1 / 5

第1話

 レジで会計を終え、瞬にもらったひよこ柄のエコバッグに買った物を詰めていると、目の前のガラス窓を打ち始めた雨粒が、途端に激しさを増した。―夕立だ。  雅季はマンションから徒歩十分程のスーパーに夕食の食材を買いに来ていた。今晩の献立は鶏のつくねと切り干し大根、それと、冷蔵庫に残っていたナスで味噌炒めでも作ろうと考えていた。ストックがなくなっていたので缶ビールも買った。 今夜はサッカーの国際試合があるので、瞬とそれをテレビで観ながら食べる予定だ。瑠璃は友達と食べてくると言っていた。夏休みに入ってから二人きりでの夕食は久しぶりな気がする。 (…すぐ止むよな) 冷房の効いた店内から一歩出ると、肌に纏わりつくような暑い空気が襲ってきた。家を出た時には真っ青に広がっていた空を、今は重々しく暗い雲が埋めつくしている。地面を打ち付ける雨音が忙しなく響き、夕立特有のむっとした匂いが鼻腔に届く。  傘を持ち合わせていなかった雅季は、此処で止むのを待つしかなかった。ちょうど自動販売機が軒下にあったので、缶コーヒーで喉を潤しながら気長に待つことにする。  小銭を入れてコーヒーのボタンを押そうとすると、突然横から伸びてきた手に先にボタンを押されてしまった。ガコンと缶の落ちる音が聴こえ、彼はすかさず取り出し口からそれを出す。 「ありがと、先生❤」 瞬は自分の頬にいちごミルクの缶を当てながら、雅季に向けてニッコリと笑った。大きな濃紺の傘を差してメッセンジャーバッグを肩から下げている彼は、アルバイトの帰りのようだ。 「…いちごミルクって、まんまガキだな」 彼が現れたことに別段驚いた素振りも見せず、雅季はもう一度、自分の分の小銭を投入した。 「先生、雨宿り? 相合傘する?」 いちご柄のピンクの缶を口に付けながら、嬉しそうに傘を差し出す。 「…いや。もう少し弱まるの、待つ」 雅季がそう言うと、瞬は傘を閉じて隣に並んだ。彼の方から、いちごの甘い香りが微かに漂ってくる。 「―バイト、楽しいか?」 「うん。みんな可愛いし、いつもの部活とはまた違って新鮮」 瞬は夏休みに入ってから小学生の絵画教室でアルバイトをしている。美術部顧問の先生に急遽頼まれて、彼女の知り合いが運営している教室で講師の手伝いなどをしているらしい。最近は朝からそっちに行っていて、学校の方にはなかなか行けなくなっていた。 「でも、先生と一緒に学校行けないのは寂しいな。旅行もできなくなったし…」 瞬は長期休みや連休になると、フラッとスケッチ旅行に出ることがある。その度に雅季を誘い、誘う度に断られていた。―けれど、この夏休みは今までとは違った。 雅季と初めて出会った日から長い間片思いをしてきた瞬は、最近やっと雅季と想いを通わせて恋人となったのだ。いつもだったら即座に断られる旅行の誘いも、初めて「考えとく」と言ってくれたのだ。―瞬の高校の教師であることでずっと悩んでいた雅季が、そう言ってくれただけで瞬はもう充分嬉しかった。結局は夏休み中アルバイトが入ってしまったので、旅行自体行けなくなってしまったのだが。本当に二人で旅行できたら、どんなに幸せだっただろうか。 「…またいつでも行けるだろ」 雨音の向こうで雅季の静かな声が聴こえた。いちご味の香りの向こうで、大人の苦いコーヒーの香りが漂っている。―瞬は隣に佇む恋人の横顔を愛おしそうに見つめると、キスをしたい衝動をいちごミルクと一緒に飲み込んだ。  雨足が弱まってくると、瞬は自然な仕草で雅季の手から荷物を取り、二人は一緒の傘に入ってマンションに向かった。 「先生、お盆実家帰るんでしょ? いつから?」 「木曜日。帰省ラッシュにぶつかりたくないから、早めに行って早めに帰ってくる」 雅季の実家は京都にある。この時期は観光客と帰省する人々でごった返すので、人混みの苦手な雅季は、まだ比較的すいているうちに帰ってしまおうと思っていた。正月とお盆には、毎年必ず帰るようにしている。 「いいなぁ、京都。でも先生と離れるの、寂しい…」 「…毎年のことだろ」 「毎年寂しい。でも今年はもっと寂しい。せっかく両想いになって、初めての長期休みなのになぁ。一緒にどこか行ったりしたかった…」 自分の感情を素直に伝える瞬の言葉は、いつも雅季の心にじんわりと温かく広がる。 感情を表に出すのが苦手な自分には、到底真似のできないことだ。「両想い」と言葉にされると、なんだかくすぐったさを感じてしまう。肩が触れ合う距離にいる彼の顔を見上げると、その顔は子供のようにしょんぼりと沈んでいる。  ―雅季が初恋である瞬にとって、恋愛の全ては雅季が初めてだ。高校生活の二年間を片思いで過ごし、両想いになって迎えた高校最後の夏休みも、相手が教師であるばかりに謳歌できない彼が、雅季には忍びなかった。本当だったら初めての恋人と、普通の高校生のように「付き合う」ということを堪能できたはずなのだ。―できることなら瞬には、もっと普通の恋愛を経験させてあげたかった。  隣で雅季の顔までもが沈鬱な表情になっていることに気付くと、瞬は慌てて明るい声を取り繕う。 「でも、こうして毎日会えるだけで充分幸せだけどね!」 前を見据えたままの雅季の視界に入り込むようにして顔を覗き込む。瞬の持つ傘が彼の動きに合わせて揺れると、伝っていた水滴が舞った。  目の前に現れた瞬の顔をジッと見つめ、雅季はおもむろに彼の胸倉を掴んで引き寄せた。チュッ、と音を立てて触れた唇が離れると、瞬はキョトンと目を丸くして固まった。その様子を、シャツを掴んだまま至近距離で見つめていた雅季は、もう一度引き寄せて今度は濃厚に舌を絡ませ始める。 