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プロローグ

人を好きになるって分からない。人のことも分からない。いや、分からなくても良かったのだ。  俺にとっては、あの人とは不幸な出会いだったのだろう。  しかし、その不幸で、そして一生の出会いで、俺は「人間っぽく」なってしまったのだ。   いつも人気のないシャワールームでそういうことをするようになったのは、いつからだろう。でも、それは俺から仕掛けたことだ。あの人がたくさんのものを持っていて、その持っていることに強い関心を惹かれたし、自分の手を沸騰する油の中にいれるようなこともしてみたかった。  肌に触れられて、かまれて、自分の体を開示していくのは恐ろしくてどきどきした。  春 四月  フットサルの練習場は、K市M駅から、少し歩いたところにあった。埋め立て地にあるそこは幹線道路が近くに走っており、いつも浜風が吹いていた。  その日は春だというのに、浜風がどんよりとした塩気をはらみ、うねっていた。 石井晶は「息苦しいな」とつぶやいて、ノンフレームの眼鏡を軽くあげた。そして、きれいといわれる虹彩のはしばみの瞳で、春曇りの空を見上げた。雲はそれほど出ていないが、山からの風と浜風が、ぶつかっているような気がした。 携帯に入れた英語構文のリスニングを、何度もリピートしていた。それを聞きながら、だらだらと続く坂道を降りていく。 「晶!」  キッと横に、黒のVOXYがとまり、助手席の窓がスライドして開いた。 「さとっさん」 晶は、眼鏡に携帯のイヤフォンが引っかからないよう、爪先でうまく外した。運転席には髪を刈り上げ、仕立ての良いスーツを着て、日に焼けた、がっしりとした体格の男性がいた。 晶のチームメイトである村上聡は、にっこりと晶に微笑みかけた。 「乗っていくか」 「助かります」  晶が助手席に乗り込むと、村上は軽くアクセルを踏み込んだ。 すうっと、車は走り出す。村上の運転はブレーキを踏むのもゆっくりで、流れるようだった。そして、歩行者に気を配っていて、彼の性格をよく現していた。 「さとっさんはもう仕事、終わりっすか」 「いや、練習が終わったらまた帰社するよ」  一流商社で営業をしている村上は、稼ぐ額も一般のサラリーマンとは違う。だが、仕事の量もほかのサラリーマンとは違っているらしい。晶はふうっとため息をつく。 「えー、まじっすか。体、大丈夫すか」 「おれは仕事が好きだからね、それに鍛えているから、多少のことは問題ない」 「でた! さとっさんの「おれは鍛えているから」論! たくましいっすね。ところで、詩織さんは元気なんですか。そろそろ、おなかも大きくなってるでしょ」  晶は首をかしげる。耳にかけた茶褐色の髪がさらっと落ちた。 「元気、元気。なんとか、フットサルやらせてもらっているよ。妊娠初期のころはつわりが酷かったんだが、落ち着いてきた」 「よかったですね」 「まあ、おれも、ちゃんとした「お父さん業」をやらんといかんかなって思ってるけど」 「……もしかして、フットサル、やめるんですか?」 「詩織は気晴らししておいで、って言ってくれるけど、実際に生まれてみるとね、難しいかなって。仕事、妻子、フットサル、だと、フットサルの順位が低くなるのは、しかたないかな……」 「そっすか……寂しいな」 「なんだよ、いつでもうちにメシ食いに来いよ」 「いや、それこそ、詩織さんに悪いでしょ」 「晶は詩織のウケがいいから、大丈夫だよ。いや、まじ、子供と詩織が安定してきたら、会いに来てよ。それより、晶のほうはどうなんだ。今年、受験生だろ」 「そうですねえ……でも、ずっと勉強していると、ストレスたまって。フットサルで発散できたほうが、勉強効率もいいんです」 「……まあ、お前のプレースタイル見てると、それは分かる」 「はは」 含むところがある村上の言葉に、晶は軽く笑った。 「それにお前、星が浦だろ? 偏差値いいんじゃないの」 「でも、私学ですからね。生徒の成績は千差万別です。スポーツ科、普通科、進学コースとあるんで。まあ、俺はそっちのほうがいろいろ面白いやつがいて、楽しいんですけど」  晶は学ランの襟をくっと引っ張り、首もとを開けた。二年ちょっと着ている学ランは、ほつれやけばだちが目立った。今日は春先にしては蒸す。晶はシャツの第一ボタンも外した。  