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第1話
ブロック塀の影が庭に伸びる。丁度、今朝干していった洗濯物に陽が当たらなくなった所で、取り込み始めた。足元に置いたカゴの中に、まだ微かに温もりの残る洗濯物を落としていく。今日もまた暮れようとしていく夕陽の、眩しいほどの橙が辺りを包みこむ。
(陽が落ちるのが早くなったな…)
いつも同じ時間に学校から帰宅して、そのままの足で庭に向かい、洗濯物を取り込む。数日前までは、まだ痛みさえ覚えるほどの陽射しが注がれていたのに、いつの間にかそれは柔らかい色を含むようになっていた。洗い立ての真っ白のシーツが、最後の淡い色を纏って揺らめいている。「おひさま」の匂いがふんわりと漂って、茜の心に優しく触れた。
穏やかな風がそっと頬を撫でて、チリンチリンと風鈴の音が鳴る。つい先日まで心地の良かったその音は、今ではもう、少し場違いのような響きに感じてしまう。
見上げた夕空を、二匹の赤とんぼがじゃれ合うように飛んでいた。
(―夏が終わる)
胸が少し、切なく痛んだ。夏の終わりを迎える度に、感傷的になってしまうのはなぜだろう。あまりに幸せすぎると、少し苦しくなるのと似ている気がする。
―二人分の洗濯物を取り込み終えると、茜はそのまま縁側から室内を眺めた。強烈な赤に染まった景色は色を失い、すでに夜を迎え始めている。
ガラス戸の向こうの、誰もいない真っ暗な空間。ここから見る光景は普段、茜ではなく一緒に暮らす真白のものだ。彼が帰る頃には明かりが灯り、台所で忙しなく夕食の支度をする茜の影が漏れるのだろう。彼がいつもするように、踏み石の上に靴を脱いで縁板に上がった。少し重いガラス戸を引くと、畳の香りがほのかに鼻に届いてくる。
「…ただいま」
ガランとした室内は無言のままだ。
持っていた洗濯カゴを下ろすと、テーブルの上にある煙草に気が付いた。真白が今朝置きっぱなしにして、そのままなのだろう。普段は、家の中での喫煙を嫌がる茜の言いつけで、真白はいつも縁側で一服をする。
潰れた煙草の箱と、ライターと灰皿。箱の中を見ると一本だけ残されていた。
「…ちゃんと確かめろよ、勿体無い…」
もう空だと思い、新しい箱を開けて出掛けたのだろう。茜は散々禁煙を促しているが、残された一本には、それにはそれで文句を呟いた。家計をやり繰りする身として「勿体無い」は、もはや性分だ。
―カチッと小さな音を立てて、暗闇に火が灯る。茜は最後の煙草を咥えて火をつけた。慣れない手つきで指の先に挟んだ煙草を吸い込むと、案の定、盛大に咳き込む羽目になる。
「―…何が美味いんだ、こんなの…」
涙目になりながら、初めての経験に驚いた喉を何とか落ち着かせる。そして、少しも良さは理解出来ないまま、再び小さく吸い込んだ。
口の中に煙が広がっていくと、嗅ぎ慣れた香りが初めて「味」となって染み込んだ。目を閉じると、真白がすぐ側にいるような錯覚が起こる。体内にまで侵入されたような感覚。動悸が早くなり、頭がクラクラとしてくる。煙草の苦い香りが、甘い熱を帯びて身体中を刺激した。
「…本気かよ…。これだけで…、とか」
若さ故だと無理矢理自分に言い訳をしながら、一瞬にして窮屈さを増したスラックスの前を寛げる。ベルトを緩めてジッパーを下げると、硬くなり始めた昂ぶりを握った。
「…んっ、…」
躊躇いがちにゆるゆると上下していた指は、無意識にペースを上げていく。灰皿に置いた煙草から煙が漂い、目を閉じると一気に全身を包み込んだ。罪悪感さえ今は媚薬のようだ。
「…っ、シロ―…」
張り詰めた先端から零れた蜜が、淫猥な水音を立てる。グチュグチュと自分を慰める指先に、彼の大きな手が重なると、胸の奥を甘い痛みが突き刺した。
「あっ…、シロっ――」
生々しい彼の幻影に触れられてしまえば、達するのは早かった。
欲望と煙草の香りが混ざり合って、余韻の残る身体に纏わりついてくる。
「……とうとうヤバイな、俺…」
熱く余韻の残る手のひらが視界に霞む。湿った息の中、吐き出した感情はあてもない。
(…夕食の準備、しないと…)
欲望の後始末をして、平常心を取り戻して、料理に取り掛からねば。いつものように。
(…それで、その後は)
真白と一緒に食卓を囲んで、また朝を迎えて、一日が始まっては終わる。充分幸せな毎日の繰り返しの中に、自分の望む身勝手な「それ以上」はない。
最近になって自覚した感情は、吹っ切れて清々としたものの、その行き場は今も見つからないままだ。楽になった反面、重くもなった。温かさを感じつつ苛立ちに似たものも覚える。対となる矛盾した感情。
「みんな、こんなの抱えているのか…」
初めて名前の付いた気持ち。自分は上手く付き合っていけるのだろうか。
黒いTシャツとジーンズに着替えた茜は、台所に立ってキャンバス地のキナリのエプロンを着けた。普段から手首に付けたままの赤いヘアゴムで、長い前髪をひとまとめにして額の上で適当に結ぶ。
今夜の献立は秋刀魚の塩焼きと筑前煮だ。いつも学校帰りに通る商店街の魚屋で、馴染みの店主が安くしてくれた秋刀魚を二尾、まな板の上に並べた。慣れた手つきで切り込みを入れ、手際良く内臓を取り出していく。
