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第2話

 夏休みもあと残りわずかになると、街は花火大会を迎える。毎年、八月の最後の土曜日に開催されるので、街の人々は皆この花火を見ると夏の終わりを実感するのだ。  今年の最後の土曜日である今日は三十日。今年は本当に、これを終えるとすぐに夏休みも終わる。  雅季は職員室で、新学期に向けての準備をしていた。新学期が始まると、早々に学力テストがある。テスト問題は夏休み中に余裕を持って作れたので、今日はその最終チェックと、後は編入生を迎える用意をしていた。  二度会っただけの編入生の彼のことを思い出していた。新幹線で隣り合わせただけの他人に、あんなに気さくに話しかけることができるのだ。人見知りなんて皆無の、人懐っこいあの笑顔があれば、すぐにクラスにも溶け込むだろう。  雅季に気のある素振りを見せていたが、特に本気にはしていなかった。瞬はすごく心配していたが、それも取り越し苦労で終わるはずだ。  たった二度、それもほんの短い時間を共有しただけなのだ。「運命だ」などと言っていたが、次の瞬間には、そんなことを言っていた事さえ忘れてしまうだろう。――十代の恋愛感情なんてそんなものだ。 「知ってる? 旧校舎に幽霊が出るらしいよ…」 雅季の背後で、わざとらしく不気味さを演出した低い声が囁いた。 「…お前、バイトは?」 振り向かずとも正体を見破った雅季の前に、ニッコリと微笑んだ瞬が現れた。 「今日はもう後片付けだけだったから、早く終わった。花火だしね」 夏休みも終わりに近づき、瞬のアルバイトも今日が最終日だった。  絵画教室自体は昨日で最後を迎え、生徒達がサプライズで瞬の似顔絵をプレゼントしてくれたそうだ。小学生達が描いたその絵を雅季に見せながら、その話をした時さえ号泣していた彼は、渡された時は一体どれだけ泣いたのだろうか。  京都から帰った日、マンションに戻る前に彼の教室に行った時のことを思い出す。「先生」と呼ばれて小学生達に囲まれていた瞬は、とても生き生きとしていて、とても様になっていた。  瞬は結局、自分の時間をあまり取れない夏休みだったが、とても有意義な良い経験になったなと雅季は思った。きっとこの先の、彼の財産になるに違いない。 「美術室の鍵、借りにきた。先生はいつまでいる予定?」 「…仕事が終わるまでいるつもりだけど」 「ふーん」と言いながら、瞬はキョロキョロと周りの様子を窺っている。職員室内には、雅季の他には、もう誰もいなかった。日中はちらほらいた職員も、今日は花火大会に行く為、早めに切り上げていった。  雅季は鍵の入ったボックスから美術室の鍵を取り出して、瞬に渡した。彼は手にスケッチブックと紙袋を持っていた。 「…これから絵描くのか? 花火は?」 「じゃあ先生、仕事終わったら俺とデートして」 瞬は紙袋を広げると中身を見せた。中には色とりどりの具が挟まったサンドイッチと、スープジャーが入っている。 「知ってる? 美術室から花火が見えるんだよ」  少し躊躇しながらも、雅季が美術室に辿り着くとちょうど花火の音が聞こえ始めた。  瞬がいるはずの美術室は明かりがついておらず、かろうじてまだ夜になりきっていない薄暗さの中、作業机の上に彼のスケッチブックが開いているのが見えた。側には雅季のあげた京都の写真が置いてある。貴船神社の参道の写真だ。 (…一番の、思い出の場所…) 雅季の思い出が、瞬のタッチで優しくよみがえっていた。 「先生、早く! 花火始まってるよ!」 美術室同様、明かりの消えたままの準備室から、瞬が顔を出して雅季を呼んだ。  準備室に入ると、真ん中の大きな作業机の窓際寄りに、ランチマットが敷かれ、その上にサンドイッチとスープが並んでいた。瞬は雅季の背後でドアに鍵を掛けると、作業机の上、ランチマットの横に腰掛けた。 「ここなら大丈夫。誰か来ても見つからないよ」 雅季の心配を見透かしたように言うと、座るように促す。 「…コーヒー淹れてきた。学校のだから、インスタントだけど」 コーヒーの入ったタンブラーをランチマットの上に置くと、雅季はその横に腰掛ける。 二人並んで座った目の前に、窓枠いっぱいに広がる花火が見えた。途切れることなく夜空に咲き続ける大輪の花々が、二人だけの為に輝いているように感じてしまう。 「―…穴場だな」 「でしょ!」 予想した以上の絶景に、雅季は思わず目を見張ると、瞬は自慢げに胸を張りながら、カップにじゃがいもの冷製スープを注いだ。 「去年の花火の時、たまたまここにいて知ったんだ。来年は先生と見られるといいなって思ってた。…ヘヘ、叶っちゃった」 無邪気に、幸せそうに笑う。彼が向ける笑顔はいつも濁りがない。いつも、目が眩む。打ち上がる花火に照らされて、瞬の横顔は薄っすらと色を変え続けている。  花火の明かりだけを頼りに、雅季の好きな具をメインに作られたサンドイッチを食べた。 幻想的な彩りに照らされた、二人きりの狭いこの部屋の中では、一時でも、普通の恋人同士でいられるような気がした。  瞬はインスタントコーヒーを飲みながら、窓辺に佇んで花火に魅入っている、雅季のシルエットを眺めていた。その華奢な後ろ姿を見つめていると、細い身体を壊してしまいそうなほど、きつく抱きしめてしまいたくなる。  ――愛しくて仕方がない。幸せすぎて堪らない。 「…お前って、なんで俺が好きなの?」 唐突に発せられた雅季の言葉に、瞬は心の内を読まれたように感じて、少し面食らった。 「美人で、無口で、冷たくて、怒りっぽくて―だろ?」 雅季は、先日絵画教室から漏れてきた瞬の言葉をなぞった。 「…先生、まだそれ根にもってるの?」 瞬は困ったように呟いた。