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第9話
***
……その日は豪雨だった。
肌に当たれば痛いほどたたきつけてくる雨に、心まで潰されそうになる。いや、潰れきってしまっていたのかもしれない。
鬱蒼とした森の中、荒れ狂う水の音、レインコートに反射する赤いサイレンの光、大人たちの怒号。
最初に報せを聞いた時は何も考えられなかった。急いで家から飛び出した時に、レインコートだけはなんとか引っ掴んだものの、水たまりがたくさんできているというのに長靴ではなく普段から履きなれているスニーカーを履いてきてしまった。
そして、心の中にぼんやりとした黒い靄 のようなものが浮かび、走っていくうちにそれは次第に輪郭を現す。見えるのは不安や恐怖を纏 った黒い塊だけである。きっとそれは死神か悪魔の形だ。
僕がここに駆けつけて何時間経っただろう。
――悔しかった。
僕は橋の上で欄干を震えるほど強い力で握りしめる。
自分も川に近づいて探したかった。けれど足手纏いになるのは目に見えていて、自分の無力さを痛感する。
いつもは澄んでいて川底が見える小川の水面は土砂が混ざり、荒れ狂った水がときおり岩にぶつかっては猛々 しく飛沫 を散らす。すべてを呑みこんでいくその様をどれくらいの間見ていただろう。
そんなことを考えていると、川の下方から近所に住むおじさんの声が響いた。
「律くん、見つかったぞ!」
それは絶望の言葉。僕は両手で顔を覆い、橋の上でうずくまる。
なんとなくわかっていた。見慣れた靴の片方が、小川の隅の茂みに引っかかっていたから。……陸也の、靴が。
*
『陸也が川で溺れた』
その報せを聞いた春樹は傘をさすこともせず、ずぶ濡れのままで問題の川へ向かった。……その林道は陸也の学校帰りに通る道だったという。
パトカーのサイレンの光、大人たちの必死の怒号が溢れ、……こんな雑音、聞きたくもない。
たくさんいる大人たちの影の向こうで、橋の上で座り込む律の姿があった。
「律! 律!!」
そう叫ぶと、一瞬ハッとした律がこちらを向いて何か口が動く。
『春樹』
と、言ってる気がした。
泣きそうな目ですがるようなその手が春樹の方へ差し出されるが、春樹もこちらへ近づけないと察したのか、次第にその手は視線と共に下がっていく。
「ダメだ律、諦めるな!」
……まるで陸也の命を諦めかけているように見えてそう叫んだ。
しかしそれ以降律は再び視線を川の方へ向けたまま、座り込んで動かなくなった。
居てもたってもいられなくなった春樹は周りの大人たちを掻き分けて進もうとするが、一人の男に突き返される。
べしゃっと泥水が宙を舞った。
男は、一瞬申し訳なさそうな顔をするが、すぐ顔をひきしめて橋の方を見つめる。
春樹はそれでもと、その男にすがった。
「溺れてるのは俺の弟分なんだ! よけてくれ!」
すると男は叱責する。
「……よそ者 のガキが、余計な事するな!」
その言葉に春樹の中で瞬発的に怒りが湧く。
「何も出来ずに見ているだけの大人こそ、口を挟むな!!」
そうして川の下流の方へと走り出し、林道に入り込んだ。
激流が林道を削るかのごとく流れていた。そして、川の上方には陸也が普段履いていた靴が引っかかっているのが見える。
やっぱり報せは本当だった。溺れたのは、陸也だ。
その事実に頭が働かなくなっていく。
するとその時。
「陸也くん、しっかりするんだ!」
そんな老人の声が聞こえ、その方を反射的に見た瞬間。
……思わず腰が抜けて、動けなくなった。
目線の先には、複数の男たちに担がれてきた夏服を着た陸也がぐったりとしたまま目を開けず、春樹の目の前で担架から片腕をだらりと下げたのだ。
「りくや……、陸也! しっかりしろ! 絶対死ぬな!」