「ゲッ。よくできるな、そんなこと」
背後で嗅ぎ慣れた煙草の香りがした。いつの間にか側に立っていた真白は顔を歪めて、茜の頭上からまな板を覗き込んでいる。
「―誰の為だと」
今朝出掛けに、今夜は秋刀魚を食べたいと言った張本人だ。秋刀魚の内臓が苦手なのも自分ではないか。お構いなしに二尾目の腹にも切り込みを入れると、彼は大袈裟に呻きながら、目を背けるようにしてその場から離れていった。
「また縁側から入っただろ。ちゃんと靴、玄関に戻せよ」
玄関の引き戸の音に気付かないはずがない。音もなく現れた彼は、またしても開け放たれた庭側から帰ってきたのだ。いつまで経っても茜には理解のできない彼の癖の一つだ。
「ちゃんと手も洗えよ」
「オカンか」
台所から振り向きもせずに声を張る茜に、彼はスーツのネクタイを緩めながら、小さくため息を吐く。脱いだジャケットを無造作に落とすと、すかさず背後から叱るような怒号が響いた。
「シロ!」
「…ペットか」
茜に聞こえないように呟きながらも、真白は渋々とジャケットを拾い上げた。
秋刀魚の塩焼きには、大根おろしとすだちを添えた。魚用の長方形の皿と、筑前煮の入った大きい深皿、そしてご飯茶わんはどれも、週に一度通っている陶芸教室で茜が作ったものだ。今年の春から始めた陶芸にすっかり夢中になり、今では食卓に並ぶ食器の大半を占めている。手作りならではの温もりのある質感、少しいびつな形。自分で作った器に、自分で作った料理を乗せると、尚更美味しく感じるから不思議だ。毎日の料理も楽しくなってくる。
「もう秋だなぁ」
ビール片手にリクエストした秋刀魚を満足そうに頬張りながら、真白はしみじみと言う。茜はテーブルの向かいから、そんな彼を眺める。自分の作った料理を美味しそうに食べてくれる人がいるのは、やはり嬉しい。
向かいに座る彼は、高坂真白。名は体を表すと言うが、彼に限ってはそれに当てはまらないだろう。穢れのない清純な名前とは逆で肌は浅黒く、一八五センチと背が高く大柄だ。その風貌はどちらかと言うとスポーツ選手や肉体労働者のようだが、彼の職業はまるで正反対だ。
家からそう遠くない大学で教授をしている。専門は化学だ。普段は研究室に籠もりっきりで、茜にはよくわからない実験やら研究をしている。そして、週に何度かある講義の日には、嫌いなスーツを窮屈そうに着て出かけて行く。今日もまさにその日で、帰ってくるなり解放されたようにスーツを脱ぎ散らかそうとして茜に叱られた。
「…来週の三者面談、ちゃんとスーツで来いよ」
「担任、青井だろ? 気にすることねーって」
「そういう問題じゃない。俺が恥ずかしいの。と言うか社会人だろ、一応。わきまえろ」
「…最近、ますます小言が多くなったなぁ」
グラスに二杯目のビールを注ぎながら、真白は大袈裟にため息を吐いた。
茜の担任教師である青井は、真白の高校時代の同級生だ。旧知の中である彼女と面談するのに、今更かしこまる必要はないと真白は言う。校門を抜けて教室に辿り着くまでに、一体何人の目にその姿が晒されるかは頭にないようだ。
「シロがだらしないからだろ」
眉間に皺を寄せて目を細める茜を見て、真白はニッと口の端を上げた。
「そんな顔ばっかりしていたらモテないぞー? せっかくのハンサムが台無しだな」
正面の茜を箸で指してくるその手を、茜はうっとおしそうに払いのける。
「箸を向けるな、行儀悪い」
真白は尚もケラケラと笑いながら、今度はその箸の先を咥えた。
「どっちが保護者かわかんねぇな、相変わらず」
捲くりあげたシャツから伸びる逞しい腕が、茜の作った夕食に戻る。
茜が小学一年生の冬に始まった二人きりの生活も、もう十年を超えているが、真白は決して茜の親になろうとはしなかった。それは茜自身も望んでいなかったし、血のつながらない彼を、今更そんな風に思えないのも事実だった。
「シロ」
「んー?」
カブとほうれん草の味噌汁に口をつけながら、真白は視線を上げずに返事をする。
「俺、シロをオカズにして抜いた」
豪快に味噌汁が舞った。食卓に飛び散った汁の跡を、茜は何事もなかったように布巾で拭く。真白は真白で、反射的に味噌汁を噴射した以外は別段動じた様子は見せなかった。
「…そういう報告は別にいらねーけど」
「嘘はよくないってシロが言った」
子供の頃の真っ当な教えを、こんなタイミングで持ち出す。
「そういうのは嘘とは言わねーの」
「隠し事はしたくない」
「…あけすけなのも考えもんだな」
真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに育った茜を、保護者としては喜ぶべきなのか。真白は呟きながら、辛うじてカブが一つだけ残った味噌汁の残りに箸をつける。
「俺、モテるんだ」
「他の奴の前では言うなよ」
事実でも、本人が口に出せばただの嫌味にしか聞こえない。素直過ぎるのも問題だと、真白は今度こそ確信を持つ。さっきは茶化すように「モテないぞ」などと言ったが、茜が女子ウケする容姿なのは事実だ。整った顔立ち、高校生の中では高い身長。加えて学力は秀才の部類に入り、歳のわりに落ち着いて見えるらしい。少女漫画などに出てくる、いわゆる「憧れの先輩」のようなタイプ。十代の少女達からすると恰好の的だろう。
