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第4話

 今日は三年一組の授業は入っていなかったので、元々学校での接点があまりない瞬とは一度も会わずに一日が終わろうとしていた。自ら会う事をやめたらこんなものだ。  今までは瞬が雅季に合わせて一緒に登校し、瞬が校内で雅季を見つけてはまとわりつき、口実を作っては毎晩の夕食に誘っていた。  電話で話はしたものの、最後に彼と面と向かって会ったのは彼を傷付けたあの時だ。 (…顔が見たい……) 帰り支度をしていると、すでに身支度を整えた竹下が声を掛けてきた。 「これから何人かの先生方で居酒屋行くんですけど、ご一緒にいかがですか?」 彼女の背後に、同様に帰り支度を済ませて待っている数人の教師の姿が見えた。比較的若いメンツのようだ。 「…せっかくですが、今日は―…」 「そう言わずに! もう無理矢理飲ませたりしませんからー!」 断られるのを予想していたのだろう。雅季の返事を最後まで聞かずに、彼女は顔の前に両手を合わせて懇願するように食い下がってきた。  彼女のその様子を見て何か下心があるなと感じたが、少しならと渋々了承した。 (…どうせ帰っても一人の夕飯だ……)  『描きたい時に描きたい場所で描く』――部長である瞬の掲げた方針に基づくならば、今日の瞬はそれに当てはまらない。けれど家に帰る気にもなれず、瞬は美術室の自分の定位置で、桜の絵をぼんやりと眺めていた。  この場所がカメラに撮られていると雅季から聞いていた。しかし急に作業場所を変えたら不自然だからと、いつも通り行動する事を約束させられた。カメラを探す素振りをする事も、雅季と話した事がばれてしまうのでするなと言われた。  瞬は内心、腹が立って仕方がなかった。瑠璃と皐に嫌がらせをしただけでなく、一歩間違えれば生死にも関わるような事までされた。そして二人と隠しカメラで撮った映像を人質に、雅季を脅したのだ。 雅季は自分のせいで二人を傷付け、皐に怪我までさせてしまったと思っただろう。雅季はどんな気持ちで瞬に、わざと傷付ける言葉を投げ掛けたのか。 雅季が受けた苦しみを思うと、瞬ははらわたが煮え繰り返る思いだった。 「お兄ちゃん、大丈夫?」 視界に突然、瑠璃の心配そうな顔が現れた。美術室には彼らの他に一年生が何人かと三年生の男子生徒が二人ほどいた。  ずっとキャンバスを眺めているだけで何もしない部長を、その場にいた全員が怪訝そうに見ていた。 「…うん。そろそろ帰って夕食の支度するよ」 「あ、待って。わたしも手伝う!」 荷物を持って帰ろうとする瞬を、瑠璃は慌てて自分の荷物をまとめて追いかけた。  美術室に残った部員達は、少しの間二人が去った余韻に包まれた。 「仲良いよね、あの兄妹」 「瑠璃いいなー! 雪村先輩と仲良くてー!」 「……本当」  教室に忘れ物を取りに行っていた雅季は、一人遅れて居酒屋に向かおうとしていた。 「雅季、行く事にしたんだって? めずらしい」 職員用の玄関口で相原に遭遇すると、すぐに彼の仕業だと気付いた。 「竹下先生に誘われて、お前が行くなら行くって答えたんだ」 「…俺を断る口実に使うな」 大学時代もそうだった。彼は気乗りしない飲み会の時は必ず雅季を口実に使った。雅季が断わるにしろ誘いに応じるにしろ、どっちにしても相原は雅季と一緒にいられる。そういう計算だったのだろう。 「あ、ヒナちゃん!」 正門に向かっていると、背後から聞き慣れた声が雅季を呼んだ。その声に先に反応したのは、隣を歩いていた相原だった。 「あ、雪村兄妹」 ――相原の口から出た名前に、雅季は思わず振り向く前に身体が強張った。 「二人でどこか行くんですか?」 「…ちょっと、みんなで居酒屋に」 瑠璃の問いかけに、敢えて『みんな』と口にしたのは、暗に瞬の為だった。 (よりによって相原と一緒の時に―…) ――彼の顔を、久々に見たような気がした。瞬は感情を押し殺したような表情で、雅季を見つめている。その眼差しに射抜かれて、胸が詰まるように苦しくなった。 正門を出ると別々の方向へと別れた。瞬はずっと押し黙ったままだった。雅季は振り返りたい気持ちを必死に堪えると、早くその場を離れようと無意識に歩調が速まっていた。 「…何かあったの? 雪村瞬と」 鋭く訊いてきた相原を上手くかわす余裕もなく、ただ足早に進む雅季に痺れを切らした相原は、強引に腕を掴んで歩みを止めさせた。雅季は無言で睨むように彼を見上げる。 「お前、アイツと付き合ってんの?」 「――いいや」 今までわざと遠回しにしか振ってこなかった話題を、いきなり単刀直入に訊かれて多少面食らったが、睨み据えたままキッパリと否定した。 「…じゃあ、振ったのか」 「――ああ」 返事を濁らすことも出来たがそうしなかった。ハッキリとした態度を貫かなければ、相原は引き下がらないと思ったのだ。 そこまで聞くと、彼はやっと掴んでいた腕を解放した。 『先生、相原先生に何もされてない?』 零時きっかりに鳴り出した携帯電話に出て早々、瞬のこの台詞で始まった。 おろおろとした心配そうな声に、雅季は少し呆気にとられ、そしてホッとした。 (…いつもの雪村だ) 瞬が零時になるまで、電話の側でそわそわと待っている様子が目に見えるようだった。 「されてないよ。俺は飲まないですぐ帰ったし」 『…よかったぁ』 彼は心底安心したように、長い息を吐いた。 (――…愛しい…) ただそれだけの事で、雅季は胸がぎゅっと切なく痛んで、感覚ではなく言葉となってそれを自覚する。愛しくて泣きそうになるなんて、知らなかった。 「瑠璃ちゃん、もう寝た?」 『うん。慣れない料理して疲れたって言って』 「教えてあげたのか」 『うん。やっぱり兄妹だね。料理がんばろうって思うのは、好きな人の為みたい』 穏やかな瞬の声が、温かい瞬の口調が、じんわりと全身に沁み渡っていく。 「――ベランダ、出て来いよ」 『――!』 