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第1話
あの人は、俺を「ヒーローだ」と言った。
けど俺は、自分の前から居なくなるあの人に手を伸ばす事も、縋る事さえも出来なかった。
諦めた訳では無い。
「悪」になり切れず、手段を選んでしまった。
いっその事、自分が悪い人間であったなら方法なんて、周りの目なんて、世間体なんて気にもせずに今あの人とまだ笑いあえていたのかもしれない。
格好つけのあの人は、いつも誰かを守っていていつも誰かの代わりに犠牲になって苦しんでいた。
それを隣で見てきたのに、気づいた時にはいつも手遅れだった。
あの人は、俺と居て幸せだったのだろうか。
俺はまだ大人になんかなりきれていない。
貴方を諦めることが大人になることの一つなのだとしたら、俺は一生我儘で馬鹿な子供のままでかまわない。
例え出来損ないの非力なヒーローだとしても、俺の中に募っている想いの重さも大きさも未来永劫、彼と出会った事実がある限り変わることはないのだ。
─……そして俺は今も、あの人の事をずっと信じているのだ。
「今日もうさ先輩はかっこいいねぇ~」
「足も長いし、髪赤いのも似合ってるし」
「あんなに柄悪そうなルックスなのに話しかけるといつもニコニコしてくれるし」
「甘い声に関西弁のギャップ!」
「勉強も、運動も申し分ないしさぁ」
「まぁそこまでは完璧だけど……」
「付き合いたいとは思わないよねぇ~!!」
賑やかな教室で一際響く窓際ではしゃぐ女子生徒達の甲高い声。
窓の外、校門から昇降口まで続く道をのんびり社長登校して来る派手な容姿の男子生徒は、クラスの女子のみならず恐らく全学年の生徒の注目の的らしい。
外見が派手だから……と一言で言ってしまうのは簡単だが、まあ結局はルックスが抜群に良いのだ。
染めている赤い髪は傷んでおらず艶やかで、スラリとした一八〇はゆうに越えるであろう高身長で手足は細く長い。
流石に華奢というわけではないらしいがお世辞にもガタイ良いとは言い難い細さの為か、モデル体型というよりかは少々不健康さを感じる体型である。
そんな細い身体にワイシャツをラフに羽織り、ズボンもゴツイベルトのせいかダボついて見えていた。
腕につけてるアクセサリーや、指輪、ピアスも美意識なのかただ単に付けたいものを付けたいだけ適当に付けているのか、ゴチャゴチャと身に付けていてそれらも重く見えるくらいには細身であった。
そしてなんと言っても彼がこんなにも連日騒がれている理由は体型も去ることながら、抜群のスタイルに引っ下がっている顔面の偏差値の高さのせいだろう。
そんじょそこらの所謂「イケメン」呼ばれるような容姿どころの騒ぎでは無いのである。
純粋な日本の血では無いのか、瞳の色はグレーと碧色を混ぜて水を多く含めた水彩絵の具のような、透明感溢れる宝石よりも美しい色をしていた。
それを縁取るまつ毛や眉毛も黒ではなく、色素の薄い茶色であるから恐らく元々の色素が薄いのだろう。
肌の色も勿論白く、血管は青く浮き出るような透き通ったきめ細やかな肌をしていた。
きっと、彼の器一つ一つが端整に造られた唯一無二の芸術作品のような何とも形容しがたい美しさ、端正さであるからこんなにも芸能人でもないのに騒がれているのだろうと思う。
自分もそこまで悪い容姿ではないと思ってはいるが、やはりあれ程どこの角度から見ても整っていると毎朝鏡見るだけで一日幸せな気分になれるのではないか、だなんて真宏は素直に羨ましく思った。
「真宏、まぁたうさ先輩の事考えてんの~?」
学校一のモテ男の分析を冷静に心の中で行っていると、呆れた顔をした友人の、ハゼ──枦木 日向(はぜき ひなた)──が顔を覗かせた。
「別に、考えてないよ」
「今時ツンデレは流行らないんじゃない?」
「そんなつもりないですけど」
真宏がムッとして言い返すと、ハゼは「はいはい」言いたげにケラケラ笑った。
「ねぇ隆ちゃんからも言ってやんなよ~。うさ先輩は手に入らないって」
ハゼの言葉を聞いた久我は携帯に向けていた顔を上げ、真宏を捉えた。
「あの人が好きなのは尻軽ビッチで巨乳な女だぜ、真宏」
久我は至って真剣に真宏を見つめそんな事を言う。
真宏は溜息を吐いてじろり、と睨んだ。
「うるっさいなぁ。そんなつもりないって言ってるだろ」
少し強めに言えば、ハゼが呆れたように頬杖をついて真宏を半目で見つめた。
「だって真宏、いつから片思いしてんの」
「だから、そんなんじゃないってば!」
この二人がここまで真宏を弄ってくるようになったのには理由があった。
それは今から丁度三ヶ月程前の入学式の日の朝の満員電車での出来事を話してからだった。
それは突然の事だった。
昔から度々ありはしたが、最近はぱったり無くなっていたため安心してしまっていた。その安心が油断になっていたようだ。
ぎゅうぎゅうすし詰め状態の通学電車内。右も左も前も後ろも、赤の他人。いつもは満員電車が大嫌いなので、二本前の電車でゆったりと行くのだが、今日は雨、加えて寝坊して二本分後どころか三本分も遅れてしまった。
つまり、もう普通に遅刻だ。
真宏は「またか」と心の中で深いため息をついた。朝の通勤時間のせいで満員電車にもみくちゃにされながら、必死に登校しているというのに。そんな自分のいたいけな尻に、何かが当たっている。
でかい手でまんべんなく制服のズボンの上から撫でられる感触にゾワゾワと鳥肌が立つ。逃げようにもすし詰め状態の為、次の駅で止まるまで身動きが取れない。
しかも運悪くこの区間は、真宏が乗る区間の中でまあまあ長めのため、あと十分はこのまま撫でられなくてはいけなくなる。
長年の経験から痴漢に下手に反応すると相手の思うツボだというのを心得ているので、この男の股間を蹴り上げたい気持ちを抑え真宏はただじっと耐えた。
大体真宏は昔からそうなのだ。
顔が母親似で女顔だからか、筋肉がつきにくい体のせいで弱く見えるのかなんなのかはしらないが、物心ついた時から何かと変質者に襲われることが多かった。
幼稚園の頃は公園で兄──涼雅──と遊んでいて、涼雅がトイレに行ったタイミングで知らない男に声をかけられ、危うく連れていかれそうになったところを、涼雅が相手の顔面に向かって飛び膝蹴りをしてくれたおかげで危機を免れた。