「好きって、みんな言うけど。よくわからなかった。だから、浅葱さんに訊いてみた」
茜が最近、頻繁に話題にあげるようになった同級生の名前。元々友人は多いが、特定の女生徒の話をすることは今までなかった。
「笑ってくれると嬉しい。すぐに会いたくなる。何かしてあげたくなる。独り占めしたいと思う。触れたいと思う。触れられたいと思う。それが『好き』なんだって」
一つ一つゆっくりと言葉を切る茜の眼差しは、自分自身の心と一つ一つ、正面から向かい合っているように見えた。それは簡単なようで、大人になるに連れて難しくなっていく。
「そしたら気付いた。俺がそう思うのは全部、シロだって」
茜の瞳の奥が揺らぐ。真白はビールの入ったグラスに手を添えたまま、それを見つめた。
「親でもない。親戚でもない。ただの隣人でも、友達でも、恋人でもない。シロは、俺の何だろうね。―変なんだ。シロが、そのどれでもなくて嬉しいんだ」
目を細めながら、困ったような仕草で小さく首を傾ける。
「シロはシロ。唯一無二ってことかな」
昔と変わらない、子供のように無邪気な顔で笑った。真白がやっと口に当てたグラスは、飲み干そうとしてから空であることに気が付いた。
茜の通う高校は、家から徒歩で一時間ほどの場所にある。大半の生徒が自転車で通う中、茜は毎朝ゆっくりと歩いて行くのが好きだった。良い運動にもなるし、歩いているから気付く景色、見える風景がある。―とは言っても、その大半は田園風景なのだが。
家を出て住宅地を抜け商店街も越えると、学校に近付くに連れて田んぼや木々が視界いっぱいに広がっていく。見渡す限り緑の景色の中に、いろいろな表情を見るのが好きなのだ。毎日、往復の約二時間をそんな風に過ごせることが、とても贅沢なことのように思えて気に入っている。きっと、そんなことが出来るのは今の内だけなのだろうと、薄々気付いているからだ。
―今朝は夜中から降り始めた雨の所為で、辺りは普段よりも何トーンか暗い色をしていた。ほのかに霧が立ちこんでいる。
珍しく送ってくれると言った、真白の運転する軽自動車の助手席に乗った茜は、ウィンドウの外の景色ばかりを目で追っていた。狭い道や路地の多いこの土地では軽自動車が主流だ。真っ赤な車体のこの車は、やはり見てくれを気にしない真白が値段だけで選んだものだ。
車内では今日も、真白の好きなビートルズが流れている。ダッシュボードに入っているのは昔から変わらず彼らのCDだけだ。車に乗ると否応なしに必ず耳に入るビートルズは、知らず知らずの内に茜の脳内にも染みついてしまっている。ふとした時に口ずさんでしまうのは、いつだってビートルズの曲だ。
(一種の洗脳だな…)
「いい加減、別のCDにすれば? 飽きないの?」
「今更だな。飽きるとか、そういうことじゃないんだよ」
「…じゃあ何だよ」
激しさを増す雨音と、フロントガラスをリズミカルに動くワイパーの音。そしてビートルズ。返答のない真白に焦れて、思わず彼に視線を向けた。
「――」
向けてしまった後で、まんまと罠に掛かってしまったことに気が付いた。今朝初めて目を合わせた真白は、したり顔で茜を一瞥してから前方に視線を戻した。目尻に皺を作って笑っている。
唇を噛んだ茜は、顔が熱くなるのを感じながら、そっぽを向くように再びウィンドウの向こうを眺めた。―真白のこの笑顔に茜は弱い。そして結局、答えは聞けないままだ。
「この辺でいい。止めて」
正門まで、まだ少し距離のある所で車を停めさせた。正門の前に乗りつけて降りるのは目立って仕方がない。それも、この車体の色だ。
「良い子でお勉強しろよ」
「真面目に働けよ」
重なり合った似かよった台詞に、やはり同時に苦笑いを浮かべた。
車から降りた茜はジャンプ傘を勢いよく開いて、ボルドー色のスポーツバッグを肩から下げる。その姿はすぐに真白の視界から消えた。傘に隠れた茜の顔は、もう真白の知らない茜だ。
遠くから「高坂!」と呼ぶ声が聞こえた。一人の女子生徒が茜に駆け寄ってくる。茜は彼女が隣に来るのを立ち止まって待っていた。やがて、並んで歩き出した二つの傘が同じタイミングで揺れた。真白はそれを、ハンドルに寄りかかりながら見えなくなるまで目で追っていた。いつの間にかビートルズは止んでいた。
「高坂」と呼ばれるようになって早十年。それ以前までの名前よりも、もうずっと長い付き合いだ。「高坂茜」それが自分の名前。十年前、真白が与えてくれた居場所だ。
学校に着くと、途端にそこは一種の街のように騒がしくなる。周りを田んぼ一色に囲まれた学校は、緑色の海に浮かぶ小島のようだ。
本格的に降っていた雨は午前中の内に止み、昼休みになる頃には雲の切れ目から陽が射し込んでいた。
昼休みになると、茜はいつも喧騒から逃れて屋上に行く。二棟に分かれている校舎の、大きい方の屋上ではなく人のいない狭い方の屋上だ。屋上と呼べるほど立派な所ではなく、四畳半ほどの小さなスペースと言った方が正しいだろうか。一応ドアは付いている場所だが、そもそも此処の存在を知っている生徒の方が少ないかもしれない。校舎の一番奥にあるので、外からも見えにくい場所だ。フェンスもついていないので立ち入り禁止なのだろう、普段は鍵が掛かっている。たまたま、ドアの鍵が錆びて壊れているのを知って以来、こっそりと隠れ家のように使っていた。
