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第2話

 「ちょっとその辺まで」のつもりで、茜は散歩に出掛けた。夜中の内に再び降り出した雨が今も続いていたが、一日中家でジッとしていることが出来なかったのだ。  モヤモヤと全身に纏わりついているのは、初めてのキスの余韻と満たされた幸福感。そしてそのすぐ後に襲ってきた、恐怖にも似た空虚感。 「…学校じゃん」 傘に隠れていた視界を広げると、傘の先端を伝う雨粒の向こうに見慣れた校舎がそびえていた。無意識にも程がある。近所をぶらつくつもりで家を出たのに、小降りとはいえ、雨の中を一時間もかけて学校まで来てしまっていた。それも、辿り着いてから気が付くとは。 (…重症だな) 自分の出で立ちを見返してみた。腕まくりをした杢グレーのパーカー、濃紺のジーンズの裾をブーツインした足元。ボルドー色のレースアップタイプのレインブーツを履いている。私服で学校に来ることは滅多にない。 「高坂先輩! こんにちは!」 視界を前方に戻すと、数人の生徒達が校門から出てくるところだった。部活の練習帰りのようだ。一年生らしい三人連れの女生徒達に嬉しそうに声を掛けられて、茜は少し困ったように挨拶を返した。休日の、それも私服で学校にいるのは場違いな気がして落ち着かない。 「ゴメン、今何時かわかる?」 たった今挨拶を交わしてすれ違った女生徒達を、引き留めるように訊ねた。こんなに遠出をするつもりではなかった茜は、腕時計はおろか携帯電話さえ持っていない。 「え、はい! もうすぐ一時になるところです!」 「…先輩、学校に何か用事ですか?」 時間もわからない、私服姿の茜を見て不思議に思うのは当然だ。 「…いや、散歩していたらいつの間にか…」 恥ずかしく思いながらも、正直に呟きながら礼を言って校舎に向かう。傘で隔たれた背後では、何やら色めき立っている彼女達の声が聞こえた。「可愛いー!」だとか「私服姿カッコいいー!」だとかが耳に届いて、何だか居た堪れない。  ジーンズの尻ポケットに手を当てた。辛うじて小銭入れは持ってきていたようだ。茶色のレザーにステッチの施されたコインケース。筆記体で書かれたブランドのロゴが入っているだけのシンプルなデザイン。何年か前の誕生日に真白がプレゼントしてくれた物だ。 (…センスとか全く無縁のクセに) 彼にしては珍しく洒落た贈り物だった。例年通り全く期待などしていなかった茜を、まんまと驚かせたのは言うまでもない。茜の喜ぶ顔を見て、自慢げに綻んだ真白の顔は今でも鮮明に浮かぶ。その後、真白のセンスではないことを追及した茜に、大学の学生達に相談したことを白状した時の、少し悔しそうに膨れた顔も―。 だいぶ使い込んで手に馴染んできた革を眺めながら、校内にある公衆電話に向かう。コインケースの中には緊急用に常に入れている五百円玉と十円玉が数枚入っていた。 (自分で何か食べているかな…) 真白は昨夜遅くまで、自室で仕事をしていたようだった。そんな日の翌朝は、午前中いっぱい寝ていることが多い。そろそろ腹を空かせて起きてくる時間だ。 (昨日の夕飯の残りが冷蔵庫にあったはず…) 茜の方は、胸の高鳴りが一向に収まらなくて眠れなかった。それこそ「恋する乙女」のように。 ベッドの中で何度も唇に触れてみては、その度に熱く痺れる感覚が甦った。身体は疼きっぱなしで、最初はやり過ごそうと耐えてみたものの、若い欲望の前には無駄な抵抗だった。  ほんの数時間前に、想像ではなく触れた真白の厚い舌を、苦い味を、太い指先を、生々しく思い出しながらの自慰は、今までで一番感じてしまって、一番早く達し、一番苦しかった。 (公衆電話とか。久々だな…) 変なところに懐かしさを憶えてしまう。職員玄関の端にポツリと、心なしか寂し気に佇む黄緑色の公衆電話。自宅の番号を直にダイヤルするのはどれくらいぶりだろうか。指先がちゃんと番号を憶えていることに我ながら感心する。 「―シロ。俺」 少しの呼び出し音の後に、ぶっきらぼうな真白の声が聞こえた。相手が茜だとわかると、空腹で苛立っている所為か、いつにも増して捲し立てるように責め始めた。 『携帯置いて出掛けるな』 「散歩だったから」 『なら、さっさと帰って来い。腹減った』 「スグは無理。距離的に」 『どこまで行ってるんだ』 「…学校」 受話器の向こうの低い声がパタリと止む。沈黙がしばらく続いた後、再び聞こえた真白の声は気が抜けたような響きだった。 『……お前、バカなのか?』 言い返せない自分が悔しい。その台詞は無視することに決める。 「冷蔵庫に昨日のおかずの残りがあるから、温めて食べてろ。それくらい自分で出来るだろ」 『ヤダ。面倒』 受話器を持つ手に力が籠もる。我儘な子供のような態度に、わなわなと怒りが込み上げる。このまま勢いに任せて電話を切ってしまおうか。 『迎えに行くから、待ってろ』 実行に移そうとした瞬間、予想外に優しい声が引き留めた。 「いい。歩いて帰りたい」 淡々と真白の申し出を無下にする。次に来る罵声は簡単に予想が出来たので、茜は今度こそ、そそくさと受話器を置いた。切ってしまえばこっちのもの。公衆電話の良い所を発見した気分だ。 (…車の中で二人きりとか) 今の自分には、あまりにも高すぎるハードルだ。 「あれ? 高坂?」 今度は、女性にしては低めの声に呼ばれた。