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第2話

 *  ――ギィッ……  古めかしい音を鳴らしながら扉が開かれると、そこは青の空間が広がっていた。  両脇には木製の大きな本棚があり、右の本棚には本がびっしりと入っている。外から見たときの円柱状の部分には五つの縦長のガラス窓。中央の窓は割れていて月と夜がちょうど顔を出している。その両脇の窓は水色と無色の正四角形のガラスを交互に並べたステンドグラスになっていた。  そして割れた窓の前に無造作に置かれた木の椅子がひとつ。  律がその椅子を春樹に渡そうと持ち上げたとき、春樹は「なんだ、綺麗じゃん」とつぶやいていきなり床に大の字に寝転がったため、律は春樹の行動にえらく驚いた。 「え!? いや、あの……椅子貸すよ……?」 「いいのいいの。俺のことは気にすんな。はー、床のタイルが冷たくて気持ちいー……」  なんだかそのまま寝てしまいそうだ。  その様子を見てくすりと笑いながら律は窓辺に椅子を置き、月が照らす海辺を茫然と眺めた。 「……聞かないんだね、何も」  律はうつむく。春樹がなんと答えるか分からない。知りたくないけれど、理由を聞かれないその理由を聞きたかった。  すると春樹は普段の口調と変わらない様子で答える。 「いやー……律と親友になりたいって言って、陸也とも仲良くなれたし夕飯も食べさせておいてもらってさ、それだけでちょっと心の距離っていうの? 少し近づいたと思うんだよ」 「うん」 「でも律の家族の問題にまで気になるからって質問したら、さすがの俺も踏み込み過ぎじゃね? って思うんだよね。俺は律とも陸也とももっと仲良くなりたいし、話したくなった時にそっちから言ってくれるだろうって信じてるから。だから俺からは聞かない」 「ふふ……。春樹って、のんびり屋さんなのは変わらないけどたまにカッコいい言動するよね」 「え、そう? しまったな、録音して名言残しておけばよかった」 「大丈夫だよ、春樹の名言は僕の中に残しておくから。僕ら、親友なんでしょ?」  春樹は一瞬、目を大きく見開いた後に少しだけほっとしたように笑った。 「……それもそっか」  正直なところ、律の口から『親友』という言葉がハッキリ出てきたことが一番嬉しかったのだ。  ひとつ会話が終わり、無言になる。  しばらくして少し、強めの潮風が律の髪を揺らした。 「……連れ子なんだ」  律の言葉を聞いて、春樹は仰向けだった体を半ば起こしてうつぶせになり両肘をつく格好になる。律は目線をやや下に向けたまま、春樹の方には向けなかった。 「僕が父さんの連れ子で、陸也が父さんと母さんの子ども。そして父さんは母さんと僕らを置いて出ていった。……毎月、お金は送られてくるんだけどね」 「……」 「母さんは父さんを恨んでる。だから僕を見るのが嫌なんだ。僕のこの髪が、父さんを思い出させるんだって。だからいつも髪の色が父さんと違うし、ちゃんと母さんの血も受け継いでる陸也がああやって母さんを抑えてくれてるんだ」 「へぇ……」  律は自分に嘲笑を向ける。そして自分の髪の一束を指ですくった。その髪は月の光を受けて綺麗に輝く。 「本当に陸也にはいつも助けてもらってる。情けないよ、何もできない自分が。この髪……母さんと同じ色に染めちゃえばいいのかな……」  心の闇を浮かべたその暗い笑みを、春樹は凛とした声で制した。 「だめだ、それだけは」 「……え?」  そうして立ち上がり、律の傍らに立って同じように律の髪を一束すくう。律は、突然のキッパリとした春樹の声に驚いているようで、髪を触られていることについては何も言わなかった。 「いや、だめかどうかは俺が決めることじゃないけど……でも、こんなに綺麗な髪なんだ。染めるなんてもったいないと俺は思う」  春樹の言葉を聞いて律は綺麗に笑う。 「ふふふ……春樹は意外と酷なこと言うね。