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第4話

目の前の惨状を理解出来ず、真宏は情けなく下駄箱で固まっていた。ナップザックを捨てられて以来、何もなかったからまさかとは思っていたが、……下履きがズタズタにされていた。 兄に買ってもらったローファー。まだ、半年も履いていないのに。 ……なんだよ、これ。 「俺が買ってあげたいから」とバイトをしてくれて一緒に買いに行った。 自分も嬉しかったけど、それ以上に涼雅の「大きくなったな」と嬉しそうに笑いかけてくれたあの顔が今でも忘れられない。 「……どう、しよう」 誰も居ない昇降口でローファーを抱きしめ思わずしゃがみ込む。 ……靴は涼兄に隠せないじゃん。 何より、これを明日から履けないことの方が悔しい。 それに今日だってどうやって帰れと言うのだ。 ……なんで、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ。 やっと一日が終わり、気怠い授業を乗り越え帰ろうとした矢先の事だった。 ナップザックだけならまだ我慢できた。 じわじわと視界が歪む。情けなくて、どうしようもない。 涼雅に顔向けできない。 玄関にこの靴がなければ絶対に不思議に思うだろう。 直せないかな、これ……。 思いたった真宏は立ち上がって、職員室に走った。 バタバタと廊下を走ると、すれ違いざま、知らない教師が怒鳴っていたけれど、気にしている余裕は今の真宏にはなかった。 職員室に着き開口一番、「ツバキ先生!!」と叫ぶ。 その大声に驚いた顔をさせた椿は、「なんだよ……うるせぇぞ」と気だるげに言った。 「先生、ちょっと黒か茶色のビニールテープありませんか? それとハサミ!」 「え? なんで? 今から図工でもすんの?」 「冗談いいから早く!」 あながち冗談では無かったのだが……と思いつつも椿は、必死の形相である真宏に「なんなんだよ」と引きながら、黒のビニールテープとライオンの可愛いハサミを貸してくれた。 「ありがとうございます!」 職員室を飛び出し、中庭の人から見えないとこに座り込み、靴を出した。 何とか目立たないようにできないかな。履ければいい、なんでもいい。 履ければ涼雅には「転んだ」と嘘がつける。 直れ、直れ…… テープを切っては貼り、切っては貼り、を繰り返した。 「……っ」 けれど、到底履けそうにはなかった。 分かってはいたけれど、改めて手の施しようが無い程にされていたと実感してしまうと、ぼろぼろ涙が落ちてくる。 なんでこんなことされたの。 俺がなにをしたの。 なんで大切な思い出を、壊されなきゃいけないの。 ローファーを抱いて蹲った。 これでは家に帰れない。 ……いや、まず履けないよな。 「まひろ?」 顔を埋めて鼻を啜っていると、頭上から聞き覚えのある声にがし、ピクリ、と反応してしまった。 「どないしてん、こんなとこで。ズボン汚れとんで」 宇佐美の声が近づき、しゃがんだのだと気づく。 けれど真宏は泣き顔を見られたくないし、ローファーにも気づかれたくないので、無視を決め込んだ。 「まひろ? どした? 調子悪いんか?」 珍しく異常に心配してくれる宇佐美に、再び涙が溢れていく。 ……でも、ここで鼻とか啜ったら泣いてるのバレる。 「……なんでも、ないから……あっち行って」 精一杯言うと、宇佐美は「ふぅん」と言って「わかった」と足音立ててあっさり真宏から離れて行ってしまった。 いなくなったのを確かめて、寂しいやら有難いやら複雑で、ずびっと鼻を啜っていたら、「ふは、ぶっさいくやなぁ」と笑われた。 さっきと同じ声にバッと振り向く。 「な……、かえったんじゃ……っ」 「鼻声やん。うわ鼻水きたな」 宇佐美がクスクス笑いながら真宏を見ている。 その毒気のない笑顔になんだか泣けてきて、真宏はもう隠すことなくボロボロと顔を歪めて泣いていた。 「わあわあ、どないしてん、派手にぽろぽろ泣きよって~」 よしよしと頭を撫でられ、えぐえぐ涙を流しながら宇佐美に手を伸ばした。 「はいはいおいでぇ」 ぎゅっと抱きしめてもらい、悲しい心が少しだけましになった。 背中を大きな手で撫でてもらって、呼吸を落ち着かせた。 次第に涙も引っ込んでいき、宇佐美の制服で鼻水を拭かせていただいた。 「え、なんで[[rb:服 > ・]]で[[rb:拭く > ・・]]ん?」 「……つまんない」 ぽそっと言えば、宇佐美は「せやろ?」と軽快に笑った。 「で? これは?」 