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第3話

 つんのめるように踏み込んだのはそう広くはない雑然とした部屋だった。中にいるのは四、五十代だろう男がひとりだけで、木の椅子に座り煙草をふかしている。どこからどう見ても穏やかでない、簡単にいうならクライム映画に出てくるチャイニーズマフィアみたいな雰囲気のある男だ。  傷だらけの机や棚に銃だのナイフだのが無造作に置かれているさまを目にして身体を強ばらせる京には構わず、先ほど仔空と名乗った少年が男に告げた。 「劉。聞いた通り天選民が賭場の裏で男に囲まれてた。痣がないから間違いない。あんたは天選民を探してるんだろ、こいつじゃないのか? 霧幻城に天選民が落っこちてることなんてそうそうないぜ。少なくともおれははじめて見た」 「天選民を探しているのはおれじゃなくて、白虎(びゃっこ)だ。顔形までは知らないが綺麗な男だと聞いているから、まあ間違いないんだろう。すぐに連絡を取る。権力者に貸しを作るのはなかなかいい気分だな」  劉、と呼ばれた男は灰皿に煙草を押し消して、机の片隅にある古めかしい電話機の受話器を取り、応答を待つ少しの間のあとなにやら話をしはじめた。地属民(ディシユミン)が、南地区の、男の口からはまた知らない単語が次々に出てくる。目覚めたのちずっとこの調子なものだからますます混乱した。  天選民、痣がない、幾度か耳にしたセリフより、彼らが自分をその天選民だとかいうものだと認識しているのはなんとなく把握できた。とはいえそれがなにを意味する言葉なのかは知らないし、そもそも、大勢の男女がすし詰めになって賭け事に興じるこの場所がどこであるのかがわからない。  言葉が通じる以上は日本か。しかしいくら賭場とはいえこんなに薄汚い建物が現代日本にあるとは信じがたい。大体みなの装いが見慣れないものであるし、顔に浮き出る紋章のごとき痣もまた見たことがなかった。彼らが持つ痣はなにかの印なのか、ペイントのようでも焼き印のようでもないがなんなのだろう。 「あんたは白虎を知っているか」  さほど時間をかけず受話器を戻した劉の目が改めてこちらに向き、そう問われたものだから慌てて首を横に振った。彼の剣呑な眼差しに覚えた怖じ気でいやな汗が滲む。 「知らない……。白虎ってのはなんだ。いや、それよりここはどこで、あんたたちは誰だ? おれは酒を飲んだ帰り道にチンピラみたいなのに殴る蹴るされてみっともなく気を失っただけだ、目覚めたらここにひっくり返ってたんだ、なにもわからない」 「なにもわからない? ここがどこだかもわからないのか? 妙だな」  劉は京の返事に眉をひそめ指先でおのが顎を撫でた。頭の先からつま先までじっくりと観察されて今度こそ動けなくなる。  それを見て取ったのか、劉は「まあいい」と言い京から視線を外して新しい煙草に火をつけた。 「白虎が来ればあんたが探し人かどうかわかるだろう。それまで、とにかくおとなしくしていてくれ。仔空、おまえはどこかへ行け。別に代表者様にはじめましてとご挨拶なんかしたくないよな、だったら邪魔になるだけだ」 「わかってる。おれみたいな可愛げのないガキは代表者にとったら目障りだし、正直おれだって白虎が怖い。いい子によそで他の仕事をしてるよ」  劉のセリフに仔空は小さく溜息をつき、指示通りあっさりとドアを開け出ていった。広くはない部屋に劉とふたりきりになり、それまで以上の居心地の悪さが湧いて余計に落ち着かなくなる。  仔空が部屋を出ていってから劉はひと言も喋らずただ煙草をふかしていた。怯えている京に気をつかっているのか単に口を開くのが面倒くさいのかは知らないが、ますます萎縮してしまう。  その沈黙がようやく破られたのは、十五分から二十分ほどたったころだった。ドアをノックする軽い音がして、それに続き低い男の声が聞こえてくる。 「私だ」 「ああ、白虎様のお出ましか。入ってくれ」  劉が答えるのとほぼ同時にドアが開き、背の高い男が静かに部屋へ入ってきた。