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第37話
リュドラーが指示するまでもなく、オルゴンは森を抜けて寝静まった街へ入り、人影のない街道を抜けて店の裏側へ回った。
慣れ親しんだ家へ戻るように馬小屋の前で止まったオルゴンに、リュドラーは感心する。
(おまえは、こうなることがわかっていたのか)
トゥヒムとリュドラーが降りると、オルゴンは自ら馬小屋に入って鞍を外せと身振りで示した。リュドラーは鞍を外してオルゴンに水を与えると、漆黒の街をながめるトゥヒムを裏口に案内した。鍵を開けて中に通すと、トゥヒムが口を開いた。
「これは……どういうことなんだ、リュドラー」
「ティティが俺たちを逃がすために用意をした店です。あなた様はこれから、この店の主として、俺はその従僕として生きていく。店は明日からでもはじめられるよう、品物はそろっております。職人の工房もわかっております。必要なのは、新たな名前だけ」
暗闇の中で光るリュドラーの瞳を、トゥヒムはまっすぐに見つめた。リュドラーと彼は、それほど親しくしていたのかと、ティティに対する感謝と嫉妬がみぞおちのあたりに渦巻く。
「ティティは、私たちを逃がしてどうするつもりなのだろう」
自分の気持ちをごまかすために、トゥヒムは浮かんだ言葉とは違うものを口にした。リュドラーの顔が曇る。首を振ったリュドラーはトゥヒムを促し、二階への階段を示した。
「なにか考えのあるそぶりをしていましたが、聞いてはおりません。さあ、トゥヒム様。まずは寝室に上がり、おやすみください。充分に眠ってから……、それからにいたしましょう」
トゥヒムとリュドラーは二階に上がり、ふた部屋ある寝室の片方に入ると、抱き合ってベッドにうずくまった。
翌朝、リュドラーは明るい室内を動き回り、当面必要な衣類や金、買いつけた品々や掃除用具、食器を改めた。サヒサの館で掃除の仕方は覚えたが、料理はできない。なにか食べるものを調達してきますとトゥヒムに言い置き、リュドラーは裏口から出てオルゴンに声をかけ、活動をはじめた街に出た。
このあたりの地理はだいたい頭に入っている。必要な店の場所も覚えていた。リュドラーはまっすぐパン屋へ向かい、いくつか見繕って購入を済ませると果物屋へも寄った。そこでヒソヒソと、けれど他人に聞かせるためとわかる程度の音量で店主にしゃべりかける男と遭遇した。
「城下の街で大きな火事があったらしい」
「へえ? まだ革命だのなんだのの争いが、終わってないのかい」
「いいや。燃えたのは商人の館らしいから、革命は関係ないだろう。なんでも夜中に火が出ちまって、まるっと焼けたらしい」
まさかと青くなりながら、リュドラーは男に話しかけた。
「その館はどうなったんだ。住人は?」
「いや、そこまでは……」
眼光鋭く問われた男が、隆々としたリュドラーの体躯に気圧される。
「詳しく知りたいんなら、通信局で問い合わせをしたらどうだね」
店主に言われたリュドラーは、礼を言って果物の代金よりもわずかに多く支払うと、足早に通信局の建物へと向かった。
「知りたいことがある」
入るなり朗々と声を響かせたリュドラーに、中にいた人々が注目する。視線を気にすることなく、リュドラーは窓口に向かった。
「手紙をお送りなさるのですか? どちらまで」
「そうじゃない。昨夜、城下の街で商人の館が燃えたと聞いた。知人の家かもしれないから、詳しく知りたいんだ」
オルゴンに乗っていけばすぐさま確認できる。だが、そんな危険は冒せなかった。窓口の男は「そういうことでしたら」と書類を取り出した。
「情報が入り次第すぐさまお伝えに参りますので、報告に上がる家はどちらでしょう」
名前を記載する欄を見て、リュドラーは軽く手を振った。
「いや、いい。聞きに来る。いつ来ればいい」
「昼過ぎには第一報が入るでしょう。夕方には、もっと詳しく」