毎朝日課で作っている弁当を食べ終えると、いつもならゴロンと寝そべる所だが、雨上がりの地面はまだ濡れていたので断念した。代わりに、思い切り腕を伸ばして身体を広げる。雨に洗い流された空気は少しひんやりとして心地が良い。晴れ渡っていく空と澄んだ空気。そして静寂。世界に一人きりのような気分だ。
(シロさえいない、俺だけの世界…)
当たり前のことだが、茜の学校での生活を真白は知らない。毎日帰るあの家で、誰よりも長く、誰よりも近い距離にいる相手なのに。
―「そんな顔ばっかりしていたらモテないぞ? ハンサムが台無しだな」
茶化して言われた言葉を思い出す。
(…何も知らないで、よく言う)
何の根拠もなく軽口ばかり叩く、あのニヤついた顔が脳裏に浮かんで腹が立った。
学校では真白といる時のような「そんな顔」は一切しない。そもそも、したくてしているわけではない。そうさせているのは真白本人なのだ。誰だって好き好んで、眉間に皺は作らないだろう。
(今頃シロも弁当かな…)
今日の弁当には、昨晩の残りの筑前煮と甘い卵焼きを入れた。真白は、あの外見に似合わず甘党だ。
(…シロの世界もあるんだよな)
真白が学校での自分を知らないように、大学で仕事をしている彼を自分も知らない。
どんな風に学生に接するのか、どんな講義をするのか、どんな場所で茜の作った弁当を広げるのか。―家での彼を見ていると、外で人並みに仕事ができていること自体が不思議だ。
家事は満足に出来ず、ずぼらでだらしない性格。真白がそんな風だから、茜は幼心に自分がしっかりしなければと思い、今では口うるさい主婦のようになってしまったのではないかと思う。もしも自分がいなくなったら、彼は一体どうやって生きていくのだろうか。
(…でも。俺と暮らす前だって、ちゃんと生きていたんだよな)
初めて会った頃。まだ幼かった茜の記憶はうろ覚えだが、当時大学生だった真白は、茜が両親と暮らすアパートの隣の部屋で一人暮らしをしていた。
―突如、スラックスのポケットに入れていた携帯電話が震え出した。マナーモードにしていたその振動は、着信音よりもずっと心臓に悪く響く。
『飲んで帰るから遅くなる』
句読点さえない簡潔なメールは、茜の怒りを簡単に呼び起こした。
(またかよ。今月だけで何度目だ?)
真白の行きつけの居酒屋は知っている。大学と家との丁度中間辺りにある、昔ながらの小さな小料理屋だ。茜が小さい頃は、料理の苦手な真白に連れられて、そこでよく夕飯の世話になった。店の女将は素朴で温かい人柄で、割烹着の似合う白髪のお婆さんだ。茜の料理に和食が多いのは、彼女に仕込まれた為だ。包丁の持ち方や魚の捌き方までいろいろと教わった。
真白がその店で飲む相手は、大抵、商店街で八百屋を営んでいる幼馴染の男性だ。
(でも、こんな頻繁に…)
独身の真白とは違い彼は妻帯者だ。まだ小さい子供もいる。そんな彼と、こんな短い周期で何度も飲んでいるとは考えづらい。
「――…」
胸の辺りで、何かが詰まるような感じがする。いつの間にか抱えるようになっていた、この感情の名前を知らず、長い間上手く扱えずに持て余していた。
(…これじゃあ、まるで―)
自分がまるで、夫を疑う妻のようで嫌な気分になる。払いのけるように、慌てて頭を振った。
「なんかイライラしているね」
話しかけられてハッと我に返った。隣に座っていた女生徒が、茜の顔を覗き込んでいる。
「…何でわかる?」
浅葱はキョトンとした顔をすると、すぐに可笑しそうに吹き出した。そして茜の手元を指差す。
そこには先程まで綺麗な形を保って回っていたはずの土が、無残な姿に成り果てて回転を止めていた。泥だらけの両手は、いつの間にか空中を彷徨っていた。
「ろくろ回しって、精神状態が影響するよね」
穏やかな口調で言った彼女の前には、すでにろくろから切り離され、美しく成形された湯のみが置かれている。少し丸みを帯びていて、女性的でかわいらしい。
二学期に転校してきたばかりの彼女とは、夏休みにこの陶芸教室で知り合った。長期休みに入ってすぐ越して来た彼女は、初めての土地で早く友達を作る為に、キッカケとしてこの教室に入ったと言っていた。「夏休み中、ずっと一人なんて耐えられない」と、友人を作るべく、最初に見かけた同じ年頃の茜に声を掛けてきたのだ。おかげで夏休みの間は、彼女にとってこの地で唯一の友人兼案内係として一緒に過ごすことが多かった。陶芸自体は数年前から始めていた浅葱は、陶芸に関しては茜の先輩だ。
新学期が始まってまだ間もないが、人好きするような素朴な美人で、尚且つ人当たりも良い彼女は、すぐに学校に溶け込んだ。儚げな外見とは裏腹に、ざっくばらんとした性格も受けが良い。ふんわりとした女性的な雰囲気と竹を割ったような性格は、正反対のようでいて上手く融合している。
「何かあった? また告白された?」
「…いや」
彼女には夏休み明け早々に、校内で告白されている現場を見られたことがあった。告白の呼び出し場所として定着している、校舎の裏手の桜の木の下。隣のクラスの女子生徒に呼び出された茜は、いつものように淡々と断ると、たまになるようにしつこく迫られた。「好きな人いないなら、試しにわたしと付き合ってみようよ」と言うのは、割と常套句らしい。長引いた「お断り」をなんとか終えて、大きくため息を吐いた所で声を掛けられた。
