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第2話
「……ひ、……まーひー、……まひろぉ」
「ん……」
何処か遠い世界の端から呼ばれた気がした。
ぼんやりと覚めぬ意識のまま、何となく薄ら目を開けてみると、目の前には綺麗な顔が視界いっぱいに映り、真宏は思わず目を丸くした。
「はは、目ぇまん丸やん。出目金みたいやな」
宇佐美は真宏の表情にケラケラ笑う。
いつの間にか真宏は、宇佐美に擦り寄る体勢で寝ていたらしく慌てて起き上がり距離をとった。
「い、いつの間にか寝てました……」
「せやな、涎も垂れとるし。美味い夢やったんか?」
「えっ!?よだれ!?」
慌てて口をゴシゴシ拭くが、特に濡れている感じはしない。首を傾げていると、宇佐美はケラケラ笑って言った。
「うっそぉー」
「な……っ!」
不機嫌に顔を顰め頬を膨らませると、「はいはい可愛ええ可愛ええ」と馬鹿にされる。
「ほな真宏、また次なぁ」
真宏が言い返そうと口を開いたところで、宇佐美はぽんぽんと真宏の頭を撫で立ち上がった。
「え?……あ、はい」
もっと揶揄われるかと思ったのに、案外キッパリ別れを告げられ拍子抜けしてしまう。
もしかして、俺が起きるまで待っててくれた……?
自分に都合のいいように解釈しかけたが、すぐに今は何時なのかと慌てる。手首に巻いた腕時計に目をやると、長い針は午後の四時を指していた。
……よ、四時!?
「ちょ、先輩!!俺、時計壊れたかも!!」
屋上から出て呑気に階段を降りようとしている宇佐美に、思わずしがみつき腕時計を見せた。宇佐美は急に引っ付かれて少し目を丸くしたが、自分よりもさらに目を丸くして何やら焦っている真宏に笑いそうになる。真宏から腕時計を見せられ、「ん?合うてるやん」と不思議な気持ちになりつつ返事をした。
すると余計に混乱したらしい真宏は、大きな目をさらに丸くして飛び出るのでは、と思うくらい驚いた顔をする。
「え!?え!?合ってるの!?え!?だって俺たち会ったのお昼休みじゃん!?」
すっかり何かに取り乱した真宏を不思議に思いつつ首を傾げる。
「うん、せやから四時になってしもたんやな。俺らが夢でもんじゃ食うとる間に」
「へ、へあー!?もんじゃ!?もんじゃ食べてたの!?いやそこじゃねぇし食べてないから!!」
意図せずサボってしまった事にショックを受けている真面目な後輩を見下ろしつつ、宇佐美はまたケラケラ笑う。
「へぁーって、随分マヌケな声やなあ」
呑気過ぎる……。
そりゃあ宇佐美は良いだろうよ、常日頃から社長登校で、サボりまくりなんだろうし。
のんびり階段を降りて行ってしまう宇佐美の後を追いかけ、内心どうしようかと焦っていると、またのんびりした声が聞こえる。
「まあまあ、気にすんなや。ツバキちゃんに、ちょーっとしばかれるだけやって」
「それが嫌なんだって!」
そう叫んだ所で何故かずしり、と肩が重くなった。
嗅ぎ覚えのある苦いタバコの臭いがふわりと鼻に届いた。
「俺も嫌だなあ……伊縫〜。反省文書かせるの……嫌だなぁ?」
「ヒッ……」
音もなく後ろから現れた自分の担任のツバキ先生に驚き、真宏は思わず宇佐美の背に隠れた。
「おーおー随分仲良くなったなあお前ら。だからってサボりの助長になるのは頂けねぇなあ?」
「うげぇ〜真宏のせぇで見つかってもうたぁ〜」
至極面倒くさそうな声をあげながら、宇佐美にちゃっかり俺のせいにされ、「なに!?」と抗議の声をあげようとした時。
「はいはーい、続きは生徒指導室でな」
宇佐美と真宏はツバキ先生に引き摺られ、ギャイギャイ言い合いながら生徒指導室で長く辛い時間を過ごす事になったのだった。
翌日、昼。
今日も今日とて真宏は、いつも通り宇佐美がわざわざクラスに出向きハゼに吠えられながらも、二人は屋上に来ていた。宇佐美が真宏を抱えて硬いコンクリートに腰を下ろそうするので、慌てて止める。
「先輩ちょっと待って」
鞄とは別のナップザックを今日はちゃんと持ってきていた。真宏はその中からスーパーグッズを取り出す。
「ん?何それ……もーふ?と、ざぶとん?」
コテンと首を傾げる宇佐美に、真宏はコクリと頷く。
「呼ばれる度にコンクリじゃあ、俺も先輩も、おしり痛くなるでしょ?それに寝ると体温下がって寒くなっちゃうし先輩ペラいから」
「ペラいぃ?」
「体。薄っぺらでまっちろなんだから、ちゃんとあったかくして寝なきゃ。ほら!」
宇佐美と自分のお尻の下に、丸型のクッションと宇佐美の肩にブランケットを掛ける。
「これわざわざ買うて来たん?」
まだキョトン顔してる宇佐美に、真宏は「そりゃあそうですよ」と答える。盗んだわけじゃあるまいし。
「……ふぅん」
宇佐美はつまんなそうに頷くので、なんなんだ?と思いつつも「ほら!足開いて!」と急かす。
「やぁだ、真宏のえっちぃ〜」
「うっさい!じゃあ帰りますよ!」
「あかんあかん冗談やって、おいで」
ブランケットを肩にかけ、真宏ごと包む宇佐美。真宏はこの体勢が少し好きだなと思っていた。図らずもそれは宇佐美も同じだった。真宏は宇佐美の足の間に座り、いつものようにお弁当を食べる。