「ンッ―…」 傘を打つ雨音に交じって、雅季の味に酔う瞬の吐息が鳴った。コーヒーの苦い味といちごミルクの甘さが溶け合う。舌の表面を擦り合わせて先端を優しく吸われると、甘美な刺激が瞬の視界を眩ませていく。 傘に覆われた二人きりの世界で瞬は、雅季の仕掛けた、とびきり甘い恋人同士の戯れを堪能した――。  大抵の夕食は瑠璃と三人なので、雪村家で食べることが多い。二人きりの今夜は雅季の部屋にいた。いつも食事はダイニングテーブルでとるが、今日はサッカー観戦をする為、テレビの前のローテーブルで食べた。 最後まで盛り上がった試合は日本代表の勝利に終わり、雅季は良い気分でビールの缶を空けていた。元々酒に強いわけではない雅季は、試合が終わった頃にはすっかり酔いが回り、ソファに座る瞬の膝の上に足を投げ出しながら寝転がっていた。 「先生、もうベッドで寝たら?」 「…んー…」 上気した顔で気持ち良さそうに目を閉じている雅季の姿は、瞬の欲情を誘い始めていた。はだけたシャツの裾からは、白くて細い腹が見えている。  初めての夜を迎えて以来、二人きりになるとキスをしたりするものの、それ以上の濃厚な触れ合いには至っていなかった。  瞬は雅季に触れたくて仕方なかったが、一度触れてしまうと途中で止めることができなくなってしまいそうで、雅季の身体の負担を考えると我慢することを選んでしまっていた。  雅季の腕を引っ張って起こすと、その腕はそのまま瞬の首へと絡み付いた。火照った雅季の身体を肌に感じて、瞬の鼓動は段々と速さを増していく。 「…大丈夫…?」 囁きながら腰を支えてやると、雅季の身体はビクンと跳ね、抱きついていた腕に力が籠もった。瞬の膝に乗り上げて、真正面から身体を密着させた。 「―…先生…?」 雅季の姿態に当てられ、ますます高揚すると、瞬の身体の中心は熱を持ち始めてしまう。 「……なんでしないの?」 瞬の肩に頭を乗せていた雅季の、籠った声がぼそっと聞こえた。酔っている所為か、いつもの冷たさはすっかり影をひそめ、代わりに甘えた響きを含んでいる。 「セックス…」 「っ―…!」 首すじに湿った息がかかり、直接的な言葉を発せられると、瞬の全身をゾクゾクッと強烈な刺激が駆け抜けた。  雅季は自分の息で湿った首すじにぬるりと舌を這わせると、チュッと音を立てて強く吸いつき、跡をつけた。それを肌の上でゆっくりと繰り返している。 「…だって先生、毎朝…部活で早いのに…」 与えられる快感に脳内が溶けそうになりながら、瞬は必死に理性を保とうとしていた。 「身体…つらくなるでしょ…?」 「…お前のここの方が、つらそうだけど…?」 「ッ…」 雅季の尻の間には、すでに硬くなった瞬の中心が当たっていた。雅季がわざとらしく腰を前後に揺すると、ジーンズ越しに擦られたそこはジンジンと痺れ、更に窮屈そうに質量を増した。  自分の股の下で彼が昂っていくのを感じると、雅季は恍惚の表情を浮かべながら、瞬の耳元で息をひそめて笑った。 「…俺の中に入りたいって、言ってるよ…?」 「――…ッ」 ――アルコールの所為で妖艶さを纏った雅季の姿に、瞬は堕ちた。荒々しく唇を奪うと、乱暴に雅季の口腔を掻き乱し始める。 「んっ…むぅ…」 始めから激しく求められると、雅季の頭の中はすぐに快感に眩み、酔いと合わさって、ぐちゃぐちゃになっていく。口の端から零れる唾液の感触さえ気持ちいい。  早急な手つきでシャツを脱がされると、彼の舌は胸の上で硬く尖っていた粒を捉えた。 「あっ…ん」 口に含まれ執拗に舌先で弄られると、思わず彼の頭を抱えるように抱きしめていた。指先でそっと背筋を撫で上げられると、ゾクゾクと肌が粟立つ。  もっと直に瞬の体温を感じたくて、今度は雅季が彼のシャツを乱暴な手つきで剥ぎ取ると、お互いの熱を求めて夢中で掻き抱いた。 「あ…んぅ…」 瞬は胸の尖りに飽きることなく貪りつきながら、雅季のジーンズを寛げると、腰を撫でていた両手を徐々にその中に沈めた。尻の丸みをなぞるように優しくさすると、雅季は反射的に腰を浮かせる。やがて指が尻の間に侵入すると、ビクンと身体を竦ませた。 「いっ―…」 まだ受け入れ慣れていないそこは固く閉ざされている。瞬は潤滑できるものを求めてテーブルの方に目を向けると、雅季がその下の収納棚からハンドクリームを取り出した。  それを瞬に渡すと、雅季はトロンとした瞳をしながら再び唇を求めた。 「…はやく、…繋がりたい―…」 唇の上で切なげな声で渇望されると、瞬の欲望は腰の奥でいよいよ熱り立ってしまう。  雅季の足からジーンズを下着ごと引き抜くと、少し荒い手つきで、クリームを塗り付けるようにして蕾を解していく。 「あっ…んぅ」 段々と柔らかくなったそこは、瞬の感触を思い出したかのように淫らにヒクつき始める。指でゆっくりと抜き差しを繰り返しながら、雅季の手を取ると自分の腰の中心に導いた。 「…触って…?」 「ん……」 求められるままに、雅季の指が布地の上から形を確かめるようにそこをなぞると、もう限界まで張り詰めた瞬の欲望は解放を欲して震えた。窮屈なウェストを緩めると、大きく猛った屹立を取り出す。  すでに先走りで潤んでいる自身と重ねると、両手を沿わせてゆっくりと扱き始めた。二人の熱が合わさって溶け合い、ぬちゅ、ぬちゅっといやらしい音が前後で二重に響くと、瞬の息遣いは荒々しさを増し、雅季の嬌声は止まらなくなった。 「あっ…、瞬…もう、欲し―…」 「……自分で、入れてみて…」 瞬が耳元で欲情に掠れた声で囁くと、雅季は一瞬怯んだが、覚悟を決めたように腰を浮かせると、もう充分柔らかくなった蕾に、彼の欲望をあてがった。 