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第1話

 水は迫る。長年に渡り育っていった木も草もまるで最初から無かったもののように一瞬で薙ぎ倒していく。  ……その日は豪雨だった。  肌に当たれば痛いほどたたきつけてくる雨に、心まで潰されそうになる。いや、潰れきってしまっていたのかもしれない。  鬱蒼とした森の中、荒れ狂う水の音、レインコートに反射する赤いサイレンの光、大人たちの怒号。  最初に報せを聞いた時は何も考えられなかった。急いで家から飛び出した時に、レインコートだけはなんとか引っ掴んだものの、水たまりがたくさんできているというのに長靴ではなく普段から履きなれているスニーカーを履いてきてしまった。  そして、心の中にぼんやりとした黒い(もや)のようなものが浮かび、走っていくうちにそれは次第に輪郭を現す。見えるのは不安や恐怖を(まと)った黒い塊だけである。きっとそれは死神か悪魔の形だ。  僕がここに駆けつけて何時間経っただろう。  ――――悔しかった。  僕は橋の上で欄干を震えるほど強い力で握りしめる。  自分も川に近づいて探したかった。けれど足手纏いになるのは目に見えていて、自分の無力さを痛感する。  いつもは澄んでいて川底が見える小川の水面は土砂が混ざり、荒れ狂った水がときおり岩にぶつかっては猛々(たけだけ)しく飛沫(しぶき)を散らす。すべてを呑みこんでいくその様をどれくらいの間見ていただろう。  そんなことを考えていると、川の下方から近所に住むおじさんの声が響いた。 「律くん、見つかったぞ!」  それは絶望の言葉。僕は両手で顔を覆い、橋の上でうずくまる。  なんとなくわかっていた。見慣れた靴の片方が、小川の隅の茂みに引っかかっていたから。  *  数か月前のこと。この自然が溢れる田舎町に、とある一家が都会から引っ越してきた。  西山春樹は木の優しい匂いに溢れたログハウスの二階にある自室の窓を開けて、朝の新鮮で心地いい空気を吸いながら大きく伸びをした。  元々都会に住んでいた頃から父は田舎暮らしが夢だったらしく、何十年も勤め上げていたサラリーマンを退職した後にその退職金を使ってこの家を建てたのだった。  そういうこともあり、ほぼ父の勝手で高校三年生という春樹の大事な時期にわざわざ引っ越しをした。  しかし春樹も独特な子で、誰とでもすぐ仲良くなれるがどこかのんびりしている。そんなわけで大学受験を控えている身だというのに田舎のスローライフについては大賛成だった。  都会での人づきあいに疲れていたというのも一理ある。皆がまるで仮面をつけたかのように単一な表情に見え、模試の数字に操られては友達にさえ憎い感情を抱き、密かに敵視したり。周りの笑顔さえも偽物に見える。  春樹はそんな毎日が嫌だった。自分の周りにいた友達でさえ、『友達』という仮面をつけているように見え、その心の奥では自分に対しどんな感情を向けられているかわからない。都合のいい時だけ集まっては傷の舐めあいをしているようにも感じる。  果たしてそんな奴らのことを本当の友達だと言い切れるのだろうか。だからこそ、この田舎暮らしは春樹にとってのリスタート。本当の意味での友達を作るための一念発起でもあった。  *  自室の近くにある階段を下りていくと香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。毎朝母がコーヒーを淹れてくれるのだ。  そして一階に近づく度に明瞭に聞こえてくるのはクラシック曲。父はクラシックとジャズを好んでよく聞いており、毎朝自分の好きな曲をチョイスしては自由に流している。春樹は邦楽を好んで聞くが、幼い時から父がこうしていたので別になんとも思わなかった。そうして自分の普段の性格に似合わない上品な空気に包まれたまま朝食をとるのだ。 「おはよう。今日から新しい学校だな。緊張するか?」  新聞を読みながら父が春樹に聞く。しかし春樹は特に何とも思ってないためトーストを口元に運びながら首を横に振った。 「いや、別に」  その様子に母は笑う。 「春樹は昔から緊張しないものね」 「んー……、俺でも緊張することあると思うけど」  とは言ってみたものの、確かに母の言う通り記憶を探ってみても緊張なんてしたことはなかった。 「やっぱりないかも」 「そうでしょ?」  母は自分の記憶が正しいことに喜んだのか楽しそうに笑った。  父が新聞を読み終わり、「それじゃあ春樹が帰ってきたらチェロの練習をしよう」と言い出す。またこれだ。と春樹はげんなりとした。  父は弦楽器が好きで、中でも特にチェロを好んだ。最初はその音色を聞くだけで満足していたのだが、気持ちが抑えられなくなったのか今度はチェロを弾きたくなって習い始めた。その後、春樹が小学生の頃に興味本位でチェロを弾かせてみたところ、父曰く『天性の素質があった』らしい。  それからこうしてたまに父は自分が学んできたレッスンの内容を春樹にも教えだした。しかし春樹自身は乗り気でない。最初弾いたときはきっと偶然にいい音を出せただけであって、チェロに興味は特になかったし、弦を抑える際に指が痛くなるし、やる気のない春樹にとってみれば苦痛だった。父の事は大抵好きだが唯一これだけは嫌いな面だと言える。  