それ以来涼雅は執拗に真宏の安否を確認してくるようになってしまったし、中学に上がるまで登下校は何故か涼雅と一緒にしていた。小学校に上がってからはストーカーをされたり、露出狂にあったり色々あったがその度に涼雅が対処してくれた。中学校に上がると今度は外部のほかに学校内部の人間の犯行も何故か増えて、無駄な嫌がらせをされていた。
しかし全て涼雅に泣きつきなんとかしてもらうのも男として情けないと思い始め、必殺技だけは習得した。犯人を突き止めるたびに、相手の股間を満足するまで蹴り上げる。犯人たちは泣きながら帰って行き、その後二度と同じ人間は寄ってこなくなった。昔からこういう類には何故か好かれるわけだが、真宏だって泣き寝入りしてきた訳じゃない。小さい頃は変質者に遭遇する度に泣いて涼雅の元へ走ったが、成長は誰だってする。そのせいかは知らないが真宏は、やけに攻撃的な性格に成長したようだ。未だに自分の下半身でもぞもぞ動いているこの手を、へし折りたい。もしくは目ん玉を抉り出してやりたい。
ふと撫でる手が離れて行った。飽きたのだろうか、と思ってチラリと振り返るとじんわり汗ばんだスーツ姿の太ったオジサンの手を、満面の笑みで捻りあげている赤髪の派手な男の姿があった。
「えー趣味しとんなぁ〜、オッサン。ぶひぶひ豚みたいに鼻鳴らしおって、ここは養豚場ちゃうで」
関西弁で赤髪の、派手な男はニコニコしながらオッサンを見下ろしている。この騒ぎに気づいたのか、周りの乗客達も次第にチラチラこちらを見ている。
あと五分で到着駅。
真宏は、こっち見てんじゃねぇよとか、見るぐれぇなら助けろよ、とか、色んな苛立ちが募りはしたが、それらを怒鳴ったところで何も解決しない事は充分、分かっていたので、深呼吸をして大量に息を吸い込んだ。
「キャーチカンヨォーダレカヘルプミィー!チョットオジサン、ソノヒトアタシノダァリンダカラテェダサナイデヨネ、ネッ、ダァリン?」
真宏の真顔と大声でしん、と車内が静まりかえる。派手な男は一瞬ポカンとしていたけれど、真宏の作戦に気づいたのか、肩を震わせて「くくっ…せやなぁ〜、ハニィ〜」とグイッと真宏の肩抱き寄せた。真宏はおっさんをじとりと見やり、口を開く。
「ていうかぁ〜、いい歳こいて公衆の場で鼻息荒くして未成年のケツを揉みしだいた挙句、同じ高校生に腕捻りあげられて手も足も出ず汗だくになっているのって、めちゃくちゃ無様で醜いなって思うんですけど、その辺どうお考えで?」
「……あ、……ぃ、や……」
男は周囲から好奇の目に晒され、逃げ出したくて堪らないとでもいうように俯いていく。
「オッサンさぁ、スーツなんて着て鞄も持ってるけど働いてないの?通勤のフリ?それともマジの会社員なわけ?会社名教えてよ。人に自分を知ってもらうために、サラリーマンは何持ち歩いているんでしたっけ?ほら、ここで使わなきゃ」
ジリジリとドア側に追い詰めると、オッサンはヒイィッと涙目になってぷるぷる震え始める。
……くっそキモイ。
更に追い詰めようと口を開いたところで、ポンッと肩に手を置かれた。
「まぁまぁキミ、そんくらいでええんちゃう?腹立つやろうけど、オッサンもう顔撮られとるみたいやし、SNSで広まんのも時間の問題やろ〜。どの道、お先真っ暗、やな」
真宏の暴走を止めたのかと思いきや、トドメを食らわせた男に真宏は、こいつも大分攻撃性ある性格してんな、と感心した。真宏の大声で一車両全体に知れ渡った痴漢ジジイは顔を青くしたり赤くしたり忙しそうだった。
本来ならこのまま捕まえて駅員に渡したいところだが、生憎真宏の遅刻はもう確定している。
これ以上遅れたくはない。
コイツの人生を終わらせたいところだが、自分の成績の方に響かせるわけにはいかない。今回は目を瞑ってやろう。そのかわり、社会的に死んだ気分にさせてやるしかないな、と思った時、ちょうど電車は駅に到着し、オッサンは降りる乗客を押し退けて一目散に飛び出して行ってしまった。真宏と男は顔を見合わせてくすくす笑う。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、男は「かまへんよ別にぃ。おっさんの鼻息がうざかっただけやしぃ」とにこにこ笑う。にっこり笑う男の口から八重歯がちらりと見える。よく見ると目鼻立ちが整っている。瞳の色もカラコンなのかわからないけど、碧とグレーが混ざった色をしている。生きてきた中で見たことのない綺麗な色。
鮮やかな赤い髪に碧い瞳。 そして爽やかな笑顔……。
男は「明日から防犯ブザー持ち歩いた方がえーんちゃう?じゃあな」と手を振ってこちらに背を向けて行ってしまった。
……防犯ブザー、持ち歩こうかな?
真宏はやたら真剣に防犯ブザーについて考えつつ、男の顔がちらつく己の思考に首を傾げながら学校までの道を急いで歩いた……
というのが事の顛末。
あの時初めて知った「宇佐美」という存在に、確かに一時期心奪われた気はしたが、気の所為。
あれ以来学校で先輩を見かけるたびに、胸がドキリとなって思わず目で追ってしまうようになったがこれも気の所為。
真宏は宇佐美を好きな訳では無い。
一種の憧れのようなものなのだろう。
「でも真宏、あれ以来めちゃめちゃうさ先輩のこと見てんじゃん」
ドキリ、と胸が鳴り真宏は少し視線を落とした。
「……別に、派手だから見てるだけだよ」
……もしも、先輩が女だったら、もしくは自分が女だったら『恋』だと錯覚していたかもしれない。
「まあ確かに派手だわな」
久我はピコピコと携帯ゲームをやりながら賛同してくれる。
そう、自分は先輩が派手だから見てしまうだけで決して好きな訳では無い。綺麗な人が居たらついつ見てしまうのではないか。
綺麗な景色や綺麗な芸術があると否応なしに心奪われるのと同じように、そうこれは言わば自然現象である。
「真宏って恋した事ないの?付き合った事とか」
ハゼに問われた真宏はギクリとする。
「……」
「えっ無いの!?」
ハゼや久我に目を丸くされた真宏は不機嫌にムス、と不機嫌に返す。
「……悪いかよ」
「いや悪くは無いけどさぁ……」
ハゼらは顔を見合わせ、哀れみがこもった気まずそうな顔で真宏を見た。
なんだよその目線は……めちゃめちゃ腹立つな!!
