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第1話

 人々の興奮した声が街中に響いている。  なんというあさましい声だろうと、眉をひそめたリュドラーは薄暗い路地から明るい通りを覗き込んだ。  誰も彼もが狂気としか言いようのない笑みを浮かべて、大声でわめいている。  どれほど耳をふさいでも、手のひらを突き抜けて鼓膜に触れる怒号に似た歓声のうねりの中心に、ここヨグラミア帝国の国王シャスワがいた。  いままさに、国王は王城の広間で処刑されようとしている。  市民革命。  それがこの熱狂の火種だった。  民による民のための政治が、これからこの国ではじまろうとしている。  そのための祝賀の炎として、磔にされた国王は槍で刺され、火にあぶられる。  奥歯が鳴るほど激しく噛みしめ、リュドラーは悔しさを抑え込んだ。いますぐに飛び出して、民衆を蹴散らし国王を助けたい。しかし彼がいくら一騎当千と謳われた勇猛果敢な騎士であっても、国中の民を相手にするのは自殺行為だ。  自分ひとりならば、そうして抗い命を落とすという選択も可能だが、彼には守るべき人がいた。  国王シャスワのひとり息子、トゥヒム殿下。  少女のように透き通った肌と柔和で大きな青い瞳。絹糸を思わせる見事な金髪にのびやかな四肢を持つ彼を、リュドラーはなんとしてでも守り、生き延びさせなければならない。 「リュドラー」  人一倍体格のいいリュドラーの、大きな背中に隠されているトゥヒムが小声で呼ぶ。振り向いたリュドラーは、ぼろきれのような外套のフードで顔を隠しているトゥヒムを見た。 「もう、私のことはいい。私が生き延びたところで、この勢いはどうしようもない。いさぎよく父上とともに磔に処されるべきだと思うんだ」 「なにをおっしゃるのですか、殿下」  リュドラーは眉を吊り上げた。精悍な顔つきに整った鼻筋。鋭利な刃物を思わせる鋭い瞳で尖った語気を向けられれば、大抵の人間は萎縮する。しかしトゥヒムはゆるやかな笑みを浮かべて、鷹羽色の髪と同色の瞳を見上げた。 「そうすればおまえは、民衆の中に交じって明るい場所を生きていけるだろう。こうして私を擁護していては、いつまでも日陰者だ。――私は、王政の復興など望んではいない。生きている理由も意味も、どこにもないんだ」 「なりません、殿下」  小声ながらも叫ぶリュドラーに、トゥヒムはちいさく首を振る。 「もう、いいんだ。あの騒ぎの中、私をここまで連れ出してくれたのは、ありがたく思う。だが、おまえの人生を暗く湿った場所に引きずり落としたくはないんだ。わかってくれ、リュドラー」 「いいえ、わかりません。俺はあなたの所有物です。あなたのためだけに存在する騎士だ。守るべきものを放棄した俺に、生きる意味はない。このリュドラーを思ってくださるのならば、どのような辛苦に遭おうとも、ただ生きることのみをお考えください」 「リュドラー」  呆然とつぶやいたトゥヒムに、リュドラーは厳しい顔を柔和に変えた。 「さあ、行きましょう。どこか……、身を隠して生きていける場所へ。王族と知られずに、命を全うできる生活を求めて」 「……ああ。よろしく頼む、リュドラー」  青年になりたての、幼さを残すトゥヒムの頬を見つめて、リュドラーは決意を新たに周囲を見回し、人目につかぬ裏路地を選んで移動した。  ◇  早朝にはじまった市民革命という名の暴動の熱気は、日が落ちてもまだ続いていた。着のみ着のままで連れ出したトゥヒムは、薄い寝間着の上に使用人室にあった外套を羽織っているだけだ。あたたかな王宮で過ごしているのとは違い、街中の夜気は骨身に染みるほど冷たい。  リュドラーは腕の中にすっぽりとトゥヒムを抱きかかえ、温めながら今夜の寝床がどこかにないかと考えをめぐらせた。 「どこかの商家の馬小屋にでも、身をひそめるほかに道はないようですな」  金目の物を持ち出す猶予はなかった。あったとしても、宿屋に泊まればすぐさまトゥヒムは捕らえられるだろう。どこか、この暴動を静観している裕福な商人の屋敷に近づき、馬小屋のわらを拝借して休むほかはなさそうだ。 「馬小屋か……。馬と一夜をともにするなど、考えたこともなかったな」 「申し訳ございません」 「なにを謝る。