雅季を貶したつもりは全くなかったが、講師に言われた通り、傍から聞くと良い所なしに聞こえるらしい。 「…それに男で、大人で、教師で――面倒じゃない?」 教室で聞いた瞬の言葉を引き継いで、あとを続けた雅季の声が響きを変えると、瞬は窓に映る雅季の顔を見た。その目は花火のもっと向こうの、どこか遠くを見ているようだ。 「…美人で、無口で、冷たくて、怒りっぽくて、男で、大人で、教師で…」 瞬は机から降りると、ひとつひとつ指を折りながら、雅季を形成する言葉を連ねていく。  そして雅季の背中に寄り添うと、そっと抱きしめた。壊れものを扱うように、そっと。 「―俺の気持ちを大事にしてくれて、男で、ガキで、生徒の俺を受け入れてくれて、文句言いながらも俺に甘くて…そうゆうの、全部好き。全部で先生だから、好き―」 窓ガラスの中で、瞬が雅季を見ていた。吸い込まれてしまいそうなほど、深い色の瞳で。  視線が交じり合うと、彼はゆっくりとその瞳を伏せて、雅季の耳の後ろに口付けた。その動作は、厳かな儀式の一部のように感じた。 「んっ―…」 想いの全てを込めたようなキスに、触れられた場所が一気に熱を帯びた。  「…お前、勃ってる?」 背後から抱きしめられながら、雅季は密着している瞬の身体の異変を感じた。  彼はぎくっと身体を震わせると、雅季を抱きしめている腕に更に力を込めた。 「だって、男の子だもん!」 理由になっているのか、よくわからない言い訳をして、彼は更に身体を密着させてくる。腰に当たる瞬の中心の疼きが、雅季にも伝わってくるようだ。 「…したくなっちゃった…」 熱い吐息をわざと雅季の耳に浴びせるようにして、瞬は困ったように小さく囁いた。 「…かわいく言えば、許されると思ってんだろ」 「先生は文句を言いながらも、俺に甘いと思ってる…」 首すじにキスをしながら、すでに彼の手は雅季の前にまわり、スラックスの上から中心に触れていた。撫でるように優しく触れられると、雅季のそこも、段々とその気になってきてしまう。 「ん―…」 雅季はそれ以上文句を言うことはせず、与えられる快感に身を任せた。 「…抱いてもいい…? ここで…」 瞬の湿った声に、胸が甘く痛む。 「…俺は、お前に甘いんだろ」 彼の告白の余韻に浮かされていた雅季が、言い訳のように囁くと、瞬は後ろから半ば強引に顎を掴んだ。  雅季は彼の熱い吐息に包まれると、薄く開いた唇の隙間からヌルリと侵入した舌で、表面を擦り合わせるように舐められた。普段のキスとは違う、「続き」のあるキスだ。 「ふっ…んぅ…」 体勢に息苦しさが増すと、雅季は酸素を欲して彼の唇から逃れた。額をガラスに預けて息を弾ませると、呼吸に合わせて窓が曇る。  その間も、瞬の手は休むことなく雅季の身体を弄り、気付くとその手は、すでにスラックスの中に伸びていた。 「んっ…」 力を持ち始めた中心をやんわりと揉みしだかれると、雅季の腰は無意識に揺れ動き、密着した瞬の中心を擦り始めた。 「―…先生、こっち向いて…? 舐めさせて…」 「ここ…」と囁きながら、キュッと屹立を握られると、その刺激と台詞に反応して、雅季のそこはますます膨らんでしまった。  次に何をされるかをわかっていながら、自ら振り向くことが、雅季にはとても恥ずかしく思えた。 (…俺が…、望んでいるみたいじゃないか…) なかなか言うことを聞かない雅季の心情を察したのか、瞬は耳元でクスッと笑った。  瞬は手の中で震える屹立を優しく扱きながら、雅季の耳深くにそっと囁く。 「俺がしたいの。俺の我儘に、付き合って…?」 (…くそっ…) 瞬はわざと子供ぶった言い方を使って、上手く雅季の羞恥心を和らげた。雅季はそれが悔しかったが、腰に添えられた彼の手に誘導されるまま、逆らうことなく彼に向き合った。 「んあっ―…」 自分の前で跪いた瞬に、反り返った自身を一気に奥まで咥えられると、雅季は思わず嬌声を上げた。咄嗟に口に両手を当て、漏れる声を必死に抑える。  瞬はそんな雅季を上目遣いに見ながら、先端から滴る蜜を表面に塗り込むように、ねっとりと舌を這わせていった。 「んぅ…、んぁ―…」 程なくして雅季の熱は、瞬の口の中で弾けた。瞬はそれを飲み込むことはせず、口に含んだまま、再び雅季の身体を後ろ向きにする。 「…おまっ、まさか―…」 息を切らせていた雅季が瞬の意図に気付いた時には、すでに彼の舌先は後ろの蕾を捉えていた。 「待っ…、やめ―…」 吐き出した雅季の熱が、尖った舌先と共に雅季の中に入ってくる。ヌルッとしたその感触に、雅季の背筋はゾクッと粟立った。 「っんぁ…、あぁっ―…」 クチュクチュとした水音を立てて、瞬は夢中でそこにしゃぶりつく。最初は抵抗した雅季も、スグに与えられる快感の虜になった。 「…ここ、ヒクヒクしてるよ…。かわいい」 柔らかく解されたそこを指で撫でながら、瞬はうっとりと呟いた。雅季の蕾は、いやらしくぬめりながら、収縮を繰り返している。  瞬はゴクリと唾を飲み込むと、おもむろに立ち上がった。 「…! お前っ―」 雅季が快楽に蕩けた頭で、何とか文句を口にしようとした時、背後でジッパーを下げる金属音が響いた。 「――っ」 蕾の入り口に、熱り立った瞬の昂りをあてがわれると、雅季は思わず息を呑む。 来る、と覚悟した雅季の予想に反して、瞬は侵入しようとはせず、入り口を自身の先端でヌルヌルと刺激している。 「―…っ…、瞬…」 「んー? どうしたの? 待ち切れない?」 「っ―…!」 雅季は身体を震わせながら、顔がカアッと一気に熱くなるのを感じた。瞬は相変わらずの甘ったるい声音で余裕ぶりながら、いつまでも先には進まず、焦らすような愛撫を繰り返している。 「黙ってたら、わからないよ? どうして欲しいの?」 