―「お試しで付き合ってもらって、嬉しいのかな?」
―「…『せめて』って、思うのかも」
茜の返答が予想外だったようで、浅葱は茜の顔をまじまじと見つめてきた。告白の一部始終を見ていたらしい彼女もまた、同じ目的で呼び出されたところだった。それ以来、変な共感の生まれた二人は、他の友人とは違った良い話し相手になったのだ。
「今日の夕飯一人だから。どうしようかと思って」
本当のことだったが、苛立っていた理由としては弱い説明だ。けれど、彼女はそれ以上追及しようとはせず、「ふーん」と相槌を打っただけだった。
「それなら、隣のお蕎麦屋さんで冷やし中華食べて帰らない? 夏季限定だから、これが今年最後になるかも」
ひとつ、またひとつと、確実に夏が終わっていく。
真夜中の静寂の中で、玄関の引き戸が開く音が響いた。古いこの家の戸は、静かに開けようとしても音が立ってしまう。それが静まり返った夜中なら一層目立つ。
(…帰ってきた。やっと…)
二階の自室のベッドで横になっていた茜は、目を閉じたまま耳を澄ました。
早々に布団に入ったのに、一向に寝付けないでいた。階下から、真白の行動が音となって鮮明に伝わってくる。―戸を閉めて鍵を掛ける。散らかすように靴を脱いで台所に向かう。そして、微かに蛇口をひねる音が聴こえた。浄水をグラスに注いでいるのだろう。
(…降りて行こうか)
茜が促さないと、真白はきっと面倒臭がって二階の自室には上がらず、そのまま居間の和室で寝てしまう。
(今日はスーツじゃなかったけど…)
堅苦しい恰好を嫌う真白は、講義のない日はいつも、研究室に籠もるだけだからとラフな格好で大学へ行く。今朝もいつもと同じ、着古して首元が少しよれた黒いTシャツに、学生時代から穿いていて年季の入った褪せたジーンズ姿だったはずだ。それに加えて、まだ残暑の残る今は、足元は素足にサンダルだ。
(教授の格好かよ…)
茜がうるさく言わないと、無精ひげを生やしたまま出掛けることもある。身なりに無頓着な彼は、傍から見たら教授と言うより浪人生のようだろう。それも、だいぶ歳を取った。
(スーツじゃないから、皺になる心配はないけど…)
一人で勝手に抱えている苛立ちが邪魔をして、なかなかベッドから起き上がることができない。
畳の上で寝たら、朝にはきっと身体中が痛くなっているはずだ。まだ暑い日が続いているとはいえ、九月に入って朝晩はだいぶ涼しくなっている。
(…もう若くないし)
出会った頃は二十代前半だった彼も、月日の分だけ歳を取った。
閉じていた瞼を開くと、暗闇の中で見慣れた天井の木目が目に入った。
―この部屋で迎えた最初の夜、暗闇に薄っすらと浮かぶその木目が何かの目玉のように見えて、怖くて堪らなかったことを思い出す。けれど「怖い」と口に出して言えなくて、ただ黙ってそっと、真白の布団に潜り込んだ。今と変わらない煙草の香りがする布団の中で、大きな温かい手に頭を撫でられた。
あの時、声を殺して泣いていた茜に、真白は気付いていたのだろうか。茜が泣いたのは決して、悲しいからではなかったことを、真白は理解していただろうか。
「そんな所で寝るな。風邪引くぞ」
居間に降りていくと、案の定彼はひんやりと冷えた畳の上に寝転がっていた。肩を揺すっても一向に目を覚まさない。座布団を枕代わりにしながら、気持ち良さそうに寝息を立てている。
(人の気も知らないで…)
ため息を吐いて側に座り込むと、投げ出されている手のひらに自分の手を重ねてみた。あの頃から変わらない大きな手。変わらない温もり、そして煙草の匂い。
安心するその香りに吸い込まれるように、近付いた茜の顔が真白の顔に影を作った。長い前髪が真白の額にかかった時、微かに鼻をついた甘い香りに身体が固まった。
「――」
苦い煙草の匂いに混じる、茜にも憶えのある柑橘系の香水の香り。
金縛りのように動けなくなっていると、突然真白の瞼が開いた。彼の黒い瞳に自分の姿が映る。―酔いから醒めていないのか、寝惚けているのか。彼に被さるようにして、真上から睨む茜をただジッと見つめている。
「…酒くさ」
呟くと、真白の口元が小さく緩んだ気がした。そして、おもむろに伸びてきた大きな手が、茜の小さな頭を抱き込んだ。嫌がらせのつもりなのか、腰に回された腕が茜の身体をガッチリと拘束している。
「離せ、酔っ払い…」
濃くなったアルコール臭と煙草の匂い。熱い体温が肌に纏わりついて、いつの間にか香水の香りは隠れてしまった。
「……ああ、酔ってる…」
掠れた低い声が耳元で囁いた。それは湿った吐息となって、茜の耳をじんわりと刺激する。たったそれだけで、情けないほど簡単に疼いてしまった茜の身体に気付いたのか、真白は尚も耳元をくすぐるように笑った。
「んっ―…」
思わず鼻を抜けるような甘い息が漏れた瞬間、熱を帯びた茜の身体は、息苦しいほど強く抱きしめられた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。翌朝、雨の音で目が覚めた時には茜は自分のベッドの中にいた。
