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第5章 Won’t Let You Fall Apart 「あのさ、それだけじゃないんだよ。ジャックは私に良くしてくれたよね。いろいろ」 リッキーの頭の中に様々な場面がこだました。 「シンシア、たまには俺の話も聞けよ」と言うダリウス。 「イヤだ!」と叫ぶ幼い頃の自分。 ゴミ袋に入った、ジャックとの思い出が詰まったものたち。 全部をかき消すようにヘッドホンをつけて、ダリウスの出ている映画のポスターの横を通り過ぎた時の光景。 「あんたって子は……なにが気に入らないのよ」とシンシアに言われたときのこと。 「でもそれはやっぱり、私が父さんの子供だったからだよね。ジャックには、そういう……過去とか、『怒り』を持つ正当な理由がある。でも私は……ただの癇癪持ちで、めんどくさい奴で、厄介な子供なんだよ」 リッキーは腕を広げて言った。間違ってるのはなんだ。どうして誰も放っておいてくれないんだ。 「ジャックは私のことを、なんかこう、純粋でやんちゃな子供とか思ってたかもしれないけど、そうじゃないんだよ」 手に汗がにじんで、動悸が大きくなる。認めるのは嫌だ。 「ずっと色んなことが不満で、うまくやっていけない、そういうクソガキなんだよ!」 「リッキー、それは違う」 ジャックは静かに言った。 「他の人はさ、君がひどい癇癪持ちとか、協調性がないとか、センシティブだとか、皮肉屋だとか言うかもしれない。でもそれは、リッキー、君のものの見方が他の人と違うっていうだけなんだ。それで、君が僕にとって大事だっていう理由はさ」 ジャックはいつもリッキーを落ち着かせるときするように、両肩に手を置いた。その懐かしい感触に、彼女は思わず泣きそうになった。 「君が、リッキー・グレイだからだ」 初めて会った時、君を見たその時、僕の人生は初めて意味を持った。それまでのろくでもない人生が。母の人生でさえも。多分、自分の全てが許される時というのを僕は待っていたんだと思う。 「ダリウスは、君の父さんは、僕が彼を軽蔑……というかバカにしていると思ってたみたいだったけど、僕は彼に憧れていたんだよ」 もうちょっと頻繁に、それを彼に伝えるべきだったかもしれない。ダリウスと一緒にいると、今までのことを全部忘れられるような気がした。家のことも、つまり過去のことも。自分がすごくまともな人間に思えた。 「でも、思い出さないわけにはいかなかった。自分の暗い部分を。気を悪くしないでくれよ、リッキー、特に、君を見るときは」 でも、たぶんそれは何でもないことなんだ。自分の中の暗いものを認めることは、そしてそれと向き合うことは、避けられないんだ。 たぶん、僕と君は、ものすごく似ていたんだと思う。世の中がろくでもないものだということに、気づいている気がした。  「それでも、大丈夫」と言ってあげなければ、と思った。「まだ君は間に合う」と。自分が、この自分がそんなことを思うようになるなんて、考えてもみなかった。強い人間でも、正しい人間でもないくせに。それでも。 「君は僕にとっての最後の希望なんだ。リッキー、君は僕のヒーローだったんだよ」 六時間前 州間高速道路サービスエリア 8:00am 「食事は?」  サービスエリアにあるダイナーはごった返しているというわけではないが、朝にしては人が多かった。 「いらない」 ニット帽を被ったダリウスが答えた。彼はスマホを見ている。 「じゃあ私の分買ってくる」  シンシアはレジに向かった。メニューを示すパネルの蛍光灯が眩しい。 「ああ」 ダリウスがジャックについて知っていた事は多くない。大きな家の子で、母親はいるにはいるが、どうもそのことで色々あったらしい事。家で殴られたりしていたらしい事。 高校ではほとんど喋ったことはなかったけど、一緒にいる時はすごく語彙が豊かで、シニカルで、たぶんああいうのを「賢い」って言うんだろう。