耳元で彼の呼吸が止まったと感じた刹那、静寂の中で微かに風を切る音が聴こえたような気がした。そしてカラララ、とベランダへ続くガラス戸を引いた小さな音が、電話口と雅季の近くで二重の音となって震える。  雅季はベランダの手すりに肘を掛けて空を見上げていた。仕切りの壁一枚を隔てた向こうの手すりに瞬が現れる。  暗闇の中でも、彼の頬に赤みがさしているのが表情でわかった。潤んだ瞳をキラキラ輝かせて、そして今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。 「…先生、会いたかった」 (…ああ、俺の見たかった顔だ…) 眩しそうに目を細めて瞬の顔を見つめると、もう一度夜空を見上げた。  雅季の視線を追うようにして彼も同じ空を見上げると、そこには深まった夜の闇の中で、人知れず美しく輝く満月があった。 「――月が、綺麗ですね」 雅季は何かの台詞を読むみたいに、月を見つめながら呟いた。 瞬にはその意味がよくわからなかったけれど、手すりの上で雅季の手にそっと自分の手を重ねると、月の光を浴びた愛しい人の横顔を見た。 「――先生と見る景色は全部、綺麗です」 雅季はキョトンとした顔を瞬に向けると、「お前らしい」と言って笑った。  「お兄ちゃんとヒナちゃん、ずっと口きいてないみたいなんです」 生徒会室は本校舎の四階のはずれにあった。 天気が良い日には富士山を望めたが、今日も相変わらずの雨で景色は閉じられている。いつの間にか梅雨入りしていたらしい。  瑠璃と皐は昼休みを生徒会室で過ごすようになっていた。瑠璃が最近料理を覚えたというので、今日も彼女が作った弁当を一緒に食べている。 「最初は、いつものようにお兄ちゃんがヒナちゃんを無駄に怒らせているだけだと思ってたのに。朝も一緒に登校しなくなったし、夕食にも呼ばなくなって…。何があったのかなぁ…」 皐は若干焦げの目立つ卵焼きを口に含みながら黙って聞いていた。足の捻挫は、もうすっかり治っていた。 「皐さん、何か知ってますか?」 ズイッと顔を覗きこんできた瑠璃の口の端にケチャップがついていた。皐はそれを人差し指で拭うと、瑠璃の目をジッと見つめながらその指を口に含む。 「…皐さん、妖艶すぎます…」 顔を真っ赤に染めて困ったように視線を逸らすと、ずっと黙って聞いていた皐が口を開いた。 「…さっき言っていた、お泊まり会」 「え? はい…」 いくつも前にした話題を唐突に掘り返すと、唐揚げにフォークを挿した。  瑠璃が美術部で仲良くなった瀬戸と赤城、それに同じクラスで一緒に美術部に入ったあずさと四人で、期末テストが終わったらお泊まり会をすると言ったのだ。親がいないので気兼ねなく自由にやれるからという理由で、瑠璃の家ですることになっていた。瞬にはその日は不在でいてもらう予定だ。 「わたしも参加したい」 「ええっ?」 予想外の申し出に、瑠璃は思わず目を丸くした。美術部員だけの、それも一年生の集まりに参加したいと言い出すとは夢にも思っていなかったのだ。 「大丈夫。弓道部の友達も誘うから」 皐は生徒会長をやる傍らで弓道部にも所属している。最近までは足の怪我のせいで弓道は全くできなかったが、その間に生徒会の仕事に集中できたので、今は比較的ゆとりがあるようだった。今日も放課後はまっすぐ弓道部に行くつもりらしい。 「…一応、みんなに聞いてみますけど…」 瑠璃の友達はきっと快く受け入れてくれるだろうとは思った。むしろ喜ぶのではないかと思う。友達の中には皐のファンの子もいるし、生徒会長で美人の彼女はみんなの憧れだ。 「うん。よろしく」  いまいち皐の申し出が腑に落ちなくて、瑠璃はいつまでも首を傾げていた。  期末テストが近付いているので、問題作りの為に今日も遅くまで職員室には人が残っていた。その中の一人である雅季は、余計な事を考えないで済むこの忙しさがありがたかった。 瞬と離れて、もうだいぶ経つ。毎晩電話で会話はするものの、側で顔を見られないこの距離は、思っていたよりもずっとキツイ。  『脅迫者』はあれ以来何もしてこない。雅季への脅迫が成功して満足したのか、瑠璃達に対する嫌がらせもパッタリと止んでいる。瞬が思い当る人物もいなかったので、雅季はこれ以上どうする事もできず、苛立ちだけが募るばかりだ。 「相原先生、雛野先生。どうぞ」 竹下が残って仕事をしていた全員にコーヒーを淹れてくれていた。彼女の担当科目は家庭科なのでテストは関係ないのだが、こうして残っているのは相原がいるからだろうと、雅季は穿った見方をした。 「…健気だな」 彼女が離れていった後、コーヒーを啜りながらぼそっと呟く。 「計算かもよ」 冷ややかに言い放って、コーヒーに口をつける相原を横目で見る。 「…なら、お前と似合いだな」 何てことのない、いつもの二人のやり取りだったはずなのに、相原は突然不機嫌そうに立ち上がった。 「―煙草吸ってくる」 軽口と毒舌を言い合うのはいつものことなのによくわからない奴だな、と雅季は思った。 しばらくして小さくため息をつくと、相原を追って喫煙所へと向かった。喫煙所と言っても立派なものではなく、職員用の玄関口を出てすぐ横にある、植木で仕切られただけの簡単なスペースだ。スタンド灰皿は設置されているが、特に照明は付いていないので、今の時間は校舎から洩れる明かりだけが頼りだ。 「来ると思った」 射し込む僅かな明かりが揺らぎ、そこに雅季の姿を確認すると相原は作戦成功とばかりにニッとほくそ笑む。 「…さすが、策士だな」 「むかついたのは本当」 不機嫌な態度は崩さず、指の間に煙草を挟んで煙を吐いている。 「最近、何イラついてんの?」 (――…本当、俺に敏感だな) 大学時代、自分を理解してくれる彼の事が友人として心地良かった時期もある。  ――彼の本心を知るまでは。 「…別に。お前には関係ない」 ――しまった、と思った時には遅かった。暗闇の中で相原の指から煙草の火が落ちるのが見えた瞬間、雅季の両腕は拘束され壁に押し付けられていた。 