晶は大きな瞳をまためかせ、携帯をいじった。そろそろ連絡があるかな、と確認したが、友人からのLINEが数件入っているだけだった。「今日は来るんですか?」と、メッセージとスタンプを送る。 「おいおい、晶もすみにおけないな。彼女か」  村上の言葉に、晶はリュックからペットボトルを出して飲みながら、「違いますよ」と、ひらひらと手を振ってみせた。 ふと、助手席のミラーに映る自分の顔を見た。左顎にほくろがあり、そばかすがほんのり浮いている白い顔が目に付く。光によって色を変える虹彩。はしばみの瞳、日焼けをしても赤くなるだけで、白くなる肌。浜風が色素の薄い、豊かな茶褐色の髪をばさばさとなぶっていく。 「そういや、前に言ったけど、今日から新しいやつが参加するんだ。お前より歳下らしい」  村上は、このフットサルチーム「La lucha」(ラ・ルチャ)の今年度の運営を、担当していた。 「へえ……戦力になったら、いいですね」 「まあ、うちは地域リーグだからね。戦力になるかどうかより、気が合うかどうか、かな。堺さんからの紹介で……確か、高校一年生だったと思う」 「そうなんですか、珍しいな……」 「堺さんも、顔が広いからな。ジムトレーナーだから、多分、そのあたりからだろ」 「そいつ、今日、来るんですか?」 「堺さんが連れてくるって」  なだらかなカーブを村上はゆるくスピードを落としながら、回りきった。 「へえ。ちょっと楽しみ」  フットサルの練習は、週に二、三回、休日を主に、十九時から二十一時の間に行われる。地域リーグに所属する「La lucha」は、ほぼ、同好会、サークルの体を取っている。  晶は施設内のロッカールームで着替えると、室内のコートへ向かった。室温も調整されており、快適だ。ただ、そばには高速道路が走っており、防音がしっかりしていても、時々、車の音が聞こえてくる。  練習場として借りている室内施設では、フットサルコートを、電灯がこうこうと照らしだし、ガラスが壁一面に張られていた。 晶のそばで、「ピヴォ」で髪をツーブロックにした村瀬光太郎が、そのややつりあがった目をいっそうつりあげて、「おす」と、晶と挨拶を交わす。 ストレッチをする二人は手をぶらぶらさせながら、くだらないはなしを続けた。  ゲラゲラと笑っている二人の背後から「楽しそうだな」  と、「アラ」の東大輔が大股で、姿勢よくやってきた。髪を短く刈り、一重の爽やかな顔立ちをした東は白のトレーニングジャージに黒のズボン、トレーニングショーツを合わせていた。 「いや、大輔さん、村瀬さんがいつもと違う真面目なこといったんで」  東大輔は、身長こそ168センチ程度だが、整った顔立ちと、優れたゲームメイク、かつ、O大理学部大学院在学と言うステータスで、一部に熱狂的な女性ファンがいた。ストイックで冷静な東はゲームキャプテンも任されていて、責任感は強い。 がっちりした体格の北村豊は二十九歳。「アラ」のポジションで、もうこのチームに入って十年になる。 すらっとしていて、芸能人のような甘い顔立ちの「ピヴォ」の石田瑛人は、妻の実家の花屋を任されている三十歳だが、ずっと若く見える。 「ゴレイロ」兼「フィクソ」の山崎樹は、二十五歳。 晶を車に乗せてくれた村上は三十一歳。ナイキのピストレ上下をフランクに着こなし、青いシューズを履いていた。 「あー、集合!」  村上が声をかけると、メンバーたちは集まって輪になる。 「今日のメンバーは……、東、石井、北村、石田、山崎、村瀬、と、俺、村上、と……あと、卒業した堺さんが来てくれています」 堺より一歩下がったところに、背がすらっとしており、頼りなさげな雰囲気の少年が立っていた。白いシャツに黒のハーフパンツから、にゅっと細長い脚が伸びている。 「えっと新人さん、入りました。堺さんからの紹介です。えっと……名前は「佐藤春樹」くん。自己紹介してもらえる? 佐藤くん」 「はい」 「佐藤春樹」と呼ばれた少年は、姿勢よく胸を張って一歩前に出た。そして腕を一直線におろし、ゆっくりと九十度くらいの角度で頭をさげる。仕草こそはおとなしめだが、体育会系の上下関係の中にいたのだろう。 「はじめまして。佐藤春樹といいます、中学まではサッカーやっていました。よろしくお願いします」  よろしく、と、あちらこちらから、声があがると、春樹はすっと顔をあげた。 