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1. はじまり

大学に入ったばかりのある春の日、僕は彼と出会った。 サークルの新入生勧誘が解禁されて間もなくの頃。構内の広場には机と椅子がずらりと並べられ、各サークルの先輩方が部員獲得のために奮闘していた。 その一群の一番端。近くに植えられた木の影の中。おそらく最も目立たないであろうその場所に、彼はいた。 ばさばさとした癖のある黒髪に、少し不健康そうな白い肌。眼鏡を掛けているせいで少し分かりにくいが、その顔立ちは随分と整っているように見える。 彼は椅子に斜めに腰掛けて、机に片肘をついて何やら本を読んでいた。その姿からはサークル勧誘のやる気など微塵も感じられず、どこか近寄りがたいとさえ思ってしまう。 その姿が目についたのは、本当に偶然で。遠目にサークル勧誘の一群を眺めていたところ、偶々彼の手にしている本の表紙が見えて。それが、僕の好きな本と同じだったから、つい、足を止めてしまって。 目が、合った。 瞬間彼は薄い唇を歪め、黒曜石の瞳を細めて笑った。まるで、こちらにおいでと誘うように。 僅かに逡巡した後で、勇気を出して近付くと、彼は少し掠れた低い声で言った。 「こんにちは」 「こ、こんにちは……」 少々ぎこちなく返しつつ、机に垂れ下がったサークルのポスターに目をやる。 「民俗学……?」 「民俗学研究サークル。略して民研。中身はほとんど飲みサーみたいなもんだけど」 「飲みサー、ですか」 「うん。なんなら、飲みすらこない幽霊部員も結構いるよ」 真面目そうな名前に反して、案外お気楽なサークルであるらしい。 「でも、部室には民俗学関連の資料が山ほどあるから、所属学科によっては超便利だったりもする」 レポートなどで使えると言うことか。なるほど、それはお得かもしれない。いや、勿論入部する気なんてこれっぽっちもないけれど。 「……まぁ、のんびり適当にって人にオススメかな」 彼はそう言うと頬杖をついて、他サークルの方へと目を向ける。つられてそちらを見てみれば、新入生に声をかけたり、部の説明をしたりと、熱心に勧誘を行っている姿が映る。 「なんか、他のとこと温度感違いますね」 「ん、はは。確かにね。まーやる気ないですよ、俺は」 「ええ……」 「でも、別に良くない? 何もしなくても、こうして話を聞きにきてくれる人もいるんだから」 苦笑した僕に、彼はそう言って薄く笑う。 「言っとくけど、君が俺を見つけたんだぜ。俺は声かけどころか、手招きすらしてないんだから」 その耳心地のいい低い声に、僅かに背筋が粟立った。急に彼が恐ろしく思えて、僕は思わず口をつぐむ。 彼はそんな僕を見て、少しの間の後で静かに言った。 「……今度の金曜、飲み会あんだけど。新歓コンパ的な感じのやつ。詳しくはこれに書いてあるから、良ければおいでよ」 彼は静かに言って、サークルのチラシを差し出してくる。それを断る勇気もなく、僕は恐る恐る受け取る。 「あの、それじゃあ……」 それから僕は、彼と目を合わせないようにしながら頭を下げ、逃げるように立ち去った。 「……またな、後輩」 去り際に、そう、彼の声が聞こえた気がした。 そして、金曜日。 僕はある居酒屋にいた。そう、民俗学研究サークルの新歓コンパ的な飲み会の場である。 別に民研に興味があるわけじゃない。僕が興味があるのは、あの先輩。 真っ黒な髪に真っ黒な瞳、どこか恐ろしく、不思議な人。あの時感じた言い知れない恐怖は、まだ僕の中に残っている。だが、それがなんだと言うのだ。僕はあの人の学年どころか名前さえ知らない。せめてそれくらいは知らなくては、僕の中に生まれた好奇心は治まってくれそうにない。 というわけで新歓に参加したのだが。 「振り返ると髪の長い女が――――」 「そしたら窓に手形が――――」 「誰もいないのに――――そこで声が――――」 気づけばなぜか、怪談話を語る場になっていた。 