「真宏、困ったり悩んだりしたらお兄さん達に頼るんだよ?」
「初めては誰にでもあるって!大丈夫、俺結構経験あっから」
「は、はあ!?なぁにがお兄さんだ!!」
悠々と馬鹿にされ思わず怒鳴った真宏の声が穏やかな昼休みの教室に響いてしまい、クラスがシィンとしてしまった。慌てて口を抑え、二人を睨んだ。
「……まあ冗談抜きにして、あんまり我慢し過ぎない方がいいよ?そういうのは」
「我慢?別にしてないよ」
何に対しての我慢なのか分からず、首を傾げてハゼを見るが、複雑そうな顔をしたまま見つめ返されるだけだった。
「……どんな物事に対しても、我慢し過ぎると毒だからね」
……だからしてないって、……と思ったけれど、ハゼの顔がいやに真剣だったので、真宏は何も言い返せなかった。
*
下校時間となり、真宏は部活に行くハゼを見送った後、日替わり女子とデート下校をする久我に冷ややかな視線を送って、自分も帰るために昇降口に行こうと廊下を歩いていた。今日の夕飯何だろうか、昨日は肉だったから今日は魚だろうか、なんて食べ物の事だけを考えつつボーッと歩いていると、なんとなく窓の外に意識が向いた。よく見ると中庭に派手な髪色の男が立っているのが見える。
……ん?あれうさ先輩じゃん。
何してるのかと目を凝らすと、宇佐美はもう一人居るピンク髪の男子生徒に胸倉を掴まれていた。
「えっ、なんだあれ……」
彼らの間に流れる不穏な空気に、真宏は思わずその場から走り出していた。運動音痴な真宏なりに一生懸命走って、中庭に出る。遠目だったからハッキリしないけれど、どうやら胸倉を掴んでいる男は泣いているようだった。
宇佐美はいかにも面倒くさそうにそっぽを向いてボーッとしていた。
「っテメェのせいで、スズが……!!」
「……いや、はじめから言うてるやん。俺は誰のもんにもならへんねんボケ」
なんだなんだ、何の話だ?
「クソヤリチンが!!どうせ捨てんなら簡単に手ぇ出してんじゃねぇよ!!」
「俺から出したんとちゃうしー。女が勝手に寄ってきたに決まってるやん。責任転嫁やめてくださぁ〜い」
「テメェ……ッ!!!」
再びキレたらしい男が宇佐美に拳を振りかざした。真宏は思わず飛び出して、「す、ストーップ!!!」と間に入ってしまう。
「……ッ」
……が、拳の勢いは止まらず男の鋭い右ストレートは真宏の左頬にダイレクトに入った。
そりゃあそうなる筈である。真宏は喧嘩が得意ではないし、何より先にも言ったように運動神経が宜しくない。
間一髪で避けられるようなヒーロー体質でも勿論無い。
「い゛でえ……」
思わず蹲って抑えると、男は「な、なんだよお前!!今はこのクズと話してんだよ!!」と怒鳴り散らしてくる。
いやいやいや!!俺も痛いんだけど!!
「……暴力、良くないんで……」
ほっぺたを抑えつつ顔を上げて言う真宏に男は「ッはあ!?」と更にボリュームを上げた。
今度は真宏が標的になったらしい。荒々しく胸倉を掴まれた。
「うるせぇな!!お前に俺の気持ちが分かるかよ!!」
ボロボロ涙を零しながら怒鳴られる。
……いやぁ、正直言って分からんな。何の話だ?うさ先輩が、この人の女の子を寝とった話?
正直言ってこれだけ泣いてる姿を見せられるとそりゃあ確かに可哀想だな、くらいは真宏も思うし同情はする。
けれど、同時に「今更なのでは」とも思っていた。
「……ほら、この人ってそういう人らしいじゃないですか」
真宏はゆくっりと立ち上がり慰めるでもなくそう言うと、男は「……は?」と眉を寄せ真宏を見つめ返していた。
「だってこの間も女の子にぶん殴られてましたよ、この人」
何故か目で追ってしまうようになった真宏は知っている。宇佐美が先週、七日間きっちり毎日違う女の子にぶん殴られていた事を。真宏はそれをたまたま目撃して普通にドン引きしていたのだ。
「……うわぁ……」
男も、それを目撃した真宏と同じ顔をしてドン引きしつつ宇佐美を見ていた。
「だから、貴方が先輩に怒鳴り散らしても殴っても無意味だと思うし、……その時間を逆に、その女の子に使ってあげた方が、いいんじゃないですか?」
こてん、と首を傾げて言えば男は呆気に取られた顔をして「……お、おう……?」と間抜けな声を出す。
真宏はその様子に安堵して、ニッコリ笑う。
「じゃあ、俺にごめんなさいってしてください」
「え?」
「え、じゃないですよ。俺、頬っぺたジンジンするのでちゃんと、ごめんなさいって言ってください」
ムスッとして言ってやれば、男はまた眉を釣りあげて怒鳴はじめた。
「お、お前がいきなり間に来たんだろーが!!状況分かっててすっ飛んで来たのはテメェだろ!!」
「それはそうだけど、悪いことをしたらごめんなさいってするのは当たり前の事でしょ!?」
ギャンギャン吠え合う真宏達をぼんやりと黙って見ていたらしい宇佐美は、堪えきれなかったのか唐突に「くく……っ」と声を出した。
「……え」
真宏が驚き振り返ると、宇佐美は口を抑えて肩を揺らしていた。
「……せやなぁ。あかん時はごめんなさい、やなぁ」
宇佐美は「あー久々にわろた」と目尻の涙を拭う。その仕草がスローモーションのように見え、ついうっかり見惚れていた。そう言えば、出会った時以来こんな近くに来たのは初めてかもしれない。
……じゃなくて、
「アナタも謝らなきゃ……」
真宏は慌てて視線を逸らして宇佐美にもそう言った。宇佐美は自分も言われるとは思わなかったのか、「え?」とキョトンとした顔で真宏を見つめ返してきた。
「先輩が悪いことしたから、この人は怒ってるんですよね?じゃあ先輩もごめんなさいって言わなきゃ……」
