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第3話

 てっきり夕食の支度に取りかかっていると思っていた瞬が、突然雅季の部屋を訪問した。何やらいろいろな荷物を紙袋に詰めて持ってきた彼は、この上なく幸せそうな顔をしている。 「先生、誕生日おめでとう!」 「…ああ、二ケ月ばかり早いけどな」 彼は嬉しそうにリボンのかかった箱を差し出している。瞬が何を考えているのか謎だったが、雅季はとりあえず彼に付き合って、その箱を受け取るとリボンを外して中身を開けた。 (…まあ、高確率でひよこだとは思ったけど…) 去年瞬にもらった誕生日プレゼントは、ひよこ柄のペアマグカップだ。その前の年にもらったのは、ひよこのぬいぐるみ。濃い黄色のそのぬいぐるみは、モノトーンでまとめられた雅季の寝室の窓辺で、唯一の差し色として抜群の存在感を放っている。名前はサム。瞬が勝手に名付けたようだった。  そして今、箱を開けて現れたのは、お風呂用のひよこのおもちゃだった。長い睫毛の下でつぶらな瞳を輝かせているように見える。 「…うん、ありがとう」 雅季は毎年何かしら文句を言っていたが、今回はあえて何も言わず受け流そうとした。 「先生、エリザベスの下も見て!」 (…また名前があるのか…) エリザベスという名のひよこのおもちゃの下に、ポストカードが入っていた。彼女をどけて手に取ったそれは、山々の鮮やかな紅葉が映ったポストカードだった。裏に「箱根の紅葉」と書いてある。 「……で?」 「先生の誕生日、箱根に行こ! 部屋に露天風呂の付いた宿、予約した❤」 瞬は呆気に取られている雅季に構わず、満面の笑みを向けている。 「―…は? 宿って…お前、金は?」 「バイト代だよ。先生の誕生日、ちょうど日曜日でよかったぁ」 しれっと答えると、彼の気持ちはすでに箱根に向いているようだった。 「…バイト代って、お前…。もっと大切に使えよ…」 「先生より大切なものって何?」 真剣な眼差しで逆に問われると、雅季は瞬の立場になってあれこれ考えてみたが、答えは見つからない。喜ぶべきなのか、呆れるべきなのか判断に迷ってしまう。 「紅葉の時期だから、きっと綺麗だよ」 ウキウキと心を弾ませている彼を見て、呆れ顔だった雅季は息をついた。 (…まあ、いいか…) レンタカーで行けば、誰かに見られる心配もないだろう。瞬は夏の間、どこにも行けなかったのだし、恋人らしい事の一つぐらい、叶えてやりたい。 (…でも、二ケ月も先か…) 「エリザベスも連れて行ってね。一緒にお風呂で遊ぶんだから」 瞬は無邪気な笑顔で、エリザベスのくちばしを雅季の唇に当ててキスをした。  「それとね、先生」 エリザベスをテーブルの上に置くと、次に瞬は、持ってきた大きな紙袋の中から、ゴソゴソとビニールの掛かった衣服のようなものを取り出した。それを見た途端、嫌な予感が雅季を襲った。 「いろいろ考えたんだけど、やっぱりこれかなって」 にやけ顔で彼が掲げたのは、二人の高校の制服だった。深緑色のジャケットに同系色のチェック柄のスラックス。瞬が今着ている制服よりも、何サイズか小さいようだ。 「俺が一年の時に着てた制服だよ」 (おさがり……屈辱だ…) ジトッとした目つきで、クリーニング上がりのそれを見ていると、予想通りの瞬の言葉が振りかかった。彼の手にはすでに一眼レフカメラが握られている。 「着て見せて❤」  ――普段だったら、絶対に言う通りにはしなかった。  去年までの、いかにもコスプレといったテーマと違って、今年はただの制服だと思って甘く見ていたのも理由の一つだ。自分の学校の、それも瞬がかつて実際に使っていた制服に腕を通すのは、ただの衣装を着るよりも、ずっと気恥ずかしい。  瞬に言われるままに着てしまったのは、何より高季の所為だと兄を責めた。 「先生、着たー?」 そわそわと痺れを切らした瞬に、コンコンと寝室のドアをノックされると、雅季は仕方なく覚悟を決めて返事をした。  瞬がドキドキしながらドアを開けると、高校生の雅季が姿見の前に立っていた。雅季はチラッと瞬の方を一瞥すると、スラックスと揃いの柄のネクタイを締めようとしているところだ。  瞬は緩んでしまう顔を必死に耐えて、雅季の側に寄るとネクタイを結ぶのを代わる。 「サイズ、ぴったりだね」 「うるさい」 正面に立つ瞬の足を蹴飛ばすと、彼は「イテテ」と言いながらも嬉しそうにしている。  瞬はフフッと笑うと、ネクタイをきゅっと締めた。 「かわいい、先生…。