ローファーを見せられ、折角引っ込んでいた涙がまたあふれ出してきた。 「ひぐ、……う゛ぅ゛~!!」 思い切り顔を歪め泣けば、宇佐美は心底驚いた顔をして「うわほんまやばいで顔」と言ってきたので殴った。 「すまんすまん、けど、これはなんなん?」 頭を撫でられ、宇佐美の肩に顔を隠したまま「……なんでもない」と答えた。 「いやあ、ここまで盛大に泣いといてそれはないやろ~」 最もなことを言われるが、それでも真宏は答えたくなかった。 口にしたら余計悲しくなるし、実感してしまう。 もう同じ物は二度と履けないのだと。 「誰にやられたか分かる?」 首を横に振って否定すると「そうか」と短く言われた。 宇佐美は真宏を抱っこしたまま「よいしょ」と立ち上がったので、真宏はびっくりして思わずぎゅっとしがみついてしまった。 「な、真宏。今日は俺んち来るか?」 宇佐美の言葉にパッと顔を上げれば、にこやかに笑った宇佐美は真宏に顔を寄せる。 「実は家にな? 高級プリンがあんねん。二個もあるしなぁ~賞味期限も今日までやし……。あーあ、誰か食ってくれへんと勿体ないなぁ~」 宇佐美があまりにもわざとらしく言うので真宏は思わず笑ってしまった。 「……いいの?」 そう訊けば 「ええよ。行こか」 と微笑んだ。 そのまま靴がない真宏は宇佐美におぶられて、学校を出て宇佐美の家に向かった。 宇佐美の家は意外にも、高校から徒歩十分程にある単身者用のボロアパートの一室だった。 部屋の中はガランとしていて家具は無く、強いてあるといえばマットレスと真宏が昼寝用に買い与えたクッションとブランケットとガラステーブルが無造作に置かれていた。 テレビも、本棚も、娯楽が何も無い。もっと言えばカーテンすら無かった。 「んー……これは……ちと厳しいなあ……」 宇佐美の家に連れて帰ってもらい、真宏がホットミルクとプリンを与えられて心を落ち着かせている間、宇佐美はボロボロのローファーと格闘してくれていたが、やはり宇佐美でもどうにも出来なかったらしい。 ……今日、どうしよう。 「なあ真宏。真宏は今何がしんどい?」 宇佐美の問いの意味が分からず、真宏はキョトンと首を傾げる。 すると宇佐美はマットレスに座る俺の横にぼふんっと腰掛け「俺な」と口を開いた。 「人の気持ちがよぉ分からん。けど、今のお前を俺は何とかしてやりたいって何となーく思う。せやから、真宏は今、何がいっちゃんしんどいん?」 人の気持ちが分からない……? そんなの当たり前じゃん……、人は言い合わなきゃ分かりっこない。 ぐしゃりと、視界が歪む。 「…………涼にい……それ買ってくれた兄が……悲しんだり、……不安にさせてしまうのが……いちばんつらい……」 「……」 「……っ殴られたり蹴られたりした方が、……まだマシだ……っ」 ぼろぼろ、また涙が溢れてしまう。 宇佐美は黙って真宏の頭をくしゃりと撫でた。 「……分かった」 ……え? 何が分かったんだ? ニッコリ優しい笑みを浮かべる宇佐美に、ハテナが浮かぶ。 「真宏は案外泣き虫やなぁ〜」 うりうり、と頬っぺをムニムニされる。 「な、真宏。俺が真宏ん家着いてったるよ」 「……え? なんで?」 宇佐美はバチッと、ウィンクを決めてニヤリと口角を上げた。 「ええ作戦があんねん」 「……いい、作戦?」 宇佐美の赤い髪がサラリと揺れる。 「そ。でも、真宏に借り、出来てまうな?」 妖しげに微笑まれ、ドクン、と心臓が大きく跳ねる。 宇佐美の顔が、近い。 鼻先が触れてしまう、もう少しで、唇が─…… 美しい顔に見惚れてしまう。 離れていく宇佐美の顔を目で追う。 ……一瞬このまま、キス、……してしまうかと思った。 宇佐美は自分で言った通り、本当に真宏に着いて家まで来ていた。 事情を知る人間が居てくれることには安心したけれど、同時に涼雅がどんな反応されるのか怖くて仕方ない。 ……イジメだとか思われたら、送り迎えする、とかもしくは転校しようなんて言い出すかも…… 過度な心配性な兄の事だから、学校にも乗り込むだろうし下手したら…… ドクンドクン、と心臓が激しく鳴る。 相手の悲しむ顔が容易に想像出来てしまう。分かっていて見せるのは、凄く、嫌だ。 「心配すんなや。俺が何とかしたる」 宇佐美は優しく微笑んでくれる。 その空気にじんわりと凍った心をとかされていくようで、こくり、と頷いてギュッと拳を握り、意を決して玄関の取っ手に手をかけ「ただいま」と声を掛けた。 「真宏〜おかえりぃ〜」 すぐにひょっこり顔を出してくれた涼雅に、真宏の肩がビクリと震える。 「……? どうした? 