彼の姿を目にしてまずはじめにびっくりしたのは、その装いにだった。自分を踏みつけたものや賭場にいたものたちは時代遅れのくたびれた服を着ていたのに、彼は見るからに上等な刺繍入りの生地で仕立てられた、丈の長い藍色のチャンパオを身につけている。他の人間とは違う立場にあるということか。  次に、思わず目を奪われるほどに美しい男の顔立ち、身体つきに驚いた。背に流した漆黒の長髪も艶やかでまた美しい。他のもの同様、右目の下に幾何学模様の痣があるが、それすらも彼の美貌を引き立てているように感じられる。  京より十歳ほどは年上、つまりは三十代半ばくらいに見えるその男は、最初から劉ではなく京をじっと見つめ、しばらく黙っていた。あまりにも遠慮ない真っ直ぐな眼差しを向けられ、意味がわからないながらも緊張する。  それから彼は他人が気づくか気づかないか程度の小さな吐息を洩らし、視線を劉に移してこう言った。 「間違いなく彼は私が探していたものだ。劉、感謝する。後日改めて礼はするが、今夜は取り急ぎ彼を引き取って塔に戻る」 「あんたに恩を売れて嬉しいね。そいつを連れてさっさと消えてくれ、ここは街の代表者が長居する場所じゃあない。ああ、そうだ。その男、どうやらなにもわかっていないようだぞ」 「そうか。久方ぶりなのでしかたがない。では劉、引き続き夜の街をつつがなく取り仕切ってくれ、頼りにしている。万が一大きな問題が起これば、私はそれを君の責任であると考え、なんらかの対処をしなければならない。こうして借りもできた以上は避けたいものだ」  劉は男の言葉にわざとらしく紫煙を派手に吐き出し、椅子を回して机に片肘をつきこちらへ背を見せた。用事がすんだならさっさと帰れ、という意味らしい。どうしたらいいのかわからず困惑していると、男の視線が戻ってきて「来なさい」と静かに告げられた。  従っていいのかいけないのか少しのあいだ迷ってから、おそるおそる足を踏み出し男に近寄った。仔空はおらず劉もそっぽを向いてしまったいま、他にどうすることもできないだろう。  それにこの男の眼差しは、鋭いながらもどこか優しい、ような気がする。  男は京の態度に満足したのか僅かばかり目を細め、こちらの背に手を添えて開けたドアから部屋を出るよう促した。踏みつけられたり手首を掴まれ引っぱり回されたりと、それまでなかなか雑に扱われてきたものだから、彼の紳士的な仕草に少し驚く。  ドアの外には二十代前半から半ばくらいだろう、左顎に痣のあるひとりの青年が立っていた。男同様にチャンパオを身につけてはいるものの、色合いは控えめで刺繍もないことから、おそらくは彼の配下、少なくとも身分が下のものだと推測された。  その証拠に青年は、京を連れて部屋を出た男に、今夜このうさんくさい場所で目覚めてからはじめて見る朗らかな笑みを浮かべ敬語で話しかけた。 「麗静(リージン)様。よかったです、本人でしたか。ずいぶんと不思議な服装をしてますけど、なるほど綺麗なひとですね」  麗静というのが男の名であることはわかった。先ほど劉は男をさし白虎様などと表現したが、多分、白虎というのは通称なのではないか。ここがどこなのであれ、伝説上の神獣の名を本名に持つものはさすがにいないと思う。  麗静、と呼ばれた男は軽く頷いて返し、先に行けというように青年へ片手を振ってみせた。それに従い青年が背を見せてから、今度は優しく京の肩を押し彼についていけと無言で指示する。  あんたは誰だ、どこへ行くんだ、訊きたい疑問はたくさんあるのに、声を発さない麗静へ自分から問いかけることができなかった。声を荒らげなくとも腕を振りあげなくとも、彼にはそんな、どこか近寄りがたい雰囲気がある。  青年、京、麗静の順で階段を下り廊下を辿って建物から出た。一階では相変わらず人々が騒いでいたが、みな賭け事に熱中しているようで、先と同じく開く扉にもそこから出ていく三人にも注意を払うものはいなかった。

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