優しく諭すような口調で、雅季を追いつめる。全部、瞬の思惑通りに操られていく。 「言って、先生…。この間みたいに…」 「っ―…」 酒に酔って乱れた夜のことが思い出される。酔いの所為でうろ覚えだが、自分の犯した醜態は記憶に残っている。自ら大胆に求めた雅季に、瞬はえらく興奮したようだった。 (…くそっ、素面でできるかよ…) 「…言ってくれないと、ずっとこのままだよ? いいの?」 掠れてきた瞬の声に、濡れた吐息が混じり出した。彼の方も、すでに限界のようだった。今にも強引に突き入れたい衝動を、瞬は必死に耐えている。 (…そんなに、言わせたいのかよ―) どんなこだわりだ、と雅季は恨めしく思ったが、緩々と続く甘いだけの刺激に、徐々に耐えられなくなってくると、もう他のことは考えられなくなる。  その先に続く、もっと確かな快感が待ち切れなくて、雅季の理性は崩れ落ちた。 「…さっさと、…入れろ――」 言い終わらない内に、瞬は後ろから力強く貫いた。途端に、雅季の言葉尻は甲高い啼き声に変わる。 「あぁっ…、あっ…」 奥深くまで一気に侵入すると、次の瞬間にはグチュッと音を立てて入口まで退いた。雅季の腰をがっしりと拘束しながら、瞬は大きく抜き差しを繰り返し、徐々にその間隔を狭めて行く。 「あんっ…あぁ…」 我慢できずに淫らに啼く雅季の口に指を差し込むと、堪え切れない快感がその指先に向けられた。瞬の指を咥えて、夢中で舌を絡める。  絶え間なく曇り続けるガラスの向こうでは、フィナーレを迎えた花火が、次から次へと息つく暇もない程に咲き乱れていた。大きな音がひっきりなしに辺りを包み込み、色とりどりの光が闇を照らす。  雅季は霞む視界の先にその光景を捉えながら、ガラスに浮かぶ瞬の顔を見つめた。額に汗を浮かべて、眉間に皺を寄せて、快感に瞳を潤ませて、甘く息を弾ませて―。 瞬の色っぽい表情に目を奪われた雅季は、ふとガラスの中で彼と目が合った瞬間、金属音のような刺激で胸を高鳴らせた。それはダイレクトに身体にも伝わり、奥深く咥え込んだ瞬の屹立を締めつける。 「クッ――…」 背後で呻き声が聴こえたと同時に、雅季は激しい快楽の波に飲み込まれた。 「やっ、ああ―…」 容赦なく突き上げられると、もう何も見えなくなる。涙と汗でしみる目をギュッと閉じると、感じるのはただ、瞬の熱だけだ。真夏の暑さと交じり合って、酸欠のようにクラクラとする。 「先生っ…、先生―…」 (俺を好きじゃない瞬を、俺はまだ知らない―…) 強く突かれる度に、名前を呼ばれる度に、雅季の心臓は甘くせつなく痛む。 (…知らないままで、いたい…) 縋るように窓ガラスに張り付いていた雅季の手に、いつの間にか瞬の手が重なり、握り締められていた。 ――瞬は雅季に出会った瞬間、一目惚れをした。それは彼にとって初恋だった。  瞬が雅季に向ける瞳はいつもキラキラと輝いていて、彼が向ける笑顔はいつも眩しかった。嬉しそうに雅季の後ろを追いかけて、愛おしそうに雅季を見つめる。  願わくば――…。 (ずっと、そのままで――…) 彼の熱い迸りを体内に受け止めながら、雅季の秘所は尚も淫らに収縮を続けた。  「先生、暴れないで! 危ないよ!」 雅季は瞬の背中に乗っていた。大の大人が生徒におぶられるなんて屈辱だ、と雅季は最後まで抵抗したが、腰が立たなくて歩けないのでは仕方がない。原因を作った瞬を、理不尽に散々責めてから、渋々彼の背中に収まったのだ。  真っ暗な旧校舎の階段を、雅季が懐中電灯で照らす光を頼りに、瞬はゆっくりと下った。 「…重いだろ?」 「全然。先生、華奢だもん。かわいい」 「かわいいは関係ないだろ」と雅季はムスッと言って、瞬の頭をペシッと叩いた。 彼は含み笑いを浮かべながら、ヘラヘラとしている。  三階を通り過ぎようとした時、突然二人の背後でギシッと音が鳴った。床の軋むような音だった。二人は反射的に後ろを振り返ったが、真っ暗な廊下が続いているだけだ。 「…今、音…したよな?」 「…幽霊かな?」 「幽霊は足ないぞ」 雅季は、古くなった木の床を歩いたような音だと感じた。幽霊は歩けるはずがないのだからと、こんな状況でも冷静に判断している。  瞬はとにかく、一刻も早くここを離れようとして歩調を速めた。もしも人だった場合、こんな二人の姿を見られるわけにはいかない。 「…でも、空き教室は入れないはずだけど」 先を急いで息を切らせている瞬の背中で、雅季の冷静な分析は続いていた。 一階に辿り着いた瞬の視界に、廊下の先に懐中電灯の光が見えた。 「先生、寝たふり! 顔隠して!」 瞬がまだ思案していた雅季に咄嗟に告げると、まもなくして二人は、正面から懐中電灯の光に照らされた。現れたのは濃紺の制服に身を包んだ大柄の警備員だった。 「―…生徒さん? こんな時間まで残っていたんですか?」 警備員は、暗闇の中で瞬の制服を確認すると、驚いているようだった。 「すみません。美術部員なんですが、絵を描くのに夢中になっちゃって…」 瞬が答えている間、彼は背中におぶっている雅季を照らしていた。警備員からは顔は見えない。 「友達、寝ちゃって」 「…そうですか。気をつけて帰ってください」 彼はそう言うと、鍵の束をジャラジャラと鳴らしながら、暗闇の中を進んで行った。瞬はその後ろ姿を見送ると、ホッとため息をついて足早に旧校舎を後にした。 「…見回りの時間、いつもより早いな」 「夏休みだからじゃない? 危なかったね」 瞬は雅季の身体を揺すって抱え直すと、そのままマンションまでおぶって帰った。  長いと思っていた夏休みも、始まってみると毎年のように足早に駆け抜けて行く。それは学生の頃から、教師となった今でも同じだ。  