同級生になったみたい」 鏡に映る同じ制服を着た二人の姿は、本当の高校生同士のようだ。元々、実年齢より若く見える雅季は、制服を着てもあまり違和感がない。少し大人びた高校生、という感じだ。 (…もしも、瞬と同い年だったら…クラスメイトだったら…) 鏡の中の二人を見て、雅季は思わず想像してしまっていた。 (親友…だったりしたのか) 瞬がジャケットを広げると、促されるまま雅季はその袖に腕を通した。 (それとも、ただのクラスメイトか…) ジャケットを羽織らせると、瞬は後ろから雅季をふんわりと抱きしめた。 「ヘヘ。今は先生じゃなくて、雅季だね…」 彼に呼び捨てで呼ばれると、油断していた雅季は、不覚にも胸がドキンと高鳴ってしまった。 「…雅季。大好き」 鏡の中で瞬は目を伏せると、雅季を抱きしめる腕に力を込めて、愛しそうに囁いた。 (…もしも、ただのクラスメイトだったとしても、きっと瞬は俺を好きになっただろうな…) そして自分も――と、自然に思えることが、雅季はとても幸せだった。  瞬にカメラを向けられると、雅季はうんざりといった様子でそれを受けた。そんな雅季には一切構わず、彼はパシャパシャとシャッターを切っていく。  一通り高校生の雅季を堪能すると、彼は最後に雅季に寄り添って自分達にレンズを向けた。 「同級生記念❤」 ツーショットを撮ると、彼はようやく満足したように、ベッドに腰を下ろした。 (…やっと終わった) 深いため息をつきながら、ジャケットを脱いだ雅季の手を取ると、瞬は佇む雅季の腰に腕をまわして抱きついた。てっきり文句を言われると覚悟していた瞬は、雅季が頭にそっと手を置いて撫でたのを感じると、目をぱちくりとさせた。 「…どうしたの? 今日は素直だね、雅季…」 瞬はだいぶ気に入ったのか、まだ「同級生」を続けている。彼に「雅季」と呼ばれると、その度にしつこく、胸がトクンと甘く鳴ってしまう。 「…雅季、俺の匂いがする…」 腹の辺りにすり寄った瞬の、籠もった声が振動になって伝わってくる。それが雅季の芯まで響くと、雅季は彼の両腕を掴んで自分の腰から引き剥がし、彼の前に跪いた。 首を傾げて見下ろしている瞬を上目遣いで見つめると、おもむろに彼の足の付け根に触れた。 「―…先っ」 瞬の身体がビクンと跳ねると、すでに力を持ち始めていた彼の中心は、布地の下で更に硬度を増した。  雅季の指が、形をなぞるようにそこを擦ると、すぐに窮屈そうにスラックスを押し上げる。 「ッ…先生―…」 「違う。雅季だろ?」 余裕を失くした瞬に「同級生」を強要しながら、雅季は彼のベルトに手をかける。  息を上がらせ始めた瞬を見上げながら、ゆっくりとファスナーを下ろすと、下着越しに優しくそこに触れた。 「ンッ…」 瞬は息を呑むと、雅季から視線を逸らして目を瞑った。  ただでさえ制服姿の雅季に欲情を煽られていたのに、その上こんな事をされたのでは、すぐにでも達してしまいそうだ。せめて視覚だけでも封じて、興奮を紛らわせようとしていた瞬に、雅季は残酷に囁く。 「ダメ。見てて」 「ッ―…」 その声にさえ感じてしまう瞬は、必死に快感に耐えながら要求通りに雅季に目を向ける。瞬が唇を噛みながら目を潤ませているのを見ると、雅季は口の端を上げて笑った。 「今度は、少しは我慢しろよ」 「! 無理――」 雅季は下着をずらして彼の昂りを取り出すと、以前した時と同じように先端をペロッと舐めた。 「ン、ァ…」 瞬が以前とは違って必死に解放を耐えたのを確認すると、雅季はご褒美とばかりに、今度は丁寧に表面をねっとりと舐めまわし始める。 「アァ―…」 熱り立った昂りは、雅季の手の中でドクドクと脈打っている。裏筋をレロッと舐め上げると、そこはビクビクと打ち震えた。雅季は指先から彼の熱を感じると、浮かされたように夢中でしゃぶりつく。 (…こんなでかいのが、いつも、俺の中に―…) じゅぷ、じゅぷ、と淫らに音が立つと、快感に溺れた瞬は、いつの間にか雅季の頭を抑え込むように抱えていた。欲情に霞む視界の中で、自分の足の間に顔を埋めている、制服姿の雅季を見ると、強烈な快感が瞬の全身を支配する。 「アッ…、雅季…、雅季……」 「んぅ…はっ…」 浮言のように何度も名前を呼ばれると、雅季の身体はその度に甘く疼いた。自分が快楽を与えているはずなのに、気付くと雅季はよがったように身体を震わせていた。 (…早く、これで、俺の…) 「んあっ…、むぅ…」 無意識に腰を動かし始めた瞬に、口腔を激しく刺激されて、雅季は堪らなく感じてしまう。 