、手の中の携帯電話が鳴り出した。
――暗闇の中に突然灯った、たったひとつの光。
画面に浮かび上がった文字は一瞬で霞んで見えなくなった。通話ボタンを押そうとする指先が震えてしまっている。
「――…瞬……」
今にも消えてしまいそうなほどの、小さな声しか出せなかった。指先同様、自分の声までもが震えている。
『…先生……』
耳に彼の声が触れると、ズキンと今朝の痛みが雅季の胸によみがえってきた。――けれど、次に彼が発した言葉は、雅季の予想を遥かに超えるものだった。
『……先生…。瑠璃と会長さんを、…守ってくれてありがとう―…』
「―――」
あまりに意表を突かれて言葉が出てこない。頭がまわらない――。
『…先生、俺は……』
電話の向こうで、小さく鼻を啜る音が聴こえた。
『俺が、先生を守る為には、何をしたらいい――…?』
――雅季の頬を、大きな涙が一粒、伝って落ちた。
―彼は理解している。それがどうしてか、それはどこまでか、そんな事はどうでもよかった。
「…き……だ…」
胸の奥から震えてしまう、涙でぐちゃぐちゃになった声を必死に絞り出して伝えた。
「…お前が、好きだ――…」
全てを話した。脅迫の事だけではなく、今まで雅季が抱えてきた葛藤全てを。
瞬はただ黙って聴いていた。時折、電話の向こうで優しく相槌を打ちながら。
『…先生、俺はね。先生だから、好きになったんだよ。誰にも言えない恋でも、触れる事ができない恋愛でも、先生がいい。先生じゃなきゃ、意味がないんだ――』
―初めてだった。こんなに純粋に、こんなにひたむきに、誰かに想いを差し出されたのは。
彼の為なら何でも捨てられる――そう思った。今まで渦巻いていた感情が、嘘のように跡形もなく消えていく。それはとても、心地の良い感覚だった――。
「お前が振った誰かだと思うんだけど」
想いを通わせたあと、二人は『脅迫者』について考えていた。
生徒を疑うなんて事はしたくなかったが、瑠璃と皐に対する嫌がらせが始まったタイミングも考えると、新入生ではないかと思っていた。それも、カメラが美術室に仕掛けられていた事や瞬の作業位置を知っていた事から考えて、美術部員ではないかと。告白する勇気のない子の可能性もある。
『え、告白された子なんて全部覚えてないよー。名前も知らない子ばっかりだし』
(…嫌味ったらしい天然だな…)
本題からズレてしまうので、そこは敢えて突っ込んだりはせずに話を進めた。
「…とりあえず、犯人がわかるまで脅迫の内容は守ろうと思う。…お前とは、接触しない。電話もメールも、いつどこで見られるかわからないからしない。…いいな?」
『―…うん。わかってる…』
彼はいつものような甘ったれた弱音は吐かなかった。
気持ちは通じているとはいえ、それは二人にとってつらい事だ。出会ってから今まで、それこそ毎日のように側にいたのだ。
「それと、どこから洩れるかわからないから、瑠璃ちゃんや飯島にもこれが見せかけだって事、ばれないようにしないと」
『…うーん、会長さんには全部見透かされると思うけど…』
それは雅季も思っていた。瞬に雅季の意図を促したのも彼女だったらしい。
(…賢い上に、不思議な子だな…)
毎晩零時にだけ家で電話をする約束をすると、二人は通話を終えようとしたが、お互いに無言のまま一向に切ろうとする気配はなかった。
これを切ってしまったら、次の零時までもう話せない――。
「……瞬」
『…うん…』
寂しそうな声がぽつりと耳に響くと、雅季はとても穏やかな優しい声で言った。
「いつも、想ってるから――…」
ぐすっと鼻を啜る音が、耳元でそっと鳴った――。
皐のお気に入りの場所も、雅季と同じく図書室だった。
と言っても彼女の指定席はヴェローナだったので、今まで雅季と鉢合わせした事はない。いつもは大抵、皐が本棚の間で一人本を読み耽っていると、雅季が図書室に入ってくるのが棚の隙間から見えるのだ。皐は物音ひとつ立てないので、雅季はいつも誰もいないと思っているようだった。一人だと思って油断しているのか、本を読みながら眠りに落ちる事が多々あって、その間に他に人が現れるのを皐は度々目撃していた。
今日も皐は四時間目の授業をサボって、ヴェローナで読みかけの本を読んでしまおうと図書室に向かった。松葉杖が思ったよりも歩調を遅め、図書室に辿り着く頃には授業開始のチャイムが鳴っていた。そこで初めて、雅季と顔を合わせる事になったのだ。
ドアを開けるとすぐに、本から顔を上げた雅季と目が合った。お互いにしばらくの間、無言で見つめ合っていた空気を雅季が打ち破った。
「…授業中だけど」
「……体育なので、どうせ見学なので、それなら本でも読もうかと」
「……そう」
それ以上追及しようとはしなかった。一組の時間割を把握している雅季には、彼女が嘘をついていない事がわかったので、それだけで良しとして咎める事はしなかった。視線を本に戻すと、彼女は本棚の方へと消えていった。
(…雪村の俺への気持ちを知ってるんだよな…、あの子…)
昨日の一件の雅季の真意もわかっていたらしい。彼女がどこまで詳細に知っているかはわからないが、もしかしたら彼女には『脅迫者』の正体も目星がついているのではないか。
(……聞けない)
聞いてしまったら、瞬と話した事が知られてしまう。危険は冒せなかった。
「……」
皐の向かった棚の方から、さっきから何の音もしない事が気にかかった。てっきり本を選びに行ったのかと思ったが、一向に出てくる気配もない。少し迷ったが彼女の様子を見に本棚が並ぶ方へと向かった。
皐の姿は一番奥で見つかった。彼女は松葉杖を床に置いて、棚と棚の間にすっぽりはまるように座って本を読んでいた。雅季の姿に気が付くと視線を向けてくる。
(…ここがヴェローナか)
棚を見ると確かに、シェークスピアの本がいろいろな種類並んでいる。その中に『ロミオとジュリエット』もあった。
「…ここが飯島の指定席?」
「……はい」
(そういえばここに、雪村と二人でいたんだっけ…)
その事を問い詰めた時、瞬は何を言い渋っていたのだろう。
「…よくここにいるの?」
「…先生の事、よく見かけていました」
雅季が気になった事を瞬時に理解した皐が答えた。彼女との会話は、何手も先を見通す囲碁のようだ。
(…本当、見透かされてるな…)
今まで誰もいないと思っていた時でも彼女がいたかもしれないのか。
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