「ねぇ先輩、今日も何も食べないの?」
「ん?うん。腹減ってへんしな」
「俺と居る時いつも食べませんね」
「うん」
話しかけてもあまり話さなくなった宇佐美に不思議に思いながらも、卵焼きを一つ箸で掴み、自分の肩に乗ってる端正な顔に近づけた。
良く見ると今日も顔色が良いとは言えなかった。
「なあに?くれんの?」
「うん。食べて」
毎日呼び出されてる訳では無いけれど、流石に呼び出される度に何も食べてない姿を見ると心配にはなる。む、と口にくっ付けてやると苦笑しつつ「分かった」と言ってパクリと食べた。
「美味しい?」
真宏が何となくそう聞けば、宇佐美は「んまい」と笑ってくれる。
「……俺作ったの」
そう言いつつ自分もかぼちゃこコロッケをパクリと食べる。これは昨日の夕飯の残りだけど、夕飯も真宏の担当であったから今日のお弁当は真宏のお手製なのである。
「真宏、料理できるん?」
「うん、作るよ」
あ、ほうれん草の胡麻和え、ちょっとしょっぱかったかな?次は塩加減気をつけよう。
「こないだのウィンナーさんも?お料理上手やね」
不意に褒められた真宏は、自分の両耳や頬がじんわり温かくなるのを感じた。思わずバッと振り向けば宇佐美は、なに?と言いたげな顔で見てくる。
真宏は「……どうも」と返し顔を戻した。
ドッドッドッと、ちょっと自分の心臓が煩くなるのに気づく。
……なんだ?走った後みたいにドキドキしてる。……変なの。
「……今度、先輩にも……って寝てるし」
作ってきましょうか、の言葉は宇佐美に届ける事が出来なかった。いつの間にか、スヤスヤと眠りについている宇佐美に拍子抜けし、意識をまたお弁当に戻した。
この人は、いきなり死んだように眠るなぁ。夜、あんまり寝れてないのかな。
本当に細いし、白い……。白いというか、青白いんだ。顔色が悪い。……俺が心配する義理はないんだけどさ。
のんびりご飯を食べているうちに、いつの間にか鼓動は戻っていた。
*
ああ、やっぱりか、と真宏は何故か納得してしまった。
移動教室から戻ってきたら宇佐美用のクッションやブランケットを入れて来ていたナップザックが消えていた。あちこちハゼ達にバレぬように探し回っていたら、焼却炉の中に放り込まれ、ナップザックもろとも中身も一緒に焼かれていた。……あのナップザック、小学校の時の家庭科で作って涼兄がたくさん褒めてくれたから気に入ってたのにな。
けれど、焼かれてしまったものは仕方がない。真宏がげんなりしていたのは明日万が一呼び出された時、お尻が痛いまま座るしかないのか、という事だった。まあたった四十分程度だからピィピィ騒ぐことでは無い。
今度の休みにナップザックと全部買い直さなきゃなあ。
残念な気持ちを取り敢えず心にしまい、教室に戻った。まあ呼び出しに備えるといっても、ここ五日ぐらい宇佐美に呼び出されていない。今までは一日おきくらいで、開いても三日だったのにココ最近はぱったり呼ばれていなかった。
そればかりか、宇佐美を校内で見かけていない。目立つ人だから学年は違くても何かと見かけることはあったし、学校にいればすぐに生徒達に噂されているから耳にも入るはずなのだ。
居ない人間のことを気にかけても仕方がないな。
自分の席に戻り、鞄に手を伸ばそうとしたその時、「よお伊縫」と男の声がした。
聞き覚えはないような声の主の方を振り返ると、そこにはやはり見た事無いピンク髪の男の人が立って真宏を不機嫌そうに見下ろしていた。
「誰ですか?」
見上げてそう純粋に問うと、男はイラッとした様子で「あ゛ぁ゛?」と凄んでくる。
「覚えてねぇとか失礼じゃね」
ガンッと机を蹴られ、ビクリと肩が揺れる。
「この間、中庭でお前を殴ったんだけど」
「あー!思い出した!」
俺を殴ったやつだ!ついでに、うさ先輩の事も殴ろうとしてたやつだ!
真宏はようやく思い出してポンッと手を打つ。
「で、何の用ですか?」
改めて問うと、男は真宏を見下ろして言う。
「お前、宇佐美と何やってんの?」
「え?」
唐突な質問に驚き戸惑う。
何やってるの、とはどういう意味か。
「何って、どういう事?昼を食べてるだけだけど……」
そう返すと、男はムッと口をへの字にしてしまう。
「……嘘つくなよ。ヤる事ヤッてんだろ」
何故かじりじりと詰め寄られ、真宏も真宏で後退りしてしまう。今、教室には誰も居ない。放課後なのだから当たり前だけれど。
要するに何をされても、助けが来る状況では無いのだ。
「そ、そんなに気になるなら……一緒に来ます……?」
鼻と鼻がくっついてしまうんじゃないかというぐらいの近さまで迫られて、圧に負けた真宏が思わずそう言うと男は「なに……!!」と目を輝かせた。
……あれ?もしかしてこの人、……うさ先輩の事が、好きなのか?
真宏は胸の中に何かが引っかかる感覚を覚える。
「先輩の気まぐれで呼び出されてるので……いつ一緒になれるか分からないんですけど、それでも良ければ……」
「……じゃあ呼びに来い」
「ええ!?俺が!?」
この人が来たいって言い出したのに!?