だがこんなに自由人な父の子どもである春樹もまた自由人で、わざと遅くまで学校に居残ったり遊んだりして時間をつぶし、少し遅めに家に帰るようにしていた。そうすれば大抵、チェロを少し触ったくらいで母の「夕飯ができたわよ」の声がかかり、レッスンは早く終わるのだ。  *  学校へ行く準備をして両親に「行ってくる」とだけ告げて春樹が家を出ると家を大きく囲う木々の木漏れ日がゆらゆらと影を揺らしている。そしてその奥にはきらきらと光を反射している海が見えた。  春樹はこの景色をすぐに気に入り、再び大きく伸びをした。やっぱりあの街に住み続けなくてよかった。こんな景色はきっと見られなかっただろう。  肌をなでる風は強く、向かい風であったが春樹の心を奮い立たせてくれた。 「よし」  そう言いながら拳で胸を力強く叩いてみる。そのままなだらかに下っていく整備された道を下り始めた。  春樹を包むのは不安や心配ではなく、希望だ。「新しい学校で友達を作れば、さらに友達が増える」というそんな前向きな気持ちを抱いて。  もちろん、本当に気を許せる間柄の友達を作ることは忘れていない。きっといるはずだ。この街に『親友』と呼べる人間が。  * 「はい、では自己紹介をしてくれるか」  おそらく六十代ほどである、やや白髪頭の担任が皆の前に立つ春樹に促した。  春樹は自然体のまま皆の姿を見回して続ける。 「西山春樹です。んー……と、水泳部に入りたくて、もし入ったらまったり気ままに泳ぎたいです」  そこまで言うと教室の中に笑いが小さくこぼれた。  担任もうんうんとうなずき、 「それならうちの高校はうってつけだぞ。生徒も先生方もみんな適当だからなぁ」  なんだか自虐ともとれる言葉にさすがの春樹も苦笑する。  もちろん春樹はそこら辺の情報を踏まえてこの高校を選んだのだ。水泳強豪校も偏差値のそこそこ高い高校もあったが、なんといってもスローライフを満喫したい。そこで、偏差値も割と下で緩そうなこの学校を選んだ。  ……ただし、大学受験の勉強はしっかり自分の力でやること、が条件。春樹はめずらしく真剣な目つきでそう告げた父の顔をなんとなく思い出していた。  そんなことを考えていると、担任が春樹の席を案内する。  後ろであるのは嬉しかったが、やや廊下側なのが少しがっかりだった。この町の景色を堪能したかったのに。海もここからじゃ少ししか見えない。  そうして席に着こうとしたとき、「あんまり都会から来たように見えないな」などと言われてるのが耳に入る。しかし春樹は気にしない。そうつぶやいた誰かも、自分の友達にすればいいだけなのだから。  色々と都会の学校でとんでもない(いさか)いに何度も巻き込まれていたお陰で、メンタルが割と丈夫な春樹は案外このクラスの中で最強だったのかもしれない。  *  朝のホームルームが終わり、休み時間がやってきた。  すると目の前のマッシュ頭の男子が春樹の方を振り返り、食いつくような……いや、キラキラとした瞳で春樹を見つめる。 「あのさ、水泳部希望だったよね!?」  勢いというか、熱量がすごい。 「んー、まぁ」  春樹がぼんやりと返すとさらにその男子は顔を近づけてきた。 「僕、水泳部部長の生田(いくた)健です! ぜひ入部してください!」  その一生懸命さに春樹は少し笑って見せる。 「わかったからさ、敬語やめようよ。同じ学年なんだし」 「あ、あぁ……そうだよね! ごめんね、僕なんというか人との距離感が上手くつかめなくて……」 「別にいいよ。よろしく、部長」  春樹が生田に片手を伸ばすと、心底嬉しそうにその手を握り返した生田は「うん!」と笑ってみせた。 「あ、じゃあ後で入部届持ってくるね。だから、んーと……西山くんは明日から正式な部員かな」 「わかった」 「あと、さっき担任も言ってたんだけどさ、この部活も結構やる気ないんだ……。基本晴れてる日しか部活なくて、晴れてても顧問の先生がいないときは部として活動できなくって。あ、でも晴れてさえいれば自由に泳げるから、そこは安心して!」 「顧問いないのに泳いで大丈夫なの?」 「んー……本当はダメなんだけど、僕たち三年生は夏が終われば引退だから、それを見越して先生がこっそり許可をくれてて」 「ふーん」  春樹の反応を何度か見つつ生田は頭を下げた。 「本当にやる気のない部活でごめん! 大会に出るわけでもないし、趣味で泳いでるだけなんだ! でもみんないい人たちだし、西山くんにも自由に泳いでもらいたい!」  その言葉は教室一体に響く。生田は遅れてそのことに気づいて赤面し、周りをきょろきょろと見回した。しかし、春樹はその言葉が嬉しくて、生田の両肩にポンと手を置く。 「ありがと、部長。結構かっこいいとこあるじゃん」 「か、かっこいい……? そんなこと言われたことないよ、気遣わなくて大丈夫だし……」 「いや、本気で水泳部のこと好きなんだなって思ったし、ちゃんと俺の心には響いたから」 「え……、ほんと?」 「うん。……ってところで悪いんだけどさ」 「?」 「次の授業の先生、もう来てる」  春樹がシャーペンで前の方を指すと、生田は再び赤面した。  *  昼休みになると春樹は生田と昼食のパンを買いに購買に向かっていた。 「ここのパン、結構おいしいって評判だったから楽しみだったんだよなー」 「そうなんだよ! しかも出来立てほやほやでさ……あ」 「ん?」  生田が歩いていた足を止めて硬直する。  その方を見ると背も高く横幅も広い大柄な男子がいた。  生田は小声で春樹に耳打ちする。 