「あっ―」 先端が入口に触れると、そこはもっと確かな快感を待ちわびて淫らにヒクつき始めた。 ドクドクと脈打つ屹立を手で支え、おそるおそる少しずつ体重をかけながら腰を落としていく。ぐぷっ、と先端を咥えこむと、後はぬめりが手伝っていとも容易く一気に最奥まで貫いた。 「ああぁっ―…!」 強烈な快感が一瞬で全身を駆け抜け、堪える間もなく雅季の欲望は弾けた。白濁が二人の腹の間で飛び散る。 「んぅ…はぁ…」 瞬は余韻に震える雅季の腰を支えながら、耳元でクスッと甘く笑った。 「…入れただけでイッちゃったの? そんなに俺が欲しかった…?」 いつもなら羞恥に染まる言葉も、今の雅季には甘美な刺激になってしまう。 「…こんなんじゃ、足りない……もっと、欲し―…」 絶頂を迎えたばかりにも関わらず、雅季の欲情は渇くことなく瞬を求めた。彼に跨ったまま、自らゆるゆると腰を遣い始める。 「あんっ…、あっ…」 「アッ―…」 咥え込んだ熱を味わうように腰を上下させると、グチュッと淫猥な水音が響いた。瞬の上で自ら淫らに快楽を貪るその姿は、視覚からも瞬を刺激して止まない。  巧みなその動きに翻弄されながら、二人の腹の間で揺れる雅季の屹立を強く扱いてやると、雅季はますます甲高く啼いた。 「あぁっ…瞬…」 唇を求められると、瞬はその口腔を抉るように舌で掻き回していく。 「…俺の中…気持ちいい…?」 「ッ―…、……いいよ…」 雅季の腰を抱え直すと、瞬は下から突き上げるように激しく動き始めた。 「あぁっ…!」 「…おかしくなりそうなぐらい…、…気持ちいい――」 瞬は浮かされたように、仰け反った雅季の首すじに夢中でしゃぶりつきながら、荒々しく雅季の身体を攻める。獣のように貪られると、雅季はもう、わけがわからないほどに、感じてしまっていた。クラクラとする頭で、必死に瞬にしがみついて快感だけを追う。 「あっ…、瞬…、瞬―…」 「―…先生、…好きッ…、大好き―…」 穿ち続けた欲望は、解放されても尚、止まることはなかった。中に吐き出される瞬の熱を、雅季は何度も受け止めながら、恍惚の中、意識を失っていった――。  目を覚ますと、夜中の三時を過ぎたところだった。寝室のカーテンの隙間からは、すでに夜の闇が和らいで、淡い色が漏れ始めている。  なんだか頭が重い。身体も心なしか、だるい気がした。喉が渇いていた雅季は、水を飲もうとベッドから起き上がろうとして、腰が立たないことに気が付いた。  その瞬間、昨夜の自分の醜態が、薄っすらと脳裏によみがえってきた。 (…俺…何した…?) 嫌な予感しかしなかったが、昨夜の出来事を順に追って整理しようと試みる。  久々に瞬と二人きりで夕飯を食べて、テレビでサッカーの試合を観て、白熱した試合展開に、ビールを飲むペースも上がって、そして―…。  顔から、サーッと血の気が引いて行くのを感じた。 (…俺が…誘った気が…する…) 詳細は憶えていないが、自ら彼の上に跨った光景が、目の前に浮かび上がった。 (ソファの上で…ヤッた…のか…?) 瞬がそのあと、寝室まで自分を運んだのだろう。後始末をして、服を着せて―。そして自宅に帰ったようだ。瑠璃を一人残して泊まる事はできない。  喉を潤したかったが起き上がれない雅季は、ただ呆然と天井を見つめていた。 (…くそっ…) 青ざめていた顔は、記憶を取り戻すに連れ、段々と羞恥に赤く染まっていった。  酔いに後押しされたとはいえ、自分から欲情を曝け出して求めてしまったことが、とても恥ずかしかった。  ―初めての夜以来、瞬が全く求めてこないことに少なからず不満を抱いていた。  単純な彼が考えていることは、なんとなく察しがついていたので、あえて何も言わずにいたのだ。いくら瞬だと言っても、彼だって思春期真っ只中の健全な男子だ。そのうち我慢できなくなって、雅季を労わる余裕もなく求めてくるだろう。―そう思っていた。なのに―。 (…俺の方が、サカる、とか…) もういい大人なのに、と自分を責めていた雅季はふと、サイドボードの上のペットボトルが目に入った。瞬が気を利かせて用意していってくれたのだろう。一緒にメモが置いてある。 『朝起こしに来るから、鍵は預かっておくね』 (…できた奴だな) 十歳も年下の彼の方が、自分よりずっと大人に感じる時がある。  瞬はいつも、自分よりも周りの人のことを一番に考える。雅季に対する自分の想いも、何を求めるわけでもなく、ただ伝えただけだった。自分の願望よりも、雅季の立場を一番に考えてくれていたのだ。  綺麗な字で書かれたメモを眺めていると、指の下に小さな文字が隠れていた。持ち手をずらすと、伝言の続きが現れる。 『先生が誘ったんだから、俺を責めないでね』  ――瞬と二人きりの時はもう酒は飲まないようにしようと、雅季は人知れず心に誓った。  きっかり朝六時半。雅季の起床時間に合わせて、寝室のドアが開かれた。 「朝だよー! 起きないと遅刻するよー!」 瞬が容赦なくカーテンを開けると、朝の眩しい光が部屋中に射し込んだ。  瞬がその光に負けないぐらい、キラキラと輝いた顔でベッドを振り返ると、布団から顔を半分だけ出した雅季が、ジトッとした眼差しで睨んでいた。  その無言の視線に威圧された瞬は、いたたまれなくなって目を泳がせると、思った通り雅季の罵倒が降り始める。 「もうー! やっぱり俺のせいにするー!」 喚いている瞬の首元に赤い痕が見え、それが昨夜自分のつけたキスマークだと気付くと、雅季は顔が熱くなっていくのを感じ、それを隠すように布団の中に埋もれて行った。 