(…何が酔ってる、だよ)
真白に抱きしめられながら眠りに落ちてしまった茜を、あの後二階まで運んだのは真白だ。彼は今でも、昔のように軽々と茜を抱きかかえる。茜が細身な所為もあるだろうが、同じ男としてはやはり悔しい。
(一日、雨かな…)
最近は雨ばかりで気が滅入る。ベッドから起きてカーテンを開けると、激しい雨が地面を打ちつけているのが目に入った。
今日は土曜日で学校は休みだ。茜はホッと胸を撫で下ろす。昨日は、たまたま講義の入っていなかった真白が車で送ってくれて助かったが、こんな雨の日は学校までの道のりが、ちょっとした冒険の旅になるのだ。何度も池のように大きな水たまりに阻まれ、田んぼの周りの畦道はひどくぬかるんで、とても普段通りに歩ける状態ではなくなる。
(…休日出勤。珍しい…)
居間に下りていくと、真白の姿の代わりにテーブルの上にメモが置かれていた。広告の裏に癖のある字で「研究室に行く 夕方には帰る」とだけ書かれていた。メール同様、味も素っ気もない。
冷蔵庫を開けて中身を確かめた。こんな天気では買い物に出掛ける気にならない。何とか、今ある食材で夕食まで持たせようと考えたのだ。卵のパックと、辛うじて賞味期限内の挽き肉が目に留まる。
(卵全部使って出汁巻き玉子と、つくねでも作るか…)
今の時期に降る雨は、一度降り出したら長く続く。小さい頃はその所為で、何日も外に出て遊ぶことができなくて憂鬱だった。
この土地にやってきた頃は全ての景色が新鮮で、夏休みに田舎に遊びに来た少年のようにはしゃいだ。よく真白と二人、山や森に出掛けては「探検」をしたものだ。ここで育った真白は真白で、子供時代を懐かしんでいるようだった。もしかしたら、子供だった茜よりも「探検」を楽しんでいたのかもしれない。
神社の裏手の森にある大きな湖。二人で行く約束をしていた日は土砂降りで、茜はめいいっぱい真白に不満をぶつけた。
―「耐えた分だけ喜びもでかいぞ」
真白の言ったことは本当だった。
雨上がりの湖は空気が澄み、晴れ渡った真っ青な空を映す湖面は鏡のようで、視界いっぱいにキラキラと輝くその光景は、この世のものとは思えないほどに美しかった。両親のいる天国はこんな場所なのかなと、子供心に思ったりもした。
―「ほらな。俺は嘘つかないだろ」
湖の真ん中に浮かべたボートの上で、憎たらしいほど嬉しそうに笑った真白の顔は忘れない。湖のほとりには大きなオレンジの木があり、その実は雨の残した雫で艶めいていて、宝石のように綺麗だった。そして、その下でおにぎりを食べた。いびつな形の大きなおにぎり。
(しょっぱかったな、あのおにぎり…)
結局、真白の料理の腕は一向に上がらなかった。茜が料理を覚えるまでの数年間の食生活は悲惨だったなと、思い返す度に口の中にしょっぱさが甦る。―それでも、彼は彼なりに不器用ながら頑張ってくれてはいたのだが。
(そうだ。いつか自分が大きくなったら、マシュマロパイを焼こうと思っていたんだっけ…)
真白は乾き始めていた木のベンチに寝転がりながら、気持ち良さそうに歌を口ずさんでいた。お気に入りのビートルズ。その時は、なぜ今その歌なのかわからなかったが、英語の歌詞の意味を理解できる年齢になった時、茜はようやく謎が解けたのだ。
そして思った。今度二人で来る時、マシュマロパイを持って行ったら、真白はきっと喜ぶに違いない。甘党の彼なら尚更だ。
夕方になって弱まりはしたものの、未だ降り続く雨音をBGMに夕食の準備を始めていると、玄関の呼び鈴が鳴った。戸を開けると、そこにいたのはレインコート姿の浅葱だった。手に持っているサーモン色の傘からは大量の水滴が滴っている。
「突然ごめん。良かった、いてくれて。―何、その髪。可愛いね」
いつものように額の上で前髪を結んでいた茜は、言われて咄嗟に額に手を当てた。
彼女が笑いながら差し出したのは、こげ茶色の長財布だった。それを見た途端、「あ」と声に出すと、今になって財布を失くしていたことに気が付いた。
「蕎麦屋さんに忘れてあったって。お店の人が教室に預けてくれていたの」
昨晩、陶芸教室の帰りに彼女と寄った蕎麦屋。浅葱は茜よりも頻繁に教室に通っている。今日もその帰りで、わざわざ届けてくれたのだ。月曜日に学校で渡すのでは遅いと気を利かせてくれたのだろう。ただでさえ財布は大事な物なのに、ましてや茜は家計を握っている。
「ありがとう、本当助かった。ちょっと休んで行くか?」
陶芸教室のある場所から茜の家までは、浅葱の家とは全く方向が違う。この雨の中、遠回りをしてまで届けてくれた彼女には本当に感謝だ。
居間の和室に通すと、浅葱は物珍しそうにキョロキョロと周りを見回した。部屋に掛けられた振り子時計、和室から続く縁側、庭の物干し竿、その向こうのブロック塀。
「素敵な家だね。畳の良い匂い…」
「古いだけの家だよ」
クンクンと鼻を鳴らす浅葱に笑いながら、茜は麦茶の入ったボトルとグラスを持って現れた。東京でマンション暮らしだった彼女には、どれも新鮮に映るのだろう。こちらに越して来てからも、この辺りでは珍しい高層マンションに住んでいる。
浅葱は玄関先で借りたタオルで丁寧にバッグを拭きながら、座布団の上に落ち着いた。
「今一人? ワンコは?」
