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第35話

「僕が合図をしたら……、というか、合図の連絡があったらオルゴンに乗ってここに来てくれるね?」 「え」 「友達なら、頼みは聞いてくれるだろう。そういうものだって聞いたけど……、違うのかな」  きらめく瞳を持ち上げて、ティティは長いまつげの隙間からリュドラーを見上げた。盛り上がった胸筋の奥の鼓動を感じるのは気のせいだろうか。――リュドラーはどうして困惑した顔で見下ろしてくるんだろう。 「ねえ、リュドラー」  ここに来て計画が破れるのではと、ティティは心配になった。リュドラーは簡単に了承するものと考えていた。彼の望みはトゥヒムとともに生きることだから。あの館を出て、ふたりで平穏な日々を作れるのなら、大喜びで「わかった」と言うはずなのに。  ティティは眉根を寄せてリュドラーの腰を掴んだ。 「僕の望みは、君たちがここに来ることだ。オルゴンは道を覚えているから、夜中であっても迷いなくたどり着くよ。家具は必要な分はそろっているし、衣類だってそろえておく。商品の仕入れは、これから職人の住む界隈を案内するから心配しなくていい。――ねえ、リュドラー。このほかに気がかりがあるのなら教えてくれないかな」 「……おまえは、どうするんだ」  キョトンとまばたきをして、ティティは首をかたむけた。 「僕?」 「そうだ」  しばらく無言で見つめ合う。案じてくれているのだとわかって、ティティは体を熱くさせた。 「ぼ、僕は大丈夫だから」  頬が熱い。ティティは顔を伏せてリュドラーから離れ、背を向けた。 「ふたりがここに落ち着くってわかったら、それでいいから」 「ティティ」  リュドラーの大きな手がティティの肩に乗る。ティティは振り向かず、その手の温もりを味わった。心がふわりと温まる、この心地よさはなんだろう。 「おまえも、ここに来るのか」 「どうして?」 「残るのか」 (ふたりの間に僕を入れてくれるっていうつもり?)  唇をゆがめて、ティティは振り向いた。 「僕は僕の欲しいものを手に入れる」 「欲しいもの?」 「そのために、君たちを追い出したいのさ」  惜しみながらもリュドラーの手を外し、階段を駆け下りる。ゆったりと追ってくるリュドラーの足音を聞きながら外に出て、馬小屋の前に立った。オルゴンがじっとティティを見つめる。深く澄んだ漆黒の瞳に映る自分を、ティティはあざ笑った。 (なにを動揺しているんだ、僕ともあろうものが。誰をも手玉に取れる、最上の性奴隷なのに)  オルゴンが首を伸ばしたので、ティティは鼻づらを撫でた。ブフンとオルゴンが鼻を鳴らして顔をそむける。目を丸くしたティティは、気弱な自分を励ましてくれたのかとクスクス笑った。 「そうだね。こんなの、僕らしくない」 「ティティ」  リュドラーが現れる。いつもの調子を取り戻したティティは、扉に鍵をかけてリュドラーの手を取り、職人たちの住まう区画に彼を案内した。 「工房までの道をしっかり覚えておいてよね」  リュドラーは無言でティティの後に続いた。  工房で会話をするのはティティばかりで、リュドラーはむっつりと押し黙ったまま、商談役の話を聞いていた。  細工を見せてよとティティが言うと、商談役は銀細工をいくつか取り出した。並べられた品をじっと見つめたリュドラーが、買い手は決まっているのかと問う。商談役が「まだです」と答えると、リュドラーはそのうちのいくつかを選別し、ティティを見た。 「今日は仕入れもするのか」 「そのつもりで来ているよ」  ティティが腰掛けカバンを開ける。 「金貨と宝石をいくつか持ってきたんだ。けっこう重かったよ」  そう言ってティティは無造作にそれらをテーブルに広げた。金貨の枚数を数え、宝石を光に透かして確認したリュドラーは、金貨三枚と小指の爪ほどの大きさの紅玉ひとつを商談役の前に置いた。 「これで買い取らせてもらおう」  選別した細工物の値段を予想し支払おうとするリュドラーに、商談役は「へっ」と眉を上げて驚き、困ったように下手な態度で頬を持ち上げた。 「いえ、これではちょっと少ないかと」 「そうか? なら、別の工房で頼むとしよう。――すまんな、ティティ」 「ん。ほかにも銀細工の工房はあるから、かまわないよ。