「アイツを好きなのに、振った事でも引きずってんの?」 「――…」 「それとも、内緒で付き合ってんのか?」 相原に、自分の瞬に対する気持ちまで見透かされている事に激しく動揺する。 「…どっちにしろ、本当むかつく…」 憎々しげに呟くと、掴んでいる両手に力を込めた。 「―…痛っ…」 ――玄関口の方から喋り声が聞こえると、相原は舌打ちをして、雅季を解放した。  瞬が掛けてくるよりも早く電話の発信ボタンを押していた。ちょうど彼も掛けようとしていたところだったらしく、呼び出し音は鳴ることなく二人は繋がった。 『早いね、先生。待ち遠しかった?』 「…待ち遠しかったよ…」 『――…』 電話だけの繋がりになってから、今までの素っ気ない態度が嘘のように、雅季は素直に甘く瞬に語りかけるようになっていた。 『…やめてよ、先生。…抱きしめたくなる』 いつまで続くかもわからない会えない日々に、瞬も相当こたえていた。雅季の甘い態度は、今の彼には毒でしかない。 「…うん、ごめん…」 しおらしく謝る雅季にあてられて、これ以上胸が高鳴らないように瞬は慌てて話題を変える。 『テスト明けの週末に、瑠璃が家でお泊まり会するんだって。俺は邪魔だからって、その週末中、追い出されるんだよー。ひどいよね』 「…どこに泊まるんだ?」 『たぶん倉田の所。前にも泊まらせてもらった事あるし』 バスケ部部長の倉田は、瞬と二年生まで同じクラスだった。瑠璃と二人暮らしになる前までは、よく彼の方が瞬の家に泊まりに来ていた。 「…俺の家に来いって、言えたらいいのにな…」 『――!』 電話口で何かが勢いよく落ちる音が聞こえた。どうやら瞬が、座っていたデスクチェアから滑り落ちたようだ。 『…先生。それ、わざと煽ってるの…?』 「? 何が?」 瞬の事をいつも天然だとか雅季は言うが、自分はどうなんだと瞬は激しくなる鼓動の中思った。 『……先生、俺…おかしくなりそうだよ…。先生に会いたくて、先生に触りたくて…、変になりそうだ――』 切羽詰まったような切ない声に、雅季の胸はズキン、と甘く軋んでしまう。 ――『…先生って一人でする時、俺の事想ってしてくれてたりする…?』 「――!」 突然振られた猥談に、今度は雅季の心臓が激しく打ち鳴った。 『…俺はしてるよ。先生と初めて出会って、好きになってから、いつも…』 いつの間にか彼の声音は甘く囁くものに変わっていた。 (――…コイツ…、仕返し…?) 『…ねぇ、先生…?』 誘うように響く瞬の声が、雅季の背筋をゾクッと刺激してくる。 「……想ってるよ…」 恥ずかしすぎて、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。 『…嬉しい―…』 「んっ―…」 耳に直接吹き込むようにして優しく囁かれると、彼の柔らかい息を感じて、雅季の脳天は甘く痺れてしまう。 『…感じちゃった? 先生、耳弱いもんね…』 「っ―…」 それでなくても、瞬を近くで感じられない毎日は禁欲のようなものだ。彼と触れ合ったのはまだ数回だったが、それでも彼を想って疼く身体を持て余したのは一度や二度ではない。 『耳を舐められると、途端に声を我慢できなくなるの、俺知ってるよ…』 瞬の掠れた声が耳を愛撫しては熱くしていく。段々と、自分の呼吸も熱く湿っていくのがわかった。 『先生、下…もう硬くなってきてるよ…』 「なっ―…」 まるで見ているかのような台詞に胸が激しく高鳴った。 『服の上から触って、そっと撫でてみて…。俺が、初めてした時みたいに…』 「んぅ―…」 その時の感触をリアルに思い出してしまい、それだけでまた中心が疼いた。瞬の声に導かれるように、そっとそこに触れる。 『俺が首を舐めたら、そこ、自分から擦りつけてきたよね…。先生、首も弱いんだ…』 「っ―…」 ねっとりと首を舐め上げられた瞬間に駆け上がった快感が、記憶と共にまた襲ってくる。 『…そのあと、俺がどうしたか、憶えてる…?』 「―…っ、…ベルト…、外して…から…」 『…自分でしてみせて?』 催眠術にでもかけられているかのように、言われるままに自分でファスナーを下げると、もう充分に猛っている自身を取り出した。 『…もう、すごいヌルヌルしてる…』 「やっ―…」 彼の言うとおり、そこはすでに先走りの蜜で溢れてしまっている。瞬にされたことを思い返しながら、促されるよりも先に自らそこに指を絡めて動かし始めた。 (濡れた先端を…親指で……) 雅季のそこを這うように蠢いた瞬の指先の感触が、生々しく蘇ってくる。 「あっ…、あんっ」 『…先生、もう動かしてるの? やらしいなぁ…』 「んぅっ…」 自分のはしたない行為に恥ずかしくなるが、羞恥心が更に刺激となって、もうそこは淫らな音を立て始めてしまっている。 『…どんどん溢れてくるね…』 「あぁ…んっ」 『俺の指、そんなに気持ちいい…?』 「ん…、…いい…気持ち、い…」 徐々に激しくなる手の動きに合わせて、雅季の息も短く荒くなっていく。 「あ……、も、いきそ…」 『―…待って、先生…。一緒に―…』 熱に浮かされるまま夢中で快感を追っていた雅季の耳に、瞬の熱い声が聴こえたと同時に、ファスナーを勢いよく下ろす金属音が響いた。 「――…っ」 次に訪れるであろう快感に打ち震えていた雅季の耳に、突如予想外の声が聴こえた。 ――『あ、ごめん、瑠璃が来た。切るねっ』 「――…え?」 状況を理解できないまま、気付いた時には電話は切れていた。 「――…」 あとに残されたのは荒い自分の呼吸と、瞬に散々高ぶらされた身体だけだった。中途半端に放置された自身が、今か今かと解放されるのを待っている。  我に返った雅季は涙目になりながら、顔から火が出そうな勢いで呻いた。 「――っ! アイツ、殺すっ…」 ――翌日鳴り続けた瞬からの電話に、雅季は断固として出なかった。  「ヤサオ君、サカっている場合じゃない」 「~…もう。なんでそう、いろいろお見通しなの?」 瞬は皐に連れ出されて、授業をサボってヴェローナにいた。  