「…お前、襟付きのシャツに着替えろ…」 「え? なんで?」 布団の中からぼそっと、くぐもった声が聞こえると、瞬は首を傾げながらも掛け布団を剥がそうとしている。  雅季はそれに必死に抵抗しながら、真夜中にした決意を告げた。 「…もう、お前と二人きりの時は、酒は飲まない」 「え、それはヤダ! もったいない!」 瞬の声音が深刻そうな響きに変わると、雅季は訝しげに彼を見つめる。すると瞬は思い返したように、デレッとその顔を緩ませた。 「酔った先生、超エロくて、かわいいんだもん❤」 涎を垂らしそうな勢いでにやけた彼を、雅季は蹴飛ばそうとして布団から足を出したが、腰がズキッと痛んで未遂に終わった。  朝一番の新幹線に乗り込んだ雅季は、東京駅を出発すると早々に眠気に襲われ始めた。  今朝は部活の日よりも早い時間に起きていた。―正確には瞬からの電話で起こされたのだ。 (母親みたいだな…) マンションのエントランスで別れる時、朝ごはんにと渡されたおにぎりのことを思い出して、旅行用の大きめのボストンバッグの中から取り出した。雅季の好きな鶏ごぼうの混ぜご飯のおにぎりが二つ。炊きたてを握ったのだろう、まだ温かく、おいしそうな匂いがしている。  早朝とはいえ、さすがに人目がある駅までは送れないことを、瞬は残念がっていた。一週間会えないことを思って、目を潤ませながら寂しそうな顔をする彼は子犬のようだった。  だから別れる間際、彼が雅季のシャツの袖を掴んで、ぽつりと「キスしてもいい?」と言った時、とても無下にはできなかったのだ。  早朝のエントランスには他に人の気配はなく、防犯カメラの死角に入ってキスをした。瞬はまるで永遠の別れかのように熱烈に唇を求めてきた。収拾がつかなくなってしまう前に、雅季は無理矢理彼の腕から逃れると、後ろは振り返らずに足早に旅立った。  ―あの子犬のような潤んだ瞳で見つめられると弱い。 (…食べてから寝よう) たった一週間なのに、瞬のあの大袈裟な様子が伝染って、なんだか自分まで寂しい気分になってしまう。おいしいはずのおにぎりが、少し塩辛く感じた。  すっかり眠り込んでいた雅季は、携帯電話の着信音で目が覚めた。 (…あ、マナーモードにしてなかった…) ぼんやりと窓の外を見ると、ちょうど名古屋駅を出るところのようだ。  メールが二件受信されていた。一件目の兄からのメールは、眠っていて気付かなかったらしい。車で迎えに行くから、到着時間を知らせろとの内容だった。雅季と八つ年の離れた兄・高季は、実家で家族と暮らしながら、京都の大学で准教授をしている。  到着時間を兄に返信すると、二件目の受信メールを開いた。 『毎日じゃなくていいから電話して!』 「……」 そういえば出がけに瞬が、毎日電話していいか訊いてきたっけ。 ―「実家なんだから無理。出られるかわからない」 ―「じゃあ、先生のタイミングでかけて!」 ―「毎日は無理。一週間ぐらいで甘えるな」 今朝のやり取りを思い出す。このあと、しょぼくれて子犬のようになったのだ。 (…バイトの時間だけ避ければ、毎日かけてやれるかな…) なんだかんだ言って、自分は瞬に甘い。そんな自分に半ば呆れつつ、瞬がキャンキャンと子犬のように喜ぶ姿が目に浮かぶ。その様子を想像して、思わず笑みが零れてしまっていた。 (子犬と言うより大型犬だけど…) 瞬はさしずめ、ゴールデンレトリバーといったところかと、頭の中で思い描いてみる。 「彼女からですか?」 突然横から声を掛けられた。  雅季が眠り始めた時には空席だった隣の座席に、いつの間にか高校生ぐらいの青年が座っている。目が合うと、彼は八重歯を覗かせながら、人懐っこい笑顔を向けてきた。 「いきなりすみません。嬉しそうに画面を見ていたので、気になって」 雅季は指摘されると、思わず照れたように少し顔を赤らめた。いつもなら感情は表に出ない自分が、瞬のこととなると、つい顔を緩ませてしまうことに気付いたせいだ。  青年は食い入るように、そんな雅季の様子を見つめていた。 「……可愛いなぁ」 ぽつりと口の中で呟いた彼の声は、雅季の耳には届いていなかった。 「どちらまで行かれるんですか?」 「…京都まで」 「あ、僕と一緒だ」 整った顔で綺麗に笑顔を作った青年は、尚も雅季に話しかけてくる。 「観光ですか?」 「…帰省です」 元々不愛想な雅季は、自分から会話を続けようとはせずに、相槌程度の返しでその場を凌ごうとしたが、彼は雅季に興味津津といった様子で、会話は一向に終わる気配がなかった。 「―じゃあ実家で暇になったら、僕と京都デートしません?」 それまでメールの返事を打ったりしていて、ろくに顔を上げていなかった雅季は、その言葉にはさすがに反応すると、思わず隣の青年を見た。彼は期待通りの反応を得られて嬉しいのか、ニッコリと微笑んでいる。 「…しません」 彼を一瞥して冷ややかに応えると、雅季は再び目を伏せた。 「携帯番号教えてくれません?」 「くれません」 「メールアドレスでもいいですよ?」 「遠慮します」 「じゃあ、せめて名前!」 「名乗るほどの者ではありません」 淡々と繰り返された押し問答の末、青年は突如笑い転げた。雅季が横目に見ると、彼は腹を抱えて笑っている。 「アハハハッ、やばい、すげータイプ」 車内アナウンスが流れた。もうすぐ京都だ。彼には構わずに、雅季は身の回りの整理を始めた。  到着が近付くと、出口に向かう為、彼の座席の前を通ろうとして声を掛けた。すると彼は、おもむろに足を上げて通り道を遮り、挑戦的な眼差しで雅季を見上げた。 