「あ?なんか文句あっか!?」
思い切り眉を寄せられ、真宏は、うげー、となりながら背を僅かに逸らして距離を取った。
「……分かりましたよ……アナタ、どこの誰ですか……」
めんどくさくなりつつそう訊けば、男は「2-Cの猫宮だ」と名乗った。猫宮?可愛い名前だな。……ルックスには可愛さの欠片が一つも無いけど。
「じゃあな」
猫宮先輩は片手を上げて真宏に背を向けて帰って行く。自分よりガタイが良くて男らしい先輩も、どうやら宇佐美の事が好きらしい。
真宏は何だか拍子抜けしていた。あんなに強面な人でも、当たり前だけど恋をする。男同士は普通じゃないと思っていた自分の価値観が、くだらなく思えた。
「……さあ、帰るか……」
とりあえずナップザックの件は涼雅には黙っておかなければいけない。もし万が一バレてしまうと、また過保護が再燃してしまうだろう。流石に高校生にもなって身内から送り迎えされているのは格好がつかないし、何より自分を省みずに行動をしてしまう涼雅の負担には二度となりたくない。
かと言って、既に何かに巻き込まれているらしい自分自身を、自分で救えるのだろうか。
「はあ……」
真宏は心の底からため息を吐き出していた。
日曜の夜、真宏は家族で食卓を囲み談笑していた。
……と言っても今ここに居るのは、六つ上の兄とひとつ下の妹だけ。今日の夕飯は涼雅が担当だった。ボリュームもあるし味も美味しい。
「そういえば真宏、お弁当箱二個も買って……誰か好きな子でも出来たの?」
味噌汁を啜りながら涼雅聞かれた真宏は、キョトンとした。
「なんで好きな人?」
「バッカねェ。誰かに弁当作って持ってくってまるで彼女じゃん」
杏に呆れたように言われ、真宏は「え?そうなの?」と驚く。
食べ物を作って持っていく行為の何処が彼女に繋がるのだろうか。好きだからそういった手間もかけられる、という事なのか。
「……いや、そういうつもりじゃないんだけど」
「え、何だ?困り事か?なんかあったのか?」
涼雅が心配モードに入ってしまったので、真宏は慌てて首を横に振って否定をした。
「ち、違うよ!ただ、友達が細くて青白くて全然食べないから心配で、持ってったら食べてくれるかと思っただけだから」
そう言うと、涼雅は安心したように「なんだぁ〜」とニコニコする。
「えー?ただの友達にそこまでするー?」
しかし杏からの疑いはまだ晴れていないようで、じとり、と怪しげな目を向けられてしまう。
「しない?」
そう聞き返すと、杏は「まぁ私はしないけど、兄さん達はするだろうね。ドのつくお人好しで過保護だし」と言って食べるのを再開した。
なんか褒められた気がしないんだけど……。
「もしアレならその子、お家に呼んであげても良いんだよ?もしかしたら、あんまり家で食えない事情があるのかもしれないし」
「うん……。あまりにも酷そうだったら、言ってみる」
ミニトマトを食べつつ頷くと、涼雅は「そうしなさい!」と真宏に、にっこりと笑いかけた。
「うちは児相じゃないんだからね」
しっかり者の杏に釘を刺され、「……分かってるよ」と、納得いかないまま一応頷いておいた。
真宏は明日のために、先日焼かれてしまったナップザックとブランケットとクッションを買い直したし、お弁当も二個作った。明日呼ばれなかったら全部意味無いけど、一週間呼ばれないなんて事は多分きっと無いだろうとなんとなく思っていた。たこさんウィンナーと、卵焼きと、今回は甘めに作れたほうれん草の胡麻和え、それから、ミートボールと小さく切った焼き鮭を入れて、にっこり笑う。
レパートリーもっと増やさなきゃな。
……先輩、食べるかな。食べてくれるといいんだけど。
自分が学食には行かないから呼び出されない日の宇佐美の食生活が分からない。……というかそもそも真宏は、宇佐美の事を何にも知らない。
宇佐美の一人歩きの噂ばかり耳にして、『本当』の宇佐美を知らない。最も、宇佐美自身も噂を否定したりしていないようだし、彼が自分を語る事も無い。
きっと他人からの評価は気にしない人なのだろう、と真宏は勝手に納得していた。
「あれ?真宏。また新しいブランケットとクッション買ったのか?こないだ買ってなかった?」
いつの間にか後ろに立っていた涼雅に気づかれ、ギクリとする。
「あれ、さっき話してた友達にあげたから自分用に買った」
「そしたら、三個も必要になったの?」
自分の分と宇佐美の分、そして真面目な真宏はこの間脅してきた猫宮にもクッションとブランケットを買ったのだった。
「……その友達、クッションとブランケットのコレクターらしくて……」
そんな苦しい言い訳ではバレるだろうか……、と恐る恐る涼雅を見ると、涼雅はいたって不思議そうに納得していた。
「えぇっ、そんな子いるんだ……」
いるわけないだろ……。
しかし、天然な兄は無事き騙されてくれたのでこっそり息を吐いた。
「あれ?ナップザックも?」
「……その友達が、ナップザックも集めようかなぁ〜って言うから……」
「……変わってるね」
「……そうなんだよ」
ほへぇ、と阿呆みたいに納得する実兄を見てちょっと心が傷んだ。ここに杏が居たら「馬鹿じゃないの?」と言われ鋭く突っ込まれて居ただろうが、今は風呂に行っているので運が良かった。これ以上何か聞かれる前に寝てしまおうと、兄におやすみを告げ、いそいそと自室へ戻った。
……明日、俺の弁当であの顔色に少しでも血の気が戻ってくれたらな……。
何故ここまで自分が宇佐美を思い行動しているのか、真宏は自分自身の心の変化を疑問に思う。