「アッ、…雅季、もうっ―…」 瞬は雅季の頭を抱えていた手にグッと力を込めると、雅季の口腔に欲望を吐き出した。  雅季は口の中に熱い迸りを感じると、余韻にビクビクと震えるそれを、最後の一滴まで絞り取るようにして吸い上げた。  瞬はベッドにあおむけに倒れ込み、胸を上下させて熱い息を弾ませた。徐々に理性を取り戻すと、彼は火照った顔を泣きそうに歪ませて叫んだ。 「…先生ごめん! 俺、夢中で―」 慌てて顔を上げようとした瞬の身体に、雅季がおもむろに乗り上げた。欲情に潤んだ眼差しを瞬に向けて、上気した顔で濡れた唇をペロッと舐めた。 「――…ッ」 扇情的な姿態を目の当たりにして、瞬の欲望は再び力を持ち始める。  瞬の腰に跨った雅季はそれに気付くと、ネクタイを緩めながら、音もなく妖艶に微笑んだ。そして、見せつけるように自分の制服のベルトに手を掛けると、ゆっくりと留め金を外した―。  瞬がごくりと息を飲んだのと同時に、突然携帯電話がけたたましく鳴り響いた。 「――」 二人は動きを止め、息を詰めたように無言で見つめ合う。やがて雅季が、自分の下に埋もれた瞬のスラックスから携帯を取り出すと、画面も確認せずに黙って瞬に渡した。 『お兄ちゃん、どこにいるのー? お腹すいたー!』 瑠璃の切実な叫び声が、雅季の耳にも届くと、瞬は夕食の支度の前にここに来たのだったと、二人は同時に思い出した。 「…ごめん、すぐ戻る」 瞬が雅季を見つめたまま、困った顔で瑠璃にそう言うのを聞くと、雅季は無言で彼の上から退こうとした。  瞬は電話を切ると、腕を引っ張って自分の上に覆いかぶせ、両手で雅季の顔を包むと、その唇を貪った。 「んぅ―…」 雅季の熱い口腔をくちゅくちゅと淫らに掻き回すと、最後に湿った唇にチュッとキスをした。 「――ごめんね、先生。…我慢できる?」 耳元で熱く囁かれると、雅季は我に返ったように一気に顔を赤く染めた。 「~…、調子に乗るな!」 乱暴に瞬の上から降りた雅季は、さっきまでの大胆さが嘘のように、真っ赤な顔を恥ずかしそうに伏せた。制服を着た雅季のその姿は、ウブな高校生のように可愛い。  このまま雅季をめちゃくちゃに可愛がりたい気持ちを必死に堪えながら、瞬は高校生の雅季を残して寝室を出た。  昨日はどうかしていたのだ。酒を飲んでいたわけではないけれど、自分はだいぶ精神的に酔っていたと、雅季は振り返って思った。心なしか、瞬の方もいつもよりも一層蕩けるような笑顔をしていた気がする。  瞬が瑠璃に呼ばれて夕食を作りに行った後、一人取り残された雅季は、中途半端に高ぶった身体を持て余した。自分で慰めようかとも思ったが、そうしなかった。自分が求めているのは解放ではなく、彼との触れ合いだと自覚していたからだ。  身体が鎮まるのを待ってから、雅季は制服を着替えて雪村家へ行き、瞬が早技で作った夕食を食べた。その間、雅季はまともに彼の顔を見ることができなかった。  ―今日は土曜日。 雅季は朝練に、瞬は美術室へ向かっていた。今日中に完成させたい絵があるらしい。 「先生、いいこと思いついた!」 瞬は今日も上機嫌で、その横顔は爽やかにキラキラと輝いている。 (…お前はいいよ、一回出したもんな…) 下世話なことを考えながら、どことなく愁いを帯びた表情で彼の横顔をぼんやり見つめた。 「俺にとっては悪いことだろ、どうせ」 瞬はギクッと顔をひきつらせたが、気を取り直して不自然に作った笑顔を向けた。 「今度の球技大会で俺のチームが優勝したら、俺のしたいこと一個、叶えて」 「……したいことって?」 もはや嫌な予感しかしなかったが、聞いてくれと言わんばかりの眼差しに晒されて、雅季は仕方なく言葉にする。  瞬は周りをキョロキョロと窺うと、頬をぽっとピンクに染めて、口に手を添えた。 「昨日の続き、したい。もちろん制服で❤」 雅季は歩調を一気に速めると、瞬を残して坂を上った。  バスケ部の三年生は、夏を最後に引退していた。球技大会は、部活動と同じ種目には参加できない事になっているが、引退した三年生は例外になっている。  今年の球技の中で、瞬はバスケットボールに出場する。瞬のクラスにも元バスケ部員は何人かいるが、チームはバラけるはずだ。瞬が、いくらスポーツができると言っても、普段から運動部の連中には敵わないだろうと、雅季はタカをくくった。まして雅季のクラスには、元バスケ部部長の倉田がいる。瞬のチームが優勝できる可能性は、限りなく低い。 そう思った雅季は、瞬がしつこく言ってくるので、仕方なく賭けに乗ってやることにした。 (…もうあんなのは絶対無理だ…) 瞬の制服に身を包み、まるで高校生同士のようなシチュエーションに、少なからず興奮してしまった事実は否めないが、精神的に素面になった今、自分の醜態を思い出すと顔から火が出そうだった。  瞬は制服姿の雅季にすっかりのぼせ上り、「同級生」設定をだいぶ気に入ってしまったらしい。もしもあの続きをやる羽目になったら、一体どんな痴態を求められるかと考えると背筋が凍りついた。 (…まさか本当に優勝とか…しないよな?) 来週からしばらく美術部へは行かず、チームメイトとバスケの練習に専念すると言っていた。 その為、今やりかけの絵を今日中に仕上げてしまいたいのだろう。午前中で練習を終える雅季と違って、彼は弁当も持参していたから、午後遅くまでかかるようだ。  普段勝ち負けには一切興味のない瞬が、動機は不純だが珍しくやる気を出している。教師としては喜ぶべきなのだろうが、雅季は今更ながら一抹の不安を憶えていた。 (…そんなに制服プレイ、したいのか…) これに味をしめて、他のコスプレにも目覚められたらどうしようと、雅季の悩みは尽きることがなかった。  土曜日の旧校舎は、水を打ったように静かだ。普段から静寂を纏っているが、休日である今日は図書室も閉まっていて、広い校舎の中には瞬一人きりだ。  先日訪ねて来た高季も言っていたが、ここの美術室は絵に集中するには絶好の環境だと改めて思った。人の気配も雑音も何もない。  瞬はふと、花火大会の夜に三階から聞こえた物音を思い出した。三階にある、化学室として使われていた教室から聞こえたような気がしたが、あの時は真っ暗だったし、雅季をおぶっていたこともあり、あえて確かめようとはしなかったのだ。  四階に上がる前に、足は自然と三階に寄り道をした。化学室はちょうど美術室の真下にある。ドアの前に来ると、グッと力を入れて引いてみたがビクともしなかった。やはり鍵が掛かっている。念の為、美術室と同じように室内でつながっている準備室のドアも試したが、同じように鍵が掛かっていた。 「…やっぱ幽霊かなぁ…」 そもそも人だったのなら、あの時遭遇した警備員が発見しているはずだ。  本当に幽霊だったら、ここでお化け屋敷なんてやって祟られないだろうかと、心配しながら階段の方へ向かった。途中、何となくもう一度、ドアの窓から化学室の中を覗いてみた。  すると、教室の奥の窓際に、煙草の吸殻が落ちているのが見えた。  瞬は気を取り直すと、水墨画に向き合った。  スケッチは終え、水墨画の基本的な技法もだいぶ練習したので、今日はいよいよ本番だ。今日中に一作品仕上げる予定でいる。使う紙はいろいろ悩んだが、通常のサイズより大きめの、長方形の色紙を縦に使って描くことにした。  初めは貴船神社を題材にした絵を考えていたが、せっかくなら大作にしたいと思っていたので、それは充分に時間の取れる時に描くことにした。雅季にとっても、一番お気に入りの思い出の場所らしいので、しっかり腰を据えて描きたい。  瞬はスケッチを広げて横に置くと、気持ちを落ち着かせ、筆に墨を含ませた。  絵を描くことは孤独な作業だな、と雅季はふと思った。  自分の思い描く世界を、感じた景色を、映った彩りを、誰と共有するでもなく、自分一人で形にするのだ。たとえ隣に誰かがいたとしても、それは変わらない。  雅季は瞬の描く絵が好きだった。瞬の絵を見ると、彼の心の中を知れるようで嬉しかった。決して入り込むことのできない彼の孤独の時間に、少しでも触れられたように感じるのだ。  雅季は部活を終え、帰宅するところだった。正門の近くから旧校舎を見上げると、生い茂る木々の向こうに、窓を大きく解放した四階の廊下が見えた。美術室の窓とドアも開け、風通しをよくしているのだろう。  今頃、瞬はあの向こうで、夢中で自分自身と向き合っている。 (…夕食のおかず、何にしよう) 彼の好物でも作ってやるかと、あれこれ考えながらスーパーへと向かった。  今日は珍しくコーヒープレスを使ってコーヒーを淹れた。これで淹れると、豆本来の味が引き出されるのだ。美味いコーヒーを味わいながら、瞬が誕生日プレゼントと一緒に持ってきた旅行雑誌を、パラパラと眺める。夕食の買い出しも済み、休日の午後をのんびりと過ごしていると、窓の外をザーッと雨が降り始める音がした。 (…長引くかな…) 瞬が帰る頃まで降り続くようなら、傘を持って迎えに行こう。律儀な彼の事だから、作業を終えたら連絡してくるはずだ。  そんな事を考えていると、リビングでインターホンが鳴り響いた。 