ダリウスやシンシアが思いもよらないような見方で物事を見ていた。 でも時々、びっくりするほどシリアスな雰囲気になることがあった。 「なんて言うか……もっと楽になれよ」 ダリウスは一度言ったことがある。 「そういう、『全世界の重荷を背負ってます』みたいな顔を……せずにさ」 「僕に……僕にどうしろって言うんだよ。僕はさ、ずっとこういう風にものを見てきたんだよ。人の悪意とか脅しとか、そういうことばっかり考える」 ジャックの腕は雑に巻かれた包帯だらけだった。確か彼を「保護」した直後にそういうことを言っていた気がする。 「頭の中にフィルターがかかってるみたいなんだ。暗いんだよ。それで多分、これからもずっとそうなんだよ。毎日、心臓から血を流し続けるみたいな気分で、生きていくしかないんだ」 「ジャック」 「それからだんだん、全部うまくいかなくなって」 ダリウスは彼の沈んでいく顔を見たくなくて、その両肩に手を置いて落ち着かせようとした。 「そのまま、いつか、滑り落ちるんだ」 「ほらな、ダリウス、やっぱり僕はもう、」 「ダリウス!」 シンシアの声に彼は現実に引き戻された。 「ねえ、テレビ見て」 ダイナーのテレビではニュースが点いていた。 〈俳優のダリウス・グレイ氏の娘が行方不明になった事件で……〉 「はい、入らないでください」 グレイ邸の外からはテレビ局の人間と警察が争っている声が聞こえた。 〈十日未明、グレイ夫妻もグリーンヒルの自宅から失踪。一体どうなっているのでしょうか〉  テレビからは忌々しいリポーターの声がする。 「……ったく、好き勝手言いやがって」 ウィリアム・アレン刑事は思わず悪態をついた。 「裏口から出るなんて、ここは王宮か何かか?」 「全くですよ。質問にすら全く答えないし」 ヘイリー・ブラウン刑事はソファにでかでかと座ってパンを食べながら言った。 「くつろぐな」 「このパンは私物なので大丈夫です」 「そういう問題じゃない」 「もう朝八時ですし、何か食べたほうがいいですよ」 ヘイリーはパンの入った袋を差し出してくる。 「おお、かたじけない」 受け取ってから、パンを食べている場合ではないな、とウィリアムは思ったが、腹を減らすわけにはいかなかった。 「まあ彼らがどこに行ったかは分かってますし、ほとんど解決したようなものです」 「は?」 「これです」 ヘイリーは口元にパンくずをつけながら、ノートパソコンを差し出した。 「ミスター・グレイの書斎にあったパソコンです。スリープ状態になってました。近くに飲みかけのコーヒーがあったので、私たちが来る前まで見てたんだと思います」 画面には「現在地」を表すサインがあり、それはウェットアイの市街地を指していた。 「インターネットの履歴を見てみました。やっぱり子供の居場所を把握しようとしないわけないですよ」  ヘイリーは言った。それから「だいたいの親はね」と付け加えた。 「GPSです。ケータイかな、彼女が持ってる端末からここに情報が行ってるんだと思います」 「だけど、リッキー・グレイは携帯電話を持ってないんじゃなかったのか?」 「そういう機能だけのものを身に付けている、ってことでしょ。とにかく、ダリウス・グレイは娘がウェットアイにいることを知った」 「それで俺たちが呼ばれたのか?」 「そうです。シンシア・グレイが呼んだのは、今、外で交通整理してるグリーンヒル警察です」 「あの無能な奴らか。そうなると、またウェットアイまで逆戻りだな」 「大丈夫、私が運転します。鍵貸してください」  ヘイリーは無造作に手を差し出した。 「え?」 「先輩の走りじゃ日が暮れますよ。大丈夫、法に触れるスピードは出しません」  ウィリアムはしぶしぶ車の鍵を差し出した。 「ギリで」 「いや、それはちょっと」 車からウィリアムの悲鳴を聞くものは誰もいなかった。 ウェットアイのマグノリア・デパート。そこに二人はいる。ダリウスは確信していた。 七歳だったジャックが、実の母・メアリーと引き離された場所だ。 