雅季との電話越しの情事は、テスト勉強をしていた瑠璃によって突如中断を強いられた。その事に怒ってか、昨晩は何度電話をしても雅季は出てくれなかった。校内で見かけた時も、不機嫌そうな顔で思いっきり瞬を睨んできたのだ。  限界まで高ぶった欲望を持て余したのは瞬も同じだった。電話越しに聴こえた雅季の甘い嬌声は、一度も触れることなく彼自身を熱り立たせていた。  ただでさえ雅季に触れられない毎日は拷問のようなのに、消化不良で終わった情事は火に油を注いだだけだ。その上電話にも出てくれないのでは、瞬はもういろいろと限界だった。 「…会長さんとここにいるのがばれたら、尚更まずいんだけど…」 これ以上雅季を刺激するわけにはいかないと怯える瞬に、皐は構わずさらりと言った。 「犯人、捕まえる方法思いついた」  雅季は図書室のドアを勢いよく開けるといつもの席に向かった。あとを追ってきた相原は室内の様子を窺うと、後ろ手にドアを閉めて鍵を掛けた。 ガチャッと鍵の掛かる音が響くと、雅季は彼を振り返って条件反射のように身構える。 「――俺が怖い?」 相原は困ったように苦笑いしている。  「…それはお前だろ」 喫煙所で掴まれた手首がまだ痛むような気がしていた。  ずっと目を背けていた大学時代の二人の関係に、向き合う時だと覚悟を決めた。 「まだ俺が好きなら、さっさと告白しろ。――もう一度振ってやる」 冷酷に言い放った雅季を見て、相原は思わず吹き出した。 「それだよ。お前のそういうところ。…―堪らない――」 相原の瞳が、欲情を帯びて鋭く雅季を射抜く。彼がゆっくりと近付いて来るのに、雅季は身体が動かない。 「―お前は大学の時、俺の事を唯一の理解者だと思っていたみたいだけど。…俺の方がそうだった。雅季の前でならどんな自分でも曝け出せた。…お前への、欲情以外は―」 「…俺は信じてた。お前の気持ちには気付いていた。だけど、友達だって…。お前も、このままでいたいんだって…。信じてた――」 相原はどこか痛むように顔を歪ませると、苦々しく吐いた。 「―俺は、お前のその気持ちを踏みにじってでも、お前が欲しくて堪らなかったよ―…」 雅季の腕を掴むと、強引に身体を本棚に押し付けた。その衝撃で本棚が揺れ、何冊かの本が音を立てて床に散らばる。 「っ…放せ…」 逃れたいのに腕に力が入らない。彼の両腕に囲われて雅季は逃げ場を失っていた。 「―偶然再会して、何事もなかったような顔で接してくるお前を見て、今度はちゃんと友達でいようと思ったんだぜ、これでも…」 その時の自分を懐かしむかのように小さく笑った。 「なのに…。男に興味ないって、そういう目で見れないって、俺を振ったくせに。そのお前が――」 徐々に荒くなる息が顔を背けていた雅季の首すじにかかる。 「男の、…しかも生徒と――…」 苛立った声を更に荒げると、雅季の首すじに顔を埋めて匂いを嗅いだ。 「――アイツには抱かせたんだろ?」 たった今まで息巻いていたのが嘘のように、温度を失くした冷淡な声が雅季を辱めた。 「――つっ…」 首すじを厚い舌が這い上がり、次の瞬間噛みつかれていた。 雅季の全身はゾワッと一気に鳥肌が立ち、彼に襲われそうになったあの日の記憶が身体を竦ませた。 「俺の前でも啼いてみせろよ――」 欲情に湿った低い声が更に雅季を追いつめ、彼の手が雅季のベルトへと伸びる。 「っ…やめっ」 力の入らない抵抗は虚しく、鈍い金属音が鳴ると簡単にスラックスを緩められてしまう。 「――やめろっ、皇!」 雅季の口から昔の呼び名が響くと、相原の動きがビクッと止まった。―同時に、本棚の奥でバサバサと本の落ちる音が響いた。  息を切らせながら雅季は、音のした方に目を向ける。一番奥の棚の上にバランス悪く平積みされていた本が滑り落ちたようだった。  肩で息を切りながら、必死に威嚇するように潤んだ目で相原を睨み続けた。 「…このタイミングで『皇』って…、反則だろ…」 相原は苦々しく呟くと、前髪を掻き上げながらチッと舌打ちをして図書室を出て行った。  ――雅季は、まだ震えの止まらない指先でウェストの乱れを何とか直すと、不自然に落ちた本にもう一度目線を向けた。 ふと皐の顔が思い浮かびながら、本を直そうと奥の本棚に近付くと、落ちていたのは全てシェークスピアの本だった。頭をよぎった通り、皐は彼女の指定席にいた。 ――瞬のシャツを、後ろから力いっぱいに引っ張りながら。 「――」 瞬は怒りに身体を震わせて、肩を上下させながら呼吸を荒げている。激昂して今にも飛び出して行こうとした彼を、皐が必死に止めていたようだった。  彼は雅季の首に噛み痕があるのを見ると、更に頭に血が上っていった。 「先――」 思わず口に出た言葉を瞬はやっとの思いで飲み込むと、自分の手をぐっと握りしめて耐えた。 彼の全身が、雅季を抱きしめたいと叫んでいる。 (―…縋りつけたら…) 雅季は自分の腕で身体を抱き締めるようにしながら、彼に駆け寄りたい気持ちを堪える。黙ってその場を去ろうとした雅季の耳に、一人言のような皐の声が聴こえた。 「――わたしは姫の為に戦う」  「――皇」 「…そう呼べば、俺が怯むと思ってんだろ」 雅季はこれまでと変わらない静かな笑みで、相原の隣に立った。 「…本当むかつく」 夕方まで降っていた雨が止み、コンクリートに染みた匂いだけを残して、辺りは暗くなり始めている。雨に濡れたこの屋上には、二人の他には誰もいない。 「…何でここがわかった?」 「前にここで煙草吸っていたって、雪村に聞いてた」 相原は手に持っていた空の煙草の箱を、クシャッと握りしめた。 「…初めてお前の口から聞いたな。『雪村』…」 静寂が二人を包む。雅季は昔から、相原の醸し出すこの静寂が好きだった。 「…謝る気はないぜ」 「俺が謝ろうと思って来た」 屋上に来てから初めて、相原は雅季の横顔を見た。大学時代と変わらない、美しい横顔。 「俺の一方的な信頼を押し付けて、酷な事をしてた。…ごめんな。あの時はわからなかったけど、今なら理解できる。