それじゃあ、今回は残念だったってことで」  またねとティティが切り上げる前に、商談役が「待ってください」と声をかける。 「せめて、金貨をもう一枚……」  ジロリとリュドラーが目を向けると、商談役はヒッと縮こまって席を立ち、奥からカフスを取ってきた。 「これを加えて、金貨をもう一枚なら」  差し出されたカフスを確認したリュドラーはうなずき、商談役の前に金貨を滑らせた。 「これで商談成立だな」 「は、はい。ありがとうございます。……ええと、ティティ。このお方は」 「ん? 僕の主の大切な客人だよ」 「行くぞ、ティティ。時間がない」  さっさと品を受け取って席を立ったリュドラーの、威厳たっぷりな態度に商談役はすっかり気圧され、ヘコヘコと頭を下げつつ入り口まで見送りに来た。  商談役が工房内に引っ込んでから、ティティはウキウキとリュドラーの腕に腕を絡める。 「商売のことはわからないとか言っておいて、ずいぶん堂々とした買いつけだったね。ビックリしちゃったよ」 「トゥ……、我が主から仕入れと売値の話を前に教えていただいたからな」  名前を呼ぶのは危険だと、リュドラーはとっさに言い直した。どこで聞きとがめられるかわからない。世情の情報はないが、革命の中心的団体が行方不明の王太子を探している可能性はある。名を口にするのは危険だった。 「それで?」 「予想する売値から概算して仕入れ値を決めた。それだけだ」 「君も目利きはできるってわけか。……ま、当然だよね」  ティティもリュドラーを名で呼ぶ危険性をわかっていた。 「できているかどうか、わからないな。客に必要とされるかどうかだろう」 「ふうん? まあ、そのへんはよくわからないけど、なんとかなるんじゃない? 当分の運用資金はきちんと用意しておくから、安心して。商売って、すぐには儲からないもんなんだって。逆に、すぐに儲かるっていうのは怖いらしいよ」 「そうなのか。――なぜだ」 「うーん。よくわからない」  そんな会話をしながら、金細工の工房や羽細工の工房などを回り、仕入れたものを持って店に戻った。  鍵付きのタンスにひとつひとつ片づけるリュドラーを、テーブルに頬杖をついてながめながらティティは思う。 (やっぱり、根本からが違うんだ)  どれほど性技にまみれても、リュドラーの本質は騎士なのだ。工房区画でのやりとりを振り返り、ティティは堕ちきらないリュドラーの魂を知った。あれほど淫らに声を上げて踊るのに、清廉な魂は穢されることなく体内に宿っている。そのアンバランスさが人を――サヒサの視線を惹きつける。  ズシンと腹の奥が重たくなって、ティティはそっと息を吐いた。 (そこがリュドラーのいいところで、だから僕はリュドラーに好意を持っている。その愛すべき部分が自分の邪魔になっているなんて、皮肉だな) 「そろそろ戻らないと、夕食に間に合わなくなるね」  立ち上がったティティは、リュドラーの指に指を絡めた。なんとなく唇がさみしくなって、キスをしたい衝動にかられる。 (だけど……僕の唇はサヒサのもので、リュドラーの唇はトゥヒムのものだ) 「これから時々、ここに来よう。目を盗んで、必要なお金を運んで仕入れもするんだ。店の看板も作って、新しい名前を決めて。いままでの血筋とか経歴とか関係のない生活をしていく準備をしておかないと。――僕が合図をするまでに」  許可を得ての外出ではないのだと、リュドラーは察した。同時に、ティティが自分たちの正体を知っているとも気づいた。 「ティティ、おまえは……」 「ん?」  頬に触れようとしたリュドラーは、その手をティティの肩に乗せた。頬に触れれば顔を寄せ、唇を重ねてしまうと思ったから。 (この身のすべてはトゥヒム様のもの。揺らぐことなどありえない) 「俺たちのために、すまないな」 「違うよ。すべては、僕のためだ」  ティティの瞳が妖艶にきらめく。 (そう、すべてはサヒサの視線を独占するため。僕以外のなにかに興味を引かれるなんて許さない。僕のすべてを支配するあの人の心は、僕に征服されていなくちゃならないんだ) 「僕のための行為が、たまたま君たちのためにもなるってだけだよ」 (僕の望みが気に入っている君たちの役にも立つなんて、すばらしい計画だよね)  ほほえんだティティが泣いているように見えて、リュドラーはそっと彼を抱きしめた。

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