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第4話

「宇航(ユーハン)、なるべくひとのいない道を通るように。地属民の痣なきものを連れている以上はあまり他人に見られたくない」  先刻よりますます濃くなった気がする霧の中、麗静がそう声をかけると、宇航という名らしい青年は一度振り返って「お任せください、誰にも会わない最短距離でさっさと白虎塔へ帰りましょう」と言い、また破顔した。どうやら明朗でひとなつこい男のようだ。先ほどから物騒なひとやものばかり目にしていたので、宇航の笑顔になんとなく気持ちが和らぐのを感じた。  そのあとも、先に立つ宇航について歩くよう麗静に促され、他にはどうにもできずに従った。逃げ道を塞いでいるのではなく、京の前を宇航が、後ろを麗静が守っているということなのだろう。彼らからは、意識を取り戻したときに自分を囲んでいた男たちから滲み出ていたような悪意や敵意は少しも感じられない。  仔空が、昼間は学校、夜は賭場と言っていた建物から離れてすぐに、宇航はひとがひとりふたりようやく通れるかといったほどの狭い裏道に足を踏み入れた。足もとは舗装されておらず土や小石がむき出しで、また、左右からは住居か店舗かわからない建物の壁や窓が迫ってくる、どうにも気持ちの悪い道だ。  こんな奇妙な感覚に囚われるのは建物が真っ直ぐではないためだ、と気づくまでにさほどの時間はかからなかった。団地というより蜂の巣と表現したほうがしっくりくる建物は、子どもが気まぐれに組みあげた積み木みたいに、微妙に幅や高さがずれている。  いわゆる違法建築か。おそらく、延々と続くこれらの建物は、限られた敷地に部屋を詰め込むため必要に応じて上へ、左右へとつけ足しつけ足しできあがったものなのだろう。だから、京が見慣れている街のビルのように計算された安定感がなく、いまにもどこかが崩れ落ちそうな不安を感じさせるのだ。  所々の窓から洩れる仄かな明かりを頼りに、足もとの危なっかしい道を三人無言のまま進んだ。宇航が先導する道が右へ左へと枝分かれをくり返していることから、このあたりにはこんなふうに建物の隙間を縫う規則性のない細道が、迷路のように広がっているのだろうと想像できた。  ひとけのない道を歩き少しは落ち着いたところで、ここはどこだ、という疑問が改めて湧きあがってきた。汚らしくて騒がしい賭場が開かれ、あたりを見回せば違法建築ばかりが目に映る。まるでスラム街だ。少なくとも京が知る限り現代日本にこんな土地はない。  ならばなぜ実際にこうした場所が存在している? 身体の痛みも聞こえる音も、においも感触もはっきりとした現実感を伴っているので、繁華街で殴る蹴るされひっくり返り夢を見ているだけというわけではないと思う。確かに自分はこのうさんくさい、奇妙な地にいるのだ。  なにもかもが信じられない、しかし信じるしかない。自分の身にいったいなにが起こっているのか、まったく理解ができない。  押し黙ったままああだこうだと考えながら、宇航のあとにつき狭い道を歩きはじめて十分くらいたったころか。進行方向にあまりにも場違いな、霧をまとう背の高いビルが現れたので、驚いた。  円柱形で三十階ほどはありそうなその建物のイメージは、ビルというよりは塔という表現のほうが相応しいかもしれない。窓が少ないのかきっちり遮光されているのかあまり明かりが見えず、夜の霧にひっそりと紛れていたため、足もとや周囲の様子に気を取られていた京にはまさに、いきなり現れたように感じられた。  住居とも店舗とも知れない部屋がごちゃごちゃと積み重なる土地に建つ、妙に近代的な外観の塔は、なんとも威圧的でかつ異様だった。土地の空気に合っていないというのではなく、汚い街を静かにじっと監視しているような印象を受ける。  曲がりくねった細道を迷いなく歩く宇航は、どうやらその塔へ向かっているようだった。