染めないでいたら僕はずっと母さんにああいう態度を取られるのに」 「……。でも、染めたとして血のつながってない律のこと、お前の母さんは好きになってくれるのか?」  その言葉に、一瞬律の呼吸が止まった。 「春樹は……本当に酷なこと言うね……。僕の最後の希望まで正論でつぶしてしまうんだから……」  実際、髪を染めたらどうなるかなんて分からなかった。これが正論かもわからない。  けれど春樹は律が目をそらしておきたかった部分に真っ向から光を当てる。  律はうつむいたままだったが、ぽつりぽつりと握りしめる拳に雨を降らせた。  それを見て春樹は戸惑いながらそっと律を抱きしめる。 「……ごめん、言いすぎた」  戸惑ってしまったのは、今日出会った親友に対してこういう言動をしていいのか分からなかったからだ。そもそも、『親友』ってなんだっけ。春樹の中ではもう答えが見えなくなっていた。  しかし律はそう言った疑問を持っていないのか、少し春樹に寄りかかりながら無理に笑う。 「正直に言ってくれたのは僕のため、でしょ?」 「んー、どうだろ……俺のためかも」 「春樹のため? どうして」 「いや……初めて会った時、素直に髪が綺麗だと思ったから」  そんな春樹の言葉に、 「うーん……男だから綺麗って言われ慣れてないけど、なんだか照れちゃうな。でもそこは嘘でも『律のためだよ』って言ってよ……」  律は泣き笑いの表情でコツン、と春樹の胸のあたりを拳で軽く叩いた。  *  律が泣き止み、気持ちが落ち着くまで春樹は色々な話をした。 「それじゃあ、次は何の話しようかな……あー、卒業したら進路どうすんの?」 「うーん……僕の家はあまりお金ないし、僕自身もそこまで頭は良くないから大学は行けないだろうな。でも、何か本に関わる仕事がしたいかなって思ってる」 「やっぱり本か。そう言うと思った」 「そう? でね、それでお金を貯めて陸也を大学に行かせてあげたいな。甘い考えなのはわかってるけど、夢見るくらいなら……いいよね」  まるで同意を求めているような問いかけの口調をするものだから、春樹は力強くその背中に手を置く。 「当たり前だろ。将来の夢なんて何時(いつ)、誰が持っててもいいんだよ。歳とってても夢を追いかける人だっているんだから。それに、お前の夢は叶えられる範囲じゃん。大丈夫」  そこまで春樹が一気に言うと、律は人差し指を曲げて口元にあてながら笑った。 「春樹って本当に不思議な人だね。なんだか春樹の言葉を聞いたら叶えられそうな気がしてきた。さすが、学校中探し回られるほどの人気者」 「えー……、なにそれ。今日はたまたま転校してきた初日だから物珍しかったんじゃない?」 「それは一理あるけど、きっとそれだけじゃないよ。……僕を親友に選んでくれて、ありがとう」  突然の感謝の言葉と律の綺麗な微笑みに不意打ちを食らった春樹は、数秒見とれてから少し視線をはずしてぶっきらぼうに、 「あぁ、うん」  とだけ答える。でもなんだか歯切れが悪く、無理やり話題を変えた。 「あ、そういえば陸也のLINE聞くんだった。律のと、陸也のやつ教えて」 「そうだったね。わかった」  そうして連絡先を交換した春樹は、さっそく陸也にメッセージを送る。 『律からLINE聞いたよ。今、海沿いの図書室に来てる。そっちは収まった?』  すると間もなくして陸也から返事があった。 『あそこか。知り合ってたった一日のあんたを兄貴がそこに連れてくのはすごいことなんだぞ。だからって浮かれてないで秘密は守れよ。母さんの方はなんとか落ち着いたから、もう帰ってきて大丈夫だ』 『了解』  すばやく陸也に返信した春樹は律にメッセージの内容を伝える。 「陸也が、もう家に帰ってきて大丈夫だって。もう少しここに居たかったけど……帰ろっか」 「うん、そうだね」  だるそうに鞄を持って先に歩き出した春樹を見て、律は小走りで後を追った。  *  律の家の前で春樹は父に迎えに来てもらうように連絡を入れ、わざわざ出てきた陸也に夕飯のお礼を言った。 