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Just the beginning プロローグ

 巨大な掃除機が、なにもかも吸い上げちゃったみたいだ。  そんなことをぼんやりと考えながら、雲1つない、晴天の空を眺めていたが、やがてその視線をゆっくりと下へ移した。  豪雨の影響で増水した川が、勢いを増して目の前を流れていく。水面に浮かぶ折れた木の枝が、目にも留まらぬ早さで後方へと通り過ぎていった。 『めちゃくちゃ早いな』  年期の入った木製の橋の上で、一緒に水の流れを見下ろしている隣の少年が呟いた。少年だということはわかるのに、名前も顔も思い出せない。自分の真横にいる気配は感じるのに、その姿を思い浮かべることができない。 『先生、怒ってるかな』  そう言うと、少年がふと笑う気配がした。 『そうだな。きっと今頃、鬼みたいになってんだろうな』  台風が夜中にこの地域を直撃した翌日。裏山の川を見にいこうと、どちらが言い出したのだっけ。考えてみるが、答えが出てこない。  雨でぬかるむ山道を、転ばぬように2人で手を繋いで歩いた。毎日のように遊びにきている裏手の山は、2人にとって庭のようなものだった。施設の先生に、台風の翌日は川が増水して危ないから行っては駄目だよ、と言われてはいた。けれど、まだ幼い少年たちは、恐怖心よりも好奇心のほうが大きかった。  翌朝早く、みんなが起きてくる前に、2人で施設を抜け出した。  しばらく無言で川の流れを眺めていると。川の向こうから木の葉などに混じって、黄色い物体が流れてくるのが見えた。  なんだろ?  どんどんと迫ってくるその物体に目を凝らそうと、橋の手すりに両手をかけて前のめりに体を突き出した。  あ、ハンカチだ。  そう思った次の瞬間、被っていたキャップ帽が脱げて、川の中に吸い込まれていった。 『あっ、帽子!』  大きな声で叫んで、無意識に手を伸ばすが、もちろん届くはずもない。  どうしよう。大事な帽子なのに。  そう思って、泣きそうになっていると、視界の隅で何かが勢いよく手すりを超えて川に飛び込むのがわかった。慌てて真下を覗くと、先ほど隣にいた少年が川の中でもがいているのが見えた。もがきながらも必死で落ちた帽子を拾おうと、手を伸ばしたまま流されていく。少年の体が浮き沈みしながら小さくなっていった。  だめだっ。溺れるっ。  とっさに手すりを掴んで身を乗り出すと、考えるより先にその濁流の中に飛び込んだ。自分は泳ぎには自信がある。川の流れをうまく利用して、少年へと近づいた。少年はもがいたときに体力を消耗したらしく、力のない動きで浮かんでいた。  必死になって少年の腕を掴んだ。そのまま後ろから抱え込み、ゆっくりと岸辺まで泳いでいった。あと少しで届くとほっとしたそのとき。何か強い衝撃が背中に当たったのを感じた。鋭い痛みが走り、その痛さに顔が歪む。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。せめて、この少年だけでも助けなければ。  痛みに耐え、最後の力を振り絞って岸辺まで到着した。少年に息があることを確認する。少年の握り締めている右手の中に、帽子が見えた。ふと視界がぼやけた。安堵からなのか、急に体から力が抜けて、段々と意識が曖昧になってくる。背中の激痛に手をやって、その掌を見ると、真っ赤な血がついていた。  そこで、完全に意識が遠のいた。

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