真宏」 いつもは天然なのに家族の些細な違和感には敏感に察知する兄は真宏の元へ歩いてくる。 「ん? あれ、真宏、靴は……え? お友達?」 あちこちに戸惑ってる涼雅の姿に耐え切れず、真宏は宇佐美の作戦なんか忘れて勢いよく頭を下げた。 「ご、ごめんなさい、涼兄!!」 「え、何が? てか、お友達くんドアに見切れて顔見えな……」 「く、靴がね……くつ、……く、くつが……」 謝ったはいいが、なんて言えば良いか分からなくなってしまい、ぐるぐる同じことを言ってしまう。 涼雅はそんな実弟の慌てふためく姿に戸惑いつつ、真宏を何とかするべきなのか、後ろに立つ恐らく真宏の友人らしい背の高い男に「顔見切れてますよ」と声をかけてあげるべきなのか考えていた。 すると、顔が見切れていた大男は真宏の後ろから「すんません」と声を発した。 真宏の背後に視線を戻せば、赤い髪の男は綺麗に涼雅に対して頭を下げている。 「真宏と遊んどって、ふざけてたら靴ボロボロにしてもうて……俺がやったんです、ほんますいません」 「え、うさ……?」 真宏は自分の隣で綺麗に頭を下げる宇佐美を見て皿に戸惑った。 そんな宇佐美に呆気に取られていたが、その謝罪に対しても涼雅が黙り込んでいることに気づき真宏は顔を上げた。 すると涼雅は何故かとてつもなく驚いた顔をしてポカンと口を開けて宇佐美を見ている。 「……どしたの、涼兄……?」 声をかけると、今も尚頭を下げている宇佐美の肩にガシッと手を置いて涼雅が声を上げた。 「いちや……?」 「……え?」 思わず声を出してしまった真宏に続いて、宇佐美も驚いて顔を上げた。すると、宇佐美も涼雅と同じ顔になってポカンと口を開けた。 そして同時に、叫んだ。 「壱哉じゃないか!!」 「ミヤビさん!?」 えっ、なに知り合い……?  「わぁ、久しぶりだなぁ〜! 元気だったか!?」 「……ッス。お陰様で」 兄はニッコニコと嬉しそうに宇佐美を見上げている。 宇佐美も心做しか嬉しそうに兄を見ていた。 えっ何、なんなの? 全く場の状況が把握出来ず、真宏はポカンと談笑し始める二人を見つめた。 俺だけ置いてけぼり……? 「真宏の友達だったのかあ〜! あ、でも確か壱哉の方が一個か二個上だよな?」 「そッスね。一個上ッス」 「まぁた派手な髪になってんなぁ〜! [[rb:なぎさ > ・・・]]にやられたのか!」 「はい。俺の髪練習しやすいんやって、顔出す度勝手にやられます」 「その内刈り上げられっから気をつけろよ〜?」 「はは、確かに」 えっいやいやいやいや。なんでこんなに仲良さそうなの。 え、涼兄俺の話は? 俺結構覚悟決めて帰ってきたんですけど……。 「あ、それで何だっけ? 靴がどうかした?」 いきなり話題が戻り、ビクッとしてしまう。 「ああ、その。悪ふざけして靴ボロボロにしてしまったんです」 懲りずに宇佐美がまた嘘をついてくれてしまい、真宏は申し訳なくなりながらも今だけは甘えて合わせようと「ごめんなさい」と頭を下げた。 すると涼雅は唐突にガシガシと真宏の頭を雑に撫でてきた。 不思議に思い顔を上げると、満面の笑みを浮かべた涼雅がそこに居た。 「それでそんなしょぼくれてたのか〜! 良いんだよ、ボロくなったらまた買えばいい。むしろボロボロにしなさいいくらでも! その分楽しい思い出がお前の中に増えていくなら、俺はとてつもなく幸せだから」 涼雅の屈託のない爽やかな笑顔に、思わずぽろっと涙をこぼしてしまう。 「う゛ぇ゛〜ッ!! りょ゛ぉ゛に゛ぃ゛ち゛ゃ゛ぁ゛ん゛!!」 わんわん泣きながら抱き着くと、涼雅は小さい頃のように優しく抱き締めてくれた。 「全くお前は、相変わらず泣き虫だなあ」 あやすように撫でられれば、ますます涙が止まらなくなる。 ……ごめんね、ごめんなさい、涼兄。 「ほな、俺はこれで」 帰ろうとする宇佐美の声に真宏は、ぴたり、と泣き止む。 「……ひぐっ、……な、んで?」 ひぐっひぐっ、としゃくりあげながら宇佐美を見つめた。 「靴、ほんまごめんな、真宏。俺弁償したるからな」 「ああ、いいよいいよ! 靴は俺が買うから! そんな事より壱哉、[[rb:また > ・・]]飯食って無いんじゃない? 食べてけよ」 涼兄は俺を抱きしめたまま、宇佐美にも優しく笑いかける。 「……あ、いや……でも……」 困ったように笑う宇佐美に、ぐすぐす泣いていた真宏はハッと思い出す。 ─……俺、他人の手料理食えへんねん。 それが何故なのか分からないけど、宇佐美は多分涼雅の料理も食べられないのだろう。 だから気まずそうに断っているのだ。 