「あいつ、ヤバイやつだから気を付けて。広野永次(ながつぐ)っていうんだけど、いわゆる……ガキ大将みたいなやつで」 「ジャイアンみたいな?」 「そうそう、だから西山くんも……って、え!?」  生田の助言を受けておきながら春樹は一人でその方に向かっていく。  そして広野の前に立った。広野はギロッとした目つきで春樹を睨みつける。……威嚇だ。  大抵の者はその視線を受けただけで怯えてしまうのだが、春樹は違った。  なんでもないという様に片手を差し出す。 「あぁ?」  広野は不機嫌そうな顔を春樹に向けた。しかし春樹の表情は変わらない。 「改めて、転校生の西山春樹だ。同じクラスだろ? よろしく」 「……その手はなんだ」 「握手の手。ほどほどでいいから、仲良くしよう」  春樹が無理やり広野のパンを持ってない方の手を引っ張って自分の手と握手させる。  その行動に一瞬あっけにとられた広野は我に返り、「あぁ、そうだな」と言いながらわざと握手している手に強烈な力をこめた。  それが目に見えた生田は恐怖を顔に張り付かせ、「西山くん……!」と言ったその時。  苦痛に顔を歪めたのは広野の方だった。 「……ってめぇ……」  握る両者の手はわずかに震えており、春樹の方が強い力で広野の手を握りしめていた。 「よーし、これで仲良し。改めてよろしく」  そうして手を離すと、広野は握られていた手をぶんぶんと何かを払うような手つきをして、無言で春樹の横を通り過ぎる。 「そんじゃ、行こっか」  と言いながら背後の生田を見たら、またキラキラとした目で見つめられた。 「すごい……すごいよ西山くん! ケンカ強いんだね!」 「いや……ケンカじゃなくて握手しただけで……」  何か勘違いされてるな、と春樹は内心ため息をつく。 「でも気を付けてね、あいつに目をつけられたら色々と酷いことされるかもしれないから……」 「んー、まぁその時は止めに入ってね、生田」 「えっ僕!?」 「……冗談」  半分は本心なんだけど、と心の中でつけたし、春樹は生田に微笑んで見せた。  * 「疲れた……」  春樹が廊下で一人、とぼとぼと歩いていた。  昼間の広野に立ち向かった話は一気にあらゆるところで噂となり、帰る時間になっても周りからの質問攻めにあっていたのだ。  それを「トイレに行くから」と嘘をついてその場をなんとか離れてこのまま帰ってしまおうと昇降口で外靴を手に取ったとき、クラスメイトがここに来る気配があったため、結局外靴を持ったまま廊下に戻ってきてしまった。  どこか、逃げる場所はないものか。いや、外靴はあるからどっかの窓から出ればいいんだけど。  その時、階段の方から声が聞こえてくる。 「おい、もしかして西山、学校内で迷子になってるんじゃね!?」  その言葉と同時に聞こえる慌てた足音。 「……やば」  春樹はどうにか逃げようと自分のすぐ隣にあった図書室に入った。  すると。  開け放たれた窓から吹く風でカーテンは大きくなびき、桜のはなびらを乗せて。  夕暮れの光を受けて綺麗に輝く髪を持った少年が正面のカウンター席に座っていて、読みかけていた本に栞を挟んで顔を上げた。 「こんにちは」  優しい声だと春樹は思った。優しくて、儚くて、なぜか切なくなる声だ。こんな気持ちになったのは、きっと初めて。 「あ……うん、こんにちは」  見とれてしまった自分に若干の動揺を覚えるが、走ってくる廊下の音にハッとする。  *  春樹のクラスメイトたちは図書室の扉を開けた。 「おい、遠野! 俺たちのクラスに来た転校生の西山ってやつ来てないか?」  すると、遠野は首をかしげる。 「西山くん……? ごめん、誰も来てないけど……」 「そっか、わかった!」 「もしかしたらもう帰ったかもしれないよ? 疲れてただろうし」 「それもそうか……。わかった、とりあえずありがとな!」  そしてバタンと勢いよく図書室のドアは閉められた。「ここにもいなかったぞ!」とクラスメイトの騒がしい余韻が響き、図書室からの風で廊下の床に流れ着いた桜の花びらがひらりと舞う。  その音をしばらく聞いていた『遠野』と呼ばれた少年は頃合いを見て、自分のカウンター席の下の方に微笑みを向けた。 「……もう大丈夫そうだよ、西山くん」 「……行った?」 「うん」  優しい笑みを見て、カウンター席の下に潜り込んでいた春樹はするりと抜け出して立ち上がり、ため息をつく。 「疲れた……」 「すごい人気者になっちゃったね。僕も自分のクラスで噂になってるのを聞いたよ」 「正直なところ、あんまり嬉しくないんだけどねー……」  のんびりと答えると遠野はくすりと笑って見せた。 「なに?」 「あ、ごめん。広野に立ち向かうくらいだからもっと血気盛(けっきさか)んなのかと思ったんだけど、違ったみたいだね」 「それって褒めてる? けなしてる?」 「褒めるもけなすもないよ。僕の感想。……良い意味のね」 「ふーん。それならいいか」  春樹はカウンター席に軽く座って話を聞いていたが、風に乗ってさらりと揺れる遠野の髪の綺麗さにやはり見とれてしまう。色素が薄いからだろうか、儚く見えてしまうのは。  そして、無意識に手がその髪にのびる。さわり心地も見た目同様で、さらりと手から砂のように零れ落ちた。 「どうしたの?」  見上げてくる瞳にまたもやドキリとした。さっきは追われていて遠野の顔をよく見ていなかったが、身近で見るとすごく綺麗だったから。