宇佐美の深い碧の瞳を見つめながら言えば、宇佐美はずっと頭にハテナを浮かべていたらしいが、唐突にすんっと表情を元に戻し、真宏から視線を逸らして頬を膨らませた。
「やだ」
「……え?」
思わぬセリフに驚き、宇佐美を凝視する。
「俺悪くないやん。嫌や」
拗ねたような顔で言う宇佐美に、真宏は「はあ!?」と声を荒らげた。
「いやいや悪いでしょ!!どう考えても悪いでしょ!!」
「悪くない。俺なんも悪いことしとらん。全部そいつが悪い」
ツンっとそっぽ向いて言い切った宇佐美に、男はまた怒りのボルテージが上がってしまった。
「テメェふざけんなよ!!」
「テメェやないですぅ〜宇佐美ですぅ〜」
何故か負けじと煽り続ける宇佐美と、相も変わらず短気な男が喧嘩をはじめてしまい、真宏は二人を交互に見比べて「はあ……」とため息を吐いた。
そして、彼らの後頭部に掌をしっかりと当てて、ガツンッとお互いの額をぶつけさせた。
「い゛っ!?」
「っでェ!?」
真宏は混乱した顔で見てくる二人に、ビシッと指をさして声を荒らげた。
「二人とも、今すぐごめんなさいってしなさい!!!
俺に!!!」
そう言いきると、二人は少しの間を置いて何やら思考していたようが、同時にハッとして口を開け声を揃えて叫んだ。
「なんでやねん!!」
「なんでだよ!!」
おお、本物の「なんでやねん」だ…………と、真宏は呑気に感動していた。
「で?喧嘩の間に入って殴られたけど2人に正座して謝らせたって?」
額に青筋を浮かべたハゼに真宏は恐縮しつつも「……はい」と素直に返事をし視線を逸らしつつ話した。
朝登校した時からハゼと久我に「ほっぺどうした!?」と聞かれ続け、のらりくらりかわしていたらついにハゼがキレたので昼休み、正直に話した。
「なんで真宏はいっつもそうなの!!なぁんで面倒事に自分から首突っ込むの!!」
ガミガミ怒られ、俺はクゥン……と耳垂れ犬のようにしゅん、となる。
「……だって、喧嘩はよくないし……」
「喧嘩は良くないけど、真宏の間に入り方は危ないでしょ!!なんで後先考えずに行動しちゃうかなあ!?」
ハゼは腕を組んで真宏を教室の床に正座させた。
真宏はしょんもりとして俯く。
だって、あのままじゃ乱闘になってたかもしれないし……だって……だって……。
「まあまあ真宏は無事だったんだし良くね?」
久我は面倒くさそうに見知らぬ女の子を膝の上に乗せながら真宏をフォローした。
「ねぇ隆く〜ん、ヒナにもそのジュースちょ〜だい?」
「おー」
……くっ、相変わらずモテモテだな遊び人め。
真宏が恨めしい視線を向けていると、背景に轟轟と燃え盛る炎を纏ったハゼが仁王立ちして真宏を見下ろしていた。
「真宏!!!僕の話をちゃんと聞いて!!!」
「すみません……」
久我と女の子が「あの子なんで怒られてんのー?」「さあ」と話しつつイチャイチャしながら真宏を横目で見ていた。
「もう危ない事しないで。僕か久我が駆けつけられない時に余計なことに首突っ込まないこと。分かった?」
「…………う〜ん」
「返事は、"はい"一択!!!」
「はい」
「宜しい」
ハゼはまだ少し怒りつつも、真宏の手を取って立たせてくれる。
「心配なんだからね、一応」
自分より背が低いハゼに見上げられた真宏は、「ごめんね」と笑った。ハゼは女の子みたいに細くて小さいけれど、真宏より力があって空手の黒帯を持っている有段者だ。
下手したらこの学年……いや、この学校の誰よりも強いのかもしれない。
久我は運動神経や勘がいいので基本的に何でもそつ無くこなせてしまうらしい。それは勉強も然り、女遊びもまた然りだ。ハゼのお説教から解放された真宏はやっと机椅子に座り直して三人で弁当を食べはじめる事が出来た。
今日も涼雅お手製の最高のランチタイムである。
「俺は真宏が傷を作ってくる度に次は何に首を突っ込んだのか、聞くの結構楽しみだけどな」
他人事である久我にハゼが「こっちの心臓がもたないっつーの!」と反論しているのを聞き流しつつ、真宏は大好きな塩唐揚げを口に含む。
お弁当用にはいつもニンニク控えめなのを入れてくれるのは涼雅の優しさである。
「てかさあ、うさ先輩に好かれちゃったらどーすんの?」
「なんで?」
ハゼは眉を寄せてソースのたっぷり付いたミートボールを口いっぱいに頬張った。
「えー、だってあの人さあ……」
「え、真宏くんうさ先輩のこと好きなのー?」
久我の膝の上に座っていた名前も知らない女の子がハゼの言葉に被せて発してきて、驚いた目で真宏を見る。
「え!?違う違う!!」
慌てて弁解をすれば、女の子は安心したように目を細めて「良かったあ」と笑った。
「ん?ヒナ、良かったってどゆこと?」
久我が不思議そうに女の子に問いかけると、女の子──ヒナ──は苦笑して久我に向き直る。
「いやうさ先輩の事好きになると、ろくな事無いから止めとけって言おうとしたの〜」
ヒナと呼ばれた女の子はもう興味が無くなったのかそれ以上話す素振りは見せず、菓子パンをモグモグしている。
けれどそんな中途半端な情報を流されて止められたら、誰だって嫌でも気になってしまうではないか。
「ろくな事無いって?」
案の定ハゼが興味津々にヒナを見て続きを促していた。
「ほら、うさ先輩って色んな噂が流れてるでしょ?その中のいくつかは事実もあって……」
ヒナは口元に人差し指を当て、「えっとねー」と頭の中で聞いた話を思い出していた。
ちょん、と尖らせた唇に塗られているリップグロスは久我のためにつけているのだろうか。
杏も似合いそうだな、なんてシスコン丸出しの思考をしつつヒナの言葉の続きを待った。
「んーなんかねぇ、まあ詳しくは忘れちゃったんだけど、とにかくうさ先輩に関わるとろくな事が無いらしいんだよねぇ〜」