そう叫ぶことしかできなかった。
……自分も何も出来なかったのだと、無力さを痛感した最悪の日々が始まった。
***
あれから日々は変わり果てた。
陸也は意識不明になり、隣町の病院に移されて。
律はその精神的ショックから立ち直れず、学校に来なくなった。
春樹も口数が減り、まるで無機質のようになってしまった。
そしてそんな春樹に追い打ちをかけるように。
「この前ね、進路を水泳の方に変えてみたんだ。だけど……やっぱり大反対された。せっかく助言くれたのにごめんね、西山くん。……僕は別の大学を目指すよ」
生田はなるべく暗くならないようにと無理に明るく言ったが、最後の一言はぽつりと泣きそうな声に聞こえた。
春樹は机に座り視線を下げたまま、無気力な声音で返す。
「……悪かったな、生田。お前にまで迷惑かけて」
そんな様子を遠くから、広野が複雑そうな表情で見ていた。
*
数日、律からの連絡を待った。が、三日経っても何も連絡は来なかった。
春樹は帰宅後家の机に向かい、律の色んな表情を思い出して最後にあの橋の上での表情が浮かんだ。
そうしたら、居てもたっても居られなかった。
時刻は夜の八時。
親の心配をよそに家を飛び出し、律の家へと走る。
しばらく坂を下り続け、月の無い曇り空の下を息切れをしながら足を進めた。
そうしてタイミングが良かったのか。
「……律!」
食事を買ったのだろう。コンビニの袋をさげて、暑くないのか長袖の服を着てやつれた表情の律がちょうど遠野家の玄関の鍵を開けるところだった。
「春樹……? ――ッ」
その瞬間左の手首を押さえた律を見たとき、嫌な予感が春樹の背を駆け抜ける。
「おい……まさかその手首」
「な、なにもない……」
「嘘だ!」
ガサッと言って落ちたコンビニ袋の音がやけに生々しく聞こえた。
春樹は律を玄関の戸に両手を縫い付けた状態にして、袖から見えた左手首をじっくり見たのだ。
律は弱々しく抵抗しながら「やだ、やだ……」と子どものように泣き始める。
春樹が押さえつけた律の手首には包帯が巻かれていて、じわりとまだ新しい血がにじんでいるのを見た。
「自分でやったのか」
「……だって」
その一言で肯定だと捉えた春樹は律の両肩を力強く掴みかかる。
「なんで! なんでお前はただでさえ傷ついてんのに、さらに自分で傷つけるんだ! こんな……一生残る傷を作って……」
すると、肩にかかる春樹の力が抜けたと同時に律はぺたんとその場に座り込んでしまう。
「こうでもしないと……生きていけなかったんだ」
「は……?」
訳も分からないといった春樹の声音を聞いた律は皮肉めいた表情をした。
「春樹には……きっとわからない」
「!」
結ばれていた絆が、分かたれた気がした。
律はよろよろと立ち上がって、春樹を玄関の中へ招き入れる。
「見せたいものがあるんだ。でもその前にちょっと待って」
そうして一度リビングに足を踏み入れ、持っていた食事の入ったコンビニの袋を母親の部屋の前に置いた。
「……夕食です」
そのまま踵を返して玄関へと戻ってくる。
「二階に行こう、春樹」
しかし、不審に思った春樹は律の腕を掴んだ。
「おい。……律の分は?」
「……僕は食べなくても平気だから」
そうして二階の自室へと入ってしまう。
春樹は苦し気な表情をしてその後を追った。
*
律の自室は、いつもと違って少し荒れていた。
ベッドの上の布団は乱れたまま、スクールバッグはあの日雨に濡れたまま放り投げられて。
そして机の上には……カッターナイフ。
思わず目をそらしたくなったその時、律がしわしわになった複数の紙を見せてきた。
「この前陸也の学校の先生に会ったんだ。見て、春樹。全部満点。陸也、群を抜いて学年一位だったんだよ」
そう言って歪な笑みを浮かべる律。
――――あぁ、壊れてしまった。
そう思ってしまったと同時に春樹は気づかず涙を流していた。