「あ、よかった! ヒナいた!」 ドアを開けると、佇んでいたのはずぶ濡れになった制服姿の岬だった。 「いきなり降り出すんだもん! 超濡れたよー」 彼はその場でブルブルと頭を振ると、濡れた髪から水滴が飛び散り雅季に当たる。 「…おい」 彼はいたずらっ子のように「ヘヘッ」と鼻をこすると、にっこりと笑った。 「雨宿りさせてください」 雅季は少し躊躇ったが、雨に濡れた彼の状態を見ると、仕方がないと言ったように深くため息を吐いた。  ―岬は昨日、携帯電話を学校に忘れた為に取りに来たと言った。せっかくだから雅季に会いに行こうと、マンションに来たらしい。雅季が学校近くのこのマンションに住んでいることは、学校内では有名だ。  雅季は岬をバスルームに案内すると、彼がシャワーを使っている間に着替えになるものを探した。脱衣所に着替えを置いて、ビショビショの制服を洗濯機に放り込んでいると、雅季の影に気付いた岬が、バスルームのドアを開けて上半身を覗かせた。 「シャンプー借りてもいいですか?」 「…ああ」 「ヒナも一緒に入りますか?」 「結構」 いつも通り速攻で拒否されると、岬は湯気に包まれながらクスクスと笑った。  しばらくしてリビングに現れた岬は、雅季のTシャツとスウェットパンツに身を包んでいた。雅季より少し体格が大きいぐらいの岬は、雅季のTシャツを不自由なく着ている。 「雨に降られてラッキーだったなぁ。ヒナのバスルーム使えたし、服も着れちゃった」 「…コーヒー飲むか?」 「はい!」 嬉しそうにしている彼には無反応を決めて、雅季は二度目のコーヒーを淹れようとしていた。岬は部屋の中をキョロキョロと見てまわっている。ダイニングテーブルにコーヒーを置くと、彼はソファの方から、香ばしい香りに引き寄せられるようにこちらに来た。  外で降り続けている雨は、全く弱まっていないようだ。雅季が携帯電話の画面に目をやると、岬がすかさずそれに反応した。 「すみません、何か予定とかありました?」 「…いや。でも制服乾いたら帰れよ。傘貸すから」 「冷たいなぁー」 岬は文句を言いながら、雅季の淹れたコーヒーを美味しそうに飲んだ。 「…意外。ブラックで飲むのか」 「男はギャップですよ」 岬がキリッとした顔つきを作ると、雅季はカップに隠れてふっと笑みを零した。 「…ああ、やっぱ可愛いな…」 ぼそりと呟いた岬の声が耳に届くと、雅季は気付いたように笑みを消して彼を見た。彼は満面の笑みを雅季に向けている。 「ねえ、ヒナ。試しに一度、僕に抱かれてみません?」 洗濯機のアラームが鳴った。乾燥まで終わった知らせだ。 「よし、帰る時間だぞ」 雅季は立ち上がると、何事もなかったように脱衣所へ向かった。  半ば強引に、岬を送り出す為に玄関のドアを開けると、間の悪いことに丁度帰宅して来た瑠璃と遭遇した。 「…岬先輩だ」 瑠璃は目を丸くして、雅季の部屋から出てきた岬の姿をまじまじと見た。岬はまだ少し湿った髪に、洗いたての制服のシャツをネクタイも締めずに無造作に留めていた。肌蹴たシャツの隙間から、綺麗に引き締まった白い胸元が見える。「事後」という単語が、瑠璃の頭にぱっと浮かんで消えた。彼女は、雅季と岬に交互に視線を送っている。 「…瑠璃ちゃんだっけ。皐の友達の」 二人は皐を通じて面識があったらしい。軽く挨拶を交わすと、彼は雅季に笑顔で礼を言って帰って行った。  残った二人はしばらく気まずい沈黙に包まれる。二人の頭の中には、間違いなく同じ人物の顔が浮かんでいた。 「…お兄ちゃんには言いません。泣き喚くだろうから」 「………」 「…岬先輩、ヒナちゃんのシャンプーの香りでしたね」 「………」 居た堪れない気持ちで、何も言葉にできずにいた雅季の携帯電話が鳴った。律儀な恋人からのメールだ。  瞬に隠し事をするわけではなかったが、あえて言う必要はないと判断した。瑠璃の言う通り、岬のことを知ったら彼がどうなるかは目に見えている。無駄に不安を煽らせることはないとの結論に至った。  なかなか止まない雨の中、学校まで瞬を迎えに行くと、彼は生徒用の玄関口で待っていた。 「わざわざごめんね、先生」 雅季から自分の傘を受け取ると、瞬は申し訳なさそうにした。 「絵、完成したんだろ?」 「うん! 家着いたら見せるね。すごくかっこよく描けたよ」 無邪気に顔を輝かせている瞬は、新しいおもちゃを手に入れた子供のようだ。新しく挑戦している水墨画は、彼に合っていたのだろう。 「今日は午後、何してたの?」 二人は並んで歩き出すと、いつも通りの会話が始まる。 