青井は両手に積み上がった冊子の棟の横から、小さな顔を覗かせている。 「何してんの? そんな恰好で」 「…ちょっと、散歩していて」 茜は彼女の側まで駆けて行って、彼女が両手に抱えていた冊子の大半を代わりに持った。事情を聞いた青井は、案の定、容赦なく大きな声で笑い出す。 「しっかりしているようで、どこか抜けてるよね、アンタ」 「……」 またしても言い返すことの出来ない茜は、彼女を手伝って教室までの道のりを歩き出した。抱えていた冊子は、明朝のホームルームで生徒達に配る資料だと言って隣を歩く彼女は、いつもと同じ甘い香りを纏っている。 「悪いね。散歩ついでに手伝ってもらって」 「…いえ」 これでは休みの日にわざわざ、一時間もかけて彼女の手伝いに来たようなものだ。柑橘系の香水の香りが胸に詰まる。あまりに滑稽で、もはや自分でも可笑しくなってしまう。 「そう言えば、明日三者面談だよね。高坂、ちゃんとスーツで来させてね」 「―はい」 青井にとっては茜も真白も『高坂』―。一瞬、どちらのことか分らなかったが、それはたいした問題ではない。 (…どのスーツにしようか) 気分転換だったはずの散歩は、痛みを増幅させただけだった。  「せめて」と懇願してしまうのは、一方通行の想いには必然のことのように思う。そして欲が募るのは人の性で、際限なく込み上げてくるのは「もっと」だ。  週明けの月曜日。連日、天気予報で言っていた台風は、今日の午後から夜にかけて最も接近するらしい。その為、午後に予定されていた三者面談は急遽延期になった。 (そういえば、昨日の夕陽は強烈な赤だったな…) 茜は頬杖を付いて、窓越しに空を眺めながらぼんやりと思った。 墨で塗ったような空が、速い動きで形を変えている。三者面談が延期になって、ホッとしていた。今の状態で真白と青井が二人でいるところに居合わせるのは、耐えられそうになかった。  昨日、青井を手伝った後、「お茶でも飲んでく?」と職員室に誘ってくれた彼女を断って帰路についた。 家に帰ると案の定、一方的に電話を切ったことを真白に責められた。長々と続く文句を浴びながら彼の昼食を用意してから、今度は長財布を持ってそそくさと再び家を出た。図書館で時間を潰し、夕食の買い出しを終えた頃には雨は止んでいて、墨のように真っ黒な雲が幾つか残った空を、燃えるような色の夕焼けが包んでいた。 綺麗だというよりは、怖いと感じてしまうほど濃い光景だった。 「せっかく言われた通り、スーツでキメてきたのになぁ」 「偉いじゃん。キマっているかは別として」 教室内には茜以外の生徒はすでにいない。午前の授業が終わると、昼休みも取らないままに休校となったのだ。 教室に現れた真白は、今朝茜が用意しておいたスーツ一式をキチンと着ていた。 さりげなくストライプの入った黒いスーツに、去年の真白の誕生日に茜が贈った、ボルドー色の細身のネクタイ。茜がもらったコインケースと同じブランドの物だ。 第二ボタンまで外しているシャツと少し緩んでいるネクタイは、「まあ、許容範囲か」と目を瞑ってやることにした。 「茜―。ヤバくならない内に帰るぞ」 教室の入り口のドアに寄り掛かりながら、真白は茜越しに窓の外を眺める。降り出した雨が風に煽られて、窓ガラスにいくつもの筋を作り始めていた。 「俺、高校卒業したら出て行こうと思う」 帰り支度を終わらせると、スポーツバッグのファスナーを勢いよく走らせた。そして、例によって何の前振りもなく「東京の大学を受ける」と宣言した。 「…お前は本当、いつも突然だな」 もう慣れたように呆れた息を吐きながら、真白は後ろ手に引き戸を閉めた。 「―お前の本当に行きたい大学が東京にあるなら、俺は止めねーよ。けど、此処を出て行く理由が『俺』だけなら、賛成はできない」 何もかも見透かしたような真白の台詞に、普段の軽さは微塵もなかった。それが余計に、茜の感情を逆撫でする。 「…今更、保護者ぶるのか」 「俺はお前の保護者で。大人で、男だ」 茜の側で立ち止まった真白の言葉は、狙ったように的確に茜を突き刺した。 「シロが中途半端に優しいからだろ!」 声を荒げながら立ち上がると、大きな音を立てて椅子が倒れた。 「シロがキスしてくれて。俺がせがんだからだって、ちゃんとわかってる。―なのに、もっと触れたいって欲が生まれるんだ。止まらないんだ。どうしようもないんだ。その上、青井先生にまで嫉妬して。嫌な感情ばかりが溢れてくる―…」 泣き出しそうに顔を歪めて本心を曝け出した。こんな自分は知らないと、醜い感情の扱い方がわからないのだ。 「―それで思った。こんな気持ちを抱えたまま、シロと一緒にいたらいけないんだって」 物理的に離れたところで、この感情が収まるとは思えないけれど、少なくとも今より症状が悪化することはないだろう。何より真白の為には最善だと考えた。 (―だって…) 「オカズにされて気持ち悪いって言えよ。キスせがまれてウザイって言えよ。引き取ってやった恩を、こんな形で返すのかって――」 空気を刺すような音が耳を突いた。次の瞬間、熱を帯びた左頬がひどく痛んだ。  ―それがいつから始まった習慣だったのかは、幼すぎた茜は憶えていない。気が付いた時には、週に一度の夕方の数時間を、アパートの隣の部屋でそこに住む大学生と一緒に過ごしていた。母親が週に一度だけパートに出ていたからだ。毎週、真白と遊べるその時間を心待ちにしていたことは憶えている。