陸也が戻って来ない限り、律はきっと元に戻らない。
それはいつになるか、そんな日が来るかもわからない。
そして自分は、律の『光』にはなれない。
春樹が涙を流していることに気づいた律は、目に光を無くしたままそっと自分の袖で春樹の涙をぬぐった。
「春樹は悪くない。悪いのは僕だよ。……陸也、あの日勉強のし過ぎで熱出てたんだ。なのに学校に行かせてしまった……。取り返しのつかないことをしたんだ」
春樹の中で記憶が動き出す。
『頼むぞ、春にい。そして満点のテスト用紙見せてやるからな!』
そう言っていた陸也の満面の笑みを思い出す。心が余計につらくなった。
再び春樹が涙を流すと律はもう一度その涙をぬぐう。
よく見れば、そんな律の頬にはぶたれた跡が。あの母親にやられたのだろう。
生活と精神の基盤だった陸也を無くした律は、母親の暴力を受けながら陸也をあの日学校に行かせた罪悪感を背負って生きていた。
おそらく、その生活が辛すぎたのだろう。そして、自傷して変わり果ててしまった。
春樹は泣きながら律を抱きしめる。
その体は以前に比べて痩せていた。
***
「……おい、いつまでしけたツラしてやがる」
それは秋晴れの屋上でのこと。春樹は広野に呼び出されていた。
春樹は壁によりかかり、あぐらをかいて視線を下げたままでいる。
「殴りたいなら、殴ればいい」
その言葉に広野は一度ため息をつき、春樹の胸ぐらを掴んで立ち上がらせて詰め寄った。
「お前は『それでいい』と思ってやってきたんだろうけどな、その行いがすべて正しいってことはねぇし、ましてやそれが誰かを傷つけることがあるっていうことを知った方がいいんじゃねぇのか」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
春樹は胸の中で広野の言葉を反芻する。
すると、生田のこと、陸也のこと、……律のことまでもが自分が悪い気がしてくる。そして広野の言葉の正当性に気づいてしまった。
……腹が立つ。なんで人をイジメてた奴に正当な事を言われなきゃならないんだ。
春樹はうつむきながら最初は小さく、そして徐々に声を荒げて叫んだ。
「お前だって……」
「あ?」
「お前だって律をいじめてただろ!」
「っあれは……あいつがそれ相応のことをしたからだ」
「それ相応のことってなんだよ!?」
「あいつのせいで……おふくろが未だに意識不明のままだ」
「――……律の……せいで?」
広野は壁によりかかり、空を仰いだ。秋風が二人の間を縫うように通り過ぎる。
「……あいつは俺の幼馴染だった。そしてある時俺のおふくろにこう頼んできた。『お母さんが病気になりました、少しでいいので面倒を見てくれませんか』……そりゃあ断れねぇよな。古い馴染みでこんな狭い田舎じゃ」
「それでどうなったんだ」
「俺のおふくろはどんどんあのババァのせいで病んでいったよ。そしてある時……何が気に食わなかったのか知らねぇが、俺のおふくろがあのババァを風呂で面倒見てる時に浴槽に頭を押さえつけられてな。暴れる音を聞きつけたあいつが止めに入った時にはおふくろはぐったりだ。すぐに病院に連れてかれたけど今も意識不明。……あいつさえあんなこと頼まなければ今頃おふくろは……」
春樹は広野の過去の話を聞いてゾッとする。
ひとつは律の母の凶暴性。そしてもうひとつは、陸也もこのまま意識不明のままになるのではという恐怖。
広野は話を続ける。
「だからよかったよ、陸也が溺れて。あいつ馬鹿だよな、あんなの危ないに決まってんのにフラフラしながら沢に向かって……」
そこまで話して広野は口が滑ったとハッとした。春樹は怒りの目つきで広野を見据える。
「おい……なんでそんな細かいことまで知ってる」
「……」
「話せ!」