春樹は少し心がもやもやする。なにせ語彙力が足りない。この綺麗さを、儚さを、上手く体現する言葉が見つからないからだ。 「あ、いや……髪が、綺麗だなって。特に深い意味はないけど」 『深い意味』と言ってから春樹は後悔する。なんだか恋愛的な意味で意識しているように(かえ)って聞こえないだろうかと。  そこで遠野の反応を見る前に話題をそらそうと、片手を遠野にのばす。 「そうだ。改めて、俺は西山春樹。よろしくな」  その言葉と差し伸ばされた手を見た遠野は柔らかな動作で握手をした。 「……遠野(りつ)です。よろしく」  声も手もその微笑みも柔らかい。少なくとも、春樹が生きてきた中で初めて見る人種だった。そして同時に、もっと仲良くなりたいと思った。細かい理由など、どうでもいい。本能的にそう思ったのだ。 「いつもここにいるの? 図書委員とか?」  そう聞きながら暮れなずむ夕陽を恨めし気に見た。この心地いい時間が止まればいいのに。夕陽よ、暮れるな。 「あぁ……うん、そうだよ。図書委員は他にも一応いるんだけどね、みんなそこまでやる気がなくて。だから、全部僕が受け持つことにしたんだ。本が好きだし、ここが落ち着くから」 「へぇ……。またここに来てもいいかな」  なんとなく出た春樹の言葉に、遠野は目を見開いてから嬉しそうな顔をする。 「もちろん、大歓迎だよ。普段、ここに本を読みに来る人もいないんだ。だからいつも一人だった。西山くんが来てくれるなら、さみしくなくなるね。今日もよければゆっくりしていって」 「あー、えっと、本読むために来なくてもいい?」 「えっと……? というと?」 「ここ、なんか落ち着くから。気に入っちゃって」 「そっか。それでも嬉しいよ」 「うん」  何度も見せてくれる遠野の優しい笑顔に、春樹の心は満たされていく。  もしかしたら、遠野こそが自分が探していた『親友』なのかもしれない。いや、そうであってほしい。  そう思いながら春樹は荷物を床に置き、L字型になっているカウンター席で遠野が座っている席の斜めの位置に腰を下ろした。  そしてそのまま突っ伏し、疲れを抜いていく。遠野の、再び始めた読書の紙をめくる音が心地いい。春樹は次こそは遠野の横に座ろうと夢見て、眠りに落ちた。  *  しばらくして優しく揺り起こされる。 「西山くん、起きて」  背中の方をぽんぽんと柔らかく叩かれたことでぼーっとしていた視界がクリアになった。 「ん……?」  目の前に遠野の顔があり、少し驚くが春樹は緩慢な動作で起き上がる。  その様子にくすりと笑った遠野は壁時計を指さした。 「そろそろ下校時間だから、帰らないと」  春樹がその方を見ると時計は十九時を指そうとしている。 「あれ、ほんとだ」  それでも急ごうとせず、のんびりと荷物を持って歩きだす春樹に遠野は後ろからついていき、「のんびり屋さんだなぁ」と笑った。  *  二人が校庭を出た後。  空はもう暗くなっており、一番星よりも細かな星まで綺麗に見えた。  春樹は道を歩きながら「綺麗だよな」とつぶやく。遠野は横に並んで、「そうだね」といつもの優しいトーンでかえした。  都会は空を見上げても何かしらのビルや明かりが視界に入り込んで星がこんなに見えることはない。  空には満天の星、頬を撫でる風は涼しく、隣には親友になれそうな優しいやつ。まさに、春樹の求めていた環境そのものだった。 「ねぇ、西山くん」 「ん?」 「肝心なことに気づいたんだけど家はどこら辺なの?」  心配そうに聞く遠野に対し、春樹は山の方に灯る明かりを指さした。 「あの坂、見える?」 「うん」 「あれを上った先にあるログハウス。今はちょっと手前に木があって見づらいかもしれないけど」 「あ、あの屋根の家? すごいね、二階からならこの辺一帯を見渡せるんじゃない?」 「うん。なかなか気に入ってる。今度遊びに来いよ」 「いいの!?」  少し声に勢いがついた遠野に春樹は首をかしげる。 「うん。いつでもどうぞ。ってかそんなに食いつくような話?」  そう聞くと遠野は少し恥ずかしそうに顔を下に向けながらうなずいた。 「誰かの家に呼ばれるのなんて、いつ以来かな……、小学生以来かも」 「へぇ。まぁ、気軽においでよ。うちの母さん掃除好きだからたぶんいつでも人呼べるし」 「そうなんだ……。ちょっとうらやましいかも」  遠野は少し寂しそうに笑う。 「?」 「あぁ、気にしないで。こっちの話」  あまり踏み込んではいけない話なのかなとぼんやり思った春樹は、話題をそらした。 「で、遠野の家はどこにあるんだ?」 「僕の家? んーと、海の近くなんだけど、ここからじゃ見えないや」 「じゃあ送ってく」 「え? いいよいいよ、僕いつも一人で帰ってるし」 「ここら辺暗いだろ? 夜道は危ないし、誰か襲ってきたらどうすんだよ」  周囲に注意を向けながら遠野の家の方面へ歩き出す春樹に、遠野は面白そうに笑う。 「大げさだよ。ここら辺は治安悪くないし、僕男だよ?」 「今は男でも襲われる時代だし、もし襲ってこられたら遠野、応戦できないだろ」 「応戦って……」 「それに」 「?」 「……なんか、海が見たい気分なんだよ」  なんとか理由をこじつけて遠野を危険から守ろうとしているのがバレバレな春樹に、遠野は少し照れながら「ありがとう」と言って春樹の後に続いた。  *  暗い夜道を歩きながら春樹は空を見上げ、何やらぶつぶつと呟いていた。 