「休日出勤。もうすぐ帰ると思うけど」
「そっか、残念。会ってみたかったんだけどな」
いつも茜の口から「シロ」とだけ聞いていた彼女は、最近まで本当にペットのことだと思っていたらしい。その正体がもう良い歳をした大人の男だと知っても、彼女は「ワンコ」と言い続けた。どうやら相手が人間と知って尚更、その呼び名が気に入ったようだ。
「昨日のイライラは解決?」
「…昨日だけに限ったことじゃないからな」
「持て余しているみたいだね。初めての感情」
浅葱は嬉しそうに目を細めた。「嫉妬」「独占欲」「ヤキモチ」と、一つずつ並べるように言いながら、人差し指を立てていく。
「ようこそ。切なくて痛く、そして美しく幸せな世界へ――」
浅葱は大袈裟な振りを付けて、恭しく歓迎のポーズをとる。右手を胸の前に合わせてお辞儀をした。そして催促するような上目遣いで茜を見つめた。茜は表情を変えずに無言で彼女を見据えたけれど、浅葱は茜が話し出すまで、その視線を止めなかった。
真白の身体に染み付いていた香水の香りは、教室では微かに香る程度だ。本来なら不快になど感じず、むしろ心地良くさえあった。
(青井先生と飲むようになったの、最近だよな…)
茜の担任教師と真白が高校の同級生だと知ったのは、彼女が茜の担任になった今年の春のこと。それまでは二人で飲むことなどなかったはずだ。そもそも、真白が外で飲み歩くようになったのは、ここ数年のことだ。それは多分、茜の成長と関係がある。
青井は長身の美人で「カッコイイ女」といった風貌だ。男性からよりも女の子にばかりモテると、冗談めかして言っているのを聞いたことがある。真相はわからないが、納得してしまうほど佇まいは凛々しく、性格も男勝りで清々しい。加えて酒豪らしい彼女が、真白と意気投合するのは必然だっただろう。
(…俺がキッカケで再会。そして距離が縮まる、とか…)
自分はキューピッドかそれともピエロか。どちらにしても最悪なことに変わりはない。
―例え解決方法の見つからない話でも、言葉にして口に出すと、気持ちが少し軽くなるような気がする。麦茶を二杯飲み干したところで、浅葱は満足そうに「そろそろ帰る」と言って立ち上がった。雨も止んでいるようだ。
空になったグラスを台所に下げながら「送る」と申し出る茜を、彼女は足元を見回しながら制止する。そして、座布団の横に置きっぱなしにしていた携帯電話を拾い上げた。
「――ねえ」
茜が居間に戻ると、唐突に浅葱の腕が伸びてきた。おもむろにTシャツの胸元を掴まれて、彼女の方へと引き寄せられる。茜は強制的に屈むような体制になって、至近距離で彼女と顔を突き合わせた。
「―何」
目をパチクリと瞬く茜をよそに、彼女はニッコリと微笑んで茜の肩にそっと両手を添えた。
「動かないでね」
浅葱は小さく囁くと、ゆっくりと背伸びをして茜の顔へと近付いた。二人の唇が、数センチの距離に迫る。
(あれ。このままだと…)
「おい」
冷淡な響きの低い声が浅葱の動きを止めた。茜は反射的に縁側の方に視線を向ける。
「悪いけど、イチャつくなら他でやってくんない?」
突如、庭先から割り込んできた男の姿に、浅葱は別段驚いた様子は見せなかった。いつの間にか茜に触れていた手は放れていて、何事もなかったかのように、普段通りの愛想の良さで真白に挨拶をしている。
(…イチャつく…?)
傍から見ればそう映るだろう。寄り添って顔を近付ける男女の姿。
―縁側から聞こえたライターの音で茜は我に返った。すでに浅葱の姿はない。玄関のドアが引かれる音が辛うじて耳に届いた。
「悪かったな。邪魔したか」
縁側に座って煙草に火をつけながら、真白は淡々と言った。
「…何だ、それ」
その素振りに、言葉に、一方通行の苛立ちが込み上げてくる。茜が誰と何をしようと、真白は全く気にしていないということか。
「腹減ったな。夕飯、何?」
(―それで終わりかよ)
鼻にこびり付いている昨晩の香水の香りが、やり場のない苛立ちを更に煽ってくる。
「送ってくる。勝手に食ってろ」
浅葱の後を追って茜が出て行くと、一人残った真白は火をつけたばかりの煙草を灰皿の中で揉み消した。
一時間ほどして戻ると、真白は縁側で、立てた片膝に肘を付けて小さく寝息をたてていた。傍には灰皿が置かれ、いくつかの吸い殻と長いままの煙草が一本乗っている。
(…さっきと同じまま)
空腹だと言っていたが、茜が戻るまで待っていたのだろうか。夕食の準備は途中だったとはいえ、腹の足しになるおかずはあったはずだ。台所に目を向けると、どれもが手付かずで残されている。―すると、うたた寝を続ける真白の腹がタイミング良く鳴り出した。思いのほか可愛らしいその音に、茜は思わず吹き出してしまった。
(…こんなだから、気が抜けるんだ)
茜が幾ら腹を立てても、まるで緊張感のない真白の姿が、いとも簡単に茜の心を緩めてしまう。その為、いくら喧嘩をしても無視を決め込んでも、いつの間にか毎回、締まりの悪い形で終焉を迎えているのだ。
(…まあ、俺達らしいけど…)
ふと、頭上で涼しげな音色を奏でている風鈴に気が付いた。
無意識に伸ばした手が、紐の先の短冊にすら触ることが出来なくて少なからずショックを受けた。決して低くはない身長は、この夏の間にも成長期の後押しで人並みに伸びていたので、「もしかしたら」と淡い期待を持ってしまったのだ。