九月に入ったからといって、昨日までのうだる様な暑さが突然変わるわけでもなく、夏休みに入った頃の暑苦しい瞬の眼差しも相変わらずだった。  雅季は久しぶりの二人での登校中から、すでに蒸し暑さにやられて、そんな瞬に文句を言う元気もない。 「俺だって先生のクラスになりたいー!」 (……うざい) 夏休み中に出会った岬が、今日から二人の学校に編入してくる。しかも雅季が彼の担任になることを知った瞬は、まだ会ったことのない彼に、もう焼きもちを焼いていた。雅季から彼の話を聞いた後、皐から情報収集までしたらしい。  岬は生粋の同性愛者で、幼い時から皐とはお互いを理解し合える仲だった。中学生の頃にドイツへ引っ越した彼は、そこでかなり経験を積んだようだ。彼の好みは年上の綺麗な男で、長い間外国人に囲まれてきた彼にとって、日本人の雅季は新鮮且つ好みのタイプで、理想そのものだとか。それを知った瞬が、尚更心配を募らせたことは言うまでもない。 (…飯島も余計なことを…) 雅季同様、基本的に無口な皐だが、聞かれた事には正直に答える。特に瞬には、彼がどのような反応をするか見透かした上で、それでも何でも素直に話してしまうようだ。 「先生、油断しないでね! 気をつけてね! 男は狼だよ!」 「……」 必死に力説する彼に、いろいろと突っ込みたい所は満載だったが、もう学校に着く頃だったので余計な事は言わずに諦めた。 ―「あ。蒼太と美人先生」 皐の声に瞬時に反応すると、瞬は三年一組の教室の横を通り過ぎて行く雅季の姿を見た。雅季の隣には皐が「蒼太」と呼んだ生徒が、嬉々とした表情で雅季に話しかけていた。  彼は瞬が想像していたタイプとは違った。身長は雅季より少し高い位で、ハンサムな顔は愛嬌のある笑顔を作っている。八重歯を覗かせたその表情は、さしずめ可愛い弟タイプといったところか。  こんな中途半端な時期にやって来た転校生を、一組の他の生徒達も興味津津といった様子で見守っていた。女生徒達は色めき立っているようだ。  岬が無表情の雅季に勝手に懐いているその姿は、瞬の目に、かつての自分と重なって見えた。両想いにはなったものの、傍から見れば、今もたいして変わりはない。   皐は、瞬の様子が少し沈んだことに気が付くと、彼の前に座った席から顔を覗いた。 「ヤサオ君の方がイイ男。ヤサオ君の方が似合ってる」 思いがけない皐の褒め言葉に、瞬はキョトンとしてから満面の笑みを零した。 「ありがとう――」 唯一、二人の関係を知って応援してくれている皐の言葉が、彼女の存在が、瞬は嬉しくて、そして心強かった。  案の定、岬は瞬く間にクラスに溶け込んだ。クラスだけでなく、学校中が彼の噂で持ちきりのようだ。岬は自分の性癖の事は、あまり口外しないように皐に言われたようだった。合わせて、皐と親しい間柄な事も口止めされたらしい。彼女の事だから、何か理由があってそうさせているのだろう。詮索する気はなかった。  雅季は久しぶりに、昼休みを図書室で過ごしていた。夏休みを終えた校舎は一気に活気を取り戻し、静寂を求めてここへ来た。  そういえば瞬も言っていたが、最近この旧校舎に幽霊が出るという噂が流れているらしく、その所為かいつにも増して人気がなく、しんと静まり返っているようだ。 (俺としては願ったりだな…) 本当に幽霊がいるとしても、雅季にはたいして興味のない話だ。幽霊なら人間と違って、この静寂の邪魔にはならないだろうとぐらいにしか思っていなかった。 「ヒナ!」 勢いよく図書室のドアが開かれると、バタバタと岬が駆け込んできた。 (…ほらな) 静寂を乱すのは常に人間だ、と早速自分の考えが実証された。 「いつもこんな所に隠れてるんですねー。良いこと知った!」 「……」 どうして皆、自分の静寂を邪魔するのかと雅季は考えを巡らせてみる。 (…そういえば、瞬が俺を追ってここに来たことはないな…) 相原の事を警戒して、ヴェローナに待機していたことはあったらしいが、雅季の静寂を破ったことは一度もない。それ以外の場所では、いつも目ざとく雅季を見つけては、纏わりついてきていたのに。―今更ながら気付くと、雅季の胸の辺りがほんのり温かくなる。 (…アイツらしい…) ―雅季の大事にしているものを、彼は同じように大事にしてくれている。 「ほら、また!」 向いの席に座っていた岬が、雅季の顔を指さしていた。 「その嬉しそうな顔。また彼女のことでも考えていたんですかー?」 岬はわざとらしく頬を膨らませて、目を細めながら雅季を見据えている。  雅季が何も答えずに本を開くと、岬は机の上に身を乗り出して雅季の目の前に顔を出した。 「ヒナは彼女、いるの?」 それまでの軽い口調は影をひそめ、真剣な眼差しを向けている。雅季はその視線を受け止めるように、瞬きもせずに彼を見返した。 「それとも、彼氏?」 岬は、雅季の真意を見透かそうとするように、自分が映っている瞳の中をじっと見つめた。 「予鈴だぞ」 沈黙の中に、校内に響き渡ったチャイムの音が割って入った。 「もうー! それぐらい教えてくれたっていいじゃないですかー!」 彼はいつもの口調に戻ると、立ち上がった雅季の後を追った。  「今は誰も使わなくなった、鍵のかかった空き教室しかない三階の窓に、人影があったとか。警備員が夜中の見まわりで、女の声でアリアを歌っているのを聞いたとか。夏休みの夜に校庭に侵入した生徒達が、空き教室の明かりが突然点滅したのを見たとか。いろいろ目撃情報があるんですよー!」 まだまだ残暑だというのに、雪村家の今夜の夕食はキムチ鍋だ。瑠璃が話した旧校舎の幽霊の噂も、雅季達を涼しくはしてくれなかった。その話に怯えているのは、話した当人である瑠璃だけだ。 「…なんで鍋?」 遅れてきた雅季が、彼女の話よりも気になってしまったことを訊くと、瑠璃の横に座って彼女の頭を撫でていた皐が答えた。 