駅前のケーキ屋で働いていた母と、ごく普通の会社員をしていた父は、その曜日は帰宅時間が一緒で、いつも二人揃って真白の部屋へ茜を迎えに来た。母は毎回、甘党の真白へお礼のケーキを持って。―あの日までは。 ―「遅いな、迎え」 時計を見上げた真白は、普段よりも一層低い声だった気がする。その視線が窓の方へと移動して、茜もつられるようにして窓の外を見た。窓の向こうは真っ暗で、激しく打ち付ける雨の音に、その時になって初めて気付いたのだ。 「…なんで今、思い出すんだ…」 自然と足が向かったのは、自分だけの隠れ場所だった。人気のない小さな屋上。 茜は気持ちばかり張り出した屋根の下で、形だけは雨を凌いでいた。風に吹かれた雨粒は舞い踊って、茜の顔も体も容赦なく濡らしている。  頬の痛みはとっくに収まっていた。昔一度だけ、同じように頬を叩かれたことを思い返す。あれは茜が、自分を卑下した言葉を口にした時だった。 (近所の人の会話を、たまたま聞いたんだっけ…) 二十代前半の若さで子供を引き取った真白を、可哀想だとか大変だろうとか噂していたのだ。丁度、何もわからない子供だった茜が、徐々に世間の仕組みを理解してきていた時期だった。 独身の若い男が、血のつながりもない赤の他人の子供を引き取ることが、並大抵の苦労ではなかったこと。親子ほど歳が離れているわけでもない、似ても似つかない顔立ちの二人が、周りから好奇な目で見られていること。真白が未だに独身でいる理由――。 ―「俺がいなければ楽だったのにね」 そう笑った茜を真白は叩いた。ヒリヒリと痛んだ頬に、流れた涙が熱く沁みたのを憶えている。そして優しく抱きしめてくれた、真白の温もりと今も変わらない煙草の香りも―。 「…もう、あんな風に抱きしめてはくれないかもな…」 長い雨は弱まることなく、予報通り日が暮れるに連れて激しさを増していく。 茜の心境と反対に、周辺の田んぼからは蛙の嬉々とした鳴き声が聴こえる。輪唱のようにかけ合う鳴き声は、「かえるのうた」そのままだな、とぼんやり思った。濡れたスラックスの裾はすっかり色が濃くなり、足元を冷やしている。 (商店街も、もう閉まるだろうな。夕飯どうするか…) 今夜は商店街の八百屋で野菜をたくさん買って、シーザーサラダと、野菜たっぷりのトマトソースを作ってパスタにしようと考えていた。今朝卵も使い切ってしまい、冷蔵庫の中にはもう、たいしたものは残っていないはずだ。 (この期に及んで夕飯の心配とか…。主婦かよ) 所帯じみている自分に嫌気が差していると、もう何度目かも忘れた着信音が鳴った。 携帯電話の画面を確かめる度「シロ」と表示されていることに、いちいち安堵する。そんな自分が更に情けない。「家を出る」などと息巻いてみたものの、こんなことでは一向に真実味がない。 (…そろそろ戻るか) 雨を眺めている内に、高ぶっていた気持ちもだいぶ落ち着いた。 曝け出した感情の行き着く場所は見えないが、今なら真白と向かい合っても冷静に対処できるだろう。子供じみた方法で彼を困らせて、少し気も晴れた。  再びタイミング良く鳴り出した携帯電話の通話ボタンを、やっと押した。そして「はい」と返答をした瞬間、繋がったはずの電波は途切れた。 「――え」 (…切ら…れた?) 散々鳴らしていた張本人が、やっと相手が出た途端に切ったのかと、半ば信じられないといったように目を丸くする。―それも束の間、茜の携帯電話自体の電源が落ちていることに気が付いた。充電切れのようだ。 「…いい加減、帰れってことか」 いよいよ台風も、本格的に威力を発揮しようとしている。雲の流れの速い黒い空を見上げながら、後ろ手にドアノブに手を掛けた。 「…あれ?」 力任せにノブを引いたり押したりしてみるけれど、ガチャガチャと金属音を立てるだけで一向にドアは開かない。手元をよく見てみると、ドアノブが今までよりも真新しくなっていた。 壊れていた鍵が直されていることに今頃になって気付く。茜が一人で悶々としている間に施錠されてしまったのだろう。台風予報が出ている為、午後の授業は中止になった。日直の教師が早々に見回りをして戸締りをしたに違いない。 「…もしかして、本格的にヤバイ…のか?」 時間を追うごとに雨風はひどくなっている。この天候の所為で普段よりも暗くなるのが早く、辺りはすでに闇に包まれ始めていた。 正門はとっくに閉まり、校舎に残っている人はもう誰もいないだろう。そもそも、この場所は普段からあまり人の目に触れることのない穴場的な場所だ。此処に出られることを知っている人間が、はたしてどのくらいいるだろうか。現に、外を確かめることなく、茜の存在に気付かないまま施錠されてしまったのだ。最悪の場合、朝までこのままということになるのではないか。 「…何してんだ、俺…」 真白は今頃どうしているだろうか。正門も閉じられてしまった今、茜がまだ校内に残っているとは思わないかもしれない。真白と喧嘩のようになって、一人で先に帰ったと考えるのが普通だろう。―姿を消して彼を困らせたいという、幼稚で浅はかな考えが招いた災難だ。 「自業自得…」 土砂降りの雨が、容赦なく茜の身体を冷やしていく。夜の雨は、薄手のシャツ一枚ではだいぶ寒く、身体の芯から震えが生まれてくる。 (…このままだと、確実に熱出るな…) 昔から茜が熱を出すと、決まって真白は大学を休んで看病をしてくれる。