「…お前が持ってきた箱根の本、見てた」 「あ! 本当? 行きたい所あった?」 嬉しそうに話を続ける瞬の様子に、珍しく雅季の心はズキズキと痛みっぱなしだ。まるで浮気を隠しているような気分になる。 (いや、でも…知った方が、絶対傷付く…) 自分にそう言い聞かせながら、話題を変えた。 「今夜のおかず、ハンバーグにしたから」 「やった! 先生の作るハンバーグ大好き」 今ではいくらでも凝った料理を作るクセに、彼の大好物は昔と変わらずハンバーグのままだ。 (…どこまでガキなんだか…) この分だと、瞬がコーヒーをブラックで飲む日は、まだまだ遠いなと雅季は思った。  ――ハンバーグを食べた後、瞬に見せてもらった彼の水墨画に、雅季は目を見張った。  大きな色紙に描かれた光景は、雅季が行った京都の竹林だった。 天に向かって力強く真っ直ぐに伸びる竹が茂る中、中央に侍の姿をした雅季が凛として立っていた。着流しの上に羽織を着て、刀を二本腰に携えている。顔を詳細に描いているわけではなかったが、雰囲気や出で立ちで雅季だとわかる。身体つきは男性のそれだが、どことなく気品があって優美だ。  今日一日、瞬が孤独の中で向かい合っていたのは、自分の姿だったのか。 「…去年のコスプレが、こんな形で役に立つとはな」 なんとなくこそばゆい気持ちを隠すように雅季が言うと、瞬は可笑しそうに笑った。    通勤ラッシュに当たるのを避けて、岬は毎朝早い時間に登校していた。中途半端な時期に転校してきた岬は、部活に入るわけでもなく、今更入ったところですぐに三年生は引退の時期なこともあり、朝の時間を持て余していた。  その中で特に理由があったわけでもなく、なんとなく屋上に来るのが日課になっていた。高台に建つこの学校の屋上は、見晴らしが良くとても気持ちがいい。  まだまだ暑い日が続いているが、この屋上に吹く風は徐々に秋めいてきている気がする。 「…また二人だ」 朝早くに屋上に来るようになってから、岬はある事に気が付いた。  毎朝、バスケ部の朝練の為に早く登校してくる雅季の隣に、必ずいる男子生徒。クラスメイトに訊いて、彼の正体は知っていた。  雅季の家の隣で、妹と二人暮らしをしている雪村瞬。皐と同じクラスで、彼女とも仲が良いらしい。雅季とは入学前からの仲で、雅季は彼らの保護者代わりのような存在だとか。兄弟のように仲の良い二人の関係は、学校内では有名だった。 「…兄弟のよう、ねぇ…」 今朝も二人で正門に現れた彼らを、岬は屋上から眺めていた。  瞬は今朝も、にこにこと雅季に話しかけている。雅季は相変わらずの無表情だが、瞬といる時の彼は、岬の知っている無表情とは少し違うように見えた。気を許しているような穏やかさが、どことなく感じられるのだ。 「…むかつく」 岬はその様子を苦々しげに見下ろすと、皐に誘われていた学園祭の準備の手伝いを受けようと決めた。  昼休みの屋上は、ちょうど太陽が一番高いところに位置する時間帯の為、この時期はまだ人もまばらだ。これが最後の叫びと言わんばかりに、蝉の音がけたたましく響いている。  瞬は珍しく、皐と一緒に昼休みを過ごしていた。いつもならこの時間は、彼女は生徒会室に行っている。  皐は大きな黒い日傘を差しながら、学園祭でやるお化け屋敷の案を練っていた。瞬はその横で寝そべりながら、「箱根」と書かれた旅行雑誌を読み耽っている。 「…ヤサオ君、そんな先の事よりまずは学祭」 「だって、楽しみなんだもんー!」 皐は日傘の下から、冷ややかな眼差しを彼に向けた。 「未来の約束で紛らわせているの、不安」 瞬の心を見透かして突いた皐の言葉に、瞬はぎくりと身体を強張らせた。 「…たまには会長さんの心も、俺に見せてよ…」 困った顔で愚痴りながら、瞬は雑誌を閉じて起き上がった。彼女の日傘の下に入り込むと、影になった色白の顔を覗き込む。 「……わたしは、姫に会えなくて寂しい」 思わぬ告白に、瞬は目を見開いた。四人で食卓を囲んだ日のことを思い出す。皐が岬を「婚約者」と言ったあの時、瑠璃はだいぶショックを受けていたようだった。 「…会長さんを送って帰ったあと、瑠璃が先生に相談しているみたいだったよ」 偶然耳にした二人の会話。偶然聞いてしまった、雅季の嬉しい言葉と、悲しい言葉。 「瑠璃は会長さんへの気持ちに、ちゃんと向き合おうとしてるよ」 瞬が優しく言うと、皐は少し口元を緩めたようだった。 「あれ、僕の婚約者は浮気中?」 瞬の聞き慣れない声が降ってくると、日傘に入った二人の前に岬が現れた。