ハゼはイマイチぴんと来ていない様子で眉を寄せてヒナを見ていた。ヒナは何も気にしてないような顔でニコニコ笑いながら、「この菓子パン美味しい~」と呟いていた。
「けどさ、宇佐美サンは現にモテモテなわけじゃんか。それって付き合いてぇって奴がいっからだろ?って事は少なくとも宇佐美サンの周りにいる奴らは宇佐美サンにメリットを見出してそばに居るんだから、ろくな事ないってのは勝手な噂すぎねぇ?」
久我に正論を言われたヒナは「うんとね」と手に付いたクリームパンのクリームをペロリと舐めとった。
それを慣れた手つきで久我はティッシュで拭ってあげている。
「その先輩の事を狙ってる子が多すぎるから、色んなトラブルに巻き込まれたりするんだって〜。あと先輩は何故かメンヘラに好かれやすい!」
……メンヘラってアレか?好きになってくれないなら死ぬ、みたいな、なんかそんな感じのアレだろうか。
「ひなも最初は単なる噂だろ〜って思って好き好きしてたんだけど、周りの子の圧が凄いのも勿論だったんだけどねぇ、それよりもうさ先輩は多分誰とも付き合う気は無いんだろうなって感じがしたんだよね」
「だから久我くんに乗り換えた!」とにこやかに言い放ったヒナに、久我は「俺は代打かよ……」と項垂れている。
「だからさあ、ひな、真宏くんも結構好みだからうさ先輩のとこ行かないで欲しいな〜。久我くんにヤリ捨てされた時、今度は真宏くんにするー!」
まさかの目の前で、久我の代打宣言されてしまい真宏は苦笑した。
「その時はそいつ半殺しにするから大丈夫だよ」
爽やかな笑みを浮かべ久我を見てやれば、視線を逸らしてきた。
「うさ先輩は彼女居ないんだ?」
「今は居ないらしいね〜」
「今は?」
ハゼの聞き返しにヒナは「うん」と頷く。
「って事は前はいたんだ?」
ヒナはパンを咀嚼し終え、久我が持っていたいちご牛乳のパックジュースを美味しそうに啜った後、ハゼの問いに頷いた。
「中学生の頃かな?居たらしいよ。大阪の中学校だからどんな人かまではわかんないけど〜」
そうか、出身は大阪だったな。
「ふぅん、なんで別れたんだろー。ま、そんな様子じゃヤリモクとかだったんだろうけど」
ハゼは呆れたようにそう呟いて弁当を口に含む。そんな呟きを聞いたヒナは「ううん」と首を横に振って否定した。
「違うよ別れてないよ、うさ先輩は」
「え?」
真宏を含む三人はヒナの台詞に驚く。
別れていないのに元カノ?どういう事だ?
「先輩のね恋人さん、亡くなってるの。うさ先輩が上京してくる少し前に」
あっけらかんと言ってのけたヒナとは対照的に、真宏達は口を開けて固まった。
時が止まってしまった気分だった。宇佐美の恋人は亡くなっている。中学生の時に……。
だから誰とも付き合う気が無い……という事なのか。
否、付き合う気がないわけではないのだろう。付き合えない、と言った方が正しいのかもしれない。
真宏にはまだ好きな人ができたことがないから明確に、ああだこうだ語る事は出来ないけれど、ふと想像してしまう。自分の大切な人がある日突然居なくなってしまったら。
自分はその時、宇佐美のように笑えるのだろうか、と。
自分の事では無いのに、重く伸し掛る現実に真宏は少し目眩がした。
ハゼも久我も何も話そうとしないのはきっと、話せる事が見つからないからなのだろう。何となく外の空気でも吸ってこようかと立ち上がりかけたその時、のしっと背中が重くなり「ん?」と首を傾げた。
「おったおった。お前やお前」
ふわりと甘いバニラのような、お菓子のような匂いが鼻腔に届き、真宏の頭にハテナが浮かぶ。気づけばハゼも久我も、あろう事かクラスメイト全員が真宏……いや正しくは真宏の後ろに視線を向けられていた。今は昼休みで先程まで和気藹々としていたはずの教室がシンと静まりかえっていた。
「お、美味そうやなその弁当」
横から伸びてきた白く細い指にヒョイッと摘まれ、最後まで楽しみに取っておいたタコさんウィンナーが持って行かれてしまった。
「あ……ああ!?」
お気に入りが目の前から消えていった衝撃に、真宏は思わず振り返る。
「……っあ、あんた!!」
ドアップで綺麗な顔が視界に写り、一瞬だけ怯んでしまったがウィンナーをモグモグしつつニコニコと向けられる視線に腹が立った真宏の中でふつふつと怒りが湧き上がる。ほんの一瞬、コンマ1秒程だけ顔が好みが故に見惚れてしまったが、そんな事より人の弁当を勝手に食うなんてどういう教育受けてんだこのヤリチン!!!
「ちょっと!!俺のウィンナーなんで食べたの!?何しに来たんですか!!返せ!!」
怒りに任せて怒鳴れば、宇佐美はキョトンとしつつウィンナーを摘んで油がついた汚れた指をさも当たり前かのように真宏の制服に擦り付けていた。
「おい!!人の服で拭くな!!」
「それシャレ?おもんなぁ〜」
狙ってもいない洒落を鋭く指摘され、怒りのボルテージはどんどん上がっていく。真宏が抗議してやろうと立ち上がった時、そのままグイッと腕を掴まれた。
「へ」
「ちょっと来て」
さっきまで人のウィンナーを食べやがっていた忌々しい手足長オバケに引っ張られ、真宏は状況が把握出来ないまま教室から連れ出されてしまった。宇佐美の教室でも無い、空き教室でもない、ましてや特別教室でもない。
あらゆる教室を無視し、階段を何度も何度も上がらせられる。
「っねぇ、先輩!!どこ行くの?俺まだ弁当……っ」
痺れを切らして問いかければ、さも面倒くさそうにチラリと流し目で見られてしまう。
「うっさいなあ。着いて来れば分かるやろ」
ウザそうに顔を顰められ、真宏の中にイライラが募る。
なんだコイツ!勝手に俺のこと連れ出しといて!アポ無しで!!しかもウィンナー!!俺の!!なんで食べたんだ!!