――好きだから、どうしても欲しくなる気持ち」 「…雪村のおかげで、だろ。…あんなガキのどこがいいんだか」 眼下では街灯の明かりが、ぽつりぽつりと灯り初めていく。 「…忘れてたよ。お前に『皇』って、呼ばれる感覚…」 群青色の空の高いところでは、小さな星がひとつ煌めいている。 「俺が何よりも一番、好きだった感覚だ――」 自然と名前で呼び合って、心地良い静寂の中で過ごしたあの日々を、取り戻したいと思ったのは、雅季だけではない――。  鳴り出した携帯電話を手に持ちながら、雅季は思案していた。 (…さて、何て言おうか) 雅季が相原を許している事を、きっと瞬は理解できないだろう。あんなに怒りに震えている彼の形相は初めて目にした。  自分もあの時は確かに恐怖に竦み上がっていた。昔相原にされた事が重なった途端、身体が動けなくなってしまったのだ。けれど――。 『先生、ごめんっ―…』 彼の第一声が想定外の言葉だったせいで、雅季は用意した台詞をもう忘れてしまっていた。 『助けられなくて…、守れなくて…。怖い思い、させて―…』 (―…ああ、これだよ、相原…) 電話の向こうで、泣き虫の彼がまた泣いている。――雅季の為に。 (雪村が代わりに泣いてくれるから、俺は――) ヴェローナで瞬を見た時、雅季を支配していた恐怖が一瞬にして消え去ったのだ。 瞬がいたから救われた。瞬がいたから相原を許せた。 「…助けてくれたよ、充分――」 ―泣き止む彼を待ってから、相原を許した事を話した――。  期末テストが終わると、生徒達は早くも夏休みに向けて浮足立ち始めていた。心なしかいつもよりも甲高い喋り声が、職員室の外から聞こえてくるようだ。 雅季は三年一組のテストの採点に取りかかっていた。雅季の作るテスト問題はいつも割と難しめなのだが、それでも皐には全く通用しないようだ。 (また満点か…) 彼女にはいろいろと頭が上がらないな、と先日の図書室での事を思い返す。  あのシェークスピアの本をわざと落としたのは彼女だろう。相原を止める為に…というよりは、瞬を行かせない為に、の方が正しい表現か。 あのまま瞬が出てきていたら、確実に相原を殴りつけていた。その事はきっと問題になり、やがては『脅迫者』の耳にも入っていただろう。 「はっ、九十点。お前の科目だけ張り切って、やっぱガキだな」 隣から相原が答案用紙を覗いてきた。ちょうど採点の終わった答案の氏名欄には、『雪村瞬』と綺麗な字で書かれている。 「…お前の英語の方が、もっと張り切ってると思うけど」 そう言われて、相原が採点した瞬の英語の結果は満点だった。予想した以上の結果に、雅季は思わず声を出して笑ってしまった。 「負けたくないんだろ、お前に」 「……本当、ガキだな」 相原は前髪を掻き上げながら失笑した。  採点を全て終わらせ解答用紙も作っていたら、マンションに着いた時にはもう夜の十時を回っていた。軽く夜食を食べようと思い、部屋に帰る前に隣のコンビニへ向かった。 店内に入ると、アイスクリームの並んだケースを、上から食い入るように見て吟味している瑠璃がいた。彼女は雅季に気が付くと、恥ずかしそうにアイスクリームを二つ取り出した。 「瑠璃ちゃん、今帰り?」 「そこのファミレスで友達と話し込んじゃって。気付いたらこんな時間で―」 まだ制服のままだった彼女は、注意されると思ったのか、慌てて言い訳をした。 「あんまり遅くまで一人で出歩いてると危ないよ? しかも制服で」 心配して咎めると、彼女は目に見えてシュンとなっていた。 「…雪村、心配してるんじゃない?」 雅季の言葉を聞くと、瑠璃は一瞬でパアッと明るい表情を取り戻した。 「はい、お兄ちゃんからの電話で時間に気付いて。アイスで機嫌とろうかと」 雅季の口から瞬の名前が出た事が嬉しかったようだ。 事情を何も知らない彼女は、突然口を聞かなくなった二人にだいぶ戸惑っていたらしい。瞬の名前を口にしただけでこんなにも喜ぶ姿を見るとズキッと胸が痛んだ。  瑠璃と連れ立って七階の廊下を歩いていると、奥にある瞬の部屋のドアが開くのが見えた。 「あれ、皐さん?」 中から出てきたのは皐だった。彼女は瑠璃の声で二人に気付くと雅季に小さく会釈し、駆け寄ってきた瑠璃にその顔を少し緩ませたように感じられた。  少しすると彼女の後から瞬も姿を現した。 「瑠璃―。お前遅いよ、こんなんじゃ門限作るようだよ?」 「ひえっ! それだけはやめてー!」 怯えた顔で慌てふためく瑠璃の頭を、皐が優しく撫でている。 「嫌ならちゃんと、遅くなる前に帰ってこい」 (……しっかり兄貴してる) その様子が微笑ましくなって、思わず顔に出てしまいそうになるのを耐えながら、自分の部屋の鍵を開けた。 「会長さん送ってくるから。ちゃんと鍵掛けとけよ」 「はーい…」 瑠璃は瞬と皐が歩いて行くのを見送っていた。雅季の横を通る時、瞬が軽く会釈をすると二人が視線を交わしたように見えたが、二人ともそのまま無言で立ち去った。 瑠璃は唇を噛みながら、そっとドアを閉めて鍵を掛けた。 (…こんな遅くまで、二人で…) 雅季がリビングの時計を見上げると、時刻はすでに十時半を過ぎていた。  翌日の土曜日。雅季は午前中の部活を終えると、体育館に誰もいなくなったのを確認して、戸締りをした。職員室に戻る途中、正門の所に瞬が立っているのが見えた。彼はTシャツにジーンズというラフな格好で、初夏の眩しい日差しの下にいた。 (…倉田の家に泊まるんだっけ) 部活終わりの倉田と、そのまま一緒に行く約束なのだろう。昨晩の電話でも言っていた。今日は瑠璃のお泊まり会の日なので、瞬は倉田の家に泊まる。おのずと、今夜の電話は中止になったことを瞬が寂しそうに嘆いていた。 瑠璃達が集まるのは夜になってからだと言っていた。急遽、皐と彼女の友人も参加することになって人数が多くなった為、入浴は各々自宅で済ませてからの集合となったらしい。 彼女達に遭遇しないうちに早く帰宅しようと考えていた。