私は馬が好きだ。そういう経験も面白いと思ったまで。とがめているわけじゃないさ」  トゥヒムの声は快活で、リュドラーは憐憫を胸に浮かべた。 (おいたわしい)  革命が起きなければ、彼は次期国王となり、なんの心配もない生活を送っていた。――いや。暴動が彼の代で行われなかったことを喜ぶべきか。  幼いころよりずっと守り慕ってきたトゥヒムが磔にされるなど、耐えられない。  どうか、生きて。  それだけがリュドラーの望みだった。  自分の身はどうなってもいい。ただ、トゥヒムの命と心の安寧だけを、リュドラーは願っている。  リュドラーはふと、街はずれに広大な土地を持っているサヒサという名の商人を思い出した。王城に珍しい異国の品を献上しにきたことがある。彼は市民の動きが怪しくなりはじめたころ、そっとリュドラーに耳打ちしたのだ。なにか困りごとがあれば、商人は利益を優先するものです、と。  手広く商売をしている裕福な商人は、護衛を必要とする。騎士の中でも誉れ高い自分の腕は、トゥヒムを擁護するに足る利益をサヒサに与えられるとリュドラーは踏んだ。  人目を忍び、神経を研ぎ澄ませて、リュドラーはトゥヒムを連れてサヒサ邸へと向かった。  人々の喧騒が遠くなり、やがて聞こえなくなるころに、貴族の別荘と見まがうほどの立派な建物が現れた。庭に足を踏み入れて木々の間を隠れながら進み、裏庭にあるであろう馬小屋を目指す。  表で訪いを告げて来意を説明するのは愚策だと、リュドラーは考えている。市民暴動を静観しているように見せかけて、先導している可能性もあるからだ。  王家が滅びれば、商人は上がりの一部を納めなくてもよくなる。民による民のための政治がはじまるとは言っても、それを実行するのは裕福な商人連中だろうことは想像に難くない。サヒサが裏で糸を引いていないとも限らないのだ。  そこまで考えていながら、サヒサ邸の馬小屋を今宵の隠れ家に選んだのは、助けを乞える可能性と、危うくなった場合の逃げ足として馬を拝借するという計算があるからだった。彼は良馬を有している。  トゥヒムはリュドラーの足手まといにならぬよう、懸命に足を動かしていたが、昨夜の夕食を最後に飲まず食わずで歩き回り、神経を張り詰めっぱなしでいたので、体力が落ちてきていた。抱えられつつなんとか歩いてはいるものの、靴を履く余裕すらなく王城から脱げ出したので、足裏は傷つき血が滲んでいた。  もつれそうになる足を叱咤しながら進んでいたトゥヒムの緊張は、リュドラーの「あれが馬小屋です」という声に緩んだ。  もうあとすこしで休めるという気のゆるみに足が萎え、馬小屋の入り口わきに置いてある飼い葉桶に手をついて倒し、派手な音をさせてしまった。 「誰だ!」  鋭い声が飛ぶ。  リュドラーの気配が刃物のように鋭くなり、トゥヒムは自分のうかつさを呪った。  足音が近づいてくる。  リュドラーはトゥヒムを背後に隠し、腰の短剣を引き抜いて身構えた。手提げランプがいくつも近づいてくる。 「リュドラー、短剣を収めてくれ」  節くれだったリュドラーの手の上に、女のように繊細なトゥヒムの指が置かれた。 「しかし」 「私たちの目的は、民を傷つけることじゃない」 「生き延びるためには、致し方ありません」  トゥヒムは静かに首を振った。 「たった一日でくじけるなんてと思うかもしれないが、もう充分だ。ここは運を天にまかせよう。――捉えられて処刑されるか、ここの主にかくまわれるか。リュドラーは、ここの主に助けを乞えるかもしれないと考えて、この馬小屋を選んだんじゃないのか。そうだとしたら、屋敷の人間を傷つけるのは逆効果だ。おとなしく掴まり、温情を賜りたいと訴えるのが上策だろう?」  落ち着いたトゥヒムの態度に、リュドラーは短剣を収めた。トゥヒムが満足そうに目を細める。 「命の危険があると判断したときは、容赦はしません。それで、よろしいか」 「ああ。だが、無茶はしないでくれよ」 「約束はできかねます」  主従はおなじ笑みを浮かべて、近づいてくる手提げランプの灯りを待った。

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