食べ物恨みは怖いとよく言うが、まさにそれだ。怒りで頭を掻きむしりたくなり掴まれていない側の腕を持ち上げようとした時真宏は、はた、と気づいた。
……俺、お箸持ったままじゃん。
その間抜けさに気づいたとき、一気に怒る気が失った。されるがまま連れられるがままに足を進めていくと、ガチャリと鍵の開く音がし、錆び付いたような金属音がきこえた後ぱあっと視界が開け思わず顔を上げる。
「……え、屋上?」
何故か箸だけを大事に持って屋上に来る高校生は世界中探しても、自分だけな気がする。
「他に何があんねん」
相変わらず腹立つ言い回しのコイツを無視して、初めて入った屋上にこっそりはしゃいでいた。普段は立ち入り禁止であるし、駄目だと言われているところにわざわざ危険をおかしてまで立ち入ろうとはい思わない。けれどやはり高校生の憧れなのだ屋上は。何をするでもなく学園ドラマの真似事かもしれない。けれど一生に一度かもしれない感動に、真宏は思わず柵に駆け寄り身を乗り出して下を見ようとした、その時、
「うわっ!?」
さっき掴まれた時の比ではない力強さでがっしり腕を掴まれ、柵から体が離されていた。
「……え、なに?」
驚いて宇佐美を見上げると、何故か宇佐美自身も至極驚いた顔をして真宏を見下ろしていた。普通の人なら間抜け面になってしまうような表情でも、この男はやはり違うのだな、と彼の端正な顔を見上げてぼんやり思った。
「ていうか、なんでここに連れて来たんですか?俺、弁当途中だったのに」
不機嫌さを隠さずに言えば宇佐美はハッとして我に返って、真宏から手を離した。
「ああ……。お前に頼みたい事があってな」
「……え?」
あの宇佐美が人に頼み事をするなんて、と驚きつつも顔を上げ見つめ返した。宇佐美はいたって真面目な顔で真宏の肩をしっかりと掴んで真剣な顔で言った。
「付き合うてや、昼寝に」
「……は?」
これまで生きてきて、こんなに心の底から「は?」と思ったことがあっただろうか。それくらい真宏は一瞬で困惑し、思考が止まった。昼寝を一緒に、とはどういうことなのだ。今流行りの添い寝フレンド……通称ソフレというやつをご所望なのだろうか。それなら何も真宏でなくても宇佐美はよりどりみどりではないか。剰え真宏は男だ。選べるほど人が集まってくるのだから、体の構造的にも柔らかい女の子の方が断然いいに決まっている。この綺麗な顔を真宏に向ける暇があるのなら女の子に向ければ一発で了承してもらえるだろうに、と心の中で真宏は思う。
勿論宇佐美自身そんなことは百も承知なのだ。それが分かっているからこそ、彼は真宏を選んだのだから。
真宏はポカンと口を開け、宇佐美を見上げる。
「何やその顔腹立つな」
「いや……いやいやいや……は?」
そんな宇佐美の心など知る由もない真宏は何度考えても理解ができなかった。
「え、勝手に寝れば良くない?」
理解もできないし、仮にそれに付き合うとして真宏にとって何がメリットになるのだというのか。というかお昼寝タイムが必要とか、お前は保育園児か、
と内心ツッコミたくなる。思わずぽろっと言葉を溢せば宇佐美は顔を顰めて、「それが出来るんやったらやっとるわ」と言う。
「俺、昼はここで寝るんが日課なんやけどな、寝てっと、毎度毎度寝込みを襲いに来るやつがおんねん」
宇佐美は疲れた顔をして懇願するような顔を真宏に向ける。
寝込みを襲いに……とは。
「せやから、俺が寝とる間見張ってや。俺の貞操を」
貞操もクソもあるか、ヤリチンのくせに、と心で悪態をつくも真宏はいたって冷静に言葉を返す。
「……なんでそれを俺に頼むんですか?」
接点なんてあんまり無かったし、そもそも信頼できる友達とかに頼めばいいのでは。
「俺、友達居らんし」
真宏の心を読んだかのようにあっけらかんと言ってのける宇佐美。その実宇佐美には友達と呼べる者はいなかった。宇佐美の周りにはいつも人が集っているが、それは宇佐美が呼んでいるわけではない。いわば、花の蜜欲しさに群がるミツバチたちとでも言おうか。
宇佐美は人が好きではなかった。本人から誰かにアクションを起こしたことは過去に一度もないのだ。来るもの拒まず去る者追わず、それが宇佐美のスタンスだった。とどのつまりコレは宇佐美にとって初めて自分から、人と関わりあおうとした結果だったのだ。
「……俺、一応男ですけど……」
真宏が念の為そう言うと、宇佐美は「はあ?」と顔を歪ませた。
「分かっとるわ。お前はどっからどう見てもチンチンやん」
「……はあ!?ち……!?どんな表現だ!!」
人を表す単語で「ちんちん」と使うのだろうか。最近の流行なのか。
「俺のガチの方の枕やってやぁ〜」
「嫌ですよ!そんなのに巻き込まないでください!大体それなら俺じゃなくたっていいじゃん」
自分でなければいけない理由が特別欲しいわけではない。ただ、はいそうですか、とあっさり了承するのは少し癪だっただけだ。
自分でないといけない理由があるのであれば、優越感には浸れるだろうけど。
「お前がええねん」
「……」
あおいろの瞳に自分が映り込んでいる。空に溶け込むような色であるのに、きっとこれは曇天だ。感情が一切ない瞳に真宏は騙されない。
「え?俺に惚れてんの?」
何も答えない真宏を不審に思った宇佐美は的外れなことを口にした。
「好きじゃないわ、勘違いすんな色ボケ男」
「なんなん」
楽しそうにケラケラ笑う宇佐美に、真宏は呆れてため息を吐いた。
「まあ安心せぇ。俺も毎日来とるわけやないし、学校来た時呼ぶだけやから」
「なんで決まった前提で話進めるんですか」
「俺が頼んでんのに?」
真宏は過去一番顔を歪めていた。その顔を見た宇佐美がツボにハマったのは言うまでもない。