「―…ガキだな」 「手段は選んでいられませんから」 雅季は溜め息をつくと、彼を見下ろして不本意ながら要求を待った。 「もう時間もないので、名前で勘弁してあげます」 「……」 青年の屈託ない笑顔を、雅季が尚も無言で見下ろすと、彼は仕方なさそうに条件を下げた。 「―呼び名でもいいですよ?」 新幹線はすでに京都駅のホームに入っていた。乗り過ごすわけにいかない雅季は、もう一度溜め息をつくと、とうとう折れた。 「……ヒナ」 やっと返答がもらえた青年は、パアッと満面の笑みを浮かべると、やっと足を下ろした。 「可愛い名前!」 足早に去って行く雅季の後ろで、彼の浮かれたような声が響いていた。  追いつかれたらまた面倒なので、雅季はホームに降り立つと、後ろは振り返らずに急ぎ足で出口に向かった。 (…変な奴だったな) もう会うこともないだろうと、特に気にかけることなく、雅季は迎えの車を探した。  グレーのファミリーカーで迎えに来た高季は、雅季を見つけると、浅黒い腕をウィンドウから出して大きな声で呼んだ。その野太い声に反応して振り向いたのは、雅季だけではなかった。      高季は学生時代ラグビーをやっていたこともあり、大柄で逞しい身体つきをしている。華奢な雅季とは正反対だった。元々、兄の高季は父親似で雅季は母親似だ。 「みんな元気? 麻有と航は?」 「二人とも、今日は水泳教室に行ってる。一緒に迎えに来たがってたよ」 雅季の甥と姪にあたる高季の子供達は、小学校一年生と二年生の姉弟だ。二人の母親で高季の妻である楓と四人家族で、雅季の実家で暮らしている。  実家は観光名所からは少し外れた、京都駅から離れた場所にある。今は観光客であふれているウィンドウの外の景色も、実家に近付くに連れ少なくなるだろう。  正月ぶりに会う兄と、互いの近況報告などをしているうちに、段々と見慣れた地元の光景になっていった。東京の大学に進むまでの、十八年間を過ごした場所だ。 ―「いつか行ってみたいな。先生が育った場所―」 瞬の声が聴こえるような気がした。いつだったか、彼はそんなことを言っていた。 (…見せてやりたい―…) 何の変哲もない、ごく普通の街だけれど、彼はきっと心から喜ぶだろう。雅季の暮らした家、通った学校、歩いた道。その全部に、瞬が目を輝かせる姿が目に浮かぶ。 ―いつか、二人でここに来ることなんてできるのだろうか。  一番高い位置に昇った太陽が、ギラギラと容赦なくアスファルトを焼いていた。  雅季の実家は伝統的な日本家屋だ。代々受け継がれてきたその家は、京都の町並みに相応しく、日本古来の趣がある。瓦屋根の門の向こうには広々とした庭があり、その少し奥に純和風の平屋の家が佇んでいる。  聞き慣れた車の音に気付いたのか、駐車場に入るとすぐに、玄関の引き戸が開いて中から小さな人影がバタバタと現れた。 「まさきー!」 「まさき、おかえりー!」 雅季が車から降りた途端、子供達が両足に絡み付いてきた。 「ただいま、麻有。航。二人とも焼けたなー」 かわいい甥っ子と姪っ子を前にすると、雅季のいつもの無表情も和らぐ。足にくっついたままの二人と共に一歩ずつ足を進めると、キャッキャッとはしゃぐ声が響いた。  ―はしゃぎ疲れた子供達が普段よりも早く寝てしまうと、雛野家は早速、大人達の晩酌の時間になった。楓が作った京野菜のおばんざいを肴に、雅季と違って酒豪の兄は、ハイペースで日本酒を盛っていった。雅季も彼に付き合って、普段は飲まない日本酒に口を付けたが、早々にリタイアした。  延々と酒盛りを続ける高季と楓をよそに、雅季は頃合いを見つけて、こっそりとその場から抜け出し庭に出た。光の漏れる家から離れるに連れて夜の闇が濃くなると、甘ったれの恋人に電話を掛けた。 『―先生! 無事着いた?』 ワンコールで繋がった電話口の向こうで、ゴールデンレトリバーがパタパタと尻尾を振って喜ぶ様子が頭に浮かぶと、その光景が微笑ましくて、つい顔が綻んでしまう。  いつもは夕食で交わすような会話をしていると、庭先の暗闇の中に、食卓の明かりが見えてくるような気がした。 『今日はどうだった?』 「うーん…あ、ナンパされた」 『ええっ?』 今日一日を振り返ると、新幹線で遭遇した変わった青年の事が思い出されて、つい口に出ていた。すぐさま瞬の追及が怒涛のように始まった。雅季は口をすべらせたことを後悔したが、もう遅い。事細かに説明させられると、聞き終えた瞬は、ますます寂しさを募らせたようだった。 『早く帰ってきてー! 先生の体温で安心したい…』 色を失くした庭の中に響く、瞬の柔らかい声。耳元から感じる彼の温もりだけが、自分にとって唯一確かなもののように思えた。  少し離れた後ろの家では、かわいい子供達がスヤスヤと眠り、気の良い兄夫婦の笑い声が、微かに漏れている。――温かい幸せな家族。 「…俺も会いたい」 耳元で瞬の呼吸音が止まると、すぐに嬉々とした彼の声が、つんざめくように響いた。 「でも予定通りに帰るから」 雅季は彼の言葉を遮って冷静に言うと、家の中から自分を呼ぶ高季の声が聴こえたので、一方的に電話を終わらせた。  盆地である京都の夏は蒸し暑い。それにも関わらず、相変わらず人でごった返す観光名所に、雅季は繰り出していた。観光客のように、首にカメラを下げて。  この夏、旅行に行けなくなった瞬の為に、京都の景色を写真に撮って、あげようと考えていた。夏の京都には行ったことがないと言っていたし、バイトで忙しくて、最近は自分の絵を描けていないようだった。その題材にでもできたら、と思ったのだ。 