雅季が雪村家の隣に住んでいる事は周知の事実だろうが、実際にマンションで顔を合わせてしまうのはいろいろと面倒だろう。  ――暑くなり始めた日差しに照らされて、瞬の姿が白く霞む。 (…目を見て話したい。笑顔を見上げたい。…体温を感じたい) 今まで当たり前だった距離が、今ではこんなに…遠い。 視界がなんだかぼやけて見えるのを、この眩しさのせいにした――。  週が明けるとますます夏が近付いて、普段はひんやりと感じる旧校舎も暑さが増していた。古いこの校舎には冷房は無く、暑さは窓を開けてやり過ごすしかなかった。  今日も窓を全開にしていた美術室は、日が暮れ始めてやっと暑さも落ち着き始めていた。  瞬はいつもの定位置に座って、イーゼルに乗せた真っ白なキャンバスを見つめていた。 「あ、雪村先輩…」 一人の女生徒が慌てた様子で教室に駆け込んできた。美術部員である彼女は、何かを探している様子で辺りをキョロキョロと見てまわっている。  瞬は彼女をジッと見ると、以前自分に告白した一年生だと思い出した。あの日は確か――。 「探し物?」 「…はい、携帯…無くしちゃって―」 瞬の問いかけに、息を切らせているせいか上気した顔で彼女が答えると、突然二人の背後でドアの閉まる音が響き、直後に鍵を掛ける音が聞こえると、彼女は咄嗟にそちらを振り返った。 「ごめん、わたしが盗った。瀬戸さんが体育の授業の間に」 携帯電話を手に持った皐はしれっと自白すると、瀬戸にそれを返した。 「――…」 スマートフォンタイプの携帯電話を返された彼女は、それを胸の辺りで握りしめたが、動揺して何も言えないようだ。 「パスワード、一回でひらいた。雪村瞬の誕生日なんて、単純すぎる」 その言葉を聞いた途端、瀬戸の顔からすうっと血の気が引いた。 瞬は皐の口から普段の呼び名が消えていることに気付くと、彼女も自分同様、本気で怒っているのだとわかった。 「携帯に入っていた動画は消した。あの映像の位置からすると、隠しカメラは…」 廊下側の棚に沿ってゆっくり歩きながら、皐はそこに並ぶ数々の粘土細工を眺めている。  ある位置で止まった彼女がそのまま窓側の方を振り返ると、瞬が白いキャンバスを背にして真正面に座っていた。 「…ジュリエットのバルコニー」 無感情の声で呟いて、その作品を手に取るとおもむろに指を広げた。皐の手から解放されたそれは、床に落ちると音を立てて割れ、中から小さな黒いカメラが現れた。  それを見た瞬は、顔を歪ませて立ち上がった。 「無線LANで携帯に送っていた。雪村瞬をただ見ていられればよかったのに、偶然彼の密会を見てしまった。…気の毒に。自業自得だけど」 「っ…なんで、飯島先輩が知って―…」 皐が淡々と語るのをただ黙って聞いていた瀬戸が、ひどく狼狽した様子でやっと言葉を発した。 「雪村瑠璃とわたしに対する嫌がらせが止んだ日に、雛野先生が雪村瞬を振れば、簡単に想像がつく。――彼と親しいわたし達への攻撃を止めてもいいぐらい、雛野先生を憎んだ」 「! だって! 最初は飯島先輩と付き合ってると思ってたのに。噂になってたし、いつも二人でいたし…。なのに、本当は教師と、それも男の――」 彼女はとうとう耐えられなくなると、怒りを爆発させて叫び始めた。 「よりによってわたしが告白した日の、同じ夜にあんなの見せつけられて、黙っていられるわけない!」 彼女の涙に濡れた悲痛な叫びが、美術室に響き渡った。 「――雛野先生は振ったと見せかけただけ。表向きは距離を取っていたけど、今も二人は通じていて、だから脅迫メールの事も雪村瞬は最初から知っていた」 「――!」 瀬戸は耳を疑い思わず瞬に目を向けると、彼はジッと鋭い目で彼女を見据えていた。 「…脅迫は上手くいったと思ったけど、でもそのうち、ここの隠しカメラだけじゃ満足できなくなった。―もっと彼を見たい。学校だけじゃなく、家にいる彼も――」 皐はまるで瀬戸の心情を代弁するかのように語り続ける。 「そして雪村瑠璃に、彼女の家でお泊まり会をやろうと持ちかけた。雪村瞬の住む家に行ってみたかったし、自室で過ごす彼を見たかった。だから夜中、みんなが寝た後に彼の部屋にカメラを仕掛けた――」   瞬がポケットに持っていた小型カメラを瀬戸の足元に投げ付けた。 彼女はその衝撃にビクッと身体を震わせると、足元で壊れたそれを見て息を呑んだ。 「会長さんが携帯を盗んだ後、速攻で外して来たよ。気分悪いから」 これまで沈黙を通していた瞬に冷たく言い放たれると、彼女はショックのあまり、その場に崩れ落ちた。 「―仕掛けに来ると思っていたから、瀬戸さんと同じようにする事にした。――脅迫」 皐は自分の携帯電話の画面に映像を映し出した。そこには、瞬の部屋で瀬戸が隠しカメラを仕掛けようとしている姿が鮮明に映っていた。  お泊まり会の前日の夜、瞬と皐は彼の部屋に前もってカメラを仕掛けておいたのだ。犯人を脅す為の証拠映像を撮る為に。 「携帯に入っていた動画は削除したけど、他にバックアップをとっているかもしれないから、保険。瀬戸さんが脅迫に使った映像はただのゴシップだけど、これは歴とした『犯罪』―」 皐の容赦ない反撃に、瀬戸は成す術もなく泣き崩れた。 「…ごめ…なさ…、雪村先輩…。…好きで…どうしようもなくて…。振り向いて…もらえないなら、せめて…誰のものにも、なってほしくなくて―…」 噎び泣きながら訴える様子を見下ろして、瞬は感情を殺した冷静な声で応えた。 「…大事にする気はない。美術部を辞めて、瑠璃に近付くな。もう俺たちに関わらないと約束するなら、これで終わりにしよう」  瀬戸が啜り泣きながら去った後、瞬は長くて深い溜め息をついた。明かりを点けていなかった美術室はもうすっかり暗闇に包まれている。 「…終わった…」 瞬はぽつりと呟いたが、まだあまり実感が湧かない。あまりにも長い間、悪い夢を見ていた気がする。 「…ありがとう、会長さん」 皐は暗がりの中で、割れた粘土細工の残骸から小型カメラを回収していた。 