守ってくれた分、俺も助けなきゃ。 口を開いて、涼雅を止めようとした時、兄は首を傾げて不思議そうに言った。 「なんで? お前、[[rb:俺の料理しか食えなかった > ・・・・・・・・・・・・]]ろ? またインスタント暮らしなんじゃねぇの?」 ……え? 「……そッスね。久々に、食いたいかも」 はにかみながらそう言った宇佐美の横顔をポカンと見つめてしまう。 ……なに、それ。 俺だけじゃないんじゃん。……涼兄のも食べられるんじゃん。 ……涼兄と宇佐美の、繋がりは分からない。 ……でも、俺と宇佐美の間にはない、何か特別な繋がりがあるように見えて、……なんだか、……なんだか、 ……寂しい。 「じゃあ出来るまで、真宏の部屋で待ってて」と言う涼雅の台詞に宇佐美は頷き、真宏の後ろを大人しく着いてきた。 涼雅にお茶を持たされた真宏は、テーブルに雑に置いてクッションを抱いて宇佐美から距離をとった。 「あれ? 真宏、怒ってんの?」 宇佐美は隣に座る不機嫌な後輩を不思議に思う。 さっきまでわんわん泣いていたくせに今度は頬をふくらませて顰めっ面ときた。原因が分からず声をかけてやれば思い切り無視をされる。 「……あれぇ〜、ミヤビさんにバレへんように嘘ついてやったんやけどなぁ?」 宇佐美のその言葉にギクリ、と肩を揺らした真宏は、おずおず宇佐美の方を振り向いて「……その節は……ありがとう、ございました」と頭を下げてくる。 「はは、ええよぉ」 俺は怒ってるんだ。宇佐美が嘘ついてはぐらかしたこと。 「え、なあなあ。なんで怒ってんの?」 本気で不思議そうに首を傾げる宇佐美。 もしかして、無自覚なのか? 気づいてないのか? じっと見つめると、「んー?」と首を傾げている。 「……なんでもない」 「なんでもないわけあるか。思っきり頬っぺた膨らんどるやん」 えっいつの間に。真宏慌てて両頬を手のひらで隠す。 「そんで? 何をそんな頬っぺたパンパンにする程怒ってんの?」 めっちゃ訊いてくるじゃん……。 真宏は仕方なく、口を開いた。 「……先輩が、……俺に嘘ついたから」 真宏が小さく、小さく呟くと宇佐美は「え? 何が?」と眉を寄せる。 「ご飯!! 俺のだけは食べれるって言ったのに……涼兄のも食べれるんじゃん」 真宏の台詞にキョトンとした宇佐美は、「ああ、それか」と納得していた。 「それか、じゃないよ。俺は……」 ……俺は、なんだ。何を続けようとした? 「…………もういい」 これ以上言ったところで、何にもならない。 「あれなぁ、俺も驚いたわあ」 他人事のように言う宇佐美から顔を逸らす。 ……いいよ、どうせ先輩は……そうやって色んな人に喜ばせる事を言ってるんだ。 だから皆先輩を好きになっちゃうんだ。一喜一憂させて、心で笑ってるんだ。 ……俺の事も、……あの時、馬鹿にしてたんだ。 ……俺は……本当に、……嬉しかったのに。 また、練習しようって思えたのに。 おかず、作る度に、美味しいって笑ってくれるかなって考えて作ってるのに。 またじんわり涙の膜が張ってしまう。ダメだ、これから夕飯で下に降りなければいけないのに。泣いたらバレてしまう。 唇を噛んで耐えていると、宇佐美はグイッと真宏の腕を引っ張った。 「わ!」 バランスを崩し、宇佐美に倒れ込む。 「な、なに……」 「やっぱ、また泣いとる」 ふわり、と目を細められドキンッと心臓が鳴る。 この人の笑顔は、どうしても、優しくて、ほんの少し切ない色をしているのか。 ……知れる日は、くるのだろうか。 「なんで泣いてんの? 何に泣いてんの?」 真宏の気持ちが分からない宇佐美、宇佐美の気持ちが分からない真宏。 こんなんじゃ、心の距離なんて埋まらない。 ……埋めようとも、思いたくない。 「……なあ真宏、教えて」 低く、優しく囁かれる。 頬が宇佐美の大きい手のひらに包まれる。 そこがぽっぽっと、熱を持ってしまう。 「…………言いたく、ない」 先輩は優しい。……でも優しくない。冷たくもないけど、温かくもない。 酷くも無くて、愛も無い。俺らの間には何も無くて、これからも、何も、起こらない。 「……そおか」 ……興味も、持たれていないんだ。 自分がなんでこんな感情を持つのかも、分からない。 「……じゃあ、宇佐美の事送ってくるから」 「え、別にええよ。家に居り。外暗いで」 宇佐美の言葉を無視して靴を履く。 「真宏〜、気をつけて帰って来るんだぞ。壱哉も、また飯食いに来な」 「宇佐美さーん! あたしも! また会いたいー!」 涼雅と杏が戯れている間に玄関の外に出る。 