けれど何となく、宇佐美の事を考えている時間にワクワクしている自分が居た。
週が明け、月曜日の昼休みとなった。
例の如く宇佐美は現れた。
良かった、今日作ってきた弁当は無駄にならずに済むらしい。
「……じゃあ、今日も」
いい加減慣れたように真宏は、ハゼと久我に声をかけると、「うん!」「おう」と何故か二人とも立ち上がった。
「え、なに……どしたの」
今まで文句は言いつつもちゃんと送り出してくれていたハゼと久我の行動に驚きつつ訊くと、ハゼはにっこり笑みを浮かべて真宏の腕に抱きついた。久我も真宏の肩に腕を回しがっしりと、ホールドしている。
「え?え?」
二人の友人の不可解な行動に真宏が戸惑うと、二人は宇佐美の周りに群がっている女子達を押しのけ宇佐美の元へ真宏を引っ張って行く。
「うさ先輩!今日から僕と隆ちゃんもお邪魔します!」
「……え?」
「え!?」
ハゼの言葉に驚いてる宇佐美と、それ以上に驚く真宏。それもそのはず、ハゼと久我は真宏が宇佐美に呼び出された後、二人でこっそり話し合っていたのだ。
もしかしたら真宏は宇佐美に脅されて無理矢理何かをされているのでは、と。宇佐美の悪評の真意など二人には関係無い。そして真宏が弱いとも思ってはいない。
けれど、強い弱いなんて関係は無い。友達である以上、困った事に巻き込まれていたら手を差し伸べるのが友人である者の特権なのだ。
「ど、どうしたの、二人とも!」
「どうしたもこうしたも無いよ!毎日毎日毎日僕達の真宏盗られて、黙ってられないでしょ!」
ハゼはぷんすか頬を膨らませて、宇佐美を睨みあげる。
それはさながら頬袋にどんぐりを溜め込んだリスのようだな、と当事者である宇佐美は呑気に思っていた。
「そーなん?真宏」
宇佐美は真宏だけで良かったし、真宏と二人きりが良かったので、まさかこんなギャースカ騒がしい連中が来る事になるとは思わなかった。
宇佐美は僅かに顔を顰めてしまう。
「……まあ、静かにするんやったら何でもええわ」
別に真宏に好意を抱いているから真宏だけが必要だった訳では無い。本気で拒まれていたら宇佐美は真宏と関わるのをやめていた。けれどそうならなかったのは宇佐美の中で確信があったからだった。「真宏は自分を拒まない」と。
それがこの間痴漢から助けた時の恩を返す為なのか、はたまたこの真面目そうな後輩も他の奴と同じく自分に惚れていると思ったからなのか、定かでは無かったけれど、どうしてか宇佐美は真宏の存在を信じて疑わなかったのだ。
元来宇佐美は、賑やかな場所が好きではない……というか、寧ろ苦手である。
しかし宇佐美の周りには意図せず人が集まってきてしまう。それは宇佐美の人柄やルックスに惚れ込んでしまう人が多いからだ。
宇佐美自身、賑やかな場所は安心すると思っていた時期もあった。けれど今は、音が大きい場所や人が多い場所に長く居られなくなっていた。
それは学校もまた然りだった。宇佐美が入学したての頃はちゃんと朝起きて学校に行っていたし、勉強も真面目に受けていた。
けれどいつからかクラスという大所帯で皆と同じ行動をする事に苦痛を感じ始め、色んな人間が物珍しそうに自分を見に来る時のあの顔すらもどうにも受け入れられず、無理矢理仲間に入れて来ようとする男子生徒でさえも、受けつけられなくなっていた。
クラスメイト達も悪気があった訳では無い。宇佐美自身もそれはよく理解している。
そんな宇佐美の逃げ場は相も変わらず何処にも無かった。
だからこそ彼は心に壁を隔てるしか無かったのだ。
全てを溜め込んできた宇佐美は自分に降りかかるあらゆるストレスのせいで、不眠症を患い聴覚過敏を引き起こしてたのだ。
その他にも宇佐美の身体は、本人が自覚しているよりも様々な器官に弊害が起こっている。
しかし宇佐美は病院には行っていなかった。行ったところで通い続けられるわけもないし、医療費も無駄だと思っていたのだ。
そんな、人を頼る術を知らない宇佐美がやっとの思いで、「コイツなら」と唯一思えたのが、真宏だったのだ。
そのキッカケは宇佐美にもよく分かっていない。
ただ本能で、真宏なら自分を裏切らないと思ったのかもしれない。もしかしたらこの先裏切られるかもしれないけれど……。
それでも取り敢えず今は、何としてでも一分でも一秒でも長く自分の身体を休めたかったのだ。
もう何日ろくに眠れていないのだろうか。
激しい目眩と吐き気、頭痛が酷い。
一刻も早く目の前の後輩を抱き枕にして、人の温度を感じたまま眠りたい。
真宏の嫌に早まらない鼓動が宇佐美にとって今一番心地よいものだった。
何でもいいからさっさと寝たい宇佐美は、後輩達が騒いでいるのを気にもとめずにふいっと顔を背けて歩き出す。それを見た真宏は慌ててその背中を追いかけ、ちょんっとシャツを引っ張った。
「せんぱい、せんぱい」
声をかけると、宇佐美は疲れたように「……なに」と抑揚のない声で返事をしてきた。いつも穏やかで愛想笑いではあるだろうけどニコニコスタイルを崩さない宇佐美にしては珍しく、少し驚いた。
「あの、2-C寄っていきたいです」
真宏の言葉に、宇佐美はキョトンとする。真宏は返事を待つ為じっと見つめていると、何故か宇佐美も見つめ返してきて、間を置いて「なんで?」と訊いてきた。
「それは……」
「俺も一緒に食うから」
続きを言おうと思っていたら、誰かにガシッと肩を乱雑に抱かれ、シトラス系の香りが広がった。宇佐美は急に現れた猫宮を一瞥して、「……あっそ」とだけ言い、また真宏達に背を向けて歩き出す。
……なんだろう、なんか機嫌悪い?それとも疲れてるだけ?