「夕飯うまかったよ、ありがとな。あと一人で、その……お前らの母さん止めたんだろ。大丈夫だったか?」  すると陸也はなんでもないというようにサラッと答える。 「いつものことだからな。別に平気だよ」  そう言いつつ、陸也の左腕がピクっと反応したのを春樹は見逃さなかった。  すかさず無言でその左腕を持ち上げる。驚いた陸也は「急になんだよ!」と言いながら春樹の手から逃れようとするが、その力はやはり強くて敵わない。  そして遠野家の玄関の光でじっと陸也の腕を見つめると、じんわりと血がにじんでいるひっかき傷が残っていた。 「これ……」  春樹の真剣なトーンの声を聞いて律も覗き込むと。 「その傷……。また母さんがやったんだね」  陸也は何も言わないが、それは肯定の意味だろう。  しかし春樹はなんて言葉をかければいいのか分からず、黙り込むしかない。  その時、春樹と律が学校帰りに通った坂道から車のエンジン音が聞こえた。  春樹は父が来たことを察して陸也の傷の処置を律に任せる。 「それじゃあ律……また明日、学校でな。陸也も、また遊びに来るよ。料理楽しみにしておく」 「うん、また明日」 「次も美味いもの作るから……教えてくれよ、勉強」 「わかった」  春樹は二人に軽く手を振って、近くに停まった車に乗り込んだ。  *  随分と長い一日だった。  この一日が濃密すぎて、明日以降は早く一日が終わるんじゃないだろうか。  そんなこともちらっと考えたが座り慣れてる父の車のシートに乗って、心地よい車の振動に身を任せていると次第に眠くなってくる。 「随分遅かったなぁ。さっきの家の前にいた子が親友で、背が低い方はその弟か」 「んー、うん……」 「そうだろう。父さんの勘は当たるんだ。それで、学校はどうだ?」 「……」 「春樹?」  父の言葉にツッコミもなく、何も返答しない春樹の方を父が横目で見れば、春樹は腕を組んだまま眠っていた。父は苦笑する。 「まぁ、そりゃあ疲れるか」  そうして車はゆっくりとカーブのある坂道を上っていった。  *  翌日。  気持ちがいいほど今日も空は快晴だった。  今日は合同体育があり、授業内容はバスケ。  男子たちはそれぞれジャージが入った鞄を持って男子更衣室を目指す。  その時春樹は廊下で見慣れた背中を見つけて声をかけた。 「……おはよ、律。俺ら合同体育で一緒なんだってなー」  その瞬間周りからざわめきが起こる。それに目を向けず、律は少し困り顔で笑った。 「おはよう、春樹。……やっぱり学校で人気者に声をかけられるのはちょっと緊張するね」  律の返答に一層ざわめく男子たち。  近くを歩いていた生田は目を丸くして、春樹と律を交互に見やった。 「えっ……遠野くんって西山くんの知り合いか何か?」  その言葉に律は柔らかく首を横に振る。 「ううん、違うよ。昨日会ったばかり」 「えぇっ!? それでもう名前で呼び合う仲なの……? 何があったか分からないけど、ちょっとうらやましい……」 「え、なんか言った?」  ぼんやりとしか聞いてなかった春樹が聞き返すと、生田はぶんぶんと顔を横に振って「な、なんでもない!」と慌てて言った。  春樹と律が互いに名前で呼び合う仲になっていることに周りはざわついて生田の質問に耳をすませていたが、こうして生田が踏み込めなかったことで残念そうな空気になる。  はたから見れば、転校初日に不良である広野に立ち向かった男子とずっと図書室にいるような男子が急に仲良くなっているのだ。あまり接点がないため、周囲は余計に不思議がる。  そんなざわざわとした雰囲気の中で、一人だけ面白くなさそうな顔をしている男がいた。  *  体育館に着き、ジャージに着替えて準備運動を終えた生徒たちはクラスごとのチームに分かれてバスケの試合を始める。  生田と春樹はステージの上に座って、体育館内を走る律のチームを見ていた。  そこで、春樹は生田に気になっていたことを聞く。 