「暑い時に鍋を食べられるのは、今年はこれが最後かもしれない」 「……」 それは答えになっているのか、と疑問に感じながらも、相手は皐なのでそれ以上追及しようとはしなかった。  今夜の食卓には皐も加わっていた。献立のキムチ鍋は、彼女のリクエストのようだ。 「それより先生、今日は大丈夫だった?」 瞬は目下の心配事である岬のことを、毎日のように雅季に訊いてくる。  瑠璃はそれが岬の話だと鋭く気付くと、噂好きの本領を発揮して、兄と一緒になって真剣な表情で雅季を見つめた。 「岬先輩、ヒナちゃんに懐いているらしいですね。お兄ちゃんみたいにウザイですか?」 「ちょっと! 俺がウザイの前提にするな」 妹の的確な言葉にツッコミを入れながらも、彼も雅季を見つめている。 「…恋人いるのか訊かれたけど」 「それで何て答えたんですか?」 雅季が正直に答えると、すかさず瑠璃がインタビュアーさながらに先を促す。  雅季は瞬の真剣な眼差しを正面から受け止めながら、正直に続けた。 「予鈴だぞ」 棒読みで再現した雅季の言葉に、兄妹は揃って呆気に取られた。  雅季はそのまま二人を放置すると、皐と一緒になって鍋を小皿に取り始める。 「――岬先輩って、皐さんの幼馴染なんですよね?」 瑠璃は気を取り直すと、別の角度から噂の転入生に切り込もうとした。 「蒼太はわたしの婚約者」 矛先を向けられると、皐は普段通りの口調でさらっと言った。 ――突然放り込まれた爆弾発言に、今度は雅季も加わった三人が呆気に取られる番だった。 「―…え? 婚約って?」 動きの止まった三人を尻目に、一人黙々と鍋をつついている皐に瞬が言及した。 「親同士が勝手に決めた許婚。似た者同士で都合がいいから」 『似た者同士』―そう聞いて、雅季は瞬時に皐と岬の事情を理解すると、胸が締め付けられるように痛くなった。  そこまで聞くと、雅季と瞬の視線は自然と瑠璃に向いていた。彼女は言葉を失って、ただ茫然と皐を見ていた――。  瞬が皐を送りに行っている間に、雅季は瑠璃と夕食の後片付けをしていた。彼女は皐の衝撃的な発言の後、少し動揺していたようだったが、しばらくするといつも通り明るい彼女に戻って、四人での鍋を楽しんでいるように見えた。 「ヒナちゃんは元々、男が好きなんですか? それともお兄ちゃんだけ特別ですか?」 雅季がスポンジで洗っていた泡まみれの皿が、大きな音を立ててシンクの中に落ちた。 「――え?」 今日一番の激しい動揺の中、雅季は目を見開いた。唐突な彼女の発言が信じられなかった。 「お兄ちゃんはヒナちゃんが初恋だから、参考にならないし…」 瑠璃は真剣な表情で、至極当然の事のように事実を並べている。雅季が、彼女には知られていないと思っていた事実を。 「…瑠璃ちゃ…、…な…、え…?」 雅季は動転のあまり、うまく言葉を紡げないでいる。 「二人見てたらわかります。お兄ちゃんがずっと片思いしているのは知ってたけど、まさかヒナちゃんが受け入れる日が来るとは、予想外でした」 「―…いつから?」 「夏休み前の終業式の日、ヒナちゃんがお兄ちゃんを部屋に引きずり込んだのを見て…」 ―あの日。瞬が、雅季を庇って負った怪我の、包帯が取れた日。 長い間お互いに触れることができず、我慢を強いられていた所為で、タガが外れたように、玄関先から求め合ってしまったあの時―。 (…いたたまれない…) 瞬の妹で、皐よりも身近な彼女に知られていたと思うと、雅季のショックは大きかった。 「それで、ヒナちゃんはどっちですか?」 ショックのせいで頭の回転が鈍っていた雅季は、瑠璃の最初の質問をようやく思い出す。彼女はただ、それを知りたかっただけなのだ。 「…えっと…男は、好きじゃない…」 「じゃあ、お兄ちゃんだけ特別ってことですか?」 「……そうなる…か、な…」 なんで彼の妹にこんなことを言っているんだと、雅季は恥ずかしさでいっぱいいっぱいになったが、瑠璃の追及はそれだけでは止まらない。 「それって、どうしたらわかるんですか? 友達として大好きなのと、何が違って特別になるんですか?」 (……飯島のことか) そこまで聞くと、雅季はやっと冷静に瑠璃の悩みを理解した。 「…一番の違いは、触れたいかどうかじゃないかな」 雅季は羞恥心を必死に堪えて、人生の先輩として瑠璃と真摯に向き合うことにした。 「その人と触れ合いたいか。抱きしめたり、キスしたり、肌を重ねたいか」 瑠璃の頬がほんのり赤く染まると、彼女は瞳を潤ませて黙り込んだ。皐に対する、自分の気持ちを確かめているのだろう。 「―…その人と、二人で人生を歩みたいか」 瑠璃を諭す為の言葉が、自分に返って響いた。雅季は泡だらけの両手を再び動かし始めると、夕食の後片付けを続ける。 「…ヒナちゃんは、お兄ちゃんと…」 瑠璃がぽつりと言った言葉の続きは、雅季の『願望』でしかない。 雅季は自分の気持ちと、不透明な現実に折り合いをつけようとしていた。 「…先の事は、どうなるかわからない」  皿洗いを終えると、いつの間にか帰って来た瞬がリビングに現れた。 「お兄ちゃん、おかえりー」 いつも通りの瑠璃と違って、雅季はなんだか気まずい思いだ。まさか恋人である彼の妹と、恋愛について話すことになるとは思っていなかったのだ。  瞬と入れ違いにして、瑠璃は自室へと引き上げて行った。瞬の片思いをずっと以前から知っていた瑠璃は、兄の為に気を利かせて、いつも早めに部屋に戻っていたようだ。雅季と二人きりにしてあげる為に。 (…言われてみると、思い当ることがありすぎる…) 雅季が瞬の気持ちを受け入れるとは思っていなかった瑠璃は、一学期に脅迫されていた所為で二人が口を利かなくなった時は、とうとう瞬がきっぱり振られたのだと思ったらしい。 