「ダリウス、やっぱり僕はもう」 あの時、気づけばキスをしていた。落ち着いてほしいと思っただけだったのに。傷のために、彼の背中を見てしまったのが運の尽きだったのだ。あれが頭から離れなかった。その肌に触れたい、と思った。 「ごめん」 唇が離れてからも、両肩に置いた手はそのままだった。そんな風に自暴自棄になって欲しくなかった。彼を追い込んだ奴らに応えるような価値はない、と見たこともないくせに考えた。 きっとこれは運命だ、と思った。目の前の相手は鼻で笑うだろうが。 背中の傷はもうずいぶん良くなっていた。指でそれをなぞると、ジャックは息を呑んだ。ごめん、とまた柄にもなく謝った、こんな風に感じるのは初めてだった。 首筋に唇をつけると、もう止まらなかった。自己嫌悪の彼方から現実に戻ってきてほしかった。逃げようとする腕を引き、手首を掴んで、確認するように何度も近づけた。 「僕たちはこんなこと、するべきじゃない」 強い力で押し返されたが、ダリウスはそれを聞かなかった。どうしても、そうしないといけない理由があった。いや、あったのかも分からない。腕の中にいるジャックはひどく無防備で、その剥き出しの心に、たった今、あと少しで届きそうだった。 めちゃくちゃにしてくれ、とジャックは何度も望んだが、ダリウスはひどく丁寧にそれをした。まるでそうしないと壊れてしまうとでもいうように。 あの背中、が鮮明に脳裏に焼き付いていた。もっと深いところに触れたい、彼が生きていて、そこにいることを確認したい、と思った。自分が何を彼に望んでいるのか、はっきりとは分からなかった。もしかしたら、リッキーとちゃんとした愛着関係を作れなかったせいで、その穴埋めをしたいと思っているのかもしれない。セコい、といえばそれまでだ。守りたいという気持ちと、「欲求」とを混同するとまずい。でも彼を求めているとき、その頭はぐちゃぐちゃで、何も考えられなくなった。ただ彼の全てが欲しかった。 アパートメントの狭いベッドは二人には小さすぎたが、少しでも彼を近いところに感じるためには充分だった。それが豪邸の寝室のキングサイズベッドに変わっても、ジャックの傷が目立たなくなるくらい治っても、遠いところにいるように感じる相手をここまで引き戻したくなるような感情は一緒だった。彼は世の中を拒んでいるくせに、誰かに近づいていたくて、繋がっていたくてたまらないような、そんな欲があった。ジャックの心の奥の奥にある、悲痛な願いに近い欲を、ダリウスは引きずり出した。 「誰もそんな風に感じるべきじゃない」 ダリウスは彼に言ったことがある。 「どうして?」 ジャックは本気でそのことが分からなかった。自分が暗さを感じるのは、運命とか義務とか責任とか、そういうものだと思っていたからだ。 「わからない、でも誰一人、そんなことを経験するべきじゃないと思う」 ジャックはダリウスのことを信じていた、という形容が一番近かった。それをちゃんとダリウスに伝えるべきだったかもしれない。浅慮さ、傲慢さを含めて、決して彼のことを嫌いではなかった。ある意味恩人であることも確かだし、それ以上に本当は少し。いや、どうだろう。愛情と言うものが何なのか、それがどういうものなのか、彼には分からなかった。ジャックはわりあい誠実な人間だったので、自分が理解していないことを相手に伝えるようなことはなかった。辛うじて彼が想像できたものは、自分が嘔吐しているようなとき、最悪の気分のときに誰かが隣にいて、「大丈夫だから」と言っているような感じ、それがジャックの望むものだった。そして、ダリウスはその理想に一番近い人間だった。 だから、ジャックは彼に何度も手紙を書いた。同じアパートの部屋にいるのに。それは感謝の気持ちでもあったし、自分なりのやり方で彼に応えるすべでもあった。相手は文章を書くのが得意なほうではなかったので、感想を口頭でよこすことが多かった。時には、小説をつけて渡すこともあった。