「めずらしいな。人混み嫌いなくせに」 長く暮らしたこの地で、今更観光地を巡ると知ると、高季は驚いていた。  市内の大学に通勤する高季の車に同乗して、朝早く京都駅に着いた雅季は、自分の好きな場所を中心にまわることにした。  まず伏見稲荷大社に向かって、朝の光を浴びて真っ赤に輝く千本鳥居を写真に収めた。朝早かった為か、まだそんなに観光客の姿はなく、ずっと奥まで続く赤いトンネルの、誰もいない様子を撮ることができた。ふらっと野良猫が現れて、鳥居の間から射し込む光を浴びながら顔を洗うと、すかさずシャッターを切る。  自分の見たこの景色が、瞬の手によってどんな彩りを纏うのだろうと、考えるだけでワクワクした。そして離れていても尚、常に自分の中心にある彼の存在に気付くと、一人で恥ずかしくなってしまった。  嵐山に着いた頃には、そこはもう充分な活気に包まれていた。たくさんの人力車が道路を行きかい、呼び込みの元気な声が飛んでいる。先ほどの真っ赤な光景とはうって変わって、今度は空を覆うように高々と伸びる緑色が視界に広がった。竹林の道だ。  僅かに竹の間をぬって届く日射しが、キラキラと煌めいている。緩やかな風に吹かれて、笹の葉擦れの音が心地良く響く。この場所は暑さも少し和らいでいるようだ。人力車を引く車夫の声が聴こえると、雅季は風流なこの景色をカメラに収めた。 渡月橋を眺める場所に腰を下ろしてしばらく休憩すると、次の目的地へと向かう。午後は貴船まで足を延ばす予定だ。市内から一時間ほどかけて、電車やバスを乗り継いで行く。 「わざわざ貴船まで行くのか? 縁結びの願掛けか?」 今朝、高季が冗談交じりにニヤニヤと笑いながら言っていた。  貴船神社は縁結びで有名な神社だ。昔に一度行ったきりだったが、雅季は貴船神社の、朱色の灯籠が続く石段の眺めが好きだった。  それに瞬が以前、京都の雑誌を眺めて行ってみたいと言っていた場所だ。少し遠いけれど、久しぶりに行ってみようと思ったのだ。  ―乗り物を乗り継いで行くうちに、うろ覚えだが、なんとなく見覚えのあるような景色が目に入ると、懐かしさに胸がじんとしてきていた。神社の入り口に辿り着くと、そこに昔見た光景が、時を越えて重なっていく。  昔訪れた時は、確か二月のとても寒い時期で人気が全くなく、辺りは真っ白な雪で覆われていた。灯籠の上に雪がこんもりと乗り、静寂に閉ざされたその光景はとても美しかった。  その時とは対照的に、夏のこの時期は、市内ほどではないが参拝客で賑わっている。縁結びで有名なこともあって、若い女性客が多いようだ。昔から避暑に使われているだけあって、市内に比べてとても涼しい。  雅季のお気に入りの場所でシャッターを何度か切ると、本殿に向かって参道の石段を上り始めた。下りてくる人達と何度かすれ違っていくと、その流れを止めて、数段上に立ち止まっている人影に気が付いた。下駄を履いた細くて白い足が、視界に入る。  黒地に白と紫の桔梗をあしらった浴衣を着た飯島皐が、じっと雅季を見つめながら佇んでいた。  互いに無言で見つめ合っていた二人の方へ、皐の後方からパタパタと駆け下りてくる足音が聴こえた。 「皐―! 置いてくなってー」 聴き憶えのあるような声につられて、声の主に視線を送った雅季よりも早く、彼が反応した。 「ヒナ!」 新幹線で出会った青年は皐の横を通り過ぎると、雅季の両手を握り締めて感激していた。 「また会えるなんて! それもこんな所で! 運命としか思えない!」 「…いや、偶然だ」 雅季は冷静に言うと、静かな動作で彼の手を引き剥がした。  日本人形のような皐は、漆黒の長い髪を結いあげてかんざしを挿し、黒を基調とした艶やかな浴衣を着ていた。朱色の灯籠が並ぶ参道で、青々とした木々を背景にして佇む彼女は、息を呑むほど美しかった。 (…と言うか、京都が似合いすぎるな…) 三人は、神社近くの川床で遅い昼食を一緒に取っていた。青年に強引に誘われた結果だった。 「皐の学校の先生なんですね。じゃあ、僕の先生にもなるんだ」 彼の名前は岬蒼太。高校三年生。父親の仕事の都合で、ドイツで暮らしていた彼は、この夏に帰国して二学期からは皐と同じ高校に編入してくると言った。つまり雅季の生徒になるわけだ。 「ますます運命だ!」 彼はすっかり舞い上がっているようだった。皐は黙ってそうめんを啜っている。  皐の家族と彼の家族とは古い友人同士で、岬家が帰国したのを機に、両家族で京都旅行に来ていた。彼だけ遅れて参加した為、新幹線に一人で乗っていたのだ。 「ついさっき、神様にお願いしたばかりだったんですよ! ヒナにまた会えますように、って。やっぱり効くんですね、ここの縁結び!」 「……」 彼のテンションに、いちいち口を出すことに疲れた雅季は、慣れた皐と同様に沈黙を通すことにした。そのうち岬の携帯電話が鳴ると、彼はそれに出る為、律儀に川床を離れて行った。  昼時をだいぶ過ぎていたので、川床にはもう他に客はなく、一人延々としゃべり続けていた岬がいなくなると、後に残された二人はやっと静寂に包まれた。  鴨川の川床と違い、貴船の川床は水面すれすれに設けられている。涼しさを奏でる清流のせせらぎ。遠くには蝉しぐれが聴こえている。生い茂る緑に囲まれ、自然が織り成す涼が、とても心地良い。 「…モテますね。男に」 「……」 やっと口を開いた皐がぼそりと呟くと、事実に返す言葉が見つからない雅季は、ただ、美しい岩肌を縫って流れる、水の煌めきを見つめていた。  絵画教室もお盆の間はしばらく休みになる。