「生田」 「ん、なに?」 「律ってさ、確かにずっと図書室にいるような変わったやつだけど顔とかすごい綺麗じゃん?」 「そうだね。僕もそう思う」 「なのに、なんで友達とかいないの? あとモテるって話も聞かないし」 「あー……それはね……」  生田は何かを言い淀んでいた。その様子を見て春樹はさらにもう一歩踏み込んでみる。 「知りたいんだよ、あいつのこと」  すると、春樹の言葉に促されて生田はポツリと話し始めた。 「たぶん、広野のせいだよ」 「広野?」 「クラス替えがあったから今はこうして何もないけど、前のクラスの時に広野は遠野くんをイジメの対象にしてたんだ。なんでそうなったかは分からないけど……。だからみんな、広野が怖くて遠野くんにあまり関われないんだと思う」 「……へぇ」  少し低い声音になった春樹は微かに視線を彷徨(さまよ)わせて、遠くに座る広野を見る。広野もどうやら律の方を見ているようだった。  ……なんだか少し、気にくわなかった。  *  律たちのクラスの試合が終わり、交代で今度は春樹たちのクラスの試合が始まる。  交代の際に汗をかきながらステージ側に移動してくる律と目が合い、春樹は軽く片手をあげた。 「お疲れ」 「あ……うん、春樹も次頑張ってね」 「おう」  そのあげられた手の意味が分かった律が嬉しそうに春樹とハイタッチする。  すると律の周りに数人が駆け寄り、「どうやって西山と仲良くなったんだよ」と声をかけていた。しかし律は「なんでだろうね」と、昨日一日のことを隠して微笑んでいる。  どうやら春樹に関する話題で少し周りと打ち解けているようだった。  春樹と違うチームになり、未だ控えていた生田はその様子を見て「遠野くんが笑ってるところ、久しぶりに見たな……」とひとりごとをつぶやく。  そして、なんの因果だろうか。  春樹は広野と同じチームになっていた。春樹は先ほどの声のトーンとは違い、いつも通りの口調で広野に「よろしく」と声をかける。すると広野はこちらを見ずに「あぁ」とだけ返した。  周囲は転校生の身体能力はいかなるものかと注目している。その雰囲気を察して「なんか、かなりやりづらいんだけど」と春樹の口から本音がこぼれると隣の広野は、 「周りなんか気にすんな。俺は勝たねぇと気がすまねぇ。足引っ張るなよ」  そう言ってギロリと春樹を睨んで威嚇した。しかし、やはりその威嚇は春樹に通じず「んー……勝ち負けはどうでもいいけど、そこそこ頑張るよ」とのんびり答えが返ってくる。  広野は春樹の様子になんだか調子を狂わせられているようだった。  そして試合開始のホイッスルが鳴る。  大柄の広野はやはり、易々(やすやす)と最初のボールを叩き落とした。  そしてその先にはまるでそれを見越したかのように春樹がいて、ボールをキャッチしてから慣れた手つきで素早いドリブルをかます。そのまま相手をかわしつつ一気にゴール下に潜り込み……楽々とゴールを決めた。  周りは驚嘆(きょうたん)し、歓声が沸き起こる。  広野は自分の近くに春樹が来ると声をかけた。 「周りに注目されてんのは気にくわねぇが……やるじゃねーか」 「ん、ありがとう。……次パス回すから受け取って」 「……!」  平然と返されたその言葉に広野は目を見開く。  今まで人を突き放すような言動をしていた広野には、誰もが恐れて『連携』なんてできる人間はいなかった。  でも春樹は違う。実力を兼ね備えても驕り高ぶることはなく、そして分け隔てなく人と接していた。  今、広野と対等な立場で立っているのは春樹しかいないだろう。そのことに広野は今まで感じたことのない安心感を得る。  再び試合が始まると真っ先にボールを取りに行く春樹。あの普段ののんびりした動作からは想像もつかない速さだ。  そして受け取ったボールを広野に向けてロングパスをする。 「広野!」  春樹から飛んできたボールを受け取った広野は豪快にドリブルを繰り広げ、先ほどの春樹と同様にゴール下からシュートを決めた。  ――……楽しい。  広野は、純粋にバスケを楽しんでいた。もしかしたらこの感覚は初めてかもしれない。  少し息切れした春樹が広野に近づき、「やるじゃん」と言って片手を上げた。  広野は春樹に初めて悪意のない笑みを見せ、思い切りハイタッチする。  その様子を見ていた試合に参加していない男子たちは首をかしげた。 「あれ、あいつらって……」 「仲悪いわけじゃなかったの?」  ……おそらく昨日の春樹が広野と無理やり握手した件の噂が、広まるたびに尾ひれがついて二人は対峙している、ということになっていたのだろう。  その後、広野と春樹は凄まじい連携を見せてどんどんと点をとり、チームの主戦力になっていた。  もはや他のチームメンバーは機能していないに等しい。  ゴールを決めた後に互いに笑いながらハイタッチする春樹と広野の様子を見ていた律は、最初は春樹の活躍に微笑みを見せていたものの、だんだんと笑えなくなっていった。  そして胸元に手をあてる。  どうしてだろう。胸が、心が痛い。素直に喜べない。悔しい。  自分の醜い心情に、目を塞ぎたくなった。  *  春樹と広野の活躍でその試合は圧勝だった。ステージ側に戻ってきた春樹に律は表面だけの笑顔を向ける。 「お疲れさま、春樹。運動もできるんだね。すごいかっこよかったよ」 「おー、ありがと」  ……本当は心からの笑みを見せたかった。でも、なぜかそれができない。  春樹はそんな律の心情に気づくことが出来ずいつもののんびりした様子で、当たり前のように律の隣に座って生田に声援を送った。 「がんばれよー、部長」 「うー……こんな時に限って『部長』とか言わないでよ……あんなスーパープレイ見せられた後に試合なんてやりづらいんだから!」  そう言いながら生田は心底嫌そうにコートに向かっていく。  そして試合が始まるものの、比較的背の低い生田はぴょんぴょんと跳ねるもボールを取ることさえできずにいた。  春樹はその懸命な姿を見て微笑ましく笑っている。 「頑張ってんなー」 「そうだね」  律は春樹の言葉に同意しつつも、やはりぎこちない笑みだった。  きっと、これは嫉妬なのかもしれない。律は純粋な笑みを見せた広野を思い出す。  あの広野が心を許している。それは春樹が同等の位置に立っているからだ。僕はきっとそれがうらやましいんだろう。  隣に座る西山春樹という男子は自分の想像の上を行くすごい人なんだ。そんな春樹の親友として、自分は果たして釣り合うのか?  律の心を得体のしれない何かが侵食していく。  * 「もう! せっかく僕頑張ってたのに二人ともずっと笑ってたでしょ!」  生田は春樹と律が笑っていたことに気づいていたらしく、しばらくむくれていた。 「ごめんね、笑い者にしていたつもりはないんだけど、可愛くて……」 「男子に『可愛さ』なんて要らないよ!」 「んー……でも昔からよく言うよな。『女は度胸、男は愛嬌』……」 「それ逆でしょ!? ぜんぜんフォローになってないから!」  体育の授業が終わり、後片付けをしている時にそれは突然起こった。  春樹は律と生田と共にボールの後片付けをしていたところ、突然律の背にボールが思い切り当たったのだ。反動で律はボール入れに体を打ち付ける。 「うっ!」 「遠野くん、大丈夫!? あ……」  生田と春樹がボールを飛んできた方を見ると、そこには広野が取り巻きを連れて立っていた。 「あー悪ぃ。ボール当たっちまったわ」  広野の言葉に、律は(かが)みながら無言で唇をかみしめる。その様子を見た春樹は広野側の取り巻きの人数に動じず、広野へと歩を進めていった。  そしてさっきと同様にいつものトーンで聞く。 「広野、今のわざと?」  真っ向から向かってきた春樹に悪びれもしない様子で広野は「さぁ、知らねぇな」と答え、その様子を見た春樹は目つきを鋭いものに変えた。同時に声のトーンも低くなる。 「わざとだよな。