その度に、お粥を作ろうとして火事をおこしかけたり、洗濯機を回せば一面に泡をあふれさせたり、体温計を探す為に部屋中をひっくり返したりした。その全ての後始末をするのは病人である茜だ。 (…シロは、弱っている俺が苦手だ) 普段は憎まれ口や軽口を言い合うのが普通だが、茜が一旦病気などになると真白は途端に甘くなるのだ。そういう時に言う我儘には大抵応えてくれる。それをわかっていて、つけ込んだことも一度や二度ではない。滅多にないチャンスは有効に使わなくては。 「桃が食べたい」 「眠るまで、ずっと手握っていて」 「また湖に連れて行って」 台風一過の明日はきっと、嘘のように真っ青な空が広がるに違いない。 (明日の湖は、きっと…) 幼い頃に真白と見た光景が鮮明に目に浮かぶ。晴れ渡った空が鏡のように湖面に映って、太陽の光を存分に浴びて、眩むほどにキラキラと輝く。―真白と二人で、またあの景色を見られたら。 (…それだけで、最高に幸せだ―…) 「――!」 突然、寄りかかっていたドアが地響きのように震えた。膝を抱えるようにしゃがみ込んでいた茜は、驚きのあまり身体が飛び跳ねた。 ガシャン、ガシャンと鈍い金属音が立て続けに響く。向こう側から、誰かがドアを開けようと引いているようだ。そしてその直後、聞き慣れた低い声が耳に届いた。 「茜!」と叫ぶ声は、焦っているような、切羽詰まったような、聞いたことのない響きだ。 「茜! いるか?」 「―…シロ…。なんで…」 耳を疑った。見つけてなんて、もらえるはずのない場所だ。幻聴だと思う方が、よっぽど信じられる。 「茜? 良く聞こえねー!」 狼狽した茜の声は、吹き荒れる雨風の音に掻き消されてしまう。 「―シロの顔なんて見たくない!」 「…そうかよ」 腹の底から叫んだ声は、やっぱり子供じみてしまった。この期に及んで喧嘩の延長だ。 「だから、出て行かないから!」 「出られないだけだろ」 「携帯の電源、わざと切ったし!」 「充電切れだろ」 「困らせたかっただけだし!」 「あっそ」 こんな台風の中で、自分は一体何をしているのか。肩で呼吸をしながら、もう何が何だかわからなくなる。 「…どうしたら出てきてくれる?」 真白の溜め息だけは、なぜか雨風の轟音の中で鮮明に聴こえた気がした。自分の幼稚さに嫌気が増すばかりなのに制御できない。 「……て、言え…」 「何? 聞こえねーよ」 「―…茜が好きって言え!」 自暴自棄のように叫んだのは願い。心臓の音が鐘のように打ち付けている。 「どこにも行くなって言え! 俺の側にいろって言え! 茜なしじゃ…」 懇願するように捲し立てた。一度吐き出してしまえば、祈るような本音が止め処なく溢れ出てくる。雨と涙に濡れた顔を歪めながら、茜は喉を詰まらせた。 「――好きだよ」 予想外に真摯な響きが、茜の望みをいとも簡単に叶えた。 「どこにも行くな。俺の側にいろ。茜なしじゃ、――生きられない」 茜が望んだ台詞を、真白は淡々となぞった。茜は泣き出しそうになるのを堪えるように、眉間に皺を寄せて唇を噛む。 「嘘だ!」 「お前が言えって言ったんだろーが!」 真摯な響きは一瞬で怒声に変わった。呆れを含んだ、いつもの調子の真白の声。 「そうだけど! 本心じゃないと意味がない!」 無理難題を言っている自覚はちゃんとある。割り切れない、どうしようもない理不尽な感情。 「―お前が俺で抜いたって聞いた時、嬉しかった」 「――」 唐突な台詞に、茜は思わず呆気に取られる。 「お前が女とキスしようとしてるの見て、スゲー腹立った」 「――何…」 「俺の煙草吸ってキスの真似事した時、堪らなく興奮した。―から、我慢できなくなって、気付いたら手を出してた」 真白は何を言っているのか。茜の思考回路が、何とか理解しようと目まぐるしく回る。 「本当はずっと。お前よりもずっと前から、そういう目でお前を見ていたよ」 とても追い付けないほどの速さの回転は、オーバーヒートして急停止した。焦げ臭ささえ、匂ってきそうな気がする。 「―…長い間、必死に耐えていたのに。お前があんなこと言い出すから。人の気も知らないで、散々煽りやがって―」 段々と独り言のように小さくなっていく真白の台詞は、「十代に手を出すなんて犯罪だ」とか「俺はロリコンじゃない」「そもそも男なんて」だとか、そんなようなことを言っていた気がする。最も、もはや茜の心中はそれどころではない。 「……シロ」 「……なんだ」 「早くここから出たい。何とかしろよ」 感情の抜け落ちたような棒読みで、辛うじて小さく動いた唇で呟く。 「―青井、突っ立ってないで早く鍵取って来い」 「――!」 突然の台詞に息を呑んだのは茜だった。 ―真白は今、「青井」と言ったのか。この場に第三者がいるとは思ってもみなかった。てっきり彼は一人で来たのだと思い込んでいたのだ。 考えてみれば、閉鎖された校舎内を部外者の真白が一人で入れるわけがない。真白に促された彼女が、何やら文句を言いながら、パタパタと去っていく足音が微かに聞こえた。 「シロ、…な、…え、…」 「お前がいきなり怒鳴り始めるから。言う暇なかったんだろ」 この親子喧嘩のような痴話喧嘩のような、傍から聞いたら呆れてしまうだけのやり取りを他人に聞かれていたのか。それも、担任の女性教師に。 (…俺、何言ったっけ…。シロは何て言った…?) 言動を振り返ってみるけれど、混乱している頭では何も思い出せない。思い出したくない気持ちも、少なからず影響している気がする。 