真宏は机に突っ伏し、疲労感に深いため息を吐く。先日、校内で色んな意味で有名な宇佐美に呼び出されたせいで真宏は、クラスメイトのみならず他クラス、他学年の……主に女子から質問攻めにあっていた。ああでもない、こうでもない、と言われ続け真宏はすっかり気疲れを起こしていた。
「真宏が疲れてる」
「すげぇアイドルの握手会みたいに女子が並んでたもんな。真宏目当てじゃねぇのに」
「……最後の一言は余計だ」
真宏に睨まれた久我とハゼは、スッと目をそらす。真宏は普段からハゼや久我とは違い、周りに人が寄ってくるタイプではないので、一段と疲労感が重かった。
「ねえ、まひ……」
「まーひろ」
机に突っ伏してぐでりきっている真宏に何かしら声をかけようとハゼが話しかけた時、空気を読まない男に突如遮られた。真宏はポンッと頭に手を置かれた感覚に「次は誰だよ」とげんなりしつつ嗅いだことのある香りがふわりと鼻腔に届いたことに更に気が滅入った。
「ゲッ……」
「ゲッてなんやねん、失礼な奴やなあ」
「……何用でございますか」
学校の話題を攫っていくような人物が結構な頻度で自分たちのクラスに登場し、騒ぐことも忘れ息を飲んで見守ってくるクラスメイト達を横目に、真宏はまたか、と思いつつ宇佐美を見上げた。
「一緒に昼食お」
るんっ、と音符マークが語尾につきそうなくらいきゃるんと言う宇佐美は慣れたように真宏の肩を抱く。素で距離が近い人なのか、人を避けたいのかよくわからない。もしかたら宇佐美自身もよくわかっていないのかもしれない。真宏は「えー」と思い切り顔を顰めて目を細める。
既に眠いし疲れたし面倒くさいし、そんなに寝たいなら帰ればいいのに。
「え〜って、約束したやん」
約束をした覚えはないが、頼まれたのは覚えている。だってこの疲労感はそのせいなのだから。
「あー」
大体なんでそんなことのためにコイツはわざわざ教室にまで来るのか……。確かに顔色はお世辞にもいいとは言えないし、目の下もうっすら隈があるようにも見える。肌の色が白いから目立つと言えば目立つが、昼寝を死守しなければいけない程、夜眠れない事情でもあるのだろうか。
というか何も律儀にいう事を聞く必要もないのだが、真宏は少し考える。
……まあ、痴漢を助けてくれた借りを返すと思えばいいか。
自分を納得させため息を吐くと、こっちの事情なんか気にも留めない宇佐美は「はよ行こぉ」と腕を掴んで立たせようとしてくる。仕方なく真宏は久我たちに一言断りを入れようと振り返ると、何故かハゼが真宏の前に一歩出た。
「あの、真宏疲れてるみたいなんでまた今度にしてくれません?」
「そぉそぉ。コイツ今日は握手会で忙しかったんで」
久我とハゼが、宇佐美の手を真宏から引きはがし、警戒心丸出しの野良猫のように睨み、真宏にぎゅうと抱きついて更に宇佐美から距離を取ろうとした。先日約束したことなのに何故他人に邪魔をされるのかと宇佐美はキョトンとして、二人を見ている。
「え、二人とも……どうしたの?」
斯くいう真宏自身も予想していない事態にキョトンと二人を見ている。ハゼは心配性だけど、久我までノッてくるとは思わなかった。久我は真宏をじろりと見下ろして"黙ってて"とアイコンタクトしてきた。
久我も真面目にしてれば顔はかっこいいんだけどなあ、なんて呑気なことを考えていた。
「それに、真宏の先約は僕達なので先輩はまた今度にしてください」
「そーだそーだー」
ハゼの牽制に久我は適当に合いの手を入れて真宏を抱きしめた。これでは完全に宇佐美が悪者みたいな扱いになってしまっている。それはそれで面白いけれど。
「えー、せやけど真宏と約束したんは事実やで。一緒にご飯食うてくれる〜って。せやのに何があかんねん。真宏がええよて言うたのに……」
しょんぼり耳垂れ犬のように、しゅん、としてしまった宇佐美に何故か罪悪感を抱いてしまう。いつも飄々としている一学年上の先輩の悲し気な顔にハゼと久我も困惑した表情になって二人、顔を見合わせていた。
「先輩なら女の子も男の子も選り取りみどりでしょ?なんでコイツなんスか」
それでも久我はしょんぼり宇佐美に食ってかかる。そこは真宏も気になっていたことだった。結局あの日はぐらかされてしまったし、自分もそこまで深く訊こうとはしなかったから真実を知れていないままだったのだ。久我に問われた宇佐美は一瞬だけ表情を消した。
真宏は何故か本能的にその表情が宇佐美の本当の顔なんだ、と確信した。基本的に宇佐美は真宏よりは愛想がいい部類の人間なのだろう。
いつもニコニコ穏やかであるし、少なくとも真宏は怒ったり不機嫌な顔をしているのを見たことがない。強いて言えば、めんどくさそうな顔はよくしているけど。
それに比べたら、真宏の方がよっぽど愛想がなく冷たい人間に見えがちだなと自覚している。真宏は心を開いた相手にしか懐かない。広く浅いタイプではないのだ。
一方で宇佐美は広く浅く交友関係を広げているタイプの人種らしい。
けど真宏は思う。そういう人間は、相手に興味がないのだろうな、と。
自分が優しい人間だとは思わないけれど、宇佐美は他人に冷たい人間なのだろうなと勝手に思っていた。
久我からの質問に宇佐美は「う〜ん」と考え、視線を彷徨わせていたが不意にパッと閃いたらしく満面の笑みで言った。
「お顔がかわえーやん」
まさか顔がいい奴に顔がいいと言われるとは思ってなかった真宏は、嬉しいやら、なんだその筋の通ってない回答だ、だとか、ていうか顔かよ、みたいな色んな感情が一気に押し寄せ、間抜けにも口をぽかんと開けて呆けた。黙る真宏とは対照的に、宇佐美の台詞を聞いたクラスメイト達は何やらざわつき始めている。
「やーっぱりダメー!!」