「遠野律……りつまる……リッツ……り、りー……」  その言葉に遠野は顔を若干引きつらせて聞く。 「あの……さっきから何考えてるの?」  すると春樹はその質問を待ってましたと言わんばかりに自信を持って答える。 「あだ名。『遠野』って呼んだら他人行儀っぽいだろ? 俺、遠野ともっと仲良くなりたいからさー。ちなみに一番いいかなって候補が『りつまる』」 「り、りつまる……」 「どう?」  そのニックネームのセンスの無さに、さすがの遠野も遠慮した。 「ごめん、普通に『律』がいいかな……」 「そっか。まぁそれでもいいや。じゃあ俺は『律』って呼ぶから、律も俺のこと『春樹』って呼んでな」 「え、いきなり……!?」 「嫌だった?」  自分で聞いておきながら、さすがに「重いか」と自問自答する。なんとなく朝の生田の言葉を思い出していた。確かに自分も、人との距離をとるのが苦手なのかもしれない。でもなんだろう、何か違うような。他の人とは上手くやれてたはず。律だけが違うんだ。やっぱり『親友になってほしい』という気持ちが強く出過ぎたのか?  すると律はなんとなく春樹の心境を読んだのか慌てる素振りをする。 「えっと、嫌ではないけど驚いてる」  律の言葉に春樹は当然だろうなと思った。むしろドン引きされていないことが奇跡なくらい。 「まぁ、会ってまだ数時間しか経ってないし当たり前かー」  すると律は口元に人差し指を軽く曲げて当てながら上品に微笑む。 「それもそうだけど、僕、こうやって人に好かれたことなかったから。名前で呼ばれることも少なかったし、『家にきてもいいよ』って言われることも少なかったし。……すごいな、こんな気持ちになるんだ。嬉しくてたまらないな……」  言葉の最後の方を、嬉しさを噛みしめるように話す律。  その姿を見て安心する。  そしてなんだかあまり特別な『親友』がいないような口ぶりを聞いて、もっと色々なことをして楽しませたくなった。……もっと早くに出会いたかったとさえ思う。俺たちはあと一年もせずに卒業だから。  やがて、下り坂のカーブを降りていくと辺り一面に紺色に輝く海が広がる。海には上って間もない月の光が真っすぐに伸び、光の道ができていた。  春樹は海が見れたことと律という大切な友人を得ることができたのが相まって嬉しくなり、両手を気持ちよさそうに上げる。  そして全力で叫んだ。 「海だー!」  突然の春樹の大声に驚いた律は「西山くん、ここら辺住宅あるから……!」と声を抑えようと近づくと、春樹は律の口元を指さした。 「名前。『西山くん』じゃないだろ?」  そこでハッと気づいた律はまた人差し指を曲げて軽く口元に当て、照れたように視線を背ける。きっとその指を口元に当てるのは律のクセなんだろうなと春樹は思った。  それにしても、照れてなかなか『春樹』と呼べない律がなんだか可愛く見えてきて、さらに催促したくなる。 「ほら、呼んでみ? 『春樹』って」 「せ、急かさないでよ。人を名前で呼び捨てしたことないんだから」 「後にすればするほど言えなくなるぞー。……言ってみて。せーのっ」 「は、……はる、き……」  目をギュッとつぶって声を振り絞った律に春樹は笑った。 「ぎこちねぇな」 「ちょっと! 笑わないでよ、頑張ったんだから」 「明日からちゃんと学校で呼べよ!」 「えぇ、僕にはハードル高いよ……」  こんな名前の呼び方ひとつの話題なのに、心地よかった。笑ったり困ったり、春樹と律の表情は違ったがやがて二人は波がおさまっていく様に穏やかに微笑みあう。  くだらないことで笑いあえるのって、こんなに楽しかったっけ。このままずっと話していたい。  春樹は坂を下りていく一歩一歩を名残惜しく感じた。律は、同じことを思ってくれているだろうか。自分の独りよがりではないだろうか。  なんだか心臓が嫌なほどドクドクと動いてる気がする。あと、よく分からないけれど手汗も。こんなこと今までなかった。  ……あれ?  もしかして、これが『緊張』ってやつ?  でもそんな不安や緊張も律はその繊細な心で春樹の心を読み取っているのか、すぐに安心させる言葉を紡ぐ。 「なんだか、ずっと話していたいな。人と話してこんなに笑ったのって、久しぶりだから」 「俺もそれ思った」  そう言いながら安心して胸を撫でおろしている自分がいるのは、少し恥ずかしかったけど。  *  坂を下りてすぐの所で律は一軒の二階がある一戸建てを指さして、「あれが僕の家。本当に海が近いんだ」と言った。  確かに家のすぐ後ろには堤防があり、さらに後ろにはテトラポッドが置いてある。さらにその先はもちろん海だった。  しかし春樹は少し(いぶか)しげな表情をする。 「本当に?」 「あ、僕がにしや……えっと……春樹に遠慮してこれ以上家まで送らせないようにしてるんじゃ……とか考えてるでしょ」  その通りだった。嘘の家を教えて、これ以上ボディーガードまがいのことをやらせなくてもいいようにしてるんじゃないかと思ってしまった。  あまりに図星過ぎてため息が出る。 「なんでそこまでわかるんだよ……」 「きっと、僕も春樹と仲良くしたいと思ってるからかな。なんとなく思ってることがわかるんだ。春樹だったらどう考えるかなって」  律が嬉しそうに笑ってる姿を見ると、春樹も心が温かくなった。  律はその家の方に歩きながら話を続ける。 「でもここが僕の家なのは本当だよ。ほら、表札見て」  玄関に春樹が近づくと、古い木の表札にきちんと『遠野』と書かれてあった。 