「先生、片付けありがとう」 黒いエプロンを外してキッチンから出てくると、瞬の笑顔に迎えられた。 (…瑠璃ちゃんに知られていること、言った方がいいかな) 彼の顔を眺めながら、雅季はしばらく思案していた。 「…うちでコーヒー飲むか?」 雅季は、いつもお気に入りの豆を挽いて、ペーパードリップでコーヒーを淹れる。雅季の淹れるコーヒーは瞬も好きだった。最も、ブラックで飲む雅季と違い、瞬は砂糖とミルクを欠かさない。 「…今日はいいや。課題やらなくちゃ」 「…そう。じゃあ、帰るから」 いつも通り玄関で瞬に見送られながら、雅季は自分の部屋に帰った。 (…断ったことなんてあったっけ…) いつだって雅季が誘えば、彼は二つ返事で喜んで来ていた。課題やテスト勉強があっても、わざわざそれを雅季の部屋まで持ち込んで、コーヒーを飲みながらやっていたのだ。  ――瞬は一人きりになったリビングで、ソファに凭れかかっていた。  皐を送って帰ってきた時、リビングから雅季と瑠璃の会話が聞こえてきた。漏れてきた雅季の言葉が、今も頭の中をぐるぐると巡っている。  ――「先の事は、どうなるかわからない」  雅季は生徒会の顧問に頼まれて、不在の彼の代わりに生徒会の会議に参加していた。参加とは名ばかりで、教師はただ黙って後方で見守っていればいいと言い遣っていた。  議題は秋に開催される球技大会と学園祭についてだ。生徒会長である皐を中心に、隣には副会長の高坂が座り、逆隣には書記の高田が並んでいる。生徒会の中心となる三人が、皆女生徒なのは珍しい光景だ。他には生徒会役員と各クラスの委員長、各部活の部長が参加していた。  雅季達の学校は、毎年交互に体育祭と球技大会が行われている。今年は球技大会の年だ。いくつかの球技を会議で決めて、それぞれをクラス対抗で行う。  皐のテキパキとした進行のおかげで、球技大会については早々に決着した。今年はソフトボールとバレーボール、それとバスケットボールに決定したようだ。 (…気のせいだったかな) 教室の一番後ろから、会議の様子を眺めていた雅季は、美術部部長の瞬の姿を目で追った。  昨夜感じた瞬に対する違和感は、今朝いつも通りの態度で現れた彼によって、払拭されようとしていた。雅季の杞憂ですむなら、それに越したことはない。 瞬はチラッと雅季の方を盗み見ると、雅季にだけわかるぐらい小さく微笑んだ。 (…いつもの瞬だ)  ――長い時間に及んだ会議が終わると、教室の外はすでに暗くなっていた。 (…白熱したな。学園祭の方…) 各クラス各部活がそれぞれ何をやるかで、皐を筆頭になんだか盛り上がっていた。各々で希望をまとめてきた案が他と被ったりして、なかなか決着がつかなかったりしたが、なんとか落ち着いたようだ。  瞬と皐は、二人で前々から考えていたのであろう、生徒会と美術部、そして演劇部とが合同で、旧校舎全体を使ったお化け屋敷をやるらしい。最近噂になっている、幽霊話からヒントを得たのだろう。意外にも皐がとても張り切っているようだ。  ぱらぱらと帰宅していく生徒達の間を縫って、瞬が雅季の元へとやってきた。 「ごめんね、先生」 「…何が?」 眠気に襲われてあくびをしていた雅季は、そのせいで潤んだ瞳を瞬に向けた。 「これから学祭までの間、常に旧校舎騒がしくなると思う」 ボーっとした頭で、瞬の言いたい事をようやく理解すると、雅季は彼の肩をポンと叩いた。 「気にするな。最後の学祭、がんばれよ」 「――うん」 あくびを繰り返しながら、教室を出て行く雅季の後ろ姿を、瞬は嬉しそうに追いかけた。  思いのほか会議が長引いてしまった為、瞬は閉店間際のスーパーに駆け込んだ。   今夜は遅くなってしまったので、夕食は簡単なものにするつもりだ。雅季はやり残した仕事を片付けると言っていたので、まだ帰らないだろうか。温め直せる献立にしようと、瞬は鶏のモモ肉とみつばを買うと、帰路に着いた。  マンションの七階の廊下を進んでいると、奥の方に人影が見えた。徐々に近付いていくと、その人物は雅季の部屋の前に佇んでいた。  大柄な男性で、捲くりあげたシャツからは日に焼けた浅黒い肌が見えている。 「…あの、雛野さんに御用ですか?」 瞬が声を掛けると、男性は困ったような顔を瞬に向けた。 「そうなんです。まだ帰らないかなぁ?」 「…まだかかると思いますけど…、あの、失礼ですが―」 「雛野の兄です。いやぁ、携帯忘れちゃって、連絡も取れなくて―」 男性は少し訛りのある声で言いながら、ポリポリと頭を掻いていた。「兄」と聞いて、瞬はすぐに雅季の実家の家族に思い当る。 「―京都の高季さんですか?」 瞬の顔つきがパッと明るくなり、名前まで言い当てると、彼は少し面食らったようだった。 「あ、僕、雪村瞬と言います。雛野先生の隣人で、同じ学校に通っています」 高季は瞬の自己紹介を聞くと、雅季を「先生」と呼んだ瞬が、制服を着ていることに気付いたようで、安堵したような表情になった。 「先生、まだ学校に残って仕事しているんですけど、よかったら帰るまでうちで待ちませんか? 僕から先生に連絡してみます」 「―おおきに。助かります」 礼儀正しく親切な高校生に、高季はすぐに好印象を持った。  メールを見た雅季が瞬の部屋に到着すると、高季は瞬の作った親子丼を、ご機嫌な様子で食べていた。 「おお、雅季、おかえり。瞬君、料理うまいなあ」 「お疲れ様。先生も食べる?」 (……瞬君?) 短い時間にも関わらず、初対面の瞬と高季はすっかり打ち解けたようだった。  高季は急遽、東京で行われる学会に参加することになり、午後の新幹線で来たらしい。新幹線の中から雅季に連絡しようとした時、携帯電話を忘れたことに気付いたようだ。 