「――やっぱり出たくない!」 恥ずかしさでいっぱいになり眩暈を覚えた。頭のてっぺんまで一気に熱くなり、そして足の先まで一気に血の気が引いた。 「それは残念だ。俺は腹くくったのに」 足の力が抜けて、座り込んだまま頭を抱えていた茜の動きがピタリと止まる。 「家に帰ったら、お前抱くから」 いつも通りの軽い口調が、どこか欲情を帯びたように張り詰めている。 「覚悟しておけよ」 雨も、風も、葉擦れも、心臓の音も。全てが一瞬にして消えた。  重い扉が開いて、目に入った真白の顔は穏やかだった。 とてつもなく久しぶりに顔を合わせたような気がした。それは真白も同じだったようで、彼は珍しく少し照れたように目尻に皺を寄せた。不覚にも思わず泣きそうになって、下唇を噛んだ茜の視界は遮られた。また暗闇の中だ。―けれど。 「…煙草臭い」 「好きなくせに」 強い力で抱きしめられながら、茜は煙草の香りが染みついたシャツに顔を埋める。そして思いきり、その匂いを吸い込んだ。茶化すような真白の言い方が今はくすぐったい。かじかんで震えている指先で、必死に真白にしがみ付く。 「青井、タオル」 ビクン、と茜の身体が震える。寒さとは別の意味だった。  鍵を持ってきてくれたのは青井だ。わかっていたはずなのに、懲りずに再び同じ失敗をする。真白で頭がいっぱいの自分が、もはや恨めしい。  真白は、鍵と一緒に数枚のタオルを持ってきてくれていた青井からそれを受け取ると、グシャグシャと無造作に茜の髪を拭いた。 「茜。顔上げろ、拭きづらい」 「………無理」 か細い声で辛うじて返事をすると、真白のシャツを掴む指先に更に力を入れた。耳まで真っ赤にして顔を伏せているのは、青井と顔を合わせられない為だ。 「アンタの前だと子供みたい。こりゃあ、可愛くって手離せないわ」 「散々言っただろ。俺の忍耐力を褒めてほしいね」 「…高校卒業までって言ってなかったっけ?」 「十八超えたんだから、いいんだよ! 誘惑してくるコイツが悪い」 茜の心中などお構いなしに、無遠慮な大人二人の会話が茜を追い詰めていく。二人の言い方から察するに、二人で飲む時の肴は専ら茜のようだ。それも、だいぶ赤裸々な。 いろいろと突っ込みを入れたかったが、そんな力が湧くはずもない。 (……今なら恥ずかしさで死ねる…) 真白は小さく息を吐くと、残りのタオル全部で茜の頭と身体を包んだ。 「早く帰って、暖まるぞ」 「職員室で乾かしてからにしたら?」 タオルの山に埋もれた茜の耳に、青井の声が届く。 「無理。俺がもたない」 流すようにサラッと言われて、茜と青井は一瞬間を置いた。ほぼ同時に意味を理解した二人は、それぞれ呆れ顔と、これ以上ないほどの赤面になる。 「~~…お前、マジ嫌い!」 「はいはい、俺も好きだよ」 さっきまでとは打って変わって、今度は真白の胸から逃げたがる茜の頭を、真白は子供をあやすように宥めながら、強い力に物を言わせて阻止した。  真白さえいない、一人だけの世界だと思っていた場所だった。 「…何であそこに居るってわかったんだよ」 「俺も使っていたからな、昔。あの場所は俺の隠れ家」 時を経て繋がって、茜は思い出を共有したような不思議な気持ちに包まれた。  家へと急ぐ車の中で、交わした会話はそれだけだった。 話したいことはたくさんあった。言ってやりたい文句はそれ以上にあった。けれど、どれも言葉にはならなかった。 ―雨に冷やされたはずの身体は火照りっぱなしで、熱を持った身体の奥が疼いて止まない。霞む視界をウィンドウの外に向けるけれど、自分の湿った呼吸に遮られた。 さっきまで饒舌だった真白は無言で、逸るような運転で車を走らせる。普段と同じなのは唯一、車内を流れるビートルズだけだった。 「ちょっ、シロ、待て―…」 「こんな時にも、犬扱いかよ?」 フッと口元を緩める真白の熱い息が、茜の耳の奥を甘く刺激した。それだけで、背中がゾクリと粟立ってしまう。  玄関の引き戸が半ば乱暴に閉じられた瞬間、後ろから大きな腕に抱きすくめられた。二人の足元に湿ったタオルが散らばる。茜は背後から顎を掴まれて、強引に唇を求められた。半乾きのシャツの下に侵入した指先が、優しく腹を撫で上げる。 「―んっ、…や、…シロ…」 甘く痺れるような仕掛けを必死に逃れながら、茜は弱弱しい力で太い腕を押さえた。 「…今更『まて』はできねーぞ? 躾の出来た犬じゃねぇから」 「―…わかってる…。おあずけなんてしないよ…」 茜は真白と正面で向かい合った。まだ濡れたままの前髪の間から、潤んだ眼差しで真白を見上げる。捨てられた子犬のようなその姿が、余計に真白の理性を煽る。 「…こんな、所じゃなくて…」 恥ずかしそうに目を伏せた茜の、長い睫毛の下で瞳が揺らめく。 「ちゃんと…、抱いてよ……」 俯きながら小さくなっていく声が掠れた。 真白は急くように茜の身体を軽々と抱き上げると、肩に背負うようにして階段へと向かった。行き着いた先は真白の寝室だった。選んだのは茜だ。 「シロのベッドがいい。シロの、匂いがするから…」 語尾は恥ずかしそうに消えていった。階段を上っている途中だった真白の足元がよろめいたのはその所為だ。  ―薄暗い部屋のベッドの上に、真白は壊れ物を扱うようにそっと茜を降ろした。朝起きてそのままの乱れたベッドは、茜のシングルベッドよりもだいぶ大きい。 「…熱いな、お前…」 茜はベッドに降ろされても尚、真白の首に巻き付けた腕を放そうとしない。 