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5.愛される日は卵と豚の甘辛煮。【前】

部屋の中に甘い砂糖の香りが広がる。 僕は焦がしてしまわないように慎重に片手鍋の柄を持ち、揺する。小鍋の中には大さじ3杯の砂糖と水。 丁寧に、丁寧に、焦がしてしまわないようにゆっくりと全体がきつね色になっていくのを見つめる。 沸々と湧き、薄いきつね色になったら火からおろしてお湯を注ぐ。 パチッっと僅かに跳ねで、ビクッと思わず肩が揺れる。カラメルをつくる、この瞬間はどうしてもドキドキしてしまう。 余熱で丁寧に飴色に仕上げていれば、のっしりとした足音が聞こえてきた。 「あー甘い、いい匂い。和戸くんおやつ作ってるの?」 セットされてない柔らかなくせ毛の髪に、ライトグレーのスウェットパンツにTシャツというラフな出で立ちの壮太さんが、疲れたように首を回しながらキッチンカウンター越しに覗き込んでくる。 ズレかけた眼鏡を押し上げ、此方を見るレンズ越しの瞳はオヤツへの期待で爛々としている。 僕はその子供のような眼差しに苦笑しながらフルリと首を振った。 あからさまに残念さが滲んだ彼の目の前に飾り棚のキャニスターから取り出したチョコチップクッキーを数枚、 皿に載せてサーブする。 「珈琲いれてあげるから、しょげないでください。ね?」 柔らかな髪を撫でれば、28歳児の白い肌がじわっと赤くなった。 子ども扱いするんだから――と唇を尖らせているが、まんざらでもないらしく、いそいそとキッチンカウンターの下に納められていたスツールを取り出して腰を下ろした。 「何つくってるの?」 ケトルで湯を沸かしながら珈琲豆を挽いていた僕にクッキーを一齧りした壮太さんが声をかけて来る。 僕は少しだけ迷って、それから小さな声で答えた。 「……豚肉と、卵の甘辛煮」 「――!」 僕の答えに、壮太さんがあからさまにいやらしい顔をする。カウンターに肘をついて、僕の事をニタニタと見る。 僕はその視線から逃れるように引き終わった豆をドリッパーに入れて、丁度良く沸いた湯を注ぐべくケトルを手に取った。 「美味しいよね、甘辛煮」 「そう……ですね」 「初めて和戸くんが作る豚の甘辛煮食べた日は、驚いたし、幸せだったなぁ――色々と」 カラメルの匂いに珈琲のほろ苦いアロマが加わる。 彼の視線が自分からようやっと珈琲へと移ったことに少しだけホッとしながら壮太さんお気に入りのマグにたっぷりと珈琲を注いでやった。 上品に珈琲カップを使う時もあるが、おやつの時はたっぷり飲みたいらしい彼のリクエストで大抵マグカップに注ぎ淹れることが多い。 クッキーを食べる時はブラックで。それも彼の好みだ。 マグカップをキッチンカウンターに置いた瞬間、壮太さんの大きな手が僕の手をぎゅっと握った。 「ちょっ……」 「誘ってくれてる?」 「……なんの、ことですか」 手が熱い。マグカップの熱ではないものがじわじわと僕の肌を侵食していく。 纏わりつく壮太さんの視線を避ければ、彼の手がパッと離された。 「そ?僕の勘違いか」 「そう、ですよ」 捕まれたところがまだ熱いような気がして一撫でしてから僕はキッチンの作業台の方へと移る。 まな板の上に豚肩ロースの塊肉を用意して、5センチくらいに切っていく。バラでもいいけど、ロースの方がさっぱりと食べれて良い。 僕の意識はカウンターでオヤツを食べる壮太さんから料理の算段へと移っていく――わけはなく、脳内会議で忙しない。 ついこの間、彼との出会いを思い出し、次いでにこれを作った切っ掛けも思い出したら彼に愛されたくなって、今晩のメニューにと作ったのだ。 彼の言うう通り夜のお誘いの為だったのに、ひねくれた口は素直にそれをいう事が出来なかった。 やってしまったと後悔したが、仕方がない。 切り終えた肉を鍋に入れ、包丁の腹でつぶしたニンニクと合わせ入れ、さっき慎重に作ったカラメルをいれる。 シンクに包丁とまな板を置いて、手を洗っていれば不意にぬっと影が差した。 するりと胎に腕が周り、のっしりと肩口にい顎先が当たる。背中全体に温もりを感じ、抱きしめられているのだと感じそのまま硬直した。 「ごちそうさま」 「ぁ、えと、はい」 いつも以上に絡みつく声色に思わず声が上擦る。腹に回された彼の手がするりと腹筋をなぞり、胸元へとあがってくる。熱とくすぐったさに小さく身じろげば、壮太さんの唇がちゅっというリップ音を立てて僕の首筋に触れた。 「まぁ、誘ってくれたなら嬉しいけど、誘ってくれなくてもいいよ」 「……?」 「どっちにしろ、抱くから」 「ぇ、ぇ!?」 「さ、仕事死ぬ気で終わらせてくるから、巽も準備しておいてね。あ、抱かれる準備はしちゃダメだよ、あの日みたいに。今日は意地悪されたから僕が全部するから」 だから、動けなくなってもいい用意だけしてね? そう言って、首筋をきつく吸い上げた壮太さんは僕から離れ、キッチンカウンターに置いてあったマグカップを持って書斎へと入っていく。今日は探偵業――ではなく、探偵業から派生した書籍発行の為の原稿作成。つまるところ文筆業のため書斎にこもりきりだった。もうすぐ書き上がるとは聞いていたけど、本当に終わるのだろうか。 