杏はすっかり目をハートにして宇佐美を、気に入ってしまった。 アイツは面食いだからな。 ……ああ、夜は涼しいな。 涼雅のご飯は美味しい。愛を感じている毎日。 だからきっと、宇佐美も食べられるんだろうな。 今日宇佐美は、顔色悪くなることも無くちゃんと食べれていた。 食が細いのか完食とまではいかなかったけれど、真宏の時よりも安心した顔をして食べていた。 ……悔しい。 涼雅の料理を美味しく食べてくれるのは嬉しい。 ……だけど何故か、悔しくて、堪らなかった。 「真宏〜、見送りなんてええって別に」 「……」 「……なあ真宏、無視は感じ悪いんとちゃうか」 ……正論だ。でも俺は話せる気力が無い。 イラついてもいる。 でもその他にも、感情が入り交じっていてもうよく分からない。 「…………………………か」 「え?」 「……俺は、お礼に何すればいいですか」 真宏が目を合わせずに訊くと、宇佐美はピタリ、と立ち止まった。 「うーん、せやなあ」 宇佐美はポケットに手を突っ込み、月を見ながら微笑んだ。 「……真宏、俺ん事好きになってもうた?」 真宏の態度が初めの頃と違う事、顔も声も友人やただの後輩のソレでは無い事。 宇佐美は分かっていた、わかってしまっていた。 もしそれが事実であるなら、宇佐美はもう真宏とは居られない。 それが宇佐美のルールだったから。 「……ほな、今次の土曜の午後家来てや。 ……そんで、終いにしよか」 ほら、分かっていた。終わりが来ることを、出会ったその瞬間から、自分達の間に始まるものは何も無かったのに。 宇佐美は立ち竦む真宏の横を通り過ぎそのまま帰って行った。 始まった瞬間に、終わったのだ。 「真宏、どした? 元気ないね今日」 休日が明け、また1週間が始まる。 だけれどこの一週間はとても憂鬱だった。なぜなら週末、宇佐美に会わなくてはいけないから。 ハゼや久我はテンションが低い真宏を心配するも、真宏は事情を話せないでいた。 「真宏〜。しかめっ面すごいよー?」 「もしかして、また宇佐美さんと喧嘩したん?」 久我の、台詞に思わず目を伏せてしまった。 「えっまた喧嘩したの!?」 ……してないよ。誰とも喧嘩なんて。 「……真宏、本当にどうしたの? 僕達にも話せないこと?」 ギュッと手を握られるも、口は開けない。何も言えぬままそのまま突っ伏していると、ポンポンと頭を撫でられる。 「……ま、何があったのか知らねぇけど、放課後カラオケでも行く?」 「おっいいねぇ! 久しぶりに行きたーい! 真宏は? 行こうよ!」 二人の優しい笑顔に胸が苦しくなる。 ……そうだよな、気を遣わせちゃって俺、馬鹿だ。 「……俺も、行きたい……!」 「よし、じゃあ今日はバンバン歌って発散しよーぜー!」 「隆ちゃんはいつも発散してるでしょ」 「たしかに」 三人で笑い合い、漸く心に元気を取り戻してきた気がした。 「なあ、何歌うー?」 「僕まだいいやあ〜」 真宏はカラオケに慣れてないのでちょっとドキドキしてしまう。 「真宏は? なんか歌う?」 「……あ、俺、先に久我の歌、聴きたい」 そう言うと、久我はニヤリと笑って「惚れんなよ?」と言った。 「ばーか! 惚れるわけないだろ!」 笑って言い返してやれば、久我はニシシと悪戯に笑う。 デンモク……というものを手に取り、ピッピッと操作していく。 ……へぇこんなにいっぱいあるんだ。 あ、これ確かCMでよくきくやつだ。 久我もハゼも次々にノリノリで歌って、セッションなんかしていた。 どっちも歌が上手くて、聴き入ってしまう。 真宏は童謡しか歌えないので、童謡を入れたら久我とハゼが笑い死にかけて動画を撮っていた。 「撮るな」と怒りつつ歌い続け、歌い終わる頃には久我もハゼも泣き笑いして倒れ込んでいた。 ムゥ、としながらドリンクバーにおかわりしに行く。 ……ああ、なんかちょっと気分晴れたかも。 最早、なんであんな悩んでたのか微妙に分からない。 いつもの自分なら、キレてるシチュエーションだったのにな。 やっぱり、イラつかなかったってことは図星だったのかな……。 コーラを入れて再び部屋に戻るために扉を開けた、その時、久我が歌っている曲を、真宏は何処かで聴いた気がして立ち止まる。 ……聴いたことある、この緩やかで切ないメロディ。 初めて聴いたあの時は、こんな楽器の音なんて無くて…… こんな盛大でもなかったのにどこで…… ……そうだ、これ、……宇佐美が歌ってた。 「……あ、真宏おかえりー、なんでそこに立っ……真宏!? どうした!?」 切なくて、甘くて、入り込んでくるような声で、あの人は歌っていた。 