不思議に思いつつも宇佐美の後ろを着いて行こうと歩き出した時、背後からぽそり、と呟かれた声が聞こえた。
「……感じ悪」
真宏がこっそり猫宮を見上げると、その視線に気づいたのか「何見てんだ行くぞ」と誤魔化して引っ張られた。その後ろからはハゼと久我が「待ってよ!」と、わちゃわちゃ引っ付いてきて、何故か宇佐美を先頭に大所帯で堂々と屋上へ行く事になったのだった。
「だーかーらー!真宏と先に仲良くなったのは僕達なんで、先輩達はあっち行ってください!!」
ハゼの怒鳴り声を聞きながら真宏は今、死んだ魚のような目で弁当をつついている。
「あ゛ぁ゛!?っるせぇなチビ!黙って俺に場所空けろや!」
「はあ!?チビっつったかゴルァ!!表出ろやァ!」
「表ならもう出てるっつーの!バァカ!!」
……なんて低レベルな争いなのだろうか。
「なあ真宏、それ塩鮭?食いたい」
「ああ、うん。はい」
強請る久我に食べさせてあげ、「美味しい?」と訊くと、「おいしー」と言ってくれた。それが嬉しくて微笑む。
ハゼと猫宮はまだ何かを言い争っているが、取り敢えず無視して宇佐美に目を向けた。
今日は、屋上についても真宏に「こっち来い」とは言わなかった。真宏も宇佐美の所に行く前にハゼに阻止されてしまったので、傍に行かなかったがそれを見た宇佐美は、一人で静かに壁に寄りかかり座って目を瞑ってしまった。寝ているのか寝ていないのか、触れていないから曖昧だ。
……なんかやっぱり今日、元気ない?体調……悪いのかな。
宇佐美の分のお弁当も作ってきたんだけど、……もう寝ちゃったしなぁ。
ナップザックのこんもりとした膨らみを眺めつつ今日の夕飯にでもしようかと考えていると、猫宮の声が耳に届く。
「んあ?これ、弁当?俺のために?」
いつの間にか勝手にナップザックから取り出し、弁当を見つけた猫宮はキラキラした目で見当違いの事を良い、嬉しそうな瞳で真宏を見つめている。
「あー……違いますけど、食べてもいいですよ」
きっと宇佐美は食べないんだろうし。違うと言い張るとそれはそれで面倒な事になりそうだったので、適当に返事をすれば猫宮はパアッと顔を明るくして「当たり前だろ!」とドヤ顔をしていた。
俺の話聞いてないな……。
「真宏ー、マオちゃんにばっか狡いよ〜僕には?」
「マオちゃん?」
「マオって呼ぶな!!チビゴリラ!!」
「誰がチビだピンクゴリラ!!」
小学生でもしないような言い争いを再び始めてしまう二人に呆れていると、久我が「眞於(マオ)って、猫宮先輩の下の名前」と教えてくれた。まあそんな事は真宏にとってどうでも良かったので、肌寒くなってきたのに気づいた真宏はナップザックから新しく買ってきたブランケットを取り出しスヤスヤしている宇佐美の肩に起こさないように掛け、膝の上にクッションを置いてあげた。目を覚ます気配が無かったので、そのまま宇佐美の隣に腰を下ろしお弁当を食べ続けた。
今日、胡麻和え成功したんだけどな。
もし食べていたら、宇佐美は気に入ってくれたのだろうか。
涼し気な風と共に宇佐美の香水が鼻腔に届く。
けれどこの匂いは宇佐美のでは無いと分かってしまう。
宇佐美の香りはもう少し甘くて、優しい気持ちになれるから。
……これはきっとさっきまで隣に居た知らない女の子の移り香なのだろう、と。
結局昼休みは賑やかに終わり、宇佐美はずっと眠ったままだった。一度も起きないのはいつもの事だけれど、あれだけ揺すっても起きないと本当は心臓が止まってるのではないかと心配になる。
しかし胸は僅かに上下していたので眠っていると確信し、皆で起こさぬように屋上を後にした。
やっと教室に着いて授業の準備をした所で、いつも使っている青と白のストライプ柄の筆箱がないことに気づいた。
鞄に入れて置いた筈なのに何でないんだろうか。もしかして弁当を取り出した時に引っ掛けて屋上で落としてしまったのだろうか。
それ以外考えられない。今日は移動教室がたまたま無い日のため、真宏は屋上とトイレ以外で教室から出ていないのだ。
とりあえず今は後ろの席の田中くんに借りることにして、放課後屋上へ取りに行こうと考えつつ号令の合図を聞いていた。
放課後。
筆箱を取りに行った後、本屋にでも寄って帰ろうかな、なんてのんびり考えていた。今日は先月発表があってからずっと待ち望んでいたシリーズ物の最新刊の発売日なのだ。シリーズを追い続け、やっと組織の黒幕が誰なのかが分かる重要な話。あれやこれや考察しつつ、その答え合わせが出来ることにワクワクしながら屋上へと続く階段を上りきったところで、どこからか歌が聴こえてくる。
微かにしか聞こえないけれどそれでも分かる、優しくて甘いハスキーな声。扉に近づくと、わずかに開いていた。屋上に誰かいるらしい。
「…………Iwon’t say…… forgive.」
何処かで聞いた事のあるようなメロディーの歌を流れるように誰に聞かせるでもなく、ただ風に乗せて歌っていた。真宏はこの声に聞き覚えがあった。