ダリウスは作品の意味が深くは分からなかったが、それを大事に取っておいた。 文通(といっても一方的なものだったが)は二人が断絶してからも続いていた。ジャックはダリウス宛のファンレターなんかが届いている私書箱に手紙を送る。スタッフがそれをダリウスによこす。それを、シンシアに見つからないように書斎の鍵のかかる引き出しにしまっていた。 だが、十月九日、ダリウスが引き出しの鍵を開けたとき、手紙は一切なくなっていた。彼は混乱して、やり場のない怒りを抱えた。まず、開けられるだけの引き出しを開けて確認した。そこにも手紙の束はなかった。あれが唯一、自分に与えられている愛、のようなもの、を確認する手段だったのに。それから、机の上の書類の束をひっくり返し、棚の本を乱雑に取り出して、その間に手紙がないか確認した。胸騒ぎがした。 「……クソ」 彼は悪態をついて手に持っていた本を壁に放り投げた。アンガーマネジメントに問題がある、と言われたのを思い出した。セラピーを受けるべきかもしれない。だが今はその時じゃない。忌々しい。 引き出しを全部開けて、椅子に座って深く息をついた。誰が持ち出したのか、恐らくもう焼かれてしまっただろう、見当がつくのはシンシア一人しかいなかった。あの手紙の束が、ジャックを思い出す唯一の手がかりだったのに。なくなってしまった。ダリウスは手当たり次第に机の上のものを投げ始めた。書類。やたらデカいホッチキス。 それから、書斎のドアを閉め忘れたのに気づいた。振り返ると……そこには呆然としたリッキーがいた。彼女と目が合うと、さっと駆け出してどこかに行った。自分がどんな表情をしているかに思い当たるすべはなかった。リッキーの顔を見て、怒りの感情はなりを潜め、混乱が代わりにやってきた。ドアを閉め、机を思いきり殴った。そのあと、薄手のコートを羽織ると外に出た。雨はまだ降っていなかった。 ダリウスは目を閉じて、息を吸った。ジャックの手紙を全部どこかにやったのは隣にいるシンシアだろうが、今はそれを追及する時ではない。あの後、荒れるダリウスの姿を見て家を飛び出したリッキーはウェットアイの市街地にいる。恐らくジャックと共にいるはずだ。そして二人は、きっとマグノリア・デパートに行く。 教えてくれ、ジャック。 お前はまだ間に合うのか? 第6章 その子供の名前は希望  「変な話だけどさ、リッキー、僕は、あの時全部に片がついていればどんなに楽だったかと思う。二十五年前の今日、ここで全てを終わらせていてくれれば……」 ジャックは言った。 「でも実際はそうじゃなかった。僕がちょうど今の君くらいの年、僕の母親は一人で死んでいったんだ」 その死因についてジャックは言及しなかったが、リッキーは何となく察した。病院にいた、ということからして彼女の鬱病が重度だったのは分かる。つまり、そういうことだ。その知らせを聞いたジャックはどれだけ無念だっただろう。 「僕は、僕は何もできなかった。何もできないまま、母さんは死んで、僕はこんなところで生きてる」 (ジャック、俺はずっと、できることならお前を救いたかった。お前が飲み込まれそうになっている、わけのわからない暗さから。でも俺には……) 「だからさ、リッキー、僕の子どもになって」  ジャックは言った。そのグリーンの目は涙を湛えていた。 「そうすれば、僕は色々なものから君を守ってあげられるし、君をどこへでも連れて行ける。そうすれば、君は少し気が楽になるかもしれない。僕は……僕はなんとかうまくやっていけるかもしれない」 僕はまだ間に合うかもしれない。 「いいよ」 リッキーは答えた。ジャックは両手を広げて、彼女を抱きしめた。久しぶりに誰かからハグされて、リッキーは泣きそうになったが、それを見せることはなかった。そのまましばらくジャックの腕の中でじっとして、懐かしい感触を確かめていた。 もし、この世界に二人だけしかいなかったら、あの人は、君は、僕は、世の中の全てのことに「ノー」と言わずに済んだんだろうか? 