「ほんとだ」  すると、玄関の()りガラスから暖色の光がパッと差し込み影が揺らいで、中からエプロンをした少年が出てくる。 「兄貴、やっと帰ってきたか……って、誰?」  律より少し背が低く髪は反して黒め、律と同じように体の線は細いようだが、しっかりしているのは顔つきで春樹もすぐにわかった。そして口調と言葉ですぐに「弟か」と察する。  律は嬉しそうに「ただいま」と言って、弟の肩に手を乗っけた。 「これが僕の弟。(りく)()だよ。すごい自慢の弟で、料理がすごい上手いし、気も遣えるし、頭もすごい良い子なんだ」  すると陸也はべた褒めする兄を「やめとけよ、はずかしい。しかも『すごい』を連発しすぎ」と抑え込んで腕組みをしながら春樹の前に立つ。そしてじっと春樹を見つめた。 「兄貴とはどんな関係ですか? 図書委員か何かですか」  これは完全に警戒されてるなと春樹は思ったが、頭を掻くくらいで特に気を張ることもなく片手を差し出し、 「俺、転校生の西山春樹。律と親友になりたいと思っててさー」 「……『律』? …………親友!?」 「親友!?」  兄弟が二人してこちらを驚いたように見る。  その様子を見て特に驚くこともなく春樹は当然のように「うん」と返した。  陸也はすぐに律に詰め寄る。 「ホントかよ兄貴!」  そうして詰め寄られた律もなぜか顔を赤くして「えっ、えっ!?」と動揺している。 「あー、ごめん迷惑? ってか手下ろした方がいい?」  春樹のフラットな声を聞いて冷静さを若干取り戻した陸也は、下ろされかけた春樹の手を慎重に握り返した。 「……変に警戒するような態度をしてすみません。兄貴……その、特に仲良い友達がいないから、近づいてくる人には何か裏があるんじゃないかと疑ってしまう癖があって」 「へぇ」  まぁそう疑ってしまってもしょうがないか、と軽く納得していると陸也は本当に申し訳なさそうに春樹を見る。 「俺のせいで、兄貴のこと……嫌いになりましたか?」  その言葉は春樹に一瞬で一蹴される。 「いや、別に。それよりさ」 「はい……?」  春樹はぐっと陸也に顔を近づけて未だ握られている握手した手に少しだけ力をこめた。 「俺も君のこと『陸也』って呼びたい」 「は?」  そこでパッと春樹は握手していた手を離す。 「いや馴れ馴れしいのは自覚あるし悪いんだけどさー、俺、律と親友になりたいって言ったじゃん? ってことはやっぱり弟とも仲良くしたいんだよ。だめ?」 「ちょっ……いや、俺はいいけど……兄貴、本当にこの人と友達とか大丈夫か!?」  陸也の必死の問いかけに律は腹を軽く抱えながらくすくすと笑っていた。 「面白い人でしょ。のんびり屋さんだし、一緒に話してたら楽しくって……」  その一言を聞いた陸也は驚いた表情をしてから少し微笑みを見せる。そして春樹の方を向いた。 「わかったよ。陸也って呼んでいい。その代わり、敬語はやめるからな」 「もちろん。あ、それと……」 「まだ何か?」 「俺のこと、なんて呼びたい?」 「また名前の呼び方かよ……。あんた、変なとこにこだわるんだな」  呆れられたような反応だが春樹は引かない。 「呼び方って案外大事だぞ? ほら、候補は」 「候補……まぁ普通は『西山さん』だろ?」 「だめだ、他人行儀すぎる」 「普通だろ!」 「じゃあそうだな……陸也は律のこと『兄貴』って呼んでるみたいだし……『春(にい)』だな」 「え、ちょ……決まったの?」 「あぁ、決まった」  腕組みをしてうなずく春樹を見て、再び陸也は兄を見た。 「ちょっと! マジでこの人が友達とか大丈夫か!?」 「うん、大丈夫大丈夫……ふふふ」 「いや、ちょっと待って、二回も言われるとさすがの俺も傷つくんだけど」  その時、カタカタカタカタッと小刻みな音が聞こえ、 「あっ、ヤベ……鍋に火通したままなの忘れてた!」  と言って一度陸也が家の中へ入っていき、コンロの火を止めたのかすぐ戻って来る。 「……今日はミネストローネとサラダ。あんた……じゃなかった、……は、はるにいも食ってくか?」  兄弟そろって春樹の呼び名が上手く言えないのが面白くて春樹は「やっぱぎこちねぇ」と笑っていると。 「ちょっと待って、さすがにこんな時間だし春樹も家に帰らないと親御さんが心配するよ! それに、母さんは……?」 「寝てる。ってか寝かした。人を呼び込むなら今しかねぇだろ? ……兄貴の『親友』なら、兄貴だって本当は家に呼びたいだろうし……」 「陸也……」  するとタイミングよく春樹のスマホが鳴った。 「あ、母さんからだ」  そして電話に出ると開口一番に心配そうな母の声が聞こえてくる。 「春樹、今どこにいるの? なかなか帰ってこないから心配になったじゃない……ほら、お父さんも」  母の声の後にすぐ父の声が聞こえる。 「おう春樹、なかなかチェロの練習できなくてお父さんは寂しかったぞ! 今どこにいるんだ?」 「今、親友になりたいやつの家の前。夕飯に誘ってもらってるとこ」 「親友!? お前転校して一日で……なかなかやるな! よーし、それじゃあゆっくりしてこい! 帰りはお父さんが近くまで迎えに行ってやる」 「んー、よろしく」 「ちょっとあなた……」と電話の向こうからまったく春樹のことを心配しない父をとがめる母の声が聞こえたが、春樹は無視して電話を切った。そして親指をグッと立てて陸也に向ける。 