鼻歌程度に軽く口ずさまれているこの歌声は、酷く切ない。真宏は音楽に強くはない。そんな彼でも知っているということはきっと、街中で聞いたのか杏が音楽番組を観ていたから辺りなのだろう。歌っている姿を見たくて、気づかれないように扉を少し開けようと力を込めた。すると、ギィッと音が鳴ってしまいビクリと体を震わせた。
「誰や」
少し冷たい声にドクリ、と心臓がなる。
気づかれてしまったので仕方無し、観念して真宏は姿を現した。
「なんやねん真宏か」
宇佐美はフェンスに寄り掛かり、真宏を目に留めるとふわりと優し気に笑った。夕焼けと宇佐美のコントラストが妙に色っぽくて見惚れてしまう。
「何しに来たん?」
不思議そうに訊かれ、真宏はハッとして慌てて口を開く。
「っあ、わ、忘れ物したから……」
「あー、これか」
宇佐美は片手で真宏の筆箱を軽々とぽいぽいと投げて遊んでいる。
「そうです、持っててくれたんですか。ありがとうございま……」
「なあ真宏」
真宏が手を伸ばしお礼の言葉を述べようとした時、それを遮り宇佐美は近距離に顔を近づけてきた。
一瞬、宇佐美の香りが鼻を掠める。
「なんですか?」
手を伸ばすのを止め、宇佐美を見上げて首を傾げる。見つめた宇佐美の瞳は、綺麗な色をしている筈なのに光を灯していない気がしてなんとなく、……怖いと思った。
このまま沼の底に引き摺られてしまうのでは無いか。
真宏が、では無い。宇佐美が、だ。
何処か遠くて暗い場所に連れていかれてしまう気がした。
何にかは分からない。けれど真宏のこの勘は外れては居なかったと思う。
「俺に惚れたらあかんで、お前は」
「え?」
宇佐美の自意識過剰とも言える唐突な台詞に、真宏はぽかんと口を開けて呆けてしまう。
「…………いや、何ですか急に」
なんて返せば良いのか正解が分からずにそう訊けば、宇佐美は先程とは打って変わってパッと顔を明るくし、いつもの穏やかな笑顔に戻ってしまう。
「ほら俺男前やろ?けど惚れられんのは困んねん」
確実に何かを誤魔化して隠したんだと、人の感情に疎い真宏でも気づいた。
宇佐美は何かを言いたくて、伝えたくて、言ったけれど言い切れなかった……そんな気がした。
それは臆病からくるものなのか、気づいて欲しいというSOSなのか。
真宏には分からない。
「なんで困るんですか」
真宏からしてみれば、沢山モテていいじゃないか。人に好かれるのはいいことだ、としか思わない。
けれど常日頃から疲れている宇佐美の顔を見ていると、モテる人間はモテるなりに苦労があるのかな、とも思う。
「鬱陶しいねん、興味ない奴に好かれんの」
穏やかに微笑んでいるいつもの宇佐美の笑顔な筈なのに、この時初めてハッキリと気づいた。目が笑っていない。
「…………なんでそれを俺に言うんですか」
何故だか先程から、胸がざわざわする。ドクドクして、なんとも言えない感情になる。
そうだ、頭に血が上った時も、こんな感覚になる。
けれど何故、自分がイラついているのかは真宏には分からなかった。
「せやから、真宏はあかんで。俺のお気にやねんから」
そう言って筆箱を無理やり押し付けて真宏から背を向けた。
この人は今何を考えているのだろうか。真宏がもし今ここで「好きだ」と伝えたら、感情の無い瞳で真宏を見据えて距離を置くのだろうか。
そこまでして他人に入られたくない理由は何なのだろうか。
好きになる事の何がいけないのだろう。
どうしてか体が動かなかった。否、動けないのだ。
何故だろうか、初めての事で混乱してる。
そうか、これは『悲しい』んだ。怒っているわけじゃない。自分の中で何かが悲しいと思ったんだ。泣きたくて、でも泣けば発散されるのかと言われればそれもまた違う気がする。
泣いても喚いてもこの悲しさに終わりは来ないような、そんな仄暗い絶望を感じた。
なぜそう思ったのかは分からないけど、ただ悲しい。
目頭が熱くなって、心が、軋む。
真宏はぎゅっと筆箱を握りしめ、背を向けて歩いていこうとしている宇佐美の背中に向けて思いっきり、ぶん投げた。
「い゛た゛……!?」
背中に筆箱をぶつけられた宇佐美は「何すんねん!!」と流石に怒った顔で言ってくるがそんなのは無視。
俺はとても、ムカついているんだ。
「なぁにが……俺を好きになるな、だよ。自惚れんのもいい加減にしろよ馬鹿ウサギ!!」
過去一番と言っていい程思い切り怒鳴って、宇佐美を睨みあげた。
「お前なんてな、学校っていう狭い世界で見たら人よりちょーっと顔がいいかもしれないけどな!!世の中に出たらお前よりかっこいい奴なんて、数えきれないほどいんだぞ!!」
俺を好きになるな、だなんてそれはつまり、絶対に超えられない予防線を張られたって事じゃないか。
だったら俺じゃない適当な奴をいつもみたいに日替わりで侍らせて置けばいい。
「むかつくんだよ。自分から関わってきておいて、好きになるな?は?」
宇佐美から近づいてきて、自分は別に乗り気じゃなかったんだ。こいつが拒否権ないとか言って無理矢理……けど真宏だって、その気になれば無視は出来た。脅されたわけじゃないし、弱みを握られたわけでもない。あの日、ここで言われたこと、断っても良かったんだ。