すこし考えてから、情報収集料として提示された金額を支払い、リュドラーは急いで店に戻った。店の中では身支度を整えたトゥヒムが、細工物と買いつけ時のメモを確認していた。
「おかえり、リュドラー。……どうしたんだ、顔が青いぞ」
「サヒサの館が、火事になったかもしれません」
驚きのあまり、トゥヒムは言葉を失った。購入したパンと果物をテーブルに乗せ、リュドラーはしっかりと主の手を握る。
「昼と夕方に情報が入るそうです。どうか、落ち着いて」
震えるトゥヒムの瞳を視線で抱きしめたリュドラーは、自分がティティに親しみを覚えたように、主もサヒサに好意に近いものを持っていたのだと悟って胸を焦がした。これがティティの抱えていた気持ちなのだと気づいて、唇をかみしめる。
「自分で確かめに行くのは……、危険だな」
「はい。――俺たちにできることは、朝食を食べて開店の準備を進めること。サヒサの客人として職人たちに紹介されておりますので、そのことを念頭に置いてお過ごしください」
「……わかった」
ふらつく足取りでトゥヒムが給仕室に向かう。
「トゥヒム様」
「茶を淹れる。――覚えたんだ」
力なくほほえむトゥヒムに「俺が」と言いかけて、リュドラーは口をつぐんだ。なにかをしていないと、落ち着かないのだろう。
給仕室から聞こえる音に耳を打たれながら、リュドラーは天井を見上げた。
「望みは叶ったのか、ティティ」
その質問に答える者は、どこにもいなかった。
昼には、燃えたのはサヒサの館とわかり、夕方には焼け跡から誰の遺体も出なかったどころか、ひとりのケガ人もいなかったと知らされてホッとした。ティティのことだから周到に用意をしていたに違いないとリュドラーが言うと、抜け目のないサヒサが簡単に死ぬわけはないとトゥヒムは安堵した。
それぞれに親愛めいた感情を持っていると知ったふたりは、自分の立場からあのふたりの心情をおもんぱかった。そしてどちらも、彼等は自分たちとおなじような関係だったという結論に達した。
生きてさえいるのなら、きっとこんなふうに小さな店から再起しているはずだと、根拠のない確信を語り合ったトゥヒムとリュドラーは、互いに新たな名を持って店を開いた。
工房の職人たちは、サヒサの不幸に上客を喪失した不満と悔やみを口にした。
どこから聞いたのか、トゥヒムたちがサヒサの知人であると知って、いたわりと好奇心を胸に抱えた客が来店した。同情はいい宣伝となり、客たちは品ぞろえに満足をして帰っていった。
やがて同情の感情が薄れ、けれど細工の上品なものがそろっているとの評判は残り、店は軌道に乗った。
新たな名を手に入れた主従が、かつて王太子とその騎士であったと気づく者はなく、ふたりは平穏に日々を過ごす。時々は懐かしく、誰の耳目もない場所で――もっぱらそれは寝室だったが――思い出語りをすることもあった。そしてあの恐ろしい事件は己の殻を破るために必要であり、それがあったからこそ内側に潜む欲を解放し、互いを求め気持ちを重ねられるようになったのだと、指を絡めて顔を寄せ、肌を合わせて高みへ昇った。
そしてそれは自分たちだけでなく、サヒサとティティもおなじだったろうと話し合う。リュドラーがトゥヒムを抱えて庇護を求めたあの瞬間に、ふたりの心の殻にもヒビが入ったのだと。
ベッドで抱き合いながら、トゥヒムが問うた。
「あのふたりも、いまごろはこうしているのだろうか」
やわらかな愛撫に肌身を震わせ、リュドラーはほほえんだ。
「きっと……、必ず」
それは希望を述べる声ではなく、確信を持っていた。ほほえみ返したトゥヒムの唇が、リュドラーの唇に重なる。
所有する者同士でなければ唇を重ねないと言ったサヒサの気持ちと、それを守り続けていたティティの心を思い浮かべながら、リュドラーはトゥヒムの熱を受け止めて、ふたりにしか到達のできない恍惚の楽園へと舞い上がった。
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