抱きつかれたまま、真白は茜の額に手を当てた。さっきまで半ば乱暴に求めてきていた指が動きを止める。 「…何だよ。…『まて』は、出来ないんじゃなかったのか…?」 細い腕に手をかけて引き剥がそうとする真白に抵抗するように、茜はその腕に弱弱しくも精一杯力を込めた。 「…ツラいのはお前だぞ」 「このまま放置の方がツライ。切実に…」 張り詰めた中心を擦りつけるようにして、きつく抱き付く。真白に触れているだけで、更に熱く高まっていくのが自分でわかる。 「―…後になって文句言うなよ」 茜は掠れる息を漏らして微かに笑った。「言わない」とは約束できなかった。  ―真白は眉間に皺を寄せながら、まだどこか申し訳なさそうな顔で茜に触れた。力の入ったその眉間を、茜は思い切り指で弾く。 「もっと嬉しそうにしろ」 「痛っ」と言って、額に手を添えた真白が吹き出す。 「本当、お前って―」 「何」 茜が快感とじれったさに揺れる眼差しで睨むと、真白は開いた口を一度閉じた。 眼下には細い上半身を剥き出しにした茜が横たわっている。夢中で舌を這わせては、貪るように吸い付いた赤い痕が、白い肌に点々と浮き出ていた。 「…熱のある子供に手を出すとか。俺にも一応、罪悪感ってものがあるんだよ」 腹をくくったとは言ったものの、真白が長い間耐えてきた我慢は相当なもののようだ。茜と違って大人としての責任や立場がある。そう軽々とは超えられないのだろう。 「…じゃあ、俺が襲ってやる…」 覆いかぶさる真白の肩に手を当てて、押しのけるように力を込めた。 「――」 形勢逆転とばかりに真白を組み敷いた茜は、据わった目でジッと彼を見下ろした。真白の方は 丸く目を見開いているだけだ。 「俺は子供だから。どんな悪さだって出来る」 子供扱いされたのを根に持ったように言って、真白のベルトに手を掛けた。 もたついた指先はやがてファスナートップをつまんで下ろした。ジ、ジ…と鈍い金属音を立てる。既に窮屈そうだったそこが、解放されて更に重量を増す。茜はそのまま、下着に両手を添えてゆっくりとずらした。そこは、自分の物とは比べ物にならないほど大きく熱り立っていた。 「―何笑ってんだ」 茜の口元からフッと零れてしまっていた笑みを、真白は見逃さなかった。 「ゴメン、―嬉しくて」 そっと屹立に触れると、生々しい感触が手のひらに吸い付く。脈打つ真白の熱か、眩むような自分の熱の所為か、わからない熱気を帯びている。 「俺でちゃんと、興奮してんだなって」 誘われるように顔を近付けると、雨と汗が混じったような匂いが濃くなった。煙草の苦みとは別の、大人の雄の、真白の匂い――。舌先が、あと少しで先端に触れるという所で、真白は茜の顔を引き戻した。顎を掴むように手を添えている。 「―何。また罪悪感とか言うなよ」 わざとらしく舌を出したままの茜の口を、真白はその小さな舌ごと吸い取った。チュッと可愛らしい音を立てて離れた彼は、息を潜めるように笑う。 「まさか。こんな悪ガキ相手なら、罪悪感も何もないだろ。お前が万全になったら、たっぷり奉仕させてやる。―だから、今は」 再び茜は組み敷かれた。早急な手つきで今度は、茜の腰が緩められる。 「おとなしく俺に愛されていろ―」 茜の白い腹には、すでに何度か吐き出された白濁が滴っていた。それでもまだ、茜の若い欲望は「もっと」と恥じらいもなく涎を垂らし続けている。その側で、茜の物よりも一層大きく張り詰めた真白の屹立が、耐えるように小刻みに震えていた。 「…早く入れろ。往生際、悪い…」 涙目の茜は息を喘がせながら、しびれを切らしたように力の入らない足で真白の脇腹を蹴る。 「……また文句か」 「帰ったら抱くって言ったの、自分だろ…。全うしろよ…」 「ははっ。…お前は、…本当…」 快感に歪む顔を緩めて小さく笑うと、真白は充分慣らした小さな孔に自分の熱をあてがった。 「…本当、何―、んああっ―…」 指とは比べ物にならないほどの重量が、一気に体内に押し入ってきた。途中で終わってしまった真白の台詞に気を取られていた茜は、堪える間もなくあられもない嬌声を上げてしまう。 「…本当、――可愛いね…」 熱い舌と一緒に耳に入ってきた重低音が腰に響く。 「あっ、んあぁ―…、んぅ…」 真白の体温を感じたくて必死にしがみ付いた。自分の身体がとても熱くて、彼の温もりとの境界線がわからない。貼り付くように汗ばむ肌を合わせていると、このまま溶けて混ざり合ってしまうような気さえした。 ―最初は様子を伺うようにゆっくりと、労わるように緩やかだった腰遣いは、茜の中を行き来していく内に段々と大きな律動へと変わっていった。 苦しさが快感へと導かれ、茜の喘ぎも甘さを増し始めた頃、真白の動きがふと止まった。痛みを伴っていた快感が止み、茜は物悲しさを覚える。 「…そう言えば、お前。俺で抜いたんだっけ」 「――! …今?」 なぜ今、この状況下でそんな話を持ち出すのか。本能的に嫌な予感しかしない。 「どんな風に? どこで?」 真白のあけすけな質問を拒絶するようにギュッと目を閉じたが、脳裏に浮かんだのは、一人で情事に耽ってしまったあの夕暮れの光景だった。 「んっ…」 小さく小刻みに震える屹立をなぞるように、真白は柔らかい指遣いでそっと触れた。 敏感なまま中途半端に放置されているそこは、触れるか触れないかの力で刺激されると、途端に蜜を溢れ出した。