今度は春樹に胸ぐらを掴まれた広野が無理やり春樹の手を払いのけた。
「陸也を溺れさせる気は、なかったんだよ。ちょっとからかってやるつもりであいつの鞄を沢の方の枝に引っかけたんだ。そしたら枝が折れて……」
「取ろうとしたんだろ、陸也はその鞄を」
広野は渋々うなずく。
その鞄には、春樹に見せるためのテスト用紙が入っていたからだ。危ないと判断できなかったのは熱で判断が狂ったからか。
「……それは母さんの腹いせか?」
その言葉を聞いて広野は怒鳴った。
「だから溺れさせる気はなかったっつってんだろ! すぐに通報もした!」
春樹はできるだけ冷静になれるように息を吸い込んで、吐いた。
確かに、その通報がなかったら完全に陸也の命はなかったかもしれない。
「そうかよ。……わかった」
最後に広野は去り際に言った。
「お前さぁ、表面的な事しか見えてなかったんじゃねーの」
「!」
そう残して、屋上のドアが閉まる。
「……」
痛い所を突かれた気がした。今の春樹には、自信のあった選択肢さえ間違いだったように思えてしまう。
「俺は……何をしてたんだ……」
***
そして律は来ないまま、
――――……俺たちは、卒業を迎えた。
***
それから春樹は教員免許のとれる都会の大学に進んだ。
女の子からも告白されたりしたが、ふと視線が行ったのはあの綺麗で儚い髪の色で。思い出されるのは人差し指を軽く曲げて口元にあて、笑うあの顔。
……結局断った。周りからの詮索がうるさかったので、遠距離の彼女がいるということにして大学生活を送った。
ときおり、あの髪の色を思い出す。あの声を思い出す。あの仕草を思い出しては、表情を思い出して。ピアノとチェロの音を聞いては足を止めていた。
でもそれも、いつか埋もれていくように消えていって。
***
律のことを忘れかけていた春樹は国語の教師を志望し、教育実習をするためにあの街に戻ってきた。
そこで感じる、律の存在の欠片。あれだけ大切だったことを忘れかけていたことさえ忘れていた自分を愚かだと感じ、胸がくすぶる。
「先生さぁー、絶対学生時代モテたでしょ!」
「モテないモテない。ほら、家に帰れー」
生徒たちとの会話は思った以上に楽しかった。そして、生徒が誰も居なくなった放課後。
春樹は校内を歩きながら学生生活を思い出していた。
あの階段は確か、転校初日に同級生から逃げていた時のものだ。自然とくすりと笑ってしまう。
そしてあの時は確か……図書室に逃げ込んだんだ。
足は自然と図書室に向けられた。
そうだ。扉を開けたらそこには綺麗な髪の律が儚げに立っていて。
春樹は扉を開けるが、そこに律は居なかった。ただ寂しく、窓の外から古い桜の木と、遠くにプールが窓から見えた。
「律はいつもこの景色を見てたんだよなー」
その時。
ふいに窓から桜の花びらが風と共に舞い込んだ瞬間、思い出した。
『春樹……卒業するときに僕の大好きな本に栞を挟んでおくよ。覚えてたら……見てね』
そうだ。あの本は……。
「萩原朔太郎の『月に吠える』……」
その瞬間、春樹は本棚へ走り出していた。名目を目で追うは『月に吠える』。
そしてその本は本棚の一番下の段にあり……栞が、挟まっていた。
『竹』という詩のページだった。
これは勉強したことがある。確か萩原朔太郎が家庭との摩擦に苦しみながら自由を求めていた当人の心象風景じゃなかったか……?
なんだか、律と重なる部分があった。詩の続きを読もうと反対側のページを読もうとしたとき、栞が床に落ちる。
そして拾い上げたとき、春樹は息を止めた。
その栞には……「ずっと好きだった」の一言が。この丁寧な字は……間違いない、律だ。
その字を見た瞬間、春樹の目から涙がこぼれていた。そして本を置いて走り出す。
校舎を抜けて、あの長い坂道へ。
律……いつあの栞に書いたんだ。今何してる? 生きているのか?