分からない。 (ジャック、俺には分からない、お前が何から逃げてるのか、何に苦しんでるのか。でも今度は、もし「次」があるとすれば、どんな手を使ってでもお前を救う……) ダリウスは車を止めて、エスカレーターを上がる。ジャックはいない。リッキーもいない。「屋上」の表示が目に入る。もしかして。 「いるわけないわよ、ダリウス」 シンシアがそう言ったとき、彼は既にエレベーターに乗り込んでいた。 ゴウン、と音がしてエレベーターが止まる。 「げっ」 リッキーは思わず声を出した。 「父さん!?」 「やっぱりな」 「なんでここが……」 「持ってるだろ、俺が渡した飛び出しナイフ」 「は?」 「あれでお前の位置を把握してたんだよ」 リッキーは黙りこくった。たくさん言いたいことがある時にはいつも黙り込んでしまう。どうしたらいいか分からなくなる。 「帰ってこい、リッキー」 「家出だって言っただろ」 低い声で絞り出すように彼女は答えた。 「家に……」 「嫌だ」 リッキーは手から何かを投げ、それが地面に当たって音が鳴った。飛び出しナイフだ。 「嫌だって言ってるだろうがっ!」 「やっぱり……ダグラス、あんたが関わってたのね」 シンシアが別のエレベーターから現れ、リッキーはさらに混乱した。 「なんなのよあんた、親みたいな顔して、もう関わってこないと思ってたのに!」 シンシアはジャックに摑みかかろうとして、ダリウスがそれを止めている。 「邪魔ばっかり……」 このままじゃあ泥沼に突入だ、とリッキーは思った。 考えろ、考えるんだ、リッキー・グレイ、この状況をなんとかする方法を、全てを解決する方法を。 彼女は地面に落ちた飛び出しナイフを掴む。カチッとボタンを押すとナイフが出る。 いや、「全て」はやっぱ無理かも。 そのまま自分の腹に向かってナイフを一気に突き刺す。 「リッキー!」 聞こえたのはジャックの悲痛な声だった。彼が真っ先に駆け寄ってくるのが見える。 全くもって不毛だ。どいつもこいつも夢だの希望だの託しやがって、 「バカだなあ……バカだなあリッキー」 ジャックが泣きながら彼女の肩を掴んで、傷口を押さえる。 自分の腹から血が出ているのを見るのは新鮮としか言いようがない。 「あー……」 リッキー・グレイ、右わき腹からの多量出血で失血死。 「くそったれ」 だとしても最期の言葉がこれっていうのは、ちょっと勘弁してほしい。 救急車が到着し、リッキーが運ばれていく。 「リッキー」 駆け寄ろうとするジャックを救急隊員が止めた。 「父親の方ですか?」 「あ…いえ」 「じゃあちょっと……すみません、家族以外の方は離れてもらえますか?」 ジャックは固まった。その腕をダリウスが掴んだ。 「ジャック、お前って奴は……」 「なんか騒がしいな」 ヘイリーの車でスーパー・ハイウェイスター走りを経験したウィリアムは顔を青くして、口元を押さえていた。 「あっちです」 人混みをかき分けたヘイリーは、視界の先に座り込んだシンシア・グレイの姿を認めた。 「グレイさん!」 駆け寄ると彼女はよろよろと立ち上がった。 ウェットアイ市民病院 6:00 pm 「……何だよ。何が悪かったんだよ。どこで間違えたんだよ」 ダリウスは待合室の薄緑色のソファで毒づいた。辺りには薬っぽい匂いが漂っている。いろいろな音が聞こえる。 「約束してくれって言ったよな。リッキーに君が必要な時は、近くにいてあげてくれって」 ジャックはその隣で言った。手にもコートにも、未だにリッキーの血がついている。 「ダリウス・グレイ、君はひどい嘘つきだ」 ダリウスは深く息を吐いた。 「嘘つき野郎に犯罪未遂、あいつの周りにはろくな大人がいねえな」 ふう、とジャックも小さく息をついた。彼はジッパー付きのプラスチックの袋に入った飛び出しナイフをぶらぶらと蛍光灯に照らしてみせた。 「こんなものじゃ聞けないよ、『助けてくれ』って頼む声はさ……」  ジャックは自嘲するように笑ってみせた。 