「時間のことは気にするな、お言葉に甘えて夕飯食ってく」  それを見て陸也も親指を立てて春樹に向けた。 「おう」  そうして遠慮なく家に入っていく春樹を茫然と見ながら律はポツンとその場に残され、「えー……?」と一人頼りない声を出していた。  *  陸也の作ったミネストローネはとても美味しかった。  三人はダイニングテーブルであと少し残っている夕飯を食べているところだ。 「うん、本当に美味いな。正直、律のべた褒めは過大評価かと思った」 「え、酷いよ! 嘘なんてつくわけないじゃん! その……親友になってくれる人に」  律は『親友』という言葉を言う際に少しもごもごとした口調になり、照れた顔をしていた。そんな二人の様子を見ていた陸也は綺麗に平らげられた皿を見て、 「はーい片付け片付けー」  と棒読みしてなんだか甘くなりつつある空気を打ち消し、皿をシンクへと片付け始める。 「おお、さすがだな。出来る弟だ、気が利くし」 「そうでしょ? 僕は嘘ついてないよ」 「兄貴は俺のこと褒めすぎ」  そう言って陸也はテキパキと皿を洗い始めた。 「他、洗うものは?」 「あー。コップ」 「春にい早く持ってきて」  春樹はコップに入った水を飲みほして、台所のシンクに持っていく。そして陸也の横顔をじっと見た。 「陸也さー、毎日こんな感じなの?」 「こんな感じって?」 「いや、料理作って兄貴が帰ってくるの待って、洗い物して……疲れない?」 「慣れてるから別に。それに……」  陸也はちらっと律の方を見てから洗い物へと向き直る。 「兄貴のことは、俺が支えないとダメだろ? まぁ春にいって存在ができたから少しはマシになるけど……」  少し言葉の端が小さくなったため、春樹は笑いながら陸也の頬に人差し指を軽く突き立てた。 「あー、今少し俺に嫉妬しただろ」  すると陸也は肩でどうにかその指を払い、 「うるせーな! ほんっとに馴れ馴れしいぞ! 向こうで座って兄貴と喋ってろよ!」  そう大声で言うと、律はまったりと微笑みながら「すごいね陸也。もう春樹とそんなに仲良くなったの?」と言うものだから。 「そうそう」 「仲良くねーよ!」  同時に春樹と陸也が答え、正反対の答えに律は再びくすくすと笑った。 「ほんと、仲良いね」  その顔を見てまた洗い物に向き直る陸也は少し微笑み、そしてつぶやく。 「……それに、兄貴のああやって笑ってる顔見たら頑張ろうって思えるだろ」 「それはまぁ……、確かに」  同意した春樹は、律のもとに向かった。律はなにやら鞄からプリントを取り出している。宿題だ。 「あー、そういえば俺も宿題出てたな」 「あ、じゃあせっかくだし一緒にやろうよ。僕途中までやったんだけど、分からないところが出てきて……」 「どこ?」 「数学のこの(とい)四。何回考えても分からないんだよね」 「あー、それは……」 「え、わかるの!?」  教えようとテーブルに身を乗り出した春樹を見て律はすごく驚いた顔をしていた。春樹はややムッとした顔を向ける。 「……もしかして俺のこと、勉強できないバカだと思ってた?」 「う、ううん、そ、そんなことない!」 「思いっきりバレる嘘つくのやめてくれる……?」  春樹はまた何か勘違いされてるなぁと内心ため息をついて、律に問題の解法を教え始めた。律はそれを聞き、驚きで目を見開きながらうんうんと相槌を打つ。 「……どう、わかった?」  教え終わり、春樹が席に背を預けると律は感動した様子で何度もうなずいた。 「すっごくわかりやすくてビックリしたよ……。たぶん、先生よりわかりやすい説明だと思う」 「そっか。まぁ俺一応教師志望だしさ」 「え、そうだったの!?」  そう、周りからよく驚かれるが春樹は教師志望だった。教科までは決めてないが中学でなんとなく好意を持った、自分に似たのんびりした先生を見てたら教師も悪くないかもと思ったのだ。  それに、人に何かを教えるのが好きだったというのも理由のひとつである。 「へぇ、意外だな」  そう言いながら皿を洗い終えた陸也が律の隣に座って、同じように宿題を始めた。  どうやら陸也も英語の宿題を途中まではやっていたらしい。  ……が。 「あ、陸也それ文法間違ってる」 「え!?」  春樹に瞬時に間違いを見つけられた陸也も驚いた顔をした。 「んー、この問題ならこう答えるのもありかな」  春樹がサラサラと英文を書いていくと、陸也は首をかしげる。 「え……? いや、ちょっと待った。俺こんな文法知らねぇし、単語も知らない」  その言葉を聞いて春樹は数秒固まってから「あー」と納得してうなずいた。 「陸也って今何年生?」 「中二」 「じゃあそのレベルに合わせないとダメか。だったら……」  そう言って別の英文を書こうとする春樹に陸也は人差し指を向けて糾弾する。 「おい……まさか自分の頭の良さを見せびらかしてわざと書いたわけじゃないだろうな……! しかも何気に字綺麗だからムカつく!」 「こーら、せっかく教えてもらってるんだからそういうこと言っちゃダメだろ?」  律の言葉に「う……」と陸也は言葉を詰まらせ押し黙った。 「とりあえず正解っぽいの書いといていい?」  春樹の問いに渋々うなずく陸也に、律がフォローを入れる。 「でもね、春樹。こう見えて陸也は毎回テストで学年三位以内に入るくらい頭がいいんだよ」  春樹は英文を書きながら「……ん、わかってる。この問題の間違いも惜しかったからなー」とのんびり答えると陸也は照れたようにそっぽを向いた。 