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第2話

 ふっと意識が蘇るのと同時に、なにやら話をしている数人の男の声が聞こえてきた。そこで京はようやく自分が本当に、完全に気を失っていたのだと理解した。  暴行を受けた身体のあちこちが痛い、とりわけ最初に殴られた腹がじくじくと疼く。見るからに地味な単なる会社員を意識が途切れるまで殴る蹴るして、まだしつこく因縁をつけようとあの男たちが自分を囲んでいるのか、とうんざりしながら重い瞼を上げたところで、しかし京はおのれの認識が間違っていることをはっきりと知らされた。  目に映ったのは見たことのない夜の景色だった。四、五階建てくらいだろうそこそこ背の高い建物の薄汚れた壁、奇妙な角度で上へ伸びる細い階段、それらを窓から洩れる淡い光が仄暗く照らし出している。どうやら自分はなんらかの建物の裏手、というより建物と建物の隙間にできた狭い道にひっくり返っているらしい。  意識を失った自分が、いままでいた裏路地とは違う場所で目覚めたのは明らかだ。そもそも肌で感じる空気がまず異なる。周囲には先ほどより濃い霧がかかっており、生ゴミの饐えたようなにおいが漂っていて、また、壁の向こうから微かに耳に届く人々の声は野卑でいやに不穏だ。  なにより、自分を見下ろしている男たちが、先刻までこの身体を痛めつけていた半端者とは別人だった。人数は四人、同じであるのはそれだけで、ぎらつく鋭い眼光も装いも、滲み出る雰囲気もまったく違う。  彼らは、いったいどれだけ着続けているのかずいぶんとくたびれた、年号をふたつばかりさかのぼったようなあまりにも時代遅れの服を着ていた。まるで戦後の貧乏人だ。そして、各々場所は違えども、みな顔のどこかに紋章のような幾何学模様の小さな痣があった。過去には見たことがないと思う。  ここはどこだ。この男たちは誰で、自分の身になにが起こっているんだ、と冷静に考える間もなく腰のあたりを踏みつけられて痛みに呻いた。 「さっき追い払ったやつが言っていた通り、やっぱりどう考えても天選民(ティェンシユェンミン)だろう」  やめろと訴えたくても言葉にならず、かわりに首を左右に振る京を見て、男のひとりが低くそう言った。聞いたことのない単語が含まれた、京には意味のわからないセリフに、他の男が同意を示す。 「間違いないな。妙な格好をしてるし、なにせ痣がない。夜道に倒れてる天選民なんてはじめて見た、なぜこんなところにいるんだ?」 「さあ。見当もつかないが、これを捕らえておけばなにかに使えるんじゃないか。まあなんの役に立たなくても、なかなかの色男だから売春宿に売るくらいはできるだろ、天選民ならなおさらだ。いいようにいたぶってみたがるやつなんて山ほどいる」  男の口から発せられた、売春宿、というひと言に京が目を見開いたそのときに、いくらか離れた場所から「待て」という声が聞こえてきた。奇妙な階段の方向だ。  男たちと京がそろって視線を向けた先に立っていたのは、拳銃を右手に握った、少年といっても差し支えないだろう年代の男だった。四人の男と同様に時代遅れの服を着た、左の目尻に痣のある彼は見る限り十五歳くらいだと思う。  こんな少年が銃を所持しているのはなぜだ、という疑念よりも、彼が男のひとりに銃口を向け歩み寄ってきて、いかにも強気にこう脅しつけたことのほうが意外だった。 「その男は天選民か。だったらおれに預けろ、おまえらが扱えるようなちゃちな存在じゃない。変に騒がないほうがいいぜ、おれの後ろにいるのは劉(リュウ)だ。敵に回す馬鹿はいないよな。死にたいか?」  大人の男、しかも四人を相手に大した度胸だ。少しの怖じ気もない口調とまったくぶれのない銃が少年の自信と強さを物語っている。それを察したのか発された言葉に気圧されたのか、あるいは単に銃を向けられては下手に動けないのか男たちのほうが怯んでいるあいだに、少年は彼らに割って入り京の腕を掴んでやや強引に立ちあがらせた。 「おれについてきてくれ。早く」 「え……? いや、君はそもそも何者だ」 「いいから。このあたりはたちの悪いやつらの巣だ、天選民が紛れ込んでるらしいって話が密かに広がりはじめてるし、これ以上厄介なやつに顔を見られる前にさっさと来てくれ。