彼はにこにことしながら、皐ではなく瞬を見ている。一瞬、その目線が瞬の手元に移ったように見えた。 「はじめまして、雪村君。岬蒼太です」 思わず身構えてしまった瞬に、岬はおもむろに手を差し出した。 「よく見かけてたよ。話してみたいなって思ってたんだ」 「…よろしく」 求められるままに握手をすると、岬は人懐っこい笑顔を作った。 「近くで見ると、ますます男前だね。モテるでしょー」 以前、相原と初めて顔を合わせたのも屋上だったなと、なぜか瞬は思い出していた。岬の人好きするこの笑顔が、なんだか相原のように挑戦的に見えた所為だ。 「うん。モテる。蒼太と違って性格もいいから」 答えたのは皐だったが、岬は想定内らしく驚いた素振りは見せない。 「皐は人の事言えないだろ。癖のある性格同士じゃん」 皐と会話をしながらも、彼の視線はずっと瞬を見据えたままだ。瞬は相原の時とは違う、何か危なっかしさを感じる。 「――で、雪村君ってヒナの恋人?」  午後一番の授業は英語だった。相原の流暢な英語が教室内を流れている。  初対面の岬にいきなりされた、直球の質問が瞬の脳内でリピートされていた。岬の核心を突いた突然の質問に、瞬は絶句してすぐに言葉が出なかった。 「ううん。二人は蒼太とは違う」―瞬の代わりに、皐がまた答えていた。それも、嘘を。  皐が、幼馴染で親しい彼に、あっさり嘘を吐くとは思っていなかった瞬は、少し面喰っていた。教室に戻った後、彼女は真剣な眼差しを瞬に向けた。 「蒼太は単に鎌をかけただけ。核心なんて何もない。蒼太にはバレないようにした方がいい。蒼太は、自分の欲求が一番だから」――瞬の感じた危険は正しかった。  相原も雅季と瞬のことを知っているらしいが、彼は雅季の事を、好きなのと同時に大事に思っている。だから彼は、雅季を傷付けるようなことはしない。けれど、岬は――。  以前自分達を傷付けた、瀬戸の事が頭をよぎった。彼女は雅季を脅迫し、自分の好きな相手である瞬を傷付けさせた。何より自分の欲求が一番大事だったからだ。  瞬は思わず二の腕を押さえた。雅季を庇って彼女に刺された箇所が、ズキッと痛んだ気がした。  久しぶりに長時間運動したせいで、瞬はヘトヘトになって帰宅した。球技大会のチームメイト達と、ボールが見えなくなるまでずっと、校庭のバスケットコートで練習をしていたらしい。気付いたら辺りはすっかり真っ暗で、校庭にはもう他に誰もいなくなっていたとか。  見かねた雅季が、急遽彼の代わりにキッチンに立っていた。今夜のメニューは秋刀魚の塩焼きと筑前煮だ。瞬はリビングのソファに寝転んで、濡らしたタオルを額に当てている。 「――先生」 疲れきった所為で珍しくずっと無言で伸びていた瞬が、突然口を開いたかと思うと、その声は思い詰めたように響いた。 「嘘、吐いていいからね」 「…何が?」 何の脈絡もなく言われて、雅季はさっぱり意味がわからない。 「…岬に訊かれた時、わざと誤魔化してくれたんでしょ? でも、嘘吐いていいから」 額に乗せたタオルに隠れていて、彼の表情は見えない。 「恋人、いないって」 雅季の反応がないまましばらくすると、瞬の額からタオルが取り払われた。目の前に、雅季の無表情の顔が現れる。 「…お前、大丈夫? 何かあるなら言え」 最近ずっと纏わりついていた小さな違和感が、雅季の心にはっきりとした形になった。瞬は雅季に見つめられると、瞳を潤ませながら力なく微笑もうとしたが失敗に終わった。 「…俺、先生を失いたくない―…」 球技大会の賭けが終わっても、学園祭のコスプレが終わっても、箱根の約束が終わっても、その先も、ずっと――…。 「…失わないよ」 (―…お前は) 怯えたように声を震わせる瞬の目尻をそっと拭うと、雅季はゆっくりと唇を重ねた。  「なんだ、お前も上の空か」 目の前に湯気の立つカップを差し出されて、ようやく雅季は我に返った。相原が雅季の分もコーヒーを淹れてくれたらしい。雅季にカップを手渡すと、隣の席に腰を下ろした。 「あいつも昨日から授業中、上の空なんだよな。失礼な奴だ」 わざと指してやったけど、と相原は意地悪な笑みを浮かべている。相原の言っているのが瞬のことだとすぐにわかった。  瞬は昨夜、弱音を吐露した後、濡らしたタオルで赤い目を落ち着かせると、いつも通り三人で夕食をとった。今朝も普段と変わりない様子で登校した。――雅季の前では。  相原は周りに人がいないのを確認すると、身を乗り出して雅季の顔を覗き込んできた。 「とうとう別れた?」 口の端を上げながらニヤニヤと笑っている彼を、雅季は一瞥するとコーヒーを啜った。 