そうだろ? ……律に謝れ」  いつもののんびりした春樹のイメージが覆され、広野はその圧力に息をのむ。その瞬間、初めて握手したときのとてつもない握力とそれに合わない涼やかな表情を思い出して背が凍った気がした。  本能でわかる。『負ける』と。  すると体育担当の教師が近づいてくる。 「おい、お前ら何してる!」  その言葉を聞いた広野は取り巻きを連れて早々と体育館を後にした。  体育教師は困った顔で春樹の方を向く。 「あいつらに一人で立ち向かうのはすごいと思うけどな、あまり面倒ごとは起こさないでくれよ」 「いや、親友が傷つけられたから居てもたってもいられなくて。すみません」  一応形式通りの謝罪をするが、春樹の頭の中では今でも律の件がこびりついていた。おそらく、生田から聞いた前のクラスの時もこんな感じで……いや、今よりももっと酷いことを律はされたのだろう。 「遠野くん、もう大丈夫なの?」 「うん、大丈夫だよ。心配かけてしまってごめんね」 「いや、僕は何も……。あ、後は僕やっておくから遠野くんと西山くんは着替えてていいよ!」  春樹はその会話を聞いて急いで律のもとに戻る。 「律……大丈夫か?」  その心配そうな声音を聞いて、律は微笑した。 「うん、大丈夫だよ。ごめんね、僕のせいで着替えるのも遅くなっちゃった。もう他の人は着替え終わっただろうな」 「いや、それは別にいいけど」  男子更衣室のドアを開けてみたら律の言葉の通り、見事に誰一人もいない。 「それにしても驚いたな……。あの怖そうな取り巻きがいるのに、春樹は一人で立ち向かっちゃうんだもん。ビックリしたけど……本当に嬉しかった。ありがとう」 「それに関しては気にするな。俺が勝手にやったことだし」 「ふふ……本当に春樹はかっこいいな。憧れるよ」 「それよりさ、さっきボール当たったところ大丈夫か? ちょっと見せてみろ」 「あ、それはちょっと……って、うわっ」  春樹は律の制する手をかわしてその背中の素肌を半ば無理やりに見た。そこには。 「……!」  ボールが当たったところにある青あざよりも目に入った、白い肌に映える幾筋もの赤い軌道。  これはいったい何でつけられた傷? いったい誰が? 広野か? あの母親か? 「だから……見られたくなかったんだけどな……」  言葉を失った春樹を見た律は陰のある苦笑を見せてゆっくりとその素肌を服で隠していく。 「……なに、今の」 「なんだろうね」 「ごまかすな」 「さっきから怖いよ、春樹……」  困ったように笑う顔さえ、鬱陶しく感じた。 「俺のことなんて、どう言われてもいい。何、今の傷」  服装を正した律はピタリとその動きを止める。 「しつけの一環、だったのかなぁ……」 「……! ……あの母さんか」  春樹はそっと服の上から律の背中に手を当てた。ただそれだけなのに、痛みが伝わってくるようで苦しくなった。  律は背からじんわりと伝わる春樹の熱で、若干幼かった時のあの痛みを思い出す。  * 「ごめんなさい、母さん……。ごめんなさい」  その日はちょうど、陸也がいない日だった。  居なくてよかったかもしれないという気持ちと、すがりたいという相反した気持ちで心は混乱している。 「あの人が……私の人生をめちゃくちゃにしたの……わかるわね、律?」 「ひっ……!」  上半身を裸に剥かれ、テーブルにしがみつく律の背を震えたナイフの先がゆっくりと走った。  痛い。母さんの気が済んだ時、果たして自分は生きているんだろうか。刺されて死んでいるのかもしれない。でも、僕が陸也を守らなきゃ……。  ナイフは次々と白い肌を赤い線で彩っていく。  つらい、苦しい、怖い。最初はそう思っていた。  しかし時間が経つにつれ、自分はおかしくなっていたのだろう。  そのナイフの震えに優しさを見出したのだ。  母さんは望んでこんなことをしているんじゃない。自分の中で苦しんだ結果がこれなんだ。それなら僕は生きていることを謝るしかない。 