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第6話

 必要最低限にとどめたのだろう彼の説明によると、この場所は霧幻城と呼ばれる街で、四人の代表者が東西南北に区切った地区を各々治めているのだという。彼らは青龍、白虎、朱雀、玄武(げんぶ)という通名を持ち、麗静はその中で白虎を名乗る代表者のひとりであるそうだ。代表者たちは各地区の端に建てられた塔に住んでおり、そこで働く配下以外からは通名、つまり麗静であれば白虎と呼ばれているらしい。  失踪した廉もまた代表者のひとり、朱雀と称するべき存在だが、行方不明になっているためその席は空いたままだった。 「しかし君が戻ったのであれば朱雀の席が埋まる。私はずっと君が帰ってくるのを待っていた。霧幻城の権力図がどうこうというよりもただ、君の顔を見て声を聞いて、抱きしめたかった。毎日、毎日、君のことを考えていた」  先ほどから何度か聞いていた知らない単語のいくつかは意味がわかったものの、自分の置かれている状況は理解し切れず今度は京が眉をひそめた。人違いだ、別人だと申し述べてもちっとも聞き入れてもらえないほどに、自分はその朱雀たるべき男に似ているのか。そんな要素を持つ自分がいまここにいるのにはなにかわけがあるのか? 大体、繁華街の裏路地にいたはずの自分が、どうやってこの霧幻城とやらに来たのだろう。  おそらく、というより確実に麗静は廉に惚れているのだ。いきなり抱きしめたり指にキスをしたりいやに熱いセリフを聞かせたり、それらの行為の向こうにある感情が恋慕以外であるはずがない。  同性愛者であるのかそんなものは超越しているのかは知らないが、この男は廉にめろめろだ。しかし自分は、似てはいるのだとしても彼が毎日毎日考えていた廉ではない。  物騒な賭場から、少なくとも安全ではありそうな塔へ連れてきてもらった以上は無下にもできない。とはいえ自分は麗静の思っている男とは違うただの会社員なのだし、廉であるふりをしてやるのも逆に失礼だ。それをこの男に傷を与えずわからせるにはどうすればいいのか。  腕を組んで唸っている京の姿を見てなにを感じたのか、麗静は「とりあえず難しいことは置こう。そう悩まないでくれ」と言ってソファから立ちあがった。 「急にあれこれ言っても君は混乱するだろう。それよりもまずは傷の手当てをしなくては。薬を取ってくるので少し待っていなさい」  静かに部屋から出ていく麗静の言葉に、そういえば都内の繁華街の裏路地で四人の男から暴行を受けたうえ、賭場の裏でも腰を踏みつけられたのだったと改めて思い出した。途端に、すっかり忘れていた痛みが身体のあちこちに蘇る。  ちりちりと熱を持っている首に手をやると指先に血がつき、それでようやく自分が怪我をしているのだと自覚した。あれだけ殴る蹴るされたのだから当然といえば当然か。見たこともない土地で目覚め、さらにはこんな塔に連れてこられて困惑していたものだから、いつのまにか意識から薄れていた。  ひとつ小さな溜息をついて血のついた指をもう片方の手でごしごしと擦り、ソファから腰を上げた。ひとりきりの部屋で窓際に立ち外を眺めると、霧のかかった夜なのでよくは見えないが、確かに、この白虎塔と同じほどの高さがある建物が正方形の点を打つように三棟そびえ立っているのがなんとかぼんやりと認められた。隣の塔までは大体ひと駅分くらい、つまりおおよそ二キロメートルほどは距離がありそうだ。  要するにあれらがここ同様、麗静イコール白虎のような地区を治める代表者が住まう、青龍、玄武、それからいまは主のいない朱雀の塔で、各々霧幻城の東西南北の端に建っているということだろう。  霧のため見えるのはせいぜいそこまでで、塔に囲まれた正方形の外にどのような世界が広がっているのかは目視では確認できなかった。平地が続いているのか山が連なっているのか谷底へ落っこちる崖になっているのかすらわからない。  十分ほどたったころ、麗静は木の箱と着替えらしい服を持って部屋へ戻ってきた。京を促してソファに並んで座り、ローテーブルに置いた木の箱を開ける。ガーゼや包帯、薬瓶等が入っているので救急箱なのだと知れた。 「少し痛いかもしれないが、我慢してくれ」  ピンセットで摘まみ消毒液を浸した脱脂綿で首をなぞられて、ついぴくりと肩が揺れた。確かに少し、ではなく結構しみる。麗静は空いた左手で優しく京の頬を撫で「顔に傷がないのはさいわいか、せっかくの天選民の血だ」と先から幾度も聞いた意味のわからない単語を口に出して、いったん脱脂綿をトレーに置きこう続けた。 「廉。服をはだけてくれないか。この分だと身体にも怪我をしているだろう」  一瞬ためらってから素直にネクタイを解き、ジャケットを脱ぎ捨ててシャツのボタンを開け肩から落とした。この男は自分を廉だと思い込んでいる、そして廉に惚れている、そこには性的な欲望も含まれるのかもしれない。としても、素肌をさらした途端にいきなり襲いかかってくるような男には見えないので問題あるまい。  麗静は服を脱いだ京に、瞬きも忘れたように見入っていた。右肩を凝視しているから、生傷に驚いただとか劣情を覚えただとかではなく、単にそこにある古い傷あとになんらかの意味を見出したのだと思う。  その通り麗静は傷あとに左手を伸ばしかけ、しかし触れはせずにただ小さく「君は間違いなく私の愛する廉だ」と呟いた。それからはなにを言うでもなく黙ったまま、服越しにも布が擦れたのか本人も知らぬうちに負っていた腕や背、腹部のすり傷を丁寧に手当てし、最後に、京が自ら脱いだシャツを着せてくれた。  使い終えた救急箱を片づけたのち、麗静は先ほど持ってきた服を片手に京を連れリビングルームから出て、エレベーターを挟み反対側にある一室に案内した。彼に促されて足を踏み入れた部屋はベッドルームらしく、馬鹿みたいに大きなベッドとチェスト、クローゼット、窓際には籐の椅子がある。  麗静は手にしていた服を差し出し、受け取った京が避けようと思う前にそっと髪を撫でて言った。 「今日はもう寝るといい。これに着替えなさい、スリッパはクローゼットの中にある。君が身につけている服や靴は汚れているから、かわりになるものを明日までに用意しておこう」 「……なあ、麗静。おれはあんたの愛する廉じゃないぞ」 「君は廉だ。しかしいまは考えなくていい。とりあえずはなにも心配せず眠りなさい、疲れた顔をしている。私はまだ少し仕事が残っているのでひとりにしてしまうが、リビングルームにいるからなにかあったら呼んでくれ。おやすみ」  告げられた言葉にかえって困り眉根を寄せている京の額に軽くキスをして、麗静はあっさりとベッドルームのドアを閉めた。遠のく足音を聞きながら、去る間際に彼がちらと浮かべた複雑な表情を思い返してますます困惑する。  仕事が残っているというのは嘘か単なる言い訳だろう。麗静はきっと廉、だと信じ込んでいる男ともっと一緒にいたいはずだ。だが、相手にひとりで休める時間を与えるのと同時に、自身にも落ち着く時間が必要だと彼は判断したのだと思う。  麗静にとって廉という名の男は極めて大切な存在なのだ。恋人だったのか。あるいは横恋慕していたのか? しかしどうあれそれは、こんな場所があるなんて知らなかった単なる会社員である自分のことではない。そう考えたら、勘違いで優しくしてくれる彼に対してなんだか申し訳ないような気持ちになった。

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