「晶、歳が近いから面倒見てやって」  村上に手招きされた晶は、「わかりました」と、春樹のそばに寄っていった。  身長172センチの晶から見ると、春樹はすらりとしていた。180センチはあるだろう。春樹は手足が長く、腰の位置も晶とはまったく違った高さにあった。  晶から見た春樹はどこか透明感があり、輪郭が青かった。 「きれいなやつだな」  それが晶の春樹への第一印象だった。 日焼けしていない肌から、春樹がサッカーから遠ざかっていることを晶は感じ取る。 「佐藤くん、俺、石井晶。「あきら」って呼んで。俺も、佐藤くんのこと、「はるき」って呼ぶから。……サッカーやってたんだよね。じゃあ、フットサルのルールは、ほとんどわかるよね?」 「はい、だいたいは」  近くで聞くと、意外にも深くて暗い海を思わせる声だった。年齢の割には大人びて見える上、どこか物憂げだ。  チームメイトが全員年上のせいか、春樹はやや遠慮をしているように見えた。  体にも恵まれているし、サッカーでも活躍したんじゃないのかな。晶はそっと春樹の顔をうかがう。  黒々とした髪を無造作にカットしているが、どことなくけだるげな甘さをふくんだ二重、長いまつげが縁取る黒目がちな瞳、すっと通った鼻梁、ややぷっくりとした唇は、同性でもみとれる造りをしていた。  晶は村上に声をかけた。 「さとっさん、春樹をあとでゲームに入れて実戦させてくれませんか」 「了解」    晶は春樹に、ゲーム前に説明をしておいた。 「フットサルについて解説しておくね」  春樹が溶け込みやすいよう、晶は笑顔を作りつつ、やや高い声で春樹に語りかけた。  春樹もふっと力が抜けたように見えた。 「フットサルは、人数五人でゲームをします。一人はゴールキーパーの担当。交代要員は最大九人。交代はサッカーと違って制限されないんだ。ピッチの幅は、……えっと、タッチラインが38から42メートル、ゴールラインは18から22メートル。センターサークルの半径は3メートル、ペナルティエリアの半径は6メートル。ゴールは高さ2.08メートル、横幅3.16メートル。サッカーと違って、高さはともかく、幅はかなり小さい」 「そうですね」 「ボールは、サッカーのより一回り小さくて、しかもはずみにくい。要領や戦略は独自のものがあるけど、それはおいおい理解したらオッケー。ちなみにアディショナルタイムと、オフサイドはなし」  春樹は体を傾けて聞いていた。手にはメモを携えている。 「はい」 「一試合、前後半の二十分の計四十分」 「はい」 「ねえ、ちょっと、声小さくない? 俺が歳上だから? そんなの気にしなくて大丈夫だよ。俺、とっつきにくい?」  風のように涼やかな声を少し張り上げて、晶はおどけてみせる。 「そんなことないです、ぜんぜん」  春樹がびっくりしたのか、瞳を見開く。ああ、こういう顔もできるんだ、と晶はほっとした。春樹の表情が、あまり変わらなかったのが気になっていた。 「だろ?」  年の差は気にするな、と言いながら、晶は春樹の肩をたたいた。 「それと、うちは地域リーグだから、サークルみたいなもんなの。そういや、どこの高校? 聞いていい?」 春樹が気を遣わないようにと晶は一気にたたみかけるように話をして、春樹との距離を縮めようとした。 「星が浦高校です」 「え? マジ? ほんと?」 「はい、星が浦の一年D組です」 「俺も星が浦だよ」 「そうなんすか……って、すみません、そうなんですか」 「いいよ、別に、敬語じゃなくって。そう、俺、三年A組」  晶ははなしを続けた。 「まず、ポジションの説明をするね。まずは、サッカーのゴールキーパーにあたる「ゴレイロ」。とは言っても、フットサルでは数的な関係から、攻撃参加率はサッカーより高い。次はサッカーでは、ディフェンダーにあたる「フィクソ」。フットサルは基本、マンツーマンディフェンス」 「サッカーよりも、コンタクトスポーツですね」 「お、さすが、わかってるね。サッカーよりフットサルはぶつかり合いが多い。ほぼ喧嘩みたいな時もある。あとは、サイドプレイヤーにあたる「アラ」。マンツーマンできる体力と、ドリブルする能力が求められる。あとは「ピヴォ」。フォワードにあたるポジションね。春樹はガタイもいいし、ここがいいんじゃないかな」

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