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第5話

「では、おやすみなさい。なにかあったらすぐに呼んでくださいね」  扉から廊下に出た京、麗静と入れかわって自身はエレベーターへ戻り、にっこり笑ってそう告げ宇航は扉を閉めた。ついぽかんとしてエレベーターのランプが二十九階、二十八階と下りていくのを見つめてしまう。  想定外のタイミングでいきなり正体不明の美形とふたりきりにされた。こうした場面ではいったいどういう態度を取ればいいのか。あんたは何者なんだ、ここはどこなんだ、なにから切り出すべきかと下降していくエレベーターのランプを睨みながら悩んでいると、背中から急に抱きしめられたので驚愕のあまり硬直した。  なんだ。なにが起こっている? 今度こそ完全に意味がわからない。 「廉(レン)。会いたかった」  さらには麗静からどこか切なげにそう囁かれてますます混乱した。廉。廉とは誰だ。この男は自分が廉とかいう人物であると勘違いしているのか、つまりは人違いで自分はここへ連れてこられたのか?  最初は壊れ物でも包み込むかのごとくやわらかだった抱擁に、次第に力が込められていくのはわかった。相手をどうこうしたいというより単純にいま麗静の心には、京を、ではなく廉だと思い込んでいる男を抱きしめる腕の強さを緩められないほどの熱情があふれているのだろう。耳もとに聞こえた感極まったような深い吐息でそれもわかった。  いかにも冷静沈着に見える男の意外な行動への驚きも相まって、余計に身体が固まってしまう。なにか言おうと唇を開いたはいいものの言葉はなにひとつ出てこない。なにせ状況がまったく理解できないのだ。  とはいえこのまま放っておいたらいつまでも抱きしめられたままだと、しばらく迷ったあと敬称は省き、掠れた声でどうにかこうにかはじめて彼の名を呼んだ。 「麗静。苦しい」  麗静は京の言葉で我に返ったのかすぐに両腕を離した。切羽詰まったような抱擁から解放されようやくほっと肩から力が抜ける。その京の手を取り麗静は「すまない。とりあえず部屋へ行こう」と声をかけ、先に立って歩き出した。  ここで逆らうのもおかしいかと、エレベーターを中心にぐるりと円を描いているらしい廊下を、彼に手を引かれて歩いた。先刻すぐに下の階へと戻っていった宇航の態度を見る限り、おそらくこの最上階すべてが麗静のプライベートエリアなのだと思う。  連れていかれたのはリビングルームのようだった。一対のソファとそのあいだのローテーブル、酒瓶や何冊かの本が並べられた棚、それくらいしか家具がない、品はよいながらもいやにシンプルな広い一室だ。  促されておそるおそるソファに座ると、向かいに腰かけた麗静がすぐに身を乗り出してきて京の左手を掴んだ。ぐいと引っぱられて抗う前に、今度は指先にそっとキスをされて目を白黒させてしまう。 「帰ってきてくれてありがとう、廉。ずっと待っていた。どこをどれだけ探しても見つからなかったが、君なら戻ってきてくれると信じていた」  切実な声で告げられ手を引っ込められなくなった。帰ってきた? 待っていた? 要するに廉とやらは現在行方不明にでもなっていて、麗静はその人物の居場所をずっと捜索していたということか。彼にとって廉なるものは、抱きしめたりこうして指にくちづけをしたりする対象となる存在なのかと目の前の美貌をついまじまじと見つめる。  漆黒の髪を背に流した男は、明るい照明のもとで改めて目にすると見蕩れるほどに美しかった。切れ長の目だとか眉の角度、薄い唇だとかシャープな骨格にやわらかみはなく、印象としては研いだ刃物のように鋭利で冷たい。  しかしこうして自分の指先に二度、三度とキスをしている姿は妙に情熱的だ。よろこびに震える心のうちまでうかがえるような顔をしている。  それはつまり彼が自分を、こんな表情を浮かべるほど大事な男である廉だと勘違いしているからだ。  麗静はしばらくのあいだ無言で、まるで愛おしいものを手放すまいとするかのように京の左手を握ってから、名残惜しそうな目をしてようやくてのひらを離し静かに話しはじめた。 「青龍(せいりゅう)塔で君が消えてしまったあとも、この街、霧幻城自体は大きく変わっていないのでその点については安心していい。しかし代表者たちの立ち位置はいくらか変化している。まず初代朱雀だ。彼は息子である君に朱雀の椅子を任せると言い残し亡くなった。最後に会えなかったのは残念だが、彼は君の無事を願っていたと伝えておこう。それから」 「ちょっと……、ちょっと待ってくれ」  人違いであるのだから当然麗静がなにを言っているのだかさっぱりわからず、半ば無理やり口を挟んだ。 「麗静、あんたは勘違いしてるみたいだが、おれは廉って名前じゃない。東野京だ。もうずっとそう名乗っているし戸籍もある」  今度は麗静が、おのれのほうこそ京の言い分が理解できないというように目を瞬かせたので、確かに自分も大概説明不足だと言葉を続けた。 「だから、人違いだ。おれはあんたが探している廉ってやつじゃないよ。そもそもここがどこだかわからないんだ、都内の居酒屋で同僚と飲んだ帰り道に気を失って、目が覚めたらあの賭場の裏にいた。見たこともない場所だ」 「つまり君は失踪して以降、ここではない土地で違う名を使い暮らしていて、この街がどのような場所であるか覚えていないということか」 「覚えていないというより、もとから知らないんだよ。おれはあんたの探している廉じゃないんだ、別人だ」  京の主張を聞き麗静は微かに眉根を寄せ、低い声でこう問うた。 「私のことも覚えていないと?」 「……あんたのことも知らない」  面と向かって存じあげませんと答えるのも気が引けたが、麗静が勘違いをしているのならさっさと誤解を解いたほうが互いのためかと正直に告げた。彼は難しげな顔をして「十年も前のことだから忘れているのか?」と独り言ちてから少しのあいだ黙り、そののちに改めて口を開いた。

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