「……まだ」 答えるとは思っていなかった相原は少し驚いて、じっと雅季を見つめた。雅季の言い方を意味深げに捉えると、彼は椅子の背凭れに身体を預けた。 「…『まだ』ね…」  皐は四時間目の授業をサボってヴェローナにいた。相変わらずお化け屋敷の構想を、熱心に練っている傍らで、岬は本棚の間に寝転がりながら携帯電話をいじっている。 「…楽しそうだね」 長年の付き合いの岬は、皐の能面のような顔から表情を読み取る術を身に付けている。皐が最後の学園祭に力を入れていることも知っていた。 「…高校生活は、自由で楽しかった」 二人の家は、共に代々医者の家系だ。二人とも、将来は医者になることが当然の事として決められている。懇意にしている互いの両親は、同じ性癖の二人を結婚させれば、世間体も守れて丸く収まると考えているのだ。 「僕も楽しみたい。なんとかヒナと仲良くなれないかなー」 岬は駄々っ子のように身体をバタつかせる。 「…他の男と遊ぶんじゃダメなの?」 岬は親の決めた結婚を、特に嫌がることなく受け入れていた。岬は皐が好きだし、これまで恋愛は気軽に楽しんできた。ドイツでずっとそうしてきたように、これからもそういうスタンスでいくつもりなのだろう。 「うーん、ヒナは特別。他とは違うみたい」 岬は自分の胸に手を当てて、気持ちを確かめるような仕草をした。 「…あの人は、落ちないと思う」 「そうなんだよー! 何か良い方法ないかなぁー」 岬はジタバタと悶えながら、あれこれと思案していたが、その内に「保健室で寝てくる」と言って図書室を出て行った。  やっと訪れた静寂も束の間、しばらくして静かにドアが開いた。  もう昼休みになってはいたが、幽霊の噂が広まってからは、それこそ人が寄りつかなくなっていたので、皐は少し不思議に思った。皐と同じように図書室がお気に入りの雅季かとも思ったが、本棚の隙間からチラッと見えた姿は女生徒の制服だった。  彼女は携帯電話で話し始めた。どうやら人目を避けて電話をする為に来たようだ。聞こえてきた声は、皐の聞き憶えのある声だった。電話の相手と、何やら揉めている。 「別れるって言うなら、バラすから! 首になりたくないでしょ? ――大丈夫、良い考えがあるの。わたしがいれば――」  岬が午後中保健室に行っていると聞いて、担任である雅季は、授業を終えると彼の様子を見に保健室へ向かった。 「岬? 大丈夫か?」 養護教諭は席を外しているようだ。カーテンの閉まっているベッドは一つだったので、雅季は声を掛けながら静かにカーテンを開けた。  彼はベッドの中に綺麗に収まりながら、目をパッチリと開けて携帯電話でゲームをしていた。 「あ……」 彼はサボりを見つかって気まずそうに雅季を見た後、ごまかすように笑顔を作った。 「…治ったみたいです」 雅季は咎めるような視線で彼を見下ろすと、特に何も言わず出て行こうとした。それが逆に岬を追いつめると、彼は必死に謝りながら雅季の腕に縋りついた。 「ヒナ、ごめんー! 反省してます! もうしません!」 引っ張られた反動で雅季がベッドに座り込むと、岬は雅季の腕にギュッとしがみついた。 「…本当は、どうしたらヒナを振り向かせられるか、悩んでたんです…」 「ゲームしながらな」 岬はわざと切なげな声を作って呟いたが、雅季には通用しない。すかさず見透かされると、彼は「うっ」と唸って、身体をビクつかせた。  雅季が彼の腕から逃れようとすると、岬の眼光は鋭く色を変えて雅季の腕を引っ張った。 「――おい」 苛立ちを含んだ声で言った時には、すでに岬に押し倒されていた。両腕をガッチリと拘束されて、ベッドの上に組み敷かれている。 「…放せ」 雅季は腕に力を入れてみるけれど、ビクともしない。岬は体格に似合わず、強い力で押さえ込んでいる。そして真剣な眼差しで雅季を見下ろした。 「悩んでいたのは本当です。僕、本当にヒナのことが好きなんです」 「…悪いけど、応えられない」 今まで散々、岬から軽い言葉をかけられてきたが、初めてまともに告白を受けた気がする。 雅季もやっと、そんな彼に真摯に向き合った。 「…やっぱり、恋人いるんですよね?」 「……いいや」 雅季は一瞬悩んだが、瞬に求められた通り嘘をついた。  岬はうっすら笑みを浮かべると、その顔を雅季の顔に近付けてきた。反射的に顔を背けると、彼の唇は雅季の首すじに落とされる。 「…本当かなぁ?」 首すじの上で囁くと、岬はそのまま舌を這わせようとした。 「きゃあっ!」 岬の動きは、突如現れた女生徒の