「あんたって……人たらしなとこあるよな」 「そう?」 「無意識かよ……」 「ね? 春樹もいい人でしょ」  陸也と春樹の間で嬉しそうに笑う律。しかしその和やかな空気は泡のごとくすぐに消えた。  ミシッ……と畳を踏む音が聞こえ、突然(ふすま)が開く。  その瞬間律と陸也が恐怖をにじませて硬直するのを春樹は肌で感じた。  そこから出てきたのはやせ細った長めな黒髪の女性。おそらく二人の母親だと春樹は判断した。……そして、様子も普通と違う。 「あなた……誰?」  まるで幽霊が話しているような、か細い声。か細いはずなのにその言葉に圧を感じる。  その場は異様な雰囲気に包まれたが、臆せず春樹は椅子から立ち上がって軽く一礼する。 「西山春樹です。今日転校してきました。律くんと仲良くさせてもらってます」  その最後のフレーズを言った瞬間、ガタンと陸也が青ざめて立ち上がり、「春にい、離れろ!」と叫んだ。  すると女性は律を忌々しく見て、両手で頭を抱える。 「律……? あぁ、あぁ……その髪の色はあの人と同じ……! 私の前に姿を現さないでって何度言ったらわかるの!?」  女性はすぐ近くにあったクッションを律の方に投げつけた。  律はかわすことをせずぐっと目を閉じて耐えようとしたが、衝撃が来ない。  不思議に思って目を開けると、クッションを春樹が受け止めていた。 「春樹……!」  律が目を見開いていると陸也が律を無理やり立たせて、春樹には律と春樹の鞄を手渡す。 「春にい、兄貴を連れて逃げろ!」  春樹は律を玄関へと押し出しながら「陸也ひとりで大丈夫か!?」と聞くと、 「俺らの母さんだ、俺がなんとかしないとならないだろ!」と、半狂乱で奇声を上げながら暴れる母親を必死で押さえつけていた。  最後に、「兄貴から俺のLINE聞いて! あとで連絡くれ」と陸也が簡潔に話し、春樹も「わかった」とだけ言って律を連れて外に出ていく。  *  バタンと勢いよく玄関の戸を閉めて春樹は律の様子を見ると、律は青ざめた表情のままその場に座り込んでしまった。そして震える片手で前髪をくしゃっと握りしめる。 「ごめんね、春樹……。ビックリさせたよね」  その声も震えていた。 「あれが、家に人を呼べない理由?」  単刀直入に春樹が聞くとうなずきが返ってくる。するとだいぶ参っているのか律が壊れかけた笑顔を見せた。 「不思議だね。春樹の方が気丈で、僕の方がボロボロだ」  春樹は返答に困り、とりあえず律に手を差し出す。  律は目を丸くしてからそっとその手を握ろうとしてふと思い留まるが、中途半端に伸ばされた手を春樹が引いて立ち上がらせた。 「とりあえず今はここから離れた方がいいんじゃないの。どっか行くとこないか?」  そう言って周りを見渡す春樹に、律はうつむきながら「……ある」とポツリと言葉をこぼす。  春樹が顔を向けると律は視線を合わせて、 「……あるよ。僕だけの図書室」  その瞳が不安げに揺れていた。  *  二人で無言のまま、海沿いの緩やかなカーブを歩く。  海は穏やかで月も高くのぼり、心地よい波音と光が二人を包んでいた。  春樹は住宅がまったくない道を何も言わずに歩き続けている律に不安を微かに感じ、 「この先にあるのか? 図書館」  と聞くと、気持ちが落ち着いてきたのか律は穏やかな表情で、 「『図書館』じゃないよ、『図書室』」  とだけ答えて、前方の一点を指さす。  ……カーブの先に見えたその『図書室』は、少し不思議な形をしていた。  堤防をまたぐように建てられたその小さな建物は、水色の円柱と立方体が合わさった胴体に青い円錐の屋根がくっついていて、潮風で所々錆びた鉄の階段が歩道の方に伸びている。 「え、これ?」  近くまで来て建物を見上げた春樹は不思議なものを見る目で言った。  律はうなずいて、 「そう。これが僕の図書室であり、秘密基地。本当は、もっと仲良くなってから春樹を招待しようと思ってたんだけど……」  そこまで言ってから、慌てて訂正する。 「あ、春樹を信頼してないとか、そういうのじゃないからね!」 「いや、気遣わなくていい。秘密基地に今日会った人間を連れてくるなんてことの方が普通ないし。ってか、こんなとこに気になる建物あったらヤンキーみたいのが中を占領してるんじゃないの?」 「ううん、大丈夫。確かに一時期階段に怖そうな人達がたむろしてたけど、鍵がかかってるし頑丈なドアだから中には入れなかったみたいなんだ」 「ほう」  すると律は鞄から一つのカギを取り出して春樹に見せた。 「これがここの鍵。実は数年前に亡くなった叔父さんから譲り受けた場所なんだ。叔父さんも読書好きな人でね」  そう言って階段を上り、鍵を『図書室』の扉に差し込む。 「あ」 「なに?」 「えっと……この建物のことは誰にも言わないでくれる? 陸也以外には伝えてないんだ」 「あー、了解。言ったらバレるもんな、秘密基地。他に注意事項ある?」 「え? んーと、多少掃除はしてるけど土足で出入りしてるからあまり綺麗じゃない」 「了解。……他は?」 「んー……あ、ガラスの窓が一部割れてるんだ。だから破片に気を付けて」 「わかった。他」 「もうないよ、とりあえず入ろうか」  言葉の最後に律は笑ったようだった。少しでも笑顔になってくれたことで、春樹は安堵の息をつく。

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