数人の先輩が怪談話を披露して、一年生はきゃあきゃあ言いながら聞き入っている。ちなみに、話をしている先輩の中に、あの日僕を勧誘した彼はいない。 なんだろう、これ。新歓コンパってこういうもんなのかな。なんかすごいオカ研っぽいな。偏見だけど。 そんなことを考えつつ、集団から少し離れたところでジュースをちびちび飲んでいると、ふと軽く肩を叩かれた。 びくりとして見れば、黒曜石の瞳がこちらを見つめている。 「あ、あの時の……」 「よぉ、来てたんだな、お前」 ビールジョッキを手にした彼は、僕の隣に座って言った。 「来ないかと思ってた」 「あ、いや、まぁ折角、ですし」 「折角、ねぇ」 ジョッキをテーブルに置いて、彼は小さく笑う。ふわり、とほのかに煙草の匂いがした。 「……そういやお前、名前は?」 「え、っと。日下真って言います」 「クサカ? どういう字?」 「日の下って書いて日下です。真は、真実の真です」 答えれば、彼はへぇ、と頷く。 「俺、二年のニセサキショウスケ」 「にせ、さき?」 あまり聞き慣れない名字に思わず反芻すれば、ジュースを持ったのと逆のほうの手を取られる。なんだろうと思っていると、彼は僕の掌に指で字をなぞり書きながら言う。 「この『丹』に瀬戸大橋の『瀬』、サキは『崎』。『宵』って書いてショウで、スケはこの『介』。丹瀬崎宵介、俺の名前」 ね、と妖艶に微笑んでみせた彼に、つい呆気にとられてしまった。なんだこの人。なんでこんなこと平気で出来るんだ。僕、男だぞ。いや、女の子にやるのもそれはそれで問題がありそうだけど。 しかもこの先輩、初見のときから思ってたけど普通に顔がいい。イケメンってよりは、美形って感じの整った顔立ちをしていて、それでこんな風に微笑まれたら、同性なのについ見惚れそうになってしまうと言うかなんと言うか。いや、僕にはそちらの趣味は断じてないけれど。 「……どうした、後輩?」 「っ、なんでもないです!」 じっと顔を覗き込まれ、ハッとして手を振り払う。それから慌てて周囲に目をやったが、幸い、みんな怪談話に夢中で、こちらを気にしている人はいなかった。 ほっと息をついたところで、くすくすとした笑い声が耳を打つ。 「……何笑ってんですか」 「いや、つい」 「ついってなんスか、ついって」 「いやいや、ははは」 楽しげに肩を揺らして笑う姿に少しだけ腹が立って、僕はふんっとそっぽを向く。 「丹瀬崎さん、結構いい性格してますね」 「……丹瀬崎さんって呼ぶな」 ちょっと嫌そうに言われ、僕は首を傾げる。 「じゃあ、なんて呼べば?」 「えー……普通に先輩とか?」 「他の先輩と区別つかなくないですか?」 「他のやつは名前で呼べばいいじゃん」 なんかすごい唯我独尊なこと言ってないか、この人。 「……名字で呼ばれるの嫌なんですか?」 「超嫌だ」 超がつくほどかよ。……まぁいいか。知り合ってすぐで、下の名前で呼ぶのは流石に難易度が高い。先輩呼びが妥当だろう。 「なら、先輩、で」 「うん。よろしくな、後輩」 先輩は僕の肩を軽く叩いてそう言うと、ビールを呷った。 そうして、そこそこ楽しんだ飲み会の帰り道。偶然、先輩と一緒になった。 聞けば、先輩は大学近くに部屋を借りているのだそう。僕と同じだ。 「地方出身?」 「いや、そう言うわけでもないんですけど。通いってなると、微妙に遠くって」 「あー、まぁ、あるよな、そういうの。俺もそんな感じだし」 そんな話をしながら歩いていると、ふとおかしなものが視界に入った。 数メートル先の街灯の下。不鮮明に揺らめいて立つ、黒い影。 その姿を認めた瞬間、ぞくり、と背筋が粟立った。 ――――昔から、時々変なものを見ることがあった。 それは例えば、雨の日、外から窓を叩いてくる白い手のようなもの。夕暮れ時、公園の木の下に浮かぶ人影。朝、通学路で壁を向いて浮かんでいる足のない人。 幼い頃は不気味なそれらに怯え、母にすがったこともあった。