「お前が料理教えたって? 弟子は師匠をすぐに越えたなあ」 豪快に笑いながら、高季はビールまでも空けていた。ここの冷蔵庫に、雅季用に置いてあったものだ。 (…余計な事しゃべってないだろうな…) 雅季は睨んだ目つきで瞬を見ると、雅季の言いたいことを瞬時に察知した彼は、否定するようにぶんぶんと首を横に振った。  テーブルに雅季の分の親子丼が用意されると、雅季は高季の向かいの椅子に座った。 「瑠璃ちゃんは?」 「友達の家でごちそうになるって。やっぱり門限作った方がいいかなぁ…」 「…年頃だからな。本人の為にも守らせた方がいいかも」 瞬は新しくビールの缶を開けると、自然な仕草で、雅季が持ち上げたグラスにそれを注ぐ。 「…夫婦みたいやなあ」  二人の様子を目で追っていた高季が冗談めかしてぽつりと呟くと、雅季は思わず口に含んだビールを吹き出しそうになった。「二人見てたらわかります」――咄嗟に、瑠璃に言われた言葉を思い出した。 (…傍から見て、そんなにわかりやすいのか…?) 気をつけなければと思うのだが、雅季には、何をどう気をつけたらいいのかわからない。 「そうや。せっかく東京まで来たんやから、お前の彼女に会いたいなぁ。楓も知りたがっとったし」 ―マズイ、と思ったが遅かった。高季の矛先はすでに瞬に向かっていた。 「お前もそろそろ結婚考える歳やんか。学校の同僚か? 瞬君は知っとる?」 「……いえ」 瞬は気まずそうに、高季の空けたビールの缶を持ってキッチンに向かう。 「…兄さん、生徒の前でそういう話は…」 「お前が話さないからやんか。昔から恋愛事は一切話さないんやから…」 ゴトッと、キッチンで何か落とす音が聞こえると、雅季はますます焦ったように、話題を変えようとした。 「明日の学会が終わったらすぐ帰るんだろ?」 「冷たいやっちゃ。はるばる来た兄をもてなそうという気持ちはないんか」 雅季の冷ややかな態度に、高季はわざと拗ねたように口を尖らせている。 「…あの、明後日までいるんでしたら、土曜日だし、僕いろいろ案内しますけど」 キッチンカウンターから瞬が顔を出した。高季は瞬の方を見ながら、これ見よがしにグスグスと鼻を啜る。 「良い子やなぁ、瞬君。うちの弟とは大違い…。礼儀正しくて、優しくて、素直で。ハンサムだし、モテはるやろ」 雅季はおもむろに立ち上がると、高季を無理矢理促して強引に帰ろうとした。  帰り際、「ごめんな」と、いろいろな意味を込めて瞬に言うと、彼は微かに笑顔を作った。  ―雅季の部屋にコーヒーの香ばしい香りが漂う。  雅季は自分用のひよこのカップと、来客用の無地のカップにコーヒーを淹れながら、瞬の事が気がかりで、彼の事ばかり考えてしまっていた。 「かいらしいカップやなあ…」 雅季のカップを見ると、高季はクスッと笑った。彼女の趣味だと思ったらしい。相変わらず察しが良い。 「本当のところ、どうなん?」 「…恋人はおるよ」 否定した方がいろいろと楽なことはわかっていたが、嘘をつくことはできなかった。さっきの瞬の顔が、頭をよぎってしまう。 「うまくいっとるんやろ?」 「…将来の事までは、まだわからん」 高季はそれ以上訊こうとはしなかった。空き部屋に置いてある、使っていないベッドに予備の布団を用意すると、高季は早々に眠りに着いた。  リビングに一人残った雅季は、瞬にメールをしようか悩んだが、今の自分の気持ちを表現できる言葉が見つからず、断念した。 翌朝、いつも通りに迎えにきた瞬は、やっぱりいつも通りの笑顔だった。一度は去った違和感が、また雅季の心にフツフツと湧き起こってきていた。  昨日のことを雅季が謝ると、彼は少しも気にしている素振りを見せずに微笑みかけた。 ―「ううん、全然。先生のお兄さんと会えて嬉しかった。豪快な人だね。先生と全然似てない」 彼は本当に喜んでいるように見えて、雅季は自分の感じた不安を訊ねることができなくなった。  「学祭、教師陣も参加するんだって? 面倒だな」 喫煙所で朝の一服を済ませてから職員室に現れた相原が、雅季の隣の席にかばんを下ろしながら、嫌そうに言った。 「ああ。毎年、何かしらのテーマでコスプレしてる」 毎年この時期になると、雅季もそのことを思って相原同様、憂鬱になっている。 「去年は男女とも侍で、その前は執事とメイドだったな…」 「…お前が着ると思うと、やばいな」 相原は雅季の侍姿と執事姿を想像したようで、ニヤニヤと悦に入っている。  雅季は冷ややかな眼差しで相原を見ると、過去にコスプレした時の事を思い出していた。どちらの時もテーマが決まると、興奮した瞬が光の速さで雅季に似合う物を探し出してきた。 (…楽は楽だけど…) 自分で探す面倒がなくて助かっていたが、その後それを着た雅季をモデルに、瞬と瑠璃による撮影会が始まるのだ。特に瑠璃が細かくポーズを指定してくるので、雅季は毎回へきへきしていた。 「今年は学生服だって。竹下先生が張り切ってた」 面倒くさがりの相原は、竹下に見立てを頼んだらしい。相原に想いを寄せる竹下にしたら、それは喜ぶに決まっている。 (制服か。過去に比べると、無難だな…) ホッと胸を撫で下ろしていた雅季に、今度は雅季の制服姿を想像した相原の一言がぐさりと突き刺さった。 「…お前の制服姿、イケナイ気が起きそうだな…」  「ヒナちゃん、今年は制服だってー?」 どこから情報を得たのか、教師陣の今年のコスプレテーマはすでに生徒達に広まっていた。三年一組の授業に来た雅季は、早速彼らの餌食になった。 「ヒナちゃん、学ラン? ブレザーもいいけど」 「ヒナちゃんの学ラン姿、やばい! 美麗すぎてむしろ恐ろしい!」 クラス中に制服姿を想像されて、好き勝手を言われている中、雅季は窓際の席の瞬を盗み見た。  