お前を忘れかけていた俺を許してほしい。できることなら、もう一度会って。
遠野家の家の前で盛大な息切れをする。震える手でチャイムを押すが、……誰も出なかった。
春樹は涙を拭って今度は『海の図書室』へと走る。
足がおかしくなりそうだったが、今この足を止めてはならないと思った。
ようやく見えてきたあの建物に息を呑む。そしてポケットからひとつ、鍵を出した。
静かに鉄の階段を上っていく。すると。扉の向こうから音が聞こえた。
「これは……『亡き王女のためのパヴァーヌ』……!」
ピアノとチェロの二重奏だった。しかし、言っていいものかわからないが、上手くはなかった。
すると。
『りーつー。いま間違っただろ』
「……! 俺の、声……」
『ははは、ごめん。つい』
明るく笑う律の声が聞こえた瞬間、ようやく気付いた。
春樹は急いで鍵を開けて中に入る。
そこには窓辺の椅子に座り、月の光を浴びながら古いカセットレコーダーで繰り返し演奏を聴く男の姿があった。
髪は鎖骨のあたりまで伸びていた。
ドアの音でゆっくり振り返り、「え……?」と言ったその顔は。
「……律」
律だ。律がそこにいる。自然とまた涙が流れた。
「はる……き……?」
その言葉を聞くか聞かないかの瞬間に春樹は律を抱きしめていた。
「春樹……!」
最初は理解が追い付かなかった律も、春樹の体温を感じてようやく涙が流れた。
つらかった。ずっと。春樹にすがりたくて何度もスマホを握ったが、結局何も出来ずに泣いていたこと。それらが一気に押し寄せていたようだった。
「キス、していい?」
春樹の問いかけに、互いの指をからませながら律はうなずく。
……そうして二人は、結ばれた。
***
とある休日のこと。春樹はワイシャツにスーツパンツを着て遠野家の前に居た。その気配を察したのか、律が出迎えてくれる。
久々に春樹は緊張していた。というのも。
「律」
「なに?」
「俺と一緒に、住まないか」
「え……?」
「もう、律を手放したくない」
「春樹……。嬉しい、ありがとう。でも僕には母さんが……」
「それを今からケリつけてくる。この選択が正しいかは分からないけど、今は自分を信じたい。律は荷造りしといてくれ」
「えっ!? う、うん……。でも春樹、危険なことは……」
心配そうな律の顔を振り返った春樹は、あの幸せだった日々の時のように自信に満ち溢れていた。
*
春樹は律の母の部屋をノックする。
そしてしばらくするとガッと戸が開いて突然拳が振り下ろされてきた。
春樹はその腕を力強く掴んで抑える。
「……!」
「お久しぶりです。西山春樹です」
「あなた……」
「律だと思って俺を殴ろうとしましたね? でも、もうこんなことはさせない」
「どういうこと」
「そんなに律を拒絶するなら、律をあなたから奪っていいですか」
「何言ってるの……?」
「いい加減律を自由にしてやってください。というか、……俺が律を幸せにします。あなたは、自立してください」
「ちょっと! 何言ってるの!?」
「強引ですみませんが、律さんは俺が貰いますので」
そう言い残して、トンッと彼女の体を押して扉を閉めた。彼女は、しばらく出てくることは無かった。
玄関に戻ってきた春樹を見て、律は荷造りした鞄を置いて駆け寄り、抱きしめた。
「春樹……! えっと……あの、後でこれは聞くよ。母さんは、大丈夫だった?」
春樹は頭を掻きながら苦笑する。
「我ながら、少し強引だった」
その言葉に律は人差し指を軽く曲げて口元にあて、微笑む。
「律、行こう」
「……うん!」
*
律が春樹に連れてこられたのはまだ新しいアパートの三階だった。
新居を見て目を輝かせる律に春樹は「どう?」と聞くと。
急に後ろから抱き着かれた。
「すごくいい……。ねぇ春樹、さっき聞こえたんだけど、……僕を幸せにしてくれるって、本当?」
それを聞いて春樹は体を反転させて正面から律を抱きしめる。
「もちろん。そしてもう律は自由だ。何が来ても俺が守る。約束する」
その言葉に律は涙を目に溜めた。
「春樹……! 僕も、春樹を幸せにするよ。ちょっと頼りないかもしれないけど」
そうして笑った瞬間涙が零れた。
その涙を止めようと、春樹が軽くキスをする。
律はそれじゃあ足りないとキスをねだろうとした時。
突然、律のスマホが鳴った。
連絡先は……隣町の病院。
「……陸也のいる病院だ!」
――――良い報せは、すぐそこに。
雨の図書室 -終-
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