茜の心中など全く無視するように、風鈴に描かれた金魚達は素知らぬ顔で泳ぎ続けている。風音と同様に涼しげに、気持ち良さそうに。縁側の屋根の先に吊るされた風鈴は、雨上がりの広い星空の中に浮かび上がって悠々と戯れている。
恨めしそうな目でそれを見つめながら、夏の始めにそうしたように踏み台を持ってこようと諦めると、突如背後から伸びてきた太い腕が、いとも簡単に風鈴を捕らえるのが視界に入った。
「頼ればいいのに」
「含み笑いやめろ。寝てたクセに」
いつの間にか目を覚ましていた真白は、こっそりと一部始終を見ていたのだろう。可笑しそうに顔を緩めながら、軒下からすんなりと外してみせた風鈴を、悔しそうに唇を結んでいる茜に手渡した。
「まだまだ伸び盛りだし」
「俺には到底及ばねーよ」
悔しまぎれに言った台詞は、風鈴同様いとも容易く捕らえられてしまう。
「今年の夏も終わりだな。また来年――」
両手に収まったその風鈴は、小さな赤い金魚と大きな黒い金魚が描かれている。茜が中学生の時、学校の課外学習で行った『風鈴の絵付け体験教室』で描いたものだ。狭い金魚鉢の中で、寄り添って泳ぐ二匹の金魚。
「―重いんだけど」
再び縁側に腰を下ろして紫煙を燻らせる真白に、茜は背中合わせに寄りかかりながら、頭上に掲げた風鈴を眺めた。時折柔らかい風が通り過ぎると、過ぎた季節を名残惜しむように、微かに夏の音を奏でている。
「今年も、無事泳ぎ終えた」
大きな背中から温もりが伝わってくる。「いつまで二人で泳げるかな」―言いかけた口を、音もなく閉じると風鈴と一緒に箱にしまい込んだ。
代わりに、寄りかかっていた背中に覆いかぶさった。おんぶを強請る子供のように、真白の首に腕を巻き付ける。
「…じゃれてないで、さっさと夕飯作れよ」
「キスしたい」
「…また直球かよ」
半ば呆れたように口元を緩めて、真白は煙草の灰を灰皿に落とした。真っ直ぐに来られてしまっては、誤魔化すことも茶化すことも出来ない。
首に巻き付いていた腕が、さするように真白の肌の上を動いて正面に回る。そして茜は、引き寄せるように腕に力を込めた。それでも待てないかのように、自ら身体を伸ばして真白の唇を欲した。
「―なんで逃げるの? こんなの、ただのキスだ」
真白の太い腕に、茜の細腕は簡単に捕らえられた。圧倒的な力で動きを封じられる。
「…ただの、じゃないだろ。俺とお前じゃ―」
先ほど未遂に終わった浅葱と茜の姿が二人の脳裏によみがえる。
「じゃあ何だよ? ガキだから? 男だから? 高坂だから?」
珍しく捲し立てるような茜の声に、真白は言葉を呑み込んだ。
「…こんなの、女の子みたいで嫌だけど」
他の誰かとなら簡単に出来てしまうことが、なぜ真白とだと途端に難しくなってしまうのか。
(叶わない想いなら、せめて―…)
「初めてはシロがいい、とか…」
自分で自分が可笑しくなる。どこの乙女だよと情けなくもなる。最近の女子高生達よりもずっと女々しいだろうな、と自虐的に失笑した。
―諦めたように音もなく息を吐くと、茜は伏せていた顔を上げた。
そっと手を伸ばして、真白の口から煙草を奪い取った。それを自分の口元に持ってくると、小さく唇を開いて咥える。桃色の舌がチロリと覗く。真白を見つめながら静かに息を吸う。そして長い睫毛の下で、忍びやかな仕草で目を閉じた。
「―シロの味」
味わうようにゆっくりと吐き出した煙の下で、茜が小さく掠れた声で呟いた途端、指先でつまむように持っていた煙草をひったくるように取り返された。
それがそのまま、灰皿に落ちていくのが視界の端に映った瞬間、茜は大きな指先に顎を掴まれていた。
「っん――」
苦しいと感じるまで、何が起こったのかわからなかった。
慰めのように吸った煙草の味とは、まるで比べ物にならない程の濃い苦み。
肉厚の舌が強引に口腔に押し入り、その味を教え込もうとするかのようにねっとりと蠢いている。クチュッ、クチュッ、と淫猥な水音がやけに生々しく耳に響いた。上顎を這っていた熱い舌が、奥で縮こまっていた小さな舌を絡めとる。
「ん、んぅ―…」
酸素を欲して、喘ぐような鼻にかかった息遣いが甘く溶ける。自分の声とは思えない艶っぽい響きが茜を辱めた。頭に血が上り視界が霞んでいく。
息苦しいのに、茜は尚も求めるように必死に真白にしがみ付いた。もっと、もっと、と縋りつくように――。
―やがて、太い指先が茜の目元を優しく拭った。その指はそのまま口元に下り、濡れた唇にそっと触れる。茜は熱に浮かされたような頭でぼんやりと、真白にされるままに任せていた。
「……初心者なんだから、手加減しろよ…」
熱く弾んだ息の下、焦点の定まらない虚ろな瞳で茜が呟く。真白は一瞬指の動きを止めると、途端に笑い出した。目尻に皺を寄せて、肩を揺らしながら笑っている。
「どっちにしろ、文句かよ?」
(…ああ、やっぱり…)
温かい何かと、締め付けられるような痛みが全身を覆う。
(―…大好きだ…)
唇がジンジンと痺れている感覚。生暖かい涙が零れ落ちて、そっとそこに触れた。
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