英語ばっかりで歌詞の意味なんて分からなくて、それでも、永遠に聴いていたくなる甘いミルクのような滑らかな声が、言葉を紡いでいた。 ……紛れもなく、宇佐美の歌だった。 「真宏、どうしたの? やっぱり何か辛いことあったんだね」 歪んだ視界の中、ハゼが心配そうに真宏を覗き込む。 ……あれ、俺、泣いて…… 「……真宏、話せよ。ここには俺らしか居ねぇよ」 曲を止めた久我は、真剣に真宏を見つめた。 こんな話、出来ないよ。 したくない。……したくないんだけど、……酷く、苦しい。 「真宏、おいで」 手を繋がれ、ハゼの横に座らせられ、それでもポロポロと流れる涙は止まらない。 ボーッと床を見つめながら、涙だけが流れていく。 「……うさ先輩に、何かされた?」 遠慮がちに問うハゼに、首を横に振る。 「…………ちが、う。……おれ、が、……わるいんだ」 全部俺が悪い。こんなに苦しいのは俺が悪い。 だって先輩はちゃんと、「俺を好きになるな」って言ってくれてた。 きっと何人もの人を、こうやって泣かせてしまったから敢えて言ってくれてたんだ。 好きになってごめんなさい。 ダメだったのに、こんなにも溢れてしまう想いを抱いてしまって、ごめんなさい。 ……俺は恋をした事がない。これが最初の恋だった。 でも、……こんなに辛いなら、俺はもう誰も、好きになんてなりたくない。「……真宏、落ち着いて。ゆっくり呼吸して。大丈夫だよ、誰も真宏を責めてなんかいないから」 ギュッと抱き締められ、思わずハゼにすがりついてしまう。 「……うさ先輩と何かあったんだね。それは俺らも協力出来るのかな。何か、真宏の力になれる?」 「……ごめん……ッ、も、だいじょぶ……ずびっ」 必死に涙を拭い、顔を上げると目を丸くしてしまった。 あろう事か、ハゼもボロボロ涙を零している。 「え、ハゼ……?」 ビックリして見つめていると、ギュッと別の温もりにハゼごと包まれる。 「まったくお前らは、子供か。泣き過ぎだ、明日目腫れちまうだろ」 久我の大きな体に抱き締められ、ホッと落ち着いてくる。 「真宏が何も言わねぇなら、俺は宇佐美さんに直接訊きに行くぞ」 驚きばっと顔を上げると、真剣な顔をした久我がそこにいた。 「我慢すんな、真宏。苦しいなら苦しいって言え、吐き出せ、いつもみたいに思った事を思った時に言え。悩み事は迷惑事とは違う」 ……久我。 「……頭悪いのに……頭いい」 「……真宏、怒るぞ」 久我がムスッとしてしまったので、慌てて「ご、ごめん、つい……」と言えば、「フォローになってねぇわ」とデコピンされた。 「ほら、言ってみ。言う勇気も大事だぜ」 グッと頭を引き寄せられ久我の胸に顔を埋める。 ……これなら、顔を見ずになら、話せるかも、しれない。 真宏はゆっくり深呼吸をして、久我のシャツを握り口を開いた。 「……俺、……好きに、なっちゃった」 部屋が静かになる。 口にしたのは初めてで、ドッドッドッと顔も体温も熱くなる。 怖い、なんて言われるのか、怖い。 「だと思ったわ」 ケラケラ笑う久我に唖然としてしまう。 「もー! だから早く言えって言ったじゃんか!」 ぷくっと頬を膨らませたハゼも、怖い顔はしていない。 「……やめろ、って、言わないの?」 思わず訊いてしまうと、二人は顔を見合わせて笑う。 「言わないよ。いいじゃんうさ先輩。カッコイイし」 けろりと言って退けるハゼに「で、でも!」と口を開く。 「ハゼ、やめとけって言ってた……」 「ああ、それはうさ先輩をよく知らなかったからだよ。だから知る為に、先輩とご飯食べたり遊んだりしたでしょ?」 ……え、あれって、知るため、だったの? 「あの人、噂程に凶悪そうじゃねぇし、どっちかっつーと小学男児って感じだしな」 「そうそう! ワガママ坊主って感じだよねぇ」 ……まあ、確かに、そうなんだけど。 そうも吹っ切れられると、こっちも、何に悩んでいるのか分からなくなってくる。 「で? 好きで悩んでたの?」 ハゼの言葉に俯く。……いや、好きで悩んでたのか? 「……いや、先輩に、……俺の事は好きになるなって言われてるから……好きになったところで、……俺はどうにも出来ない」 予防線を出会った頃に張られている。これ以上こっち側に来るな、と。 踏み込んだら宇佐美は、一生真宏と話さなくなるのだろう。 「じゃあ先輩を好きにさせちゃえばいいじゃん」 「……え?」 真宏はハゼのあっけらかんとした言葉に耳を疑った。 ……今なんて言った? 「てかさ僕、真宏なら"俺を好きにさせてみせますよ!! "とか啖呵切っちゃってんだと思ってた」 「あー俺も俺も」 「え、えぇ?」 