泣きながら怖いものがいると訴える僕に、母は優しく微笑んで、大丈夫大丈夫、と宥めて抱きしめてくれた。 彼らが常ならざる者だということを理解したのは、いつだったか。あまりよく覚えていないが、この頃はあまり見なくなっていたし、見たところで無視するように心掛けていたのだけれど。 不気味に佇む人影に、嫌な汗が流れる。アレは良くないものだと、本能的に感じ取る。けれど無視しようにも、どうしても意識がそちらに向いてしまう。不明瞭な恐怖に縛り付けられて、目が離せなくなって。 ――――バシッ。 「いっ?!」 突然、先輩に背中を思いっきり叩かれた。痛みに声を上げれば、ぐいっと肩を抱かれ彼のほうへと引き寄せられる。 「な、なにすんすか、いきなり!」 抗議の目を向ければ、彼は薄く笑った。 「あんま見ないほうがいいぜ」 「へ?」 思わず間抜けな声を漏らせば、先輩は楽しげに言う。 「霊魂や神仏とかは、普通は目に見えないわけだけど、それは何でだと思う?」 「なんで、って……そりゃ、存在してないから、でしょ。実体、がないから、目に見えない……」 これまたいきなり何なんだと思いながらも、僕は答える。 霊魂も神仏も、人が信仰によって作り上げた幻想だ。僕の目に映る不気味なものたちが幻想かどうかは、分からないけれど。 僕の答えに、先輩は満足そうに目を細める。 「せーかい。じゃあ、どうやったら彼らは実体を持つことができる?」 「どうって……」 なんでそんなことを聞いてくるのか。戸惑いながらも少し考えて、僕は再度口を開く。 「……憑依とか、神降ろし、とか?」 「それも一つの手だな。でももっと簡単な方法がある」 そう言うと先輩は僕の顔を覗き込むように、僅かに頭を傾げる。眼鏡の奥、黒檀の瞳がほの暗く光っている。 先輩は形の良い唇を歪め、低く嘲るように言った。 「人に見てもらうんだ。見て、そこに在ると認めてもらう。人の信仰から成ったものは、人に認知されることで、より強くなる」 「み、て?」 「そう。目に見えるものを否定するのは難しい。理性で拒もうと、本能ではその存在を認めてしまう。人間ってのは、そういう生き物だ」 クスクスと笑う彼に、言い知れない恐怖を感じる。 この人は、一体何を言っているのか。何を、知っているのか。 「まぁ、だからさ、あんま見ないほうがいいぜ。知らぬが仏、とも言うし」 彼はそう言うと、僕の肩を抱いていた腕を下ろし、欠伸をひとつした。 そこで、僕は気づく。いつの間にか、あの人影が立っていた街灯の前を通り過ぎていたことに。それどころか、あの街灯よりも先にある横断歩道のもとまで来ていたのだから驚きだ。 信号が変わるのを待ちながら、僕は勇気を出して彼に問う。 「……見えたんですか?」 さっきの、と小さく言えば、先輩は少しの間の後で口を開く。 「お前さ、目良いだろ。普通の人より、ちょっと多くものが見えちゃうくらいには」 多分イエスだ。目が良いと言っていいのかは分からないけれど、少なくとも人よりは多く見えている。 曖昧に頷けば、先輩は妖しく笑って言う。 「俺はね、そんなお前よりもっとずっと目が良いよ。人より見えるお前より、もっと沢山見えてるよ」 まぁ視力は低いけど、と彼が肩を竦めた直後、信号が赤から青に変わった。 歩き出した彼についていこうとして、一瞬躊躇う。どうしたって、彼が怖い。本能が恐怖を訴えてくる。けれど。 僕は足を踏み出す。きっと彼はいい人だ。見ないほうがいいと、注意してくれた。意識を向けてしまわないようにと、話をしてくれた。だからきっといい人だ。 そう自分に言い聞かせ、僕は横断歩道を渡り切った。それから、彼の隣に並んで言う。 「民研、入ろうと思います」 「……そうか」 先輩は僅かに目を見開いてから、静かに笑って言った。 「じゃあ改めて、これからよろしくな、後輩」 これが始まり。 少し目が良いだけの僕と、不思議で優しい先輩との、出会いの話。

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