まさか彼らは自分をあんな場所へ連れていく気なのかと、つい足を止め後ろの麗静を振り返ると、京の心中を察したらしく彼が淡々と言った。 「あと十分ほどで白虎塔につく。いま朱雀(すざく)塔へ戻るのは危険だ、今夜は私のところにいなさい」 「……あそこに行くのか?」  声をかけられたのでこちらもようやく口を開き、不気味といっても間違いではない塔を指さして訊ねると、「そうだ」と当たり前のように答えられた。私のところ、と言うからには麗静はあの白虎塔とやらの持ち主なのか。この男はいったい何者なのだとさすがにびっくりし、そののちに、劉が彼をさし白虎と表現していたのは白虎塔の主だからなのかといくらか納得する。  彼の言葉通りそれからまた十分ほど迷路を歩いたところで、ぎっちりと両脇に立ち並んでいた違法建築が、まるでナイフで切り取ったかのような唐突さで途切れた。そのいくらか開けた空間の奥に、見あげても霧で最上階が霞む、麗静曰く白虎塔が堂々とそびえ立っていた。いざ目の前にすると、遠くからも見て取れた異様かつ物々しい雰囲気を余計に強く感じ、どうにも圧倒されてしまう。  塔の入り口は、余程のことがない限りは破られそうにないコンクリートの扉で塞がれており、宇航が扉横のセンサーを見つめボタンを押すと音を立てて左右に開いた。虹彩認証装置を導入しているらしい。スラム街のごとき土地にある塔がそんなもので管理されているとはと少々意外に思った。  ここでも宇航が先に立って塔に入ったのは、害をなすものが建物内に潜入しているといった万が一の危険から麗静を守るためではないか。それだけではないのだとしても、彼は麗静の護衛の役割を担っているようだ。  塔の中は隅々まで磨きあげられた、シンプルで洗練されたホテルのような造りになっていた。麗静を見て頭を下げた、入り口横に立っている体格のよい男の顔にも、やはり幾何学模様の痣がある。黒のカンフー服を着ているので、おそらくは腕の立つ守衛といったところだろう。 「今夜はもう誰が訪れても塔には入れなくていい。扉を完全にロックして、君も少し休みなさい」  麗静が声をかけると男はさらに深く頭を下げ「はい、ありがとうございます」と答えた。先にも考えたようにこの塔の主は麗静なのだろうし、ならば彼は事実権力があるということになるが、それにしてもずいぶんと自然に権力者としてふるまうのだなと半ば感心する。  ただ偉そうなのではなく、他人へのあたりに余裕があるのだ。三十代半ばくらいに見えるのに、その若さでこの風格を身につけられるのは素直に大したものだと思う。  そのあと廊下で、またエレベーターの前ですれ違った配下たちも、麗静に対して従順で折り目正しい態度を示した。賭場の上階で煙草をふかしていた劉はさておき、宇航のようにひとなつこく、麗静に対しても物怖じしない人物は他にいない。つまり宇航はそれだけ主に近い場所にあるものということなのだろう。  塔にいる配下は職務によって二種類に分けられるのか、おとなしい色合いのチャンパオやチーパオを着たものと、チャイナボタンのあしらわれた真っ白なシャツに黒のボトムを身につけているものがいた。前者は宇航のように麗静に近しい、すなわちそれなりに立場が上の人間で、後者は使用人か。説明されたわけではないので断定はできないがおそらくはそんなところだ。  しかし、京の姿を目にしても誰ひとりとして露骨に驚いたり警戒したりする様子を見せないのはなぜなのか。主が誰かを連れ帰るというのは事前に予想されていた? 麗静をはじめとしたものたちがなにをどこまで把握しているのかさっぱりわからない。  エレベーターに宇航と麗静、京で乗り込み最上階の三十階まで上った。到着を告げる軽い音と同時に開いた扉から、まず宇航が「ちょっと見回りしてきます」と言ってひとりで廊下に出ていき、異常がないことを確認したのち京と麗静にエレベーターから降りるよう促した。

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