僕は彼から与えられた唐突な熱量に浮かされたまま、残りの作業をこなしていく。 鍋に入れた肉とニンニク、カラメルに加えてヌクマムと砂糖、胡椒をいれて下味をつける。 30分程置いたら、あとは煮込むだけ。 一緒に鍋に入れるためのゆで卵と、付け合わせのもやしと人参、ニラの浅漬けを作って、それから―― 頭の中で献立を組み立てながら、チラチラと浮かぶのは彼の言った「あの日」の思い出。 言うまでもなく、それは彼に初めて愛された日の事だ。 **** 喫茶店で雨の日に出会い、それから僕が抱えていた問題を解決する過程で僕は壮太さんの家に数か月、お世話になっていた。 僕の抱える問題の根源――ストーカーに居住は把握されていたものだから、安全のため壮太さんが招いてくれたのだ。ただ、世話になるのも気が引けたので彼の身の回りの世話と食事を作る様になり、二人での生活が随分と当たり前に馴染んだ頃、問題が解決した。 それと同時にこの暮らしも終わるものだと、少しの寂しさを抱えていたところまるで映画のように膝を着いた壮太さんに愛の告白をされた。 「好きだ。このまま、ここで一緒に住んで欲しい」 真っ直ぐに向けられた感情に僕はどうしたらいいのか分からなかった。同居の生活中、彼の好意は感じていたがそれはあくまで友情に近いようなものだと思っていた。同居生活は楽しかったし、紳士的でユーモラスのある壮太さんの優しさには時折ドキリとすることもあった。だけど、自分の恋愛対象は今までずっと女性だったからどうしたらいいか分からなかった。 「……僕は、その壮太さんとの生活は、すごく楽しかったです」 「うん」 「でも、僕は今まで、その……男性とそういう関係になったことがないので、その」 「分からない――ということかな?」 「はい」 僕の率直な返答に壮太さんはフムと考える素振りをし、それから落ち込むでもなくにっこりと嬉しそうに笑った。 それからゆっくりと立ち上がり、僕の手を柔く掴んだ。 「手を、握られるのは嫌かい?」 「いえ」 「……頬に触れても?」 「ぇ?ぁ、はい、どう、ぞ?」 彼の意図が分からなかった。でも、それくらいならと許してみた。 大きな手が、壊れ物に触れるように僕の頬に触れた。ピリ、ピリと肌が妙に緊張して息が詰まった。 固い指の腹が頬をなぞり、それからゆっくりと僕の唇に彼の親指が触れた。 「……キスは、してみていいかい」 「ぇ、ぁ、えとそれ、は……」 「だめかな。バロメーターになると思うんだけど」 確かにそうかもしれない。キス、いや、でも。 お預けを喰らう犬のような顔をしている壮太さんにいいように言いくるめられている気もするのに、それが案外嫌ではなくて、もしキスがダメだったなら、きっと僕は彼とは付き合えないとはっきりするだろうと思う反面、そうしたらこの友情にもみたない関係は終わってしまうだろうなという残念さが胸を絞めた。 気が付けばもう鼻先が触れる程、顔が寄せられている。壮太さんの積極性は年齢の差、経験の差というものだろうか。 同じ男として、少しだけ妬ましくなった。 「して、いい?」 甘い声が誘う。僕は困ってしまって、絡みつくような彼の視線から逃れるようにウロウロと瞳を動かす。 唇を、ふにふにと触ってくる指が僕の唇の割れ目をなぞり始め、その妙にやらしい指先に慌ててOKをだした。 瞬間、待てを解除された犬のように散々と唇を貪られた。 確かめるとは??というツッコミが追い付かないほど、何度も啄まれ、舌まで捻じ込まれそうになってようやっと慌てて距離を取った。 「ちょ、まって、ください!」 「あぁ、ごめん。我慢効かなかった」 ヘラリと笑う顔に反省の色はなく、寧ろ飢えた獣のようなものを感じた。 壮太さんのそんな顔は同居した数か月、見たことはなく心臓が大きく鼓動する。 濡れた唇を舌先で拭う様が格好良くて、思わず見とれた。 「悪くなかったみたいだね」 「ぇ、あっ、えと……っ、ぅ、はい」 「なら、やっぱりここに住んでよ」 「え?なんで、ですか?」 「問題もなくなったし、全力で君を僕の生涯のパートナーにするために口説こうと思って」 ニッコリと笑う顔は、俳優のように美しい。そんな人に全力で愛を囁かれ続けたら、どうなってしまうのか。 僕は恐ろしくなって、賃貸契約がとかもろもろ思いつく限りの言い訳を捲し立ててみる。 それでも彼は僕の吐き出す薄っぺらい言い訳をことごとく論破していく。 そうして僕がどうにも言葉を吐き出せなくなって黙りこくった唇に彼はもう一度キスをした。 「和戸くんの生涯初めてで唯一の男になりたいな」 「……おも、ぃです」 「はは、でもそれだけ本気ってことだから。もう言い訳も出ないみたいだし、これからもよろしくね」 ちゃんと僕の助手としての給料も出すし、アーサーにバイトに行くのもかまわないよ。 なんて、破格の給料を掲示されてしまえば現金な二十歳なんてすぐさま気持ちがゆらいでしまう。財力っていうのは恐ろしいなんて思いながら僕は心の中で、この同居がまだ続くことがちょっとだけ嬉しい――と思ってしまった。

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