俺、そんなキャラか? 「真宏は何が怖いの?」 怖い? 怖いなんか、言ったか? 「怖かったり、不安だから、そうやって落ち込んでるんでしょ? 先輩とちゃんと話はした?」 「……今週末、会おうってなってる。それが会うの最後だって……」 「……ふぅん」 久我は、「じゃあさ」と明るい顔をした。 「会った時言やいいじゃん。好きです、って」 「えっ」 ……そんな事考えても居なかった。 「どうせ最後だって言われてんだろ? なら何言ったってもう関わる事はねぇなら、言った方が絶対いいと思う。最後って終わりって意味もあるけど、ラストチャンスでもあるだろ」 ……ラスト、チャンス。 「……馬鹿だな隆ちゃん。その日を最後にしない為の方法を考えるべきでしょ今は。なんで終わる気満々なの」 ハゼの呆れ顔に久我は「あ、確かに」と言う。 「ならもう体から落としちゃえば?」 「え? 」久我の投げやりなセリフに、ぼぼぼっと顔が熱くなる。 「この馬鹿!! 真宏は本気にしちゃうでしょそういうの!!」 「だァーってよォ、あの先輩、ヤんの大好きじゃん? 体の相性良けりゃ手放し難いだろ」 「それは隆一だけだよ節操なし」 ハゼに怒られている久我に苦笑しつつも、……思考する。 ……体……俺の体、先輩、興奮してくれるのかな。 「真宏? 隆ちゃんのは無視してよ? 体からなんてそんなふしだらな事、コイツにしか効かないって」 「宇佐美さんも大分節操なしだぜ」 「黙ってろ脳チン野郎!!」 「脳チン!?」 ハゼと久我の攻防戦を聞きつつも、それでも、効果があるのなら、試す価値はあるかもしれない。 ……体だけでも、また会ってくれるなら、最後にならないなら、……それでも、…… 「……真宏。一応言っておくけど、それはセフレだからね」 ハゼの言葉にハッと顔を上げる。 「体で繋ぎ止められても、逆に言えば体"しか"無いんだよ。体がおじゃんになったら結局終わりなんだよ」 ……体しか、無い関係。俺はそれで、良いのか? 「……真宏のしたい事を止めはしないけど、真宏が傷つく姿を、僕は見たくないよ」 友人の悲しげな顔を目に映しながらも、今の真宏には何も返すことが出来なかった。 週末に、なってしまった。 こんなにも、平日が恋しいと思ったことは無い。 無駄に朝早く起きてしまったし、無駄に散歩とかしてしまって、涼雅に吃驚されてしまったけど、「友達の家に行くから」と言って、家を飛び出してしまった。 「……はあ」 気が重い。 なんで宇佐美に呼ばれたのか分からないし、宇佐美の家で何すんだよ……超やだ行きたくない…… ……けれど、咄嗟に「行かない」って言えなかった。 言えなかったから、宇佐美は待つかもしれない。 ……あ、けどあの人そこまで律儀かなあ? とりあえず行きたくない。行きたくなさ過ぎる。すっぽかしたい。 けれどもう家を出てしまったし。仕方ないから、カフェでも寄って時間潰すか。 「いやだ……」 思わず心の声が漏れてしまった。 行きたくないよぉ……と思いつつ、もう既に宇佐美のボロアパートの前に着いてしまった。ドア前でしゃがむ。 現在、十三時半。 ドクドク心臓が嫌な鼓動で忙しい。 時間を持て余し過ぎたので、カフェのドリンクとちょっとした菓子を手土産に買ってしまったが、これが好みかは分からない。 あの人、好き嫌い激しそうだし…… あれ、そもそも食えないんだっけ? なんだっけ……ああダメだ頭が良く回らない……ううう…… 「い゛た゛ッ!!」 ドア前で蹲っていたら、勢い良くドアが頭に当たり抑えて蹲った。 「えっ、悪ィ。居ったんか」 眼鏡姿で髪を縛っていない宇佐美が驚いた顔で真宏を見下ろしていた。 「居ったんか、ってアンタが呼んだんじゃん……」 ヨレヨレのTシャツにグレーのゆるゆるスウェットを履いた宇佐美がクロックス引っ掛けて立っている。 「あーせやな」 今思い出したかのように言う宇佐美に、手土産をグイッと押し付けて見上げる。 「どこ行こうとしたのか知らないですけど、用ないなら帰りますよ」 「なぁにこれ? てみやげ? 律儀やなぁ」 お、このカフェ俺も好きぃ〜、だなんて全然返答になってない返しがくる。 「用はあるから上がってぇ〜」 ほくほくと嬉しそうに手土産の紙袋を覗きながら宇佐美は部屋に戻ってしまった。 真宏も今までの緊張が消し去り、拍子抜けして部屋に上がることにした。 靴を脱ぎ足を踏み入れると、ギシリと音が鳴る。 「そこら辺座っとってー。あー茶も菓子もこれでええな」 紙袋からそのままポイポイ出して、小さなガラステーブルが埋まる。 