「ごめんなさい、母さん。ごめんなさい。生きててごめんなさい。大人になったら出ていくから……」  するとナイフの動きが一度止まった。 「それって……いつ?」  自分の母の冷たい声音に背が震える。そして気づいた。母さんは僕の歳さえ、もう覚えていないのだと。  そしてナイフが今までより深く線を引く。 「あッ……!」 「ねぇそれはいつなの? いつなの? いつなの?」 「母さん、やめて……! 痛いっ……」  ……生き地獄の中に、優しさなどないと知った日だった。  * 「もしかしてさっきの(あと)……ナイフ?」  律は春樹の言葉にビクッとする。 「どうなんだよ。それなら、いっそのこと警察に……!」  律が逃げられないように春樹は両手で律の両側を塞いだ。しかし律はその囲いの中で春樹の方を振り返り、その名を呼ぶ。 「春樹」 「……なに?」  そして律は綺麗な儚い笑みを浮かべながら人差し指を自分の唇の前で立てた。 「これは、僕が話したくなった時に話すよ。……春樹からは聞かないって、あの図書室で言ってくれたよね?」  春樹の言葉は、律の笑みに吸い取られるように消えた。  *  生田が男子更衣室に向かったとき、走りながら更衣室を出ていく律とすれ違った。 「あ、生田くん後片付けしてくれてありがとう! それじゃあね!」 「う、うん!」  そして更衣室に入ると未だに服を着替えている春樹の姿がある。その表情はいつになく真面目だ。 「ねぇ、西山くん。いま遠野くん走って更衣室から出ていったけどなんかあったの?」 「……ん、あぁ、次の授業で日直担当は先生の手伝いをしなきゃならないんだって」 「あぁ、それでか! ……他に、何かあった?」 「え、なんで?」 「なんかすごく……真面目すぎるというか、怖い顔してるから……」  それを聞いた春樹は更衣室の鏡で自分の顔を見る。 「それが疑問なんだよなー……。俺そんなに怖い顔してる? 表情筋は動いてるはずなんだけど」 「表情筋って……。ははっ、西山くんってやっぱり面白いよね」 「そうかな。自覚が一切ないんだけど」  春樹の様子を見ていつも通りに戻ったと判断した生田は着替えはじめた。 「それにしても驚いたなぁ。広野とバスケしてる時は息ピッタリだったのに、さっきは一触即発みたいな雰囲気出てたから……。結局のところ西山くんって広野と仲いいの? 悪いの?」 「さぁねぇ……」  さも興味がなさそうに春樹が答えるものだから、「もう、無頓着すぎ!」と生田は再びむくれる。  すると春樹はおもむろに壁時計を指さした。 「それよりも生田、時間大丈夫?」  そして生田は時計を思わず二度見して……女子のような悲鳴をあげた。 「ヤバいよ! 全然大丈夫じゃない! 西山くん、ほら行くよ!」  生田が春樹を後ろから押していく。 「えー……走りたくないよ」 「バスケでは走ってたでしょ! ほら……っ早く! 重い!」 「生田、先行ってていいよ。俺は後から行くから」  すると生田は春樹を押すことは止めて、面と向かって立ちはだかった。 「部長は部員を置いてくなんてできないの! 見捨てるなんて絶対しない!」 「……! ……すみません」  生田の目は真剣だった。次の授業に遅れるというだけでも『部長』という立ち位置を捨てることはなく、こうやって部員を説得している。 「ほら、走って!」  春樹はいい部長を持ったな、と思いながら浅くうなずいた。 「わかったよ……」  そして全力疾走で教室へ向かって走り始めると、すんなりと生田を追い抜いていく。すると必死に走ってる生田は「ちょ、ちょっと待ってぇ~!」と遠くなっていく春樹の背に言葉を投げかけた。もっとも、春樹にはわずかにしか聞き取れなかったのだが。  春樹はようやく自分の表情が柔らかくなったことを自覚する。  ……部長、やっぱかっこいいじゃん。

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