久しぶりにまとまった休みのできた瞬は、雅季のいない休みを、ひたすら絵を描いて過ごそうと思っていた。  急遽頼まれたアルバイトは、とても楽しく良い刺激になっていた。けれど、そっちにばかり時間を取られてしまって、ここしばらく自分の絵は描けないでいたのだ。  新しく挑戦してみたい画材があった瞬は、用具を揃える為に画材屋に来ていた。絵画教室の講師に話したら、教室が終わった後に残って教えてくれると言ってくれた。  雅季と旅行ができなくなって残念に思っていた夏休みだったが、予定とは違う形ではあるが、瞬は思いのほか有意義にこの夏を過ごしている。  講師がリストにしてくれた必要な用具が書かれたメモを片手に、店内をまわっていると、ジーンズの後ろポケットに入れていた携帯電話が鳴った。 『ヤサオ君に補給』 雅季のメール以上に簡潔な文に添えられた画像を開くと、途端に、思わずニヤけてしまっていた。  そこには、京都を背景にした恋人の姿が映っていた。雅季は撮られていることに気付いていないようで、素の横顔や佇む姿、川床で食事している姿があった。 「…会長さんも、京都に行ってるんだっけ…」 二人がばったり遭遇するなんて、すごい偶然だな、と思いながら瞬は、遠くにいる愛しい人の姿を画面越しに見て、寂しさを募らせた。 (…瞬に何て言おう) この間うっかり口を滑らせてしまった、ナンパしてきた青年の話に、まさか続きができるとは思っていなかった。それも、瞬にとっては嬉しくないであろう方向に。  あのあと、二人は家族との待ち合わせがあるからと言って、雅季より先に市内へと帰って行った。岬は渋々、皐に引っ張られるようにして去った。 (…しかも俺のクラス) 更に喜ばせてしまうだけだったので岬には言わなかったが、夏休みに入る前に、二学期から自分のクラスに編入生が来ることは聞いていた。それが彼だったのだ。 「まさきー。花火おわっとるよー?」 はっと我に返ると、手に持っていた花火はいつの間にか散り、ただの棒になり果てていた。  実家の庭先で、市内で雅季が買ってきた花火を、みんなでやっているところだった。麻有と航が元気よく騒ぎながら、色とりどりに変化する花火を闇の中で泳がせている。 「恋煩いかー?」 缶ビールを片手にした高季が、今朝同様、からかうようにニヤニヤしている。 「今夜は恋人さんに電話しないの?」 縁側に座った二人の背後から、楓がスイカをお盆に乗せて現れた。ふっくらとした体型の彼女は、雰囲気そのままに大らかな性格で、そして意外と周りを見ていた。 (…やっぱりバレてた…) 実家に着いた日から結局毎晩、タイミングを見つけては瞬に電話を掛けていた。無表情の中に少しだけ困った色を浮かべた雅季を、彼女はニコニコと丸い顔で見守った。 「なんだ、お前。やっぱり恋人いるのか! 毎日電話するなんて、案外マメやなあ」 「それほど好きってことやんか」 本人を差し置いて、勝手に盛り上がる兄夫婦に挟まれながら、雅季は段々と顔が熱くなると、居た堪れなくなっていた。 「それなら、一緒に連れてくればよかったのに」 何気ない高季の一言が、雅季の胸にズキンと痛みを与えると、ポケットで携帯電話が鳴った。 瞬からのメールだ。 『会長さん、ズルイー!』 添付されていた画像には、貴船神社で朱色の灯籠を背景にした、雅季の横顔が写っていた。皐がいつの間にか撮っていたのだろう。瞬のこの様子からすると、岬の事は聞いていないようだ。 「…ちょっと電話してくる」 雅季が庭の奥へ向かおうとすると、背後では兄夫婦の冷やかす声が聞こえていた。  これから彼に岬の話をすると思うと、気が重くて仕方なかったが、明後日にはもう東京に帰る予定だ。直接話すよりも電話で伝えた方が、自分に振りかかる実害が少なく済むだろうと計算した。確実に騒ぎ出すであろう瞬に、向き合う覚悟を決めると、発信ボタンを押した。  ―そして、明日は墓参りに行く。  夏休みの間中、瞬が通うことになった絵画教室は、街の図書館に併設された建物の中にある。いろいろな催しや講習などが行われる施設で、毎年夏休みには、小学生を対象とした様々な教室が開かれる。瞬はその中のひとつである、低学年向けの絵画教室を手伝っていた。  今日は、雅季がやっと京都から帰ってくる日だ。教室を終えてマンションに着く頃には、きっともう部屋にいるだろう。瞬は朝から一人浮足立っていた。  お盆の間は休みだった教室も、今日から再開している。せっかくのまとまった休みも、雅季がいない為に寂しく過ぎ、その寂しさは絵にぶつけられた。そのおかげか、絵の方はとても集中して描けたが、一昨日の電話で更に気持ちを落とされた瞬は、一刻も早く雅季に会いたくて堪らなくなっていた。 「雪村君、一日中ご機嫌ね。何か良いことでもあったの?」 絵画教室の講師を務める年配の女性が、生徒の描いている絵を見ていた瞬の顔を覗いてきた。 「ヘヘ。これからあるんです」 隠そうともせず、瞬は嬉しそうな顔で素直に答えた。すると周りの小学生達が、口々に騒ぎ始める。 「せんせい、デートだー!」 「ゆきむらせんせいのこいびとさん、どんなひとー?」 特に否定することもなく、瞬は緩みっぱなしの顔で、雅季の姿を思い浮かべた。 「えっとねー。美人でー、無口でー、冷たくて、怒りっぽくて――」 「…美人な以外、良いとこなしねぇ…」 同情したような声で講師がぼそりと言うと、小学生達がどっと笑った。 「―…あれ? そうですか?」 瞬は一人だけ「おかしいなぁ」と言って首を傾げていると、絵の具用バケツの水を取り替えに廊下に出た生徒が、瞬を振り返って叫んだ。 「せんせい、こいびとさん、きてるよー」 「え?」 