この簡素な部屋に似合わないカフェのオシャレなデザインのドリンクと菓子。 「あーうまぁー」 どっち飲む? と、訊こうと思いコーヒーと紅茶買ってきたのに、宇佐美は何も言わず勝手にコーヒーを手に取り飲んでいた。 相変わらずマイペースなやつだ。 「ねぇ、なんの用事で呼び出したんですか?」 相変わらずほくほくぼりぼり飲食している宇佐美をジトリと見て、問いかけた。 「んー? うーんーんーうううおー」 「はい?」 宇佐美はもぐもぐごっくんして、コーヒーをくいっと飲んで「はふぅ」と息を吐くとニッコリ笑った。 「セックスしよか」 …… ……………… ………………………………………… 「で、微分積分の件なんですけど」 「セックス」 「俺、鷹の爪ってマジで鳥の鷹の爪だと思ってたんですよ」 「セックス」 「畳の上を裸足で歩くのめちゃめちゃ擽ったくないですか?」 「せ! っ! く! す!」 「お邪魔しました」 鞄を持ち立ち上がった瞬間グイッと腕を引かれ、バランスを崩して床に倒れ込んでしまう。 「い゛っ……」 打ち付けた背中がズキズキと痛む中、目の前、視界いっぱいに宇佐美の顔面がある。 「そのつもりで来たんやろ?」 「……なんの事」 現実逃避は諦め、宇佐美の憎たらしいくらいに整った顔面を見つめ返した。 パサりと縛っていない赤い髪が垂れ、顔に影を作っていた。 ……まさに、造形美。 「家呼んで、のこのこ来たってことはヤるつもりやったんやろ? 俺に惚れとるしなぁ」 まったく意味が分からない。俺は呼ばれたから来たんだ。 呼ばれて約束守ったら、それはイコール愛の営みのゴーサインになっちゃうの? なんで? どうして? 「そんなわけ、ないでしょ」 混乱が止まない。 何故こいつはキョトン顔で俺を押し倒してるんだ? いやその前になんで俺は大人しく押し倒されてるんだ? 「え? ちゃうの?」 「お前の頭ん中、思考回路全部セックスに直結すんのマジどうにかしろよ!!」 「真宏みたいな奴が、セックス、って言うのめちゃめちゃ興奮すんなぁ」 「勝手に盛り上がってんじゃねぇよ!! 退けクソボケ!!」 ドスッと腹を蹴ると「う」と少し顔を歪めたが、「はぁ……」とため息を吐いただけで俺を床に縫い付ける手はビクともしなかった。 宇佐美は自分より世話は高いけれど、細いと思っていたのに、力が敵わない。 俺も、男なのに。……情けない。 「だいたい俺、先輩の事好きだとか言ってない」 睨み上げれば、宇佐美はコテンと首を傾げる。 「でも好きやんな? 」 なんでさも当たり前みたいな顔をして見てくるんだ? なんでそんなに自信があるんだこのくそナルシスト!! 好きじゃない。好きじゃないって言え。 好きじゃないって言うつもりできたろ、俺…… 「なあ」 睨まれてるわけじゃないのに酷く、背筋が凍る。 汚いものを見るような目で見られている気がして、堪らない。 喉奥で、言葉がぴたりと張り付いて、出てこない。 「……好き、かも」 言ってしまったが最後。 宇佐美の中で何かが、終わった気がした。 いつもの彼のような柔らかな眼差しは無い。 無の表情で見下ろされ、その瞳に光は無くただ、 『失望』 『呆れ』 『不要』 そんな色が浮かんでいた気がして、なぜだか無性に泣きたくなる。 「ほら、言うたやろ。お前は俺ん事が好き。せやから、抱いてやるって言うてんの。おかしいとこある?」 おかしい所しかない。 けど、宇佐美の言葉や声が先程とは打って変わって刺々しく冷たい。 「…………別に、抱かれたくて、ここ来たわけじゃ……ない」 「ほな何で来たん?」 そんなに、強く握らなくても俺はもう逃げない。 逃げられるわけない。 もう、どこにも力なんて入っていないんだから。 「……先輩が呼んだから、でしょ」 「けどお前、俺に抱かれなきゃずっと俺に惚れたまんまやろ?」 「はあ?」 何言ってんだこの人。マジで、頭おかしいんじゃないの。 「……俺を嫌いになる、手伝いをしてやるって言うてんねん」 低い声で囁かれ、ビクリと肩がはねる。 ……なんで? なんで先輩を嫌いにならなきゃ、いけないの? 「……俺、別に貴方を嫌いになりたいわけじゃ、ない」 「安心せぇ、手酷く抱いてやる」 どうしていつも、俺の言葉を拒絶するんだ。 どうして、他人の入る余地をわざとあけないんだ。 そこまで他人に介入されたくないくせに、どうして俺に……関わってきたんだよ。 宇佐美の、ばか。

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