「全部、会長さんのおかげだよ――」 彼女がいなければ、犯人に辿り着くのは不可能だっただろう。瞬がどんなに感謝しても、しきれないほどだ。 「…わたしは姫の為に戦った。ヤサオ君は美人先生の為に戦った。――それだけ」 「――うん」 瞬が満面の笑みで頷くと、皐は無表情の口元を少し綻ばせた。 「―先生に、早く伝えなきゃ」 二人の障害になっていたものがなくなった今、瞬は一刻も早く雅季に会いたかった。雅季を想った瞬間、悪夢から解放された実感が波のように瞬の心に押し寄せてくる。  メールで伝えようかとも思ったが、きっとまだ雅季は校内にいるだろう。顔を見て、直接伝えたかった。喜ぶ雅季の顔を、体温の感じられる距離で見たかった。  瞬は美術室を飛び出すと、勢いよく階段を駆け下りた――。  『また、先生と月が見たい。次に見る時は、壁はなくて電話越しでもなくて、すぐ隣で―』 昨晩、電話を切る間際に瞬が言っていた言葉が見上げた月に重なる。  職員室の窓から見える今夜の月は三日月だ。窓ガラスに映る室内の光景に交じって、今にも消え入りそうに細いけれど、それでも強く光を放っている。雅季は窓の鍵がしっかり掛かっているのを確認して、帰り支度を整えた。 「じゃあ、俺一服していくから」 職員玄関を出ると、相原は横の喫煙所に消えて行った。  一人になった雅季はふと立ち止まると、正面の夜空を見上げた。職員室と真逆のこちらの空に月は見えない。昼間の暑さを和らげた風が、雅季の頬を優しく撫でている。 「先生!」 幻聴のように、瞬の声が聴こえた気がした。それも、いつもの柔らかい声ではなく、初めて聴く声。絶叫のような――。  ――何が起こったのかわからなかった。気付くと、雅季は瞬の腕の中にいた。彼の顔を見たわけではなかったが、雅季を抱き締めるこの感触、この匂いは紛れもなく瞬のものだとわかる。 「…雪村?」 彼に話しかけようとした時、カラン、と何かが地面に落ちたのが視界に入った。 校舎から漏れる微かな明かりの中で光ったそれは、小刀のようだった。木彫りなどで使うような小刀だ。刃の部分に何かが濡れて光っている。 (―…血…) そう頭が理解した時、瞬が雅季に凭れかかるようにしてズルッと倒れ込んだ。 反射的に彼の腕を掴んで支えようとすると、雅季の手にヌルッとしたものが触れた。掌に目をやると、そこは真っ赤に染まっている。 「――」 赤く染まった掌の向こうに、女生徒が立っているのが見えた。彼女はひどく狼狽した様子で、焦点の定まらない目に涙をいっぱい溜めながら、何かぶつぶつ呟いている。 (この子は確か…、美術部の…) 「ヤサオ君!」と、遠くで皐の叫び声が聞こえた。こんなに動揺した彼女の声は初めてだ。 (ヤサオ君――。これは…雪村の血…?) 「…先生……」 瞬が息を切らせながら微かな声で雅季を呼ぶと、雅季はハッとして我に返った。 「瞬!」 彼の腕は血にまみれていた。腕にできた傷口から大量に出血している。 「雅季!」 相原の声が聞こえると、彼は車のキーを投げてよこした。学校の公用車のキーだ。喫煙所からこの状況を見て、即座に職員室から取って来たのだろう。 「病院に連れて行け! ここは俺が―」  ――雅季は後部座席に瞬を乗せ、皐に渡されたタオルで止血させると、血で滲むハンドルを震える手で必死に握り、車を発進させた。 サイドミラーに、相原と皐に取り押さえられた女生徒の姿が映った――。 「…先生…、大丈夫だから…」 車を走らせながら、何度もミラー越しに瞬の様子を窺う雅季を、彼は息を喘がせながらも、安心させようとした。 「…よかった―…、先生が、無事で……」 彼は額に汗を浮かべて荒い息遣いの中、心底安心したように目を閉じた。 「――…瞬? …瞬!」 その様子に不安になった雅季は、思わず声を荒げて彼を呼んでいた。 「…ふふ…、大丈夫だよ、先生…」 彼は目を閉じたまま口元を緩ませて笑うと、うわ言のように呟いていた。 「…やっと先生を抱きしめられるのに、…死んでなんかいられない―…」  瞬が治療室で傷口を縫合している間、雅季は廊下の長椅子に座って待った。彼の血をリアルに感じた掌は、とっくに血は乾いているのに震えはまだ止まらないでいた。 「先生、生徒さんの処置終わりましたよ」 看護師に呼ばれて、雅季は医師と話すとすぐに瞬の元へと向かった。 ―「落ち着いたら、帰っていいって」 ベッドに腰掛けてシャツを羽織っていた瞬は、普段通りの明るさを取り戻していた。血の滲んだ半袖の裾からは白い包帯が見えている。 雅季はベッドに座ると彼のシャツに手を掛けてボタンを留めようとした。瞬は震えているその指先にそっと触れると、包み込むように握り締めた。 「先生、…会いたかった――」 やっと感じられた雅季の体温をギュッと閉じ込めながら胸に寄せる。 少し汗ばんだ素肌の上から彼の鼓動を感じると、雅季の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。 「―…っ…」 うまく息を継げなくて、喘ぐように啜り泣きながら彼の顔に近付いていった。 瞬の熱く湿った息が鼻先をかすめ、やがてお互いの呼吸が交じり合うと、二人の息遣いが唇を優しく刺激した。 唇の先が微かに触れ合う距離までくると、二人は荒い呼吸だけをただ繰り返しながら、そこから先に進めなくなっていた。 「―…先生、早く家に帰ろう…」  瞬は助手席に乗り込むと、マンションに着くまでの間に皐と二人で『脅迫者』と対峙した事を話した。 雅季は一通りの経緯を聞くと、なぜ自分に言わなかったのかと責めた。 「…『教師』である先生は、巻き込まない方がいいと思ったんだ。…穏便に済ませたかった。…でも結局、先生を危険な目に――」 瞬は膝の上に置いた拳をぐっと握り締めて、思い出したように苦痛に顔を歪めている。 「それはお前だろ! …俺を…庇ったせいで―…」 思わず声を荒げるとハンドルにこびり付いた血を見つめた。一歩違えば、腕の傷だけでは済まなかったはずだ。あの時の恐怖が、再び雅季を襲ってくる。 「―…俺を守って死ぬとか…。