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第1話

 実際は金と欲にまみれた薄汚い場所であるはずなのに、こうして見下ろすと作り物のように綺麗な街だなと思った。  週末の会社帰りに同僚の男四人から誘われ、断り切れずに夜の繁華街へ足を踏み入れた。連れていかれたのは都内の雑居ビル七階にある安居酒屋で、あえてよい点を挙げるとするなら窓から眼下にきらめく街が見えることくらいだ。うっすらとかかっている霧がネオンを優しく溶かしている光景は、少なくとも京(きょう)の目には美しいものとして映った。  ハイボールのグラスを片手に窓の外を眺めていると、アルコールも回り上機嫌らしい声で「東野(ひがしの)」と声をかけられた。飲み放題の薄い酒にも安い肴にも文句はないが、酔っ払いの相手は若干面倒くさい。 「なあ、今度合コン来てくれよ。おまえ一度もつきあってくれたことないよな、たまにはいいだろ」  肩に手を置かれてしかたなく視線を向けると、至極ご満悦といった様子の同僚が焼き鳥に噛みつく合間にそう言った。首を傾げている京の目の前へ突き出された彼の携帯電話には、いつだったかの飲み会で半ば無理やり撮られた写真が表示されている。  首に回された同僚の腕から逃げられず愛想笑いを浮かべている自分の姿を見て、誰にも気づかれぬよう密かに溜息を洩らした。朽葉色の髪と同色の瞳は偽物の表情に相応しく冷めており、どこか物憂げで、自分で眺めていて気分のよい写真ではない。 「こいつを見せたら、この色男が来るなら合コンに参加してもいいって女がたくさんいてさ。おまえはただ座ってりゃいいし、気が向いたら一番いい女を持っていっていいし、なんなら金もいらないから」 「おれはそういうのあまり得意じゃないなあ。できれば遠慮したいね」 「相変わらずつれないやつ。ま、東野はそこがいいところだからしかたないか」  京の答えを笑って受け入れ携帯電話をスーツにしまい、同僚はさっさと食べかけの焼き鳥に注意を移した。彼の言い分からは自分のどこがどういいのだかさっぱりわからなかったが、酔いの回った男に解説を求めるのも無意味だろうと、こちらも曖昧に笑って返し窓の向こうに視線を戻す。  あれからもう十年がたつのか。そう考えると不思議な気分になった。  夜の繁華街、まさにこの街の裏路地で、意識を失い倒れているところを発見されたのは十年前だった。今日と同じように霧のかかった秋の夜だ。  声をかけられ目覚めたときには、記憶のいっさいを失っていた。氏名も年齢も住所も、どの土地のどんな家に誰と暮らしていたかもわからない。いわゆる記憶喪失というやつだ。  病院で何度も検査を受けた。しかし京の記憶喪失の原因は判明せず、またいつになっても記憶は戻らなかった。警察の捜査もあたりがなく身元も知れない。  過去が真っ白になってしまったおのれに当然混乱したし絶望もした。とはいえいつまでも膝を抱えて丸まっているわけにはいかないと、福祉の手を借り就籍して職に就いた。  医師の見立てによると発見時の京は十六歳ほどだろうとのことだったので、およそ一年後に戸籍を得る際、書類には十七歳と記した。正確なところは本人を含め誰にもわからないのだからそうするしかない。東野京という氏名も、当時身を寄せていた施設の職員が、東京で発見されたから、なんて適当な理由でつけてくれた仮のものをそのまま使っただけだ。  だから戸籍と呼べるものは一応存在しているし、ありがたいことに食えるだけの仕事もある。だとしてもこんな根無し草みたいな男はいってしまえば非正規品であり、とんだ厄介者だ。いまさら悲観などはしないが他人にお勧めはしない。必要以上の出会いなどはないほうがいいのだ。  酒を飲みつつしばらくは四人の同僚との会話につきあったあと、時間も時間だしそろそろ頃合いかと、頭の中でざっくりと計算した代金を五で割りその分の紙幣をテーブルに置いて立ちあがった。 「そろそろ帰るよ。おれの住まいは田舎だから終電が早いんだ。もしこれじゃ金が足りなかったら会社で請求してくれ」  お疲れ、じゃあまた来週と陽気に声をかけてくる四人に手を振りエレベーターで一階に下りた。七階から見下ろしたときには綺麗だと思った街は、いざ人混みに踏み込むとうるさくて汚くて下品な土地でしかない。とはいえ京はなぜかこの雑然とした空気が嫌いではなかった。  やめてください、という女性の声が聞こえてきたのは、居酒屋のあったビルから駅へ向かう近道の裏路地を歩いているときだった。  声がした横道へ視線をやると、ひとりの若い女性が四人の男に囲まれている様子が目に映った。どうやら酔っ払いに絡まれているらしい。見た限りおとなしそうな女性のようだから、自分と同じく近道を通ろうとして、たちの悪い男につかまり逃げられなくなってしまったのだろう。 「どうしました?」  横道へ足を踏み入れ声をかけると、一斉に彼らの視線が自分に向けられた。女性にちょっかいを出していた四人の男は、完全なヤクザ者でもなければ真面目な会社員でもない中途半端な出で立ちをしていた。この街で糊口をしのいでいる、せいぜいが小悪党くらいのものか。年の頃は自分と同じほどだと思われる。  男たちの注意がそれている隙に、女性は慌てて彼らのあいだから逃げ出し京に一礼して走り去っていった。余程怖かったのか顔が真っ青になっている。  とりあえず、少なくともひとりは不本意な状況から抜け出せたのならいいかと、その背を見送っていたら、後ろから腕を引っぱられ振り向いたところを殴られた。腹だ。こうなると予想はしていたが、考えていた以上の力を込められたので、痛いと感じる前に単純に驚いた。  これは下手に抗って刺激しないほうがいいかもしれない。のちのち余計面倒なことになりそうだ。  ある程度の受け身を取りつつ四人の男からの暴行を受け入れた。彼らも気がすめば獲物を放り出し唾でも吐いて去るだろう。殺人まで犯しておのれを危機に追い込む馬鹿がそうそういるはずはない。  しかし男たちは京をいたぶる行為になかなか飽きる様子がなかった。想定外だ。遠慮なく殴る蹴るされさすがにそろそろきつくなってきて、助けを呼ぼうかと口を開きかけたらてのひらで雑に塞がれた。声も出ないどころかろくに呼吸もできない。  ようやく抗う手を上げかけても、息苦しさで頭がくらくらしてまともに力が入らなかった。十年前にこの街で発見されたときにはすでにあった、つまりはなぜ怪我をしたのかは覚えていない傷のあとが残る右肩を殴られ、この痛みをどこかで味わったことがある、と半ば朦朧としたまま考える。  徐々に意識が薄れていくのは自覚できた。散々な週末だ、頭の中で投げやりにそう呟き目を閉じて痛みと苦しさに身を任せる。まさか死にはしなかろうし、ならば次にどこで目覚めようが構うまい。

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