さあ、早く」  どこの誰か、以前に敵か味方かもわからない少年の指示にたじろいでいる京の手首を掴み、早く、とくり返して彼は階段の方向へ歩を進めた。踏みつけられていたところを助けられたのは確かなので、こうなるともう従うしかないかと、痛む身体に顔をしかめながら引っぱられるまま足早に少年についていく。  彼は、階段を避け背の高い建物に沿って少し歩いたのちに、建付けの悪い金属製の扉を開け京を連れて中に踏み入った。途端に、男たちに囲まれていたとき微かに聞こえていたざわめきが大きくなり、つい足が止まる。  扉の奥にはまるで知らない光景が広がっていた。仕切りのない広い空間は薄暗く、そこに男も女もなく人々がすし詰めになって座り込み、開いた扉に目を向けるものもいないほどなにかに夢中になっている。怒鳴り声や笑い声、酒のにおいが交じりあう猥雑な空気が押し寄せてきて、頭からのみ込まれてしまうような感覚に囚われた。  彼らもまた、ついいましがた京を見下ろしていた四人の男や銃を持つ少年と同じく、時代遅れでくたびれた服を身につけており、顔には幾何学模様の痣があった。その姿と、場に充ちる粗野な雰囲気に圧倒され、ここがどこで自分の身になにが起こっているのだかますますわからなくなる。繁華街で気を失ったあと妙な場所に運ばれた? それともなんらかの事件に巻き込まれた? 混乱する頭で考えてもさっぱり見当がつかない。 「賭場だ」  閉じられた扉の前で立ち止まっていると、少年は小声でそう説明していくらか強く京の手を引き歩けと促した。 「ここは、昼間は学校に、夜は賭場になる。うるさいやつらに気づかれないうちにさっさと行こう」 「……賭場だと? こんな薄暗いところでぎゅう詰めになって? 闇か」  賭場、という言葉を聞き、一度は少年に向けた視線を薄暗い空間に戻すと、確かに人々の手に薄汚れたサイコロだのぼろぼろのカードだのが握られているのが認められた。無秩序にごちゃごちゃと集まっているのかと思ったが、よく見ると彼らは数人ずつのグループに分かれており、みな酒を片手に各々なんらかの賭け事に興じているようだった。  規律もなにもない、目の前の勝負にしか興味がないといった様子の人々からは、どこか荒んだ、あるいは歪んだ熱が発せられている。少年の言う通り賭場は賭場なのだとしても、テレビやインターネットで見たことがあるようなきらびやかなカジノなどとは正反対の、ずいぶんと物騒なうえに俗っぽくてきなくさい場所だ。 「闇? この霧幻城(ウーファンチォン)に闇も闇じゃないもあるか。ほら、早くしろって」  なかなか足を踏み出せない京に焦れたのか、少年は僅かばかり語尾を荒らげて言い、今度こそ有無をいわさぬ力を込めて手首を引っぱった。抗おうと思えば抗えたにせよ、そうしたところで次になにをすればいいのかわからないし、いまは服に隠されている少年の銃で身体に穴を開けられるのも遠慮したいので、やはり彼についていくしかない。  強ばる足をなんとか動かして少年に半ば引きずられるように、ひとひとり通るのがやっとといった狭い廊下を辿り、その先にある崩れかけた階段を上った。他の人間の姿を見ないのは、怪しげな賭場に集まりギャンブルにのめり込むものたちにとっては立ち入る必要のない通路だからということだと思う。  ぶり返してきた腹の鈍痛に眉をひそめつつ手を引かれるままに上った階段は、四階なのか五階なのか、古びたドアに突き当たったところで終わっていた。銃弾がいくつかめり込んでいるドアに怯みつい手を引っ込めようとしたら、少年に手首を掴み直され「怖がらないでくれ」と声をかけられた。 「おれを情報屋として雇ってる賭場の主に会わせたいだけだ、悪いようにはしない。というより、ここでおれが手を離せば悪いようにしかならない」  脅すのではなく言い聞かせる口調だったので、諦め半分で腕から力を抜いた。確かにここで彼の手を振り払いひとり階段を駆け下りても辿りつくのは物騒な賭場だ、扉を開けて外に出てもまた妙な男に囲まれ踏みつけられるだけかもしれない、と思えば逃げ出す気も失せる。  少年はそんな京の様子を認めてひとつ頷いてから、「仔空(シア)だ。入るぜ」と短く告げ返事は待たずにドアを開けた。抵抗は諦めたとはいえ当惑は隠せない京をまず中へと押し込み、そのあとに自らも入ってきて後ろ手にドアを閉める。

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