絶対、許さない――…」 胸苦しさを堪えながら吐露した言葉に、瞬は目を潤ませると唇を噛んだ。 ――「飯島はなんでその子だって確信したんだ?」 『脅迫者』が、新入生の美術部員であろうことは雅季も考えた。けれどその中の誰かまで特定するには至らなかったのだ。 「…会長さんがヴェローナにいた時、図書室で先生がうたた寝していて、その先生を近くでじっと睨んでいた女生徒がいたんだって」 雅季には全く記憶にないことだった。相原の時と同様、皐は雅季の知らない所でいろいろと目撃していたのか。 「それに先生と俺が保健室にいた時、会長さんドアの前にいたらしいんだけど―」 そこまで聞くと雅季は耳を疑い思わず彼の話を遮った。 「―え? いたって…飯島、保健室の前に、ずっと…?」 瞬はバツが悪そうに目を泳がせると、ウィンドウの方に顔を背けた。 ――あの時保健室で雅季は、熱に浮かされた瞬に散々身体を弄られて―…  声を喘がせながら、最後には口でイかされた光景が目の前に鮮明に現れる。 「―――」 雅季の顔からサーッと血の気が引くのを見ると、瞬は慌てて取り繕った。 「声は漏れてなかったって! ほら、会長さん察しがいいから! 教室に残ってた俺の私物を届けに来てくれたらしいんだけど、誰も中に入らないように見張っててくれたみたい…」 (…全然フォローになってない…) つまり…教師の自分が、校内で生徒とイケナイ事をしている間、他の生徒がばれない様に見張ってくれていた、って事なのか―。 (―…死にたい) 教師としての立場、威厳、その他いろいろなものが大きな音を立てて崩れ落ちていく。  瞬は雅季のそんな思いも露知らず、一人でホッと胸を撫で下ろしていた。 「でもよかった。先生の可愛い声、他の人に聞かせたくないもん」 「――お前が死ね」  ありったけの罵詈雑言を浴びせられ、しょぼくれた瞬はそれでも促されると先を続けた。 「―それで保健室の前にいた時も、図書室の時と同じ女生徒がすごい形相で保健室を睨んでいたって。でもそれだけで、確信はなかったから何もできなかったんだけど、その子が瑠璃にお泊まり会を言い出したって知って――」 それで証拠を掴む為に、わざとそれに乗ったのか。瑠璃が一晩彼女と一緒なのは危険と考え、急遽自分もお泊まり会に加わったわけか――。  皐の洞察力、行動力には脱帽だ。彼女は自分で言っていた通り、全ては『姫』―瑠璃の為に戦ったのか。 「…飯島と瑠璃ちゃんて――」 他人の事に干渉するのは性分ではなかったが、ずっと不思議に思っていた事を口にしてみた。瞬は雅季の言いたい事を察すると、首を傾げて唸り出した。 「うーん、会長さんは瑠璃にひとめぼれだけど、瑠璃はよくわかんない。アイツは元々ミーハーで、男女問わず美人が好きだから…」 皐が瑠璃を庇って階段から落ちた時の、ひどく取り乱していた彼女の姿を思い出してみる。 「俺も知らない間にあの二人、知り合ってたんだよね。どうせ瑠璃が迫ったんだろうけど」 瑠璃は美人を前にするとミーハー魂に火が付くのか、積極的に仲良くなろうとがんばるのだ。雅季の時も初めはそうだった。その時は瞬が立ちはだかり、だいぶ阻止していたが。 「…この前、お前が言いかけたのって」 瞬と皐が二人でヴェローナにいた事を問い詰めた時。 「…ああ、『そもそも会長さんは』――男に、興味ないから」 瞬はニコッと笑って雅季の顔を窺い見た。 (…なるほど。つまり最初から、嫉妬する必要はなかった、と…) その笑顔が腹立たしかったので、無視して最後の疑問を投げかけた。 「じゃあ、二人でヴェローナにいたのは?」 「…それはー」と、少し言い渋った瞬だったが、口を尖らせながら小さな声で白状した。 「…会長さんに、相原先生が眠ってる先生に抱きついてたって聞いて。――心配で見張ってた」  マンションの正面に停車した時には、いろいろな真相が発覚して何とも言えない気分だった。 「俺は学校に戻るから」 瞬の怪我の報告をして、車も返さなければいけない。何より瀬戸の事が気になった。あの後、どうなったのだろう。相原が上手く対応してくれているとは思うが。 彼女の犯した事は到底許せる事ではなかったが、そこまで思い詰めた原因が教師である自分にあると思うと、雅季は申し訳ないような、悲しいような、複雑な心境だった。 「…後で会える…?」 腿の上に置いていた雅季の手に、瞬の手がそっと重なっていた。 「……」 雅季はその手を見つめながら、親指で緩やかに撫でる。 彼が暗に、求めているのはわかっていた。――ずっと耐えていた、恋人としての触れ合いを。 「…いや、遅くなると思うから。今日はもう休め」 平静を装って雅季が言った途端、彼は断られると思っていなかったのか、悲痛な顔をして喚き出した。 「やだ! なんで? 俺もう限界だよ! 先生に触りたい!」 「傷口開いたらどうするんだよ! 怪我人は安静にしてろ!」 臆面もなく泣き喚く瞬に、雅季の方が恥ずかしくなり顔を赤らめて怒鳴った。 「平気だよ! 先生を抱けるなら死んだっていい!」 「―――」 ――絶句。 彼には敵わない、雅季は燃えるように熱くなった顔でそう思った。 「―とにかく、怪我が治るまではダメだ。早く降りろ」 「――!!」 雅季の断固とした姿勢に、瞬はこの世の終りのような顔で愕然とした。ショックのあまり涙も引っ込んでしまっている。  打ちひしがれた様子で力なくドアを開けると、肩を落としながらトボトボとマンションに向かっていった。 それを目で追っていた雅季がウィンドウを下げると、その音に反応した瞬が、沈んだ表情で振り返り、据わった目を向けて低い声で呟いた。 「…怪我が治ったら、めちゃくちゃに抱いてやる…」 「――望むところだ」 無表情のまま大人の余裕を見せつけると、雅季は車を発進させた。  あとに残された瞬は、さっきの雅季の比ではないぐらいに顔を赤く染めていた。

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