彼は頬杖をついて、頬を桃色に染めて、トロンとした目で上の方を向いている。 (…あきらかに妄想している…) 先ほどの相原とそう変わらない想像をしているのは明らかだ。それは毎年のことだが、今年に限っては「両想い」の関係で迎える。雅季は何か不吉な予感が過ぎりながら、沸き立っていた生徒達が落ち着いた頃を見計らって、冷淡に言い放った。 「小テストするから、教科書しまえ」 わいわいと盛り上がっていた彼らの声は、一瞬で悲鳴に変わった。  ―瞬は早々に小テストを解き終えると、早速雅季に似合う制服をあれこれ思案していた。  瞬は毎年、雅季のコスプレが学園祭で一番の楽しみだった。面倒がる雅季に代わって衣装を選ぶ時間は、瞬にとって至福の時だ。  去年の侍の時は、黒の無地の着流しに赤い角帯をして刀を二本腰に差し、赤い鼻緒の草履と黒い羽織を合わせた。それを着た雅季はとてつもない美しさで、大人の色気がむんむんと漂っていた。色っぽい雅季の姿に当てられて、瞬は当時、触れたくて堪らなくなった衝動を必死に耐えたものだ。  その前の年の執事も、半端ない破壊力だった。黒地の細身の燕尾服に、同色の細いネクタイを締めて、瞬の案で伊達眼鏡も掛けさせた。鼻血が出てしまいそうなほど、興奮したのを憶えている。  雅季のコスプレ姿は生徒達にも大人気で、学園祭後には隠し撮り写真や記録係による正式な写真が売買されるほどだ。瞬も例外ではなく、嫌がる雅季を無理矢理モデルにして、執事姿・侍姿ともに大量にカメラに収め、その写真を大事にコレクションしている。  過去の雅季の艶姿に心奪われていた瞬は、ようやく自分に突き刺さっている視線に気が付くと、身を縮ませた。瞬のだらしなくにやけた顔を、雅季が教卓の向こうから氷のような眼差しで見ていた。  学園祭で旧校舎を使う事になったが、本格的に準備を始めるのは球技大会が終わってからだ。瞬はそれまでの束の間の静けさの中で、夏休みに始めた水墨画の為のスケッチを進めようとしていた。  夏休みに入る前にたまたま訪れた水墨画の個展で、瞬はその美しさに魅了されたのだ。筆遣いや濃淡によって、墨の色合いを表現する。巧みな筆遣いで様々なものの性格を描く。  モノクロの世界に夢中になった瞬は、雅季にもらった京都の写真を題材にして、水墨画を描いてみようと思ったのだ。個展に行って知ったのだが、水墨画は墨だけでなく着色しても描くことができる。モノクロの世界に色彩を加えたら、どんな広がりを見せるだろう。  瞬が足を踏み入れると、美術室はちょうど西日の強烈な光に晒されていた。眩しさに目を細めながら当たりを見回すと、室内には誰もいないようだ。  いつもの作業場所に座ると、スケッチブックをパラパラとめくった。夏休みから使っているそのスケッチブックの中の大半は、雅季の姿が占めている。  皐が画像で送ってくれた京都での姿、瞬の記憶の中にある雅季の寝顔、そして水墨画で描く為にスケッチした、去年の学園祭での侍姿。 「良い場所やな、部室。静かで―」 瞬の背後で野太い声が響くと、そこに高季が立っていた。  彼は驚いている瞬の横まで来ると、窓の外の赤々と燃えるような夕陽を眺めた。 「今日の最終の新幹線で帰るさかい、その前に瞬君に挨拶と思てな。外で生徒さんに、部室の場所教えてもろたん」 「そうですか。…残念です、いろいろ案内できたらよかったんですけど」 「おおきに。子供達が待っとるさかい、はよいぬわ」 高季は夕陽に顔を赤く染めながら、父親の表情で微笑んだ。 「お子さん達のこと、先生からよく聞いています。すごくかわいいって。会ってみたいな、いつか…」 高季は優しい眼差しで瞬を見つめると、彼の背後にある大きな絵に気付き、目を奪われた。  それは教室の後ろの壁に飾ってある、大きな一本の桜の絵だった。 「僕の絵です。学校の前に、桜並木があって」 「すごいな…。――瞬君は、美大に進むん?」 「いえ、僕は…。絵は自由に描きたいので。できたら、美術教師になるつもりです。美術を専攻できる教育学部のある大学に進もうかと」 「そか、教師…。――雅季の影響なんかな?」 高季は美術室に咲く桜から視線を下ろすと、作業机に広げてあるスケッチブックに目が行った。そこには、雅季が帰省した時に訪れていた貴船神社の写真と一緒に、雅季の横顔が繊細なタッチで描かれていた。 「―それはあると思います。間近で『教師』をしている先生を見てきて、僕も先生からいろいろ教わりましたし」 「――向いとると思う、教師。雅季よりずっと」 高季は冗談めかして言うと、目の前に佇む好青年を、今一度まじまじと眺めた。 「ほな、そろそろ行くな。次に来る時は、子供達も連れてくるさかい、その時は案内よろしく」 高季に手を差し出されると、瞬は求められるままその手を握った。思いのほか力強く握手されて、瞬は思わず高季の目を見つめると、彼の瞳は真っ直ぐに瞬を捉えていた。 「雅季のこと、これからも頼んます」 高季の実直な言葉を受け取ると、瞬は瞳を潤ませてしまっていた。 「―…はい」  ――雅季が、携帯電話を片手に持ったまま校舎から出た時、ちょうど校門に向かっている兄の後ろ姿を捕まえた。 「―俺には挨拶なし?」 高季は足を止めると、息を切らせた雅季の方を、ニッと笑いながら振り返った。 「瞬君の方が、かいらしい弟のようやん」 イラッとした雅季は、無言で高季を見据えた。  高季はその様子を見て、おもむろに一人声に出して笑うと、優しい眼差しで弟を見つめる。 「――今度帰る時は、瞬君も連れて来い」 目を見開いた雅季を横目に、高季は口の端を上げてニヤッと笑うと、颯爽と去って行った。

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