それでも、あの日の借りを返すだなんだ、と何だかんだ頷いてひょこひょこついていってしまったのは紛れもない真宏自身だった。
「どないしてん。フグみたいな顔して……。あんま吠えっと血圧上がんで?」
宇佐美は呆れたように笑う。なんで頷いたんだろう、俺は。
面倒事が何よりも嫌いだけど、……そうだ、俺は昔から困ってる人が居たら放っておけなかったんだ。
兄譲りの情に厚い自分の性格を何度恨んだかしれない。
コイツが……目の前の、何の悩みも無さそうなこの男が何処か虚ろな瞳で冗談交じりに自分に助けを求めてきた、それがまるで最後のSOSのようで、真宏は無意識に突き放せなかったのだ。
「俺は、お前の事なんか、……大っ嫌いなんだよ……っ」
真宏は宇佐美を押しのけて屋上から飛び出した。こんなに酷く悲しくて腹が立っているのはきっと、心の距離が埋まらないとわかってしまったから…。なのかもしれない。
どれだけ真宏が歩み寄ろうとしても、結局こうやって宇佐美からは距離を取られてしまう。
心を開いてくれたかと思えば、結局自分はまだ一番遠い所に居るのだと実感させられる。
だったら逆にどうして、心の距離が埋まらないと悲しいのかが分からない。
自分がなぜこんなに動揺しているのか分からない。
……だって俺は、アイツのことなんか好きじゃない。
噂で知ってたじゃないか、
"そういう奴"なんだって。
真宏は教室に戻り帰る事も出来ずに思わず机に突っ伏した。
座った途端動く事が出来なくなってしまった。
結局、筆箱は投げ捨てた形になってしまっている。また宇佐美が拾ってくれているのだろうか。
もしくはあんな捨て台詞を吐いて逃げた後輩の持ち物なんて、と捨てられているのだろうか。
宇佐美にかかわってから、心が忙しい。
関わるだけでろくなことない。噂は本当だったんだ。
「はぁ……」
「何いっちょ前に黄昏てんだ」
「うわっ!?」
誰も居ないと思っていたのに、後ろから聞き覚えのある声が聞こえ真宏は慌てて体を起こした。
「ね、猫宮先輩……」
「マオでいい」
猫宮は真宏を見下ろして、短くそう言った。
「なんで先輩がここに?」
不思議に思った真宏の問いに猫宮は「ん」と言って筆箱を渡してきた。
「……これ……」
宇佐美に投げつけたままだった筆箱を、猫宮から渡された。何で先輩が……と思っていると、猫宮は真宏の隣の席に堂々と腰かけた。
「宇佐美がお前に渡しとけって」
……なんだよそれ。お前が頭下げて渡しに来いっつーの!
「喧嘩したのか」
ストレートに訊かれ、先程までの疲労を思い出した真宏は深い溜息を吐く。
「喧嘩っていうか、喧嘩売られたんですよ」
思いだしてまた腹が立ってくる。
大体真宏は宇佐美の事を好きだなんて一言も言っていないのだ。そりゃあ確かに顔はカッコイイとは思うし、素直に憧れはするけれど、好きとかそういうのではない。
そもそも真宏の恋愛対象は女性なのだ。
昔好きだったのはクラスの大人しめなテニス部の女の子。
その次は図書委員をしていた物静かな女の子。
そうだ真宏は昔からお淑やかで、礼儀正しくて笑顔の可愛いほわほわ系がタイプなのだ。
宇佐美のようなパリピ系とは正反対の人種である。
そんな自分が宇佐美を好きになるわけが無いじゃないか。
「……それでそんな落ち込んでんのか」
「この顔が落ち込んでるように見えます?」
猫宮はじっと真宏を見つめて、口を開く。
「……仲直り、したいか?」
「え、したくないです」
迷いなく即答すれば、猫宮は「ふっ……はははっ!」と大きな口を開けて笑った。
まるで悪役の笑い方で真宏もちょっと面白くなる。
……そういえばこの人が笑った顔、初めて見た。
いつもしかめっ面で怖いもんなぁ。
「そっか」
嬉しそうに笑った猫宮に、真宏は、おお……と感心する。
「先輩ってそんな顔もできるんですね!いつもは般若顔なのに」
「ダァレが般若だぶっ飛ばすぞ!!」
あ、また般若に戻ってしまった。難しい人だ。
けれど心なしか落ち込んでいた気分が晴れた気がしていた。
「伊縫、ラーメン食いに行かね?」
猫宮は立ち上がり、振り向きざまにそんなことを言ってくる。
「え、奢ってくれるんですか?」
「……お前意外と図々しいな」
猫宮の背中を追って鞄を持ち立ち上がる。
「ねぇ先輩」
「あ?」
真宏は、怠そうに歩く猫宮を見上げる。
「もしかして、慰めてくれてます?」
先程から何となく感じていた優しさと気遣いの音。
猫宮は猫宮なりに真宏の事を心配していたからわざわざ届けに来てくれて、わざわざ話も聞いてくれたのだろう。
素直に訊けば、猫宮は一瞬キョトンとしたのち、カァッと顔を赤くした。
「っんなわけねぇだろ!」
真宏はバシッと頭を叩かれ思わず「い゛てっ」と声を出した。
照れたのかな?こんな人でも照れるんだなぁ。
真宏は何だか嬉しくなって、「ありがとうございます…。」と微笑んでおいた。
猫宮は「ふん」とそっぽを向いていたけど、耳が赤かった事に真宏は密かに気づいていた。
*
「……で、俺かっこええやろ?とか言うんですよ!?マジありえなくないですか!?どこがだよっつーの!」