すでに覚え込まされた確かな快感を欲して震えている。 「教えろよ。今までそういうの、全く興味ないような顔していたクセに。お前もちゃんと、男だったんだなぁ」 真白は揶揄うように、しみじみとした口調で言う。その保護者ぶったような態度が憎たらしい。けれど素直に答えなければ、このまま生殺しにされることは明らかだ。早く、あの快楽の波に揺られたい―。茜は唇を噛んだ。 「…居間の、和室で…。残っていた、シロの煙草に火をつけて、……した」 「んっ!」と、語尾が思わず裏返った。体内に咥え込んでいる真白が突然重量を増した所為だ。 「―…本当、お前…。俺の匂い好きだな…」 息を切らせながら、痛むように顔を歪ませる。耐えているのは真白も同じようだ。 「…も、早く動け、…よ」 互いにギリギリのこの状況で、必死に耐え続ける意味がどこにあるのか。理不尽に不毛な我慢を強いられて、茜はもう限界だ。懇願するように真白に手を伸ばすと、その手は簡単に捕らえられた。目が合った真白は、湿った息の下で目を細めながら口の端を上げる。 「見せろ」 「―…? 何を…?」 朦朧とする頭では、すぐに理解出来なかった。真白は悪戯を思いついた子供のような笑顔で、掴んでいた茜の手を下へと導く。 「自分でヤッてるとこ。見せて」 「――」 誘導された茜の指先が、熱を帯びながら戦慄いている自分の屹立に触れた。同時に、全身の血が一気に沸騰する。 「―…こ、の…。マジ嫌い! 最低! 変態! 人でなし!」 あるとあらゆる悪口を思いつく限り捲し立てたが、どれも真白には響かない。代わりに、たった一言「好きだよ」と、とびきりの甘さで囁かれる。茜の罵声はピタリと止み、悔しそうに再び唇を噛み締めた。 「……本当、ムカつく…」 最後の抵抗のように弱弱しく絞り出した声は、痛いほど高鳴っている心臓の音に掻き消された。 「―…ん、ぅん…」 おそるおそる握った自分の昂ぶりを、拙い仕草でゆるゆると上下に動かす。 少しの刺激だけで大きな快感が生まれてしまう。途中で我慢を強いられた所為だ。過敏に反応してしまうのが怖くて、普段よりも一層不慣れな手つきで彷徨ってしまう。見られていると思うと尚更だ。 「…お前、それワザと? あざといな」 「…ふ、ざけんな…」 茜は元々、そんなに性欲の強い方ではない。自慰を覚えたのも他人より遅かったと思うし、回数も同年代に比べると少ないだろう。感情を伴い始めたのは最近になってからだ。 「―こうするんだよ」 「あっ―…」 大きな手が茜の手を屹立ごと包み込んだ。そして簡単に主導権を奪うと、熟練者が初心者に手ほどきするように、動きを導き始めた。自分一人でした時とは比べ物にならないほど、躊躇など一切なく快楽だけを追う大胆な動きだ。 「ちゃんと覚えろ」 「も、…いい、って…。いらな…」 「一人でヤる時、どうするんだ」 「……? シロがいるのに、なんで一人ですんの…?」 絶え絶えの息の下で、茜は小さく首を傾げる。 「―ああっ、んン――…」 咥え込んでいた真白の昂ぶりが、更に重量を増した。腹の中いっぱいを埋め尽くされる感覚。 「な、ん…また、急に…、でかくすんな―…」 「…お前の所為だろ…」 「―は?」 真白は大きく溜め息を吐いた。腰の上で重なり合っていた手は、いつの間にか捕らえられて顔の横で繋がれていた。 「あ、ああんっ―…」 急に強く穿たれて、一気に引き戻された強烈な刺激に目の前がチカチカと飛んだ。 身体が裂けてしまうのではと思うほど、ぎっちりと咥え込んでいる真白のモノが、容赦なく茜の中を這うようにして掻き乱す。 「マジで、…お前復活したら、殺されんな、俺――」 加減するどころか、真白の動きは一層激しさを増していく。痛みを伴う快感が、絶えず嵐のように茜を襲う。 「あっ、…わかって、…なら、ちょっとは手加減…、んあっ―…」 苦しそうに歪む顔の下で、真白は口角を上げた。 「無理。後で殺されても、本望――」 汗ばんで火照った真白の顔が艶っぽく笑う。霞む視界の先にそれを見た茜は、不覚にもズキン、と胸が大きく軋んだ。共鳴するように繋がった場所が収縮すると、それを合図に細い腰を固定するように掴んだ真白は、狙いを定めたように更に荒々しく穿ち始めた。 「あっ、ん―…、ああん――」 強烈な快感だけが茜の全身を貫く。もう自分の力では何も考えられなくなって、まるでスライドショーのように、これまでの真白との思い出が頭の中に映った。 ―子供の頃、毎週二人で遊んだ狭いアパートの一室。大きな手に引かれて、初めてこの家にやってきた日のこと。一向に上達のしない真白の不味い料理。縁側でした花火、庭に作ったかまくら、高校の入学式。童話の世界に入り込んだような、美しい湖の光景――。 最後に憶えていたのは、昔と変わらない大きな手が、あの頃と同じように優しく髪を撫でてくれたこと。許容範囲を遥かに超えた快楽と慣れない種類の疲労感でいっぱいだった茜は、ひどく安心して眠りの中へと落ちた。 翌日。案の定、高熱の出た茜は、問答無用で学校を休まされた。例え熱がなかったとしても、腰の辺りが重く痛んで起き上がることは困難だっただろう。 いつものように講義を欠席して看病しようとする真白を、強制的に大学へ行かせた。「シロがいる方が休めない」と言うと、彼はムッとした顔をしたが、それは事実なので何も言い返せずに渋々出掛けて行ったのだ。 (シロは、弱っている俺が苦手) それも今回は、茜が消耗した原因の大部分を担っている真白は、一体どんな我儘をきいてくれるだろうか。