不思議に思った瞬が廊下に出ると、教室の前に設置された長椅子に、美人で無口で冷たくて、そして怒った様子の雅季が腰掛けていた。 「―…先せ―」 目を疑った瞬が思わず声に出すと、雅季はムスッとした顔で瞬を睨んだ。どうやら教室内の話が筒抜けだったらしい。  雅季はボストンバッグと紙袋を手に持つと、瞬を一瞥して無言でその場から去って行った。  開いた口を閉じるのも忘れて、瞬はしばらく固まっていた。また雅季を怒らせてしまったことよりも、嬉しさで心の中は溢れていた。  雅季は京都から帰ったそのままの足で、瞬に会いに来てくれたのだ――。  図書館の前には、広々とした公園がある。緑であふれたその公園には、芝生のピクニックエリアやテニスコート、市営の体育館などもあって、街の住人の憩いの場になっていた。  公園の中心は大きな噴水のある広場になっていて、瞬はいつもこの場所を横切って教室に通っていた。マンションからの近道なのだ。  傾き始めた太陽のおかげで少し暑さの和らいだ中、噴水の前のベンチに座っていた雅季を見つけると、瞬は愛しそうな眼差しを向けながら駆け寄った。 「おかえり、先生」 先ほどと変わらず、不機嫌そうな表情で見上げてきた雅季を、瞬はそわそわとした落ち着かない素振りで見つめた。彼のその様子を見据えながら、雅季はゆっくりと立ち上がる。 「――こんなところで抱きつくなよ」 「……がんばる」 瞬が歯を食いしばって頬を膨らませると、その仕草を見た雅季は、思わず不機嫌な表情を崩して、笑みを零してしまっていた。  そんな雅季の笑顔を見た瞬は、早速グラグラと決意が揺らぐ。にじり寄ってきた瞬に敏感に反応して、雅季もその分後ずさると、しばらくの間、ジリジリとした無言の攻防が続いた。  雅季の部屋の玄関に入った途端、瞬は「待て」からやっと解放されたように、後ろから力強く雅季を抱きしめた。彼が持っていた雅季のボストンバッグが、音を立てて床に落ちる。 「…おい」 「うん、ごめん…」 雅季は無造作に落とされたバッグを咎めたが、瞬は口先だけで謝りながら、雅季のうなじに顔を埋めて、一週間ぶりの温もりを補給していた。  痛いぐらいきつく抱きしめられると、雅季はその力強さにホッとする。瞬の温もりに包まれてやっと、帰ってきたのだと実感した。 「…先生不足で、つらかった…」 「…栄養かよ」 「うん、先生は俺の栄養。活力。…ないと、生きていけない」 切実な響きで言う瞬に、雅季は大袈裟だなと思いつつ、自分に置き換えて考えてみていた。  ――瞬が、自分の前からいなくなる時。 (…俺はその時、ちゃんと生きのびられるかな…) 雅季が京都から戻り、久しぶりに瑠璃を交えた三人で食卓を囲んだ。  夕食は京都のお土産だ。楓が持たせてくれた彼女の手作りのおばんざいと、帰りがけに錦市場で買った雅季の好物のだし巻き。  京都の味を堪能すると、二人に京都で撮り溜めた写真を見せた。東京駅に着いてすぐにプリントしておいたのだ。通常より少し大きめのサイズでプリントしたその写真を、各地で撮った風景写真は瞬に、偶然会った皐の写真は瑠璃にあげた。 「キャー! 皐さん綺麗すぎるー!」 貴船で撮った浴衣姿の皐の写真を、瑠璃は激しく興奮しながら見入っていた。瑠璃が喜ぶと思って撮らせてもらった数枚だったが、その写真は本当に、一枚一枚が絵画のように美麗だ。  瑠璃への土産にしたいと言ったら、皐はノリノリでモデルさながらにポーズを取ってくれた。最も、無表情の顔は相変わらずだったけれど。  瑠璃はとても嬉しそうに雅季に礼を言うと、自室へと引き上げていった。 「飯島の写真、お前の分もあるよ。本当良く撮れてるから、絵になるかと思って」 「うん…」 雅季の言葉が耳に入っていないようで、瞬は空返事をしながら、風景写真に見入っている。雅季はしばらくの間、お茶を啜りながら黙ってそれを見守った。彼の手に収まっている、『あの日』の場所に想いを馳せていく。 「…良い写真だね」 じっくりと一通り見終わると、瞬は穏やかな表情で呟いた。 「…題材になりそう?」 「うん、ありがとう。でも、そういう意味じゃなくて…」 心なしか、彼の瞳が僅かに潤んでいるように見える。写真を見つめていたその瞳を向けられると、雅季は動けなくなった。 「先生の思い出に触れたみたいで、あったかい写真…」 パラ、パラ、と彼の指先が、もう一度、雅季の思い出を大事そうに辿っている。 「写真の中に、子供の先生がいるみたい」 いつの間にか、雅季の視界はぼやけていた。子供時代の思い出が、霞んで見える。  ――それは雅季が幼かった頃、母と訪れた思い出の場所だった。  病弱だった母は、常に入退院を繰り返しながら、雅季がちょうど今の麻有と同じ年だった時に亡くなった。その頃、もう高校生に上がっていた高季と比べると、雅季が今でも憶えている、母と過ごした思い出は数える程しか残っていない。その少ない思い出の中で、鮮明に記憶に残っていた地を辿ってみたのだ。母の雅が亡くなって、今年で二十年になる。  雅季の両親がすでに亡くなっている事を、瞬は知っている。けれど母との思い出を、今まで話したことはない。 「先生の思い出、大切に絵にするね――」 雅季は彼の手の上に、そっと自分の手を重ねていた。 「……いつか…」 「――うん。ありがとう」 『いつか』に続く言葉を、雅季は声に出して言えなかった。声に出してしまったら、目に溢れた涙が零れてしまいそうだった。  途中で消えた約束の言葉を、瞬は優しく受け止めると、雅季の額に静かにキスをした。

ともだちにシェアしよう!