ずるずると麺を啜りつつ盛大に愚痴っていると、猫宮がぽけーっと真宏の手元を見ている事に気づく。
「あの、聞いてます?」
不審に思い眉を寄せると、猫宮はポケッとしたまま発する。
「なぁ、お前の体のどこに三キロ分の食いもんが入るんだ?」
「すいません、替え玉くださーい」
「まだ食うのかよ!」
店員さんが何故か怯えながら替え玉をくれて、びゅぅんっと光の速さでカウンター内に戻ってしまった。
店員さんが何やらこちらを見てヒソヒソしているのが見える。
「だから、俺は言ってやったんですよ。お前の事なんか大っ嫌いだかんなって!」
「なぁ、会計俺持ちだよな?少しは遠慮とか……」
「マジ腹立ちません?あのすかした顔!ほんっとムカつく!もやしにしてジャキジャキ食ってやりたい!!」
真宏は猫宮の話を聞く気は無く、一心不乱にもやしをシャキシャキいわせながら食べている。
真宏のストレス発散は昔から大量に料理しそれを消費する事、大食いをすることがだった。
別に真宏自身隠してきたつもりは無いけれど、これはハゼも久我もまだ知らない。
この学校では猫宮しか知らないだろう。
「お前、昼んときこんな食ってなかったじゃん」
あからさまに引いた顔をしつつ問うてくる猫宮に、真宏は麺を啜りつつ答える事にした。
「学校にこんな量持ってきたら重いじゃないですか」
「あ、そこなのか」
猫宮は何やらぶつぶつ言っていたが、とりあえず目の前のラーメンを食べることに集中する。
真宏自身本当は、これぐらい持ってきて勉強のストレスを発散したいけど重いし、「食費がかかるので……」と涼雅に泣きながら頼まれた為、真宏も流石にお願いする事は無くなったのだ。
「俺、お前の事なんも知らねぇな」
唐突にぽそりと呟く猫宮の言葉に、真宏は煮卵を食べようとしていた手を止め顔を上げた。
その視線に気づいた猫宮は自分が思わず呟いてしまった事に気づき恥ずかしくなりまた顔を赤くして「な、何見てんだぶっ殺すぞ!」と叫んでしまう。
そんな様子を不思議そうに首を傾げながら見ていた真宏は言った。
「まだ知り合ったばっかなんですもん。当り前じゃないですか。ってか、すでに色々知られてたら気持ち悪いし」
真宏はさも当たり前かのように言って退ける。猫宮はそんな真宏の台詞に少し驚いたけれど、照れ臭さは消え穏やかな心持ちになった。
「…………それも、そうだな」
この人は案外表情豊かなんだと真宏も一つ、猫宮の新しいところを知った。
残っていたもやしやキャベツをシャキシャキと食べ、麺を啜るれば味噌ベースの辛い味がもうなんとも体に染み渡る。
「先輩もう食べないんですか?お茶碗くらいの量しか食べてないじゃないですか」
「ちゃ……!?丼一杯、一人前の量食ったわ!アホか!」
何もそんなに大声を出さなくても聞こえるんだけどな……なんて思うし、真宏からしたら、この店に座るお客さん皆茶碗くらいの量しか食べてないように見えているのだから致し方が無い。
宇佐美は、きっと丼一杯も食えないんじゃないか?
なんて思ったところでまた自分が、意図せず宇佐美の事を考えている事に気づいてしまった。
「あ~アイツの顔思い出したらまたムカついてきた!!」
苛立ちに身を任せ勢いよく麺を啜ってしまって、ちょっと噎せた。猫宮は呆れた顔をして水を差し出してくる。
「また宇佐美の事考えてんのかよ」
「別に考えたくて考えてるわけじゃないですよ!アイツの顔が勝手に出てくるんですよ、こう、うざい感じに!」
必死に苛立ちを説明しようと身振り手振りしているが、心做しか猫宮は真宏から視線を外し、不機嫌そうに頬杖をついていた。
まあ元々猫宮の機嫌が良い方が少ないと思うけれど。
「……んな気になんなら仲直りすりゃいいだろ」
「相手が頭下げてきたら考えなくもないですけどね」
最もな事を言われるが、こちらから謝ろうなんて真宏は毛頭思っていない。
一方的に、自分を好きになるな、だなんて自信満々自意識過剰もいい所だろう。
調子に乗るなっつーの!
「じゃあ、アイツがお前に謝ったら、お前はもうアイツの事考えないのか?」
丼を持ち上げスープを啜っていた為猫宮の顔が隠れてしまっていたが、スープを飲み干し丼を置いて目を見れば、何故かキラキラと期待に満ちた瞳で真宏を見つめていた。
「え?」
思わぬ台詞になんて返すべきなのか分からず、見つめてしまう。
真宏は別にしつこく根に持つような性格では無いと思っているし、ごめんなさい、って言われた事に関してはそれ以上追求する気はない。
だからきっと、謝罪されれば許さない事は無いだろうけど何故それを猫宮が気にしているのかが分からない。
猫宮からしたら真宏の事を心配しているだけ、なのだろうか。
「なぁ、どうなんだよ」
「……そうですね。謝られたら水に流してやりますよ」
何故そこまで猫宮が真宏を気にかけているのか、そんなこと真宏は知る由もないので、真宏の返事に「そうなのか……!」とやけに嬉しそうな顔になった猫宮を不思議に思いつつ、キンキンに冷えたお冷で喉を潤した。
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