横になったベッドから見える青い空が、茜の気持ちを逸らせる。 昨晩の台風が嘘のように雲一つない空は終わりなく、どこまでも晴れ渡っていた。―少なくとも、茜の部屋の狭い窓からはそう見えた。 (何も変わらない。…ように、感じるのが不思議だ) 「桃もらったぞ。見舞いだって」 「…浅葱さん?」 眠り込んでいる内に、いつの間にか真白が帰って来ていた。窓から漏れる柔らかい色が真白を染めている。もう夕暮れのようだ。  彼はサイドテーブルに桃の入った器を置くと、茜の額に手を当てた。 「…今朝より下がってるな」 「爆睡したら楽になった」 こんなに深く眠ったのは久しぶりのような気がする。身体の疲労の所為もあるだろうが、精神的なものが大きいだろう。 「今年最後の桃かもな」 瑞々しく艶めいている白桃が、綺麗に切り分けられてガラスの器に盛りつけられていた。真白がそんな器用に包丁を扱えるわけはないので、浅葱が気を利かせて切ってくれたのだろう。下の台所で、真白と浅葱が二人でいるというレアな光景を思い浮かべてみる。 (…想像つかないな) 立ち回りの上手い彼女のことだ。そつなく真白と向かい合っただろうことだけはわかるが、その場面には興味津々だ。勿体無かったなと、眠り込んでいたことを少し後悔した。 「いい子だな」 「うん」 「でも、お前はやらねぇから」 唐突な台詞に、茜は思わず目をパチクリとする。そして突然、可笑しさが込み上げた。 一度開き直ってしまえば、真白は茜よりもずっと素直なようだ。これまでの仕返しに揶揄ってやりたかったが、嬉しさが勝ってしまって叶わなかった。 「大丈夫。浅葱さん、好きな人いるから」 目尻に溜まった涙を指先で拭いながら、ゆっくりと身体を起こすと、眉間に皺を寄せていた真白が、そっと背中に手を当てて手伝った。 「陶芸教室の先生。おっきくて色黒で、熊みたいな人。俺とは似ても似つかないタイプ」 真白の顔を覗き込むように頭を傾ける。 「俺みたいな軟弱な男、タイプじゃないって。あっさり振られたよ」 加えて、茜にキスを仕掛けたのは浅葱の実験だったと白状する。庭先から真白の足音に気が付いた浅葱は、真白を揺さぶってやろうと咄嗟に思いついたと、あの後、家まで送った茜に話したのだ。 ―勘の良い彼女のことだ。その揺さぶりがキッカケになって、二人の関係に変化が起きたことも、もう気付いているかもしれない。 (…今度会ったら、チシャ猫のような顔で訊かれるんだろうな) ニヤニヤと嬉しそうに目を細めて、「わたしのおかげでしょ」と得意げな表情で。 「怒った?」 真相を聞いた真白は無言になって口を尖らせた。少しして悔しそうに「いいや」と否定する。 「小娘に、いいように遊ばれてムカつくけど。…感謝だな」 悪態を吐きつつ、真白は大きな手で茜を抱き寄せる。 「じゃあ、あっさり振られた可哀想なお前は俺がもらってやるか。しょうがない」 その言われようにカチンときた茜は、それがスイッチになったように昨晩のことを思い出した。 「そう言えば。俺に殺されたいんだっけ、シロ」 真白の胸の中から逃れて、据わった目を彼に向ける。 病人であり初心者の茜相手に、容赦ない激しさで散々求めてきた。自分が煽ったことは棚に上げて、責めるような眼差しで目を細める。 「そうだ。あと、これ買ってきた」 都合の悪いことは聞こえないことにした真白は、思い出したように側に置いてあったビニール袋に手を伸ばした。中から出てきたのは大量のマシュマロが入った大袋。 (――なぜ) 「お前、マシュマロなんて好きだったっけ?」 訊きたいのは茜の方だ。あまりに予想外の物の出現に面を食らう。マシュマロなんて食べたのは、一体どれくらい前だろうか。 「お前が昨日、意識飛ばす前に言ったんだろ。可愛く喘ぎなが――」 一瞬で真っ赤になった茜は、反射的に手元にあった箱ティッシュを投げていた。見事に真白の顔面にヒットして、辛うじて語尾を消した。 達する直前に食べ物の名前を口に出すなんて、恥ずかしいやら情けないやら、だ。けれど言われて、なぜそんなことを言ってしまったのかは思い当たった。 「~…元気になったら、湖に行くからな」 か細い声で、真白の意思は当然のように無視して宣言する。 「あ?」 真白は赤くなった頬をさすりながら、若干の怒りを含んだ声で茜を睨むように見た。  茜は恥ずかしさのあまり、再び熱を持ったように顔を火照らせながら目を潤ませている。肌は汗ばみ、桃を食べた唇は熟れたように濡れていた。真白は無意識に乾いた自分の唇を舐める。 「このマシュマロでパイを焼くから、残さず全部食べろよ!」 照れ隠しのように声を荒げて、茜は頭から布団をかぶって寝転んだ。 この大袋のマシュマロを全部使って焼くパイは、一体どれほどの特大サイズになるだろうか。茜は想像しただけで胸焼けがする。 「―可愛いこと考えるな、お前」 大きく息を吐いた真白は口元を緩めながら、布団にすっぽりと包まって丸くなっている茜の頭の辺りを優しく撫でる。 「元気になったら。パイだけじゃなく、お前も残さず全部、美味しく頂いてやるよ」 ベッドの上で更に固く縮こまった茜を、真白は横目で満足そうに眺めながら部屋を出て行った。階段を下りていく彼の、ご機嫌な鼻歌が聴こえる。

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