真宏が口をあんぐり開けていると、ハゼはぎゅっと真宏を抱きしめて宇佐美から遠ざけた。
「ちょ、ちょっとハゼ!」
その衝撃に我に返った真宏が慌てて制す。
「真宏はダメー!!」
小さな子供の駄々のように宇佐美に敵意丸出しのハゼに、真宏ですらも困惑した。
「えー!なんでなーん!真宏からも言うたってやぁ〜!俺ら約束したやろ?な?なんであかんねん!」
なんでか許可を得られない宇佐美までもが駄々を捏ね始める。ハゼの駄々と宇佐美の駄々の攻防戦が始まり、久我は「うわぁ」と引きながら二人を見ていた。教室もいたるところでクスクス笑いが聞こえてくる。それでも駄々を止めない末っ子二人に、真宏は段々イライラしてきたので、ハゼをぐいっと引き剥がして息を吸った。
「うるさいお前ら!!やるなら表出ろ!!」
真宏の怒声は教室外にも響いたらしく、廊下にいた生徒たちがなんだなんだと覗きにき始まってしまう。もう全部が面倒になった真宏は鞄を持ち、駄々を捏ねる宇佐美の腕をつかみドカドカと教室から出る事にした。
「まぁひぃ〜、いつまで怒ってんの」
無事に教室から脱出を成功させた真宏は、宇佐美の嫌味たらしく長い足の間にすっぽりと収まり体育座りでもちもち弁当を食べていた。
今日は昨日の夕飯の残りの焼肉にちょっとおかずをプラスした肉弁当だった。
「……別に」
タレが白米にもかかっており、味が濃くて美味しい。良い気持ちで弁当を食べているのに宇佐美に絡まれて、少しムスッとしながら食べる。宇佐美も流石に真宏が機嫌悪いのを察しているためなのか、ギューッと体に腕を回され、折角弁当を食べているのに香水が鼻について邪魔だ。
「ちょっとなんですか」
イライラとしながら問えば、宇佐美は抱きつきつつ真宏の項に顔を埋めたまま答えた。
「これから俺が呼んだらここ来て一緒にご飯も食べよぉ?」
「はあ?」
「"はあ?"て言われんの嫌いやねんけど」
珍しくムスッと言われ、真宏は思わず口を噤んだ。
「先輩誰かと食べてきてから俺を呼んでるんじゃないの?」
肉を口に頬張りながら言ってくる真宏を見て、リスみたいだなと宇佐美は思った。
「おれぇ?誰も居らんよ?食べてへんし」
「えっ」
食べてない、というのは昼をとっていないという事なのだろうか、否、そうなのだろうけど……。
健全な男子高校生が、昼に何も食べぬまま残りの半日を過ごせるとは到底考えられない。
特に真宏はそこら辺の男子高校生よりも、食が太いらしく食べる量が格段に多い方なので余計に宇佐美の胃が心配になる。
「で、でもモテモテじゃんよ。有名人だし……」
戸惑ったようにように言われた宇佐美はクスクス笑う。
「えー?モテんのと昼食うのとは比例せぇへんやろ」
宇佐美って笑うとき少し眉が寄る癖でもあるのかな。
困ったように笑う宇佐美が少し色っぽく見えた。
「真宏はええ友達が居るみたいやな」
ふわりと微笑まれ、顔がいやに近いせいか意図せずドキリと胸が妖しく鳴ってしまう。友達に関しては否定しないけれど、宇佐美に言われると何だか胸がざわざわして落ち着かない気分になる。
「……そうみたいですね。先輩を完全に敵とみなしてました」
「せやなあ。迎え行く度あれは困るから上手く言うとってや」
ハゼとの攻防を思い出したのか再び疲れた顔をしてのしかかってくる宇佐美に、ふふ、と笑いかける。
「言うこと聞くかは分かりませんけどね」
「えー」
先輩はクスクス笑って、そのまま静かに目を瞑ってしまった。真宏も会話を止め暫くご飯を食べていると、いつの間にかすぅすぅと静かな寝息が聞こえ、肩にかかる重さが一層重くなるのを感じた。
本当に眠ってしまったようだ。いきなり電池が切れたように動かなくなるから少し心配になる。
……寝たのか。その体勢キツく無いんだろうか?なんて思うけれど、大人しく枕としてじっと座ることにした。
お弁当を食べ終えやることが無くなってしまい少しだけ、眠る宇佐美の体に背中を預けた。
……ふぅ。これを呼ばれる度にやるとなるとキツイなあ。屋上のコンクリート、尻骨があたって痛い。なんか対策考えないとなあ。
穏やかな初夏の風が二人の間を吹き通る。ぼんやり空を見上げれば中天と呼べるのかはたまた虚空なだけなのか、雲一つない空に引き込まれそうだった。一週間前の自分が学校一のモテ男とこんな風にまた関わるなんて夢にも思っていなかった。何故自分だったのだろうか。いつか話してくれる時は来るのだろうか。
それともその真意は訊くことはできないまま終わるのだろうか。
宇佐美に自分がどのように映っているのだろう。宇佐美の呼吸に合わせて僅かに体が動くのを感じていると脱力しきったのか宇佐美の手が、ぽすり、と真宏の足の上に乗った。なんとなくそれに目をやり、無意識に自分の手を重ねてみた。
……俺より大きいし指も長い……。
手のひらからもう大きさが違うし、指の長さも第一関節分くらい差がある。同じ男なのに、宇佐美の手は骨張っていて俺より男らしい。
でも手のひらに厚みが無い、薄っぺらい。ネイルもしていたらしく、黒に近い濃い紫が綺麗に塗られてある。細いせいでリングや手首のアクセサリーがごつく見える。
……よく生徒指導から怒られないなこれ。言われてんのかな。
手のひらを重ねてぎゅぎゅ、と握って遊んでいると、段々真宏の瞼も落ちてくる。
「ふわぁ……」
ひとつ欠伸をして、ぼやける視界を最後に重力に任せて瞼を閉じた。ぽかぽか暖かくて気持ちがいい。風に乗ってふわふわ香る、宇佐美の甘い香りもやっと心地よく思えるようになった。
段々と意識が遠ざかっていき、気づけば真宏も完全に夢の世界へと入っていた。
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