「言えよ」 ダリウスは声を荒げた。 「俺は……俺はバカだからさ、言ってくれないと分かんねぇんだよ。俺に聞こえるように言ってくれよ、『助けてくれ』って」 「僕に言ってるのか?分からない、いつも君は……」 「お前のことがクッソ心配だからに決まってるだろ!」 「すみません、夜なので静かにしてください」 「あっハイ、すいません」 二人は黙った。リッキーは一命を取り留めた。それほど深い傷ではなかったにしても、だ。あそこまで彼女を追い詰めたものが何なのか、その正体は見えなかったが、二人は知っていた。 もしも、全てが完璧な世界だったらどうだろう。なにもかもがうまくいっていたら、どうだろう。 ジャックはメアリー・ダグラスに育てられ、ウェットアイの聖パトリック高校で同級生だった父さんと仲良くなる。授業のノートを見せてもらったりなんかして。ウェットアイ大学を卒業し、会社に就職する。 私は父さんと母さんが二十三のときに生まれた子供で、愛らしくて、「適度に」馴れ馴れしくて、純粋で…… いや、そんなものは、別に、いらない。 がばっと起き上がると全身が痛んだ。「いてっ」と声が出る。もう一度ベッドに身を預けると、「リッキー」と父さんが呼ぶ声がした。しばらく見ていないくらい優しい顔だ。それくらいはしてもいい気がするけど。 「母さんは?」 「家に戻ってる。……あのさ、大丈夫か?」 「ゼンゼン、ダイジョーブ」  リッキーは機械的な声で返した。 数日後、私はスマホでラジオを聴いていた。 〈えー、ニュー・ロメオ『エニーウェア』懐かしい曲をお送りしました。次はこれ。ポップ・アイドルか?反逆児か?期待のバンド、ハッピー・バスターズで『キャッチ・ユー』です〉 結局、一連のゴタゴタは平穏に解決した。マスコミは急に黙ったので、多分どこかで金が動いたんだと思う。特別なにかが変わったということもない。 〈こんな気分になったことはあるか?家にいるのに『帰りたい』って気分〉 ラジオは最近のバンドの流行曲を流し始めて、それをなんとなく聞いていた。歩道橋を上がる。 私は何事も無かったかのようにグリーンヒルの学校に戻った。まあ、あと少しの辛抱だ。 〈いや、俺には分からない お前がいつも泣きわめく理由、『幸せはいつも手に入らない』と叫ぶ理由が〉 変わったといえば、父さんはウェットアイでアパートの部屋を借りた。仕事の時はそこから撮影現場に行くらしい。つまり母さんと父さんは別居状態というわけだ。多分そういうものなんだろう。だから週末には、ウェットアイで父さんかジャックのアパートに居候する。三人の「保護者」の間を行き来するのも、そんなに悪くない。 〈忘れるな、俺はここでつっ立ってる、お前が呼ぶのを待ってる〉  歩道橋の上からは地上がよく見える。高速道路の高架、道行く人々、ベビーカーに乗った子供。 「子供のうちは人生は美しく、輝いている」なんてたわごとは信じない。若い日の友情も、陳腐な夢も、消えていく。だから私は信じない。 ……消えていくから信じないのか? 信じないから消えていくのか? 〈もしお前の幸せがお前の手をすり抜けるなら、俺が代わりにそれをキャッチする〉 急に、あの時なんと言ったのか思い出した。 「リッキー、君は僕のヒーローだったんだよ」と言ったジャック。できることなら、彼を助けたかった。それは自分自身を救うということなのかもしれない。 〈もしお前が世界の手から滑り落ちてしまうというなら、俺がお前をキャッチする〉 「……ううん、王様になりたいわけじゃないんだ。本当になりたいのは、」 「『厄介なヒーロー』か」 私は呟く。総合するとそういうことだ。 「悪くない」 〈だから俺が滑り落ちそうな時、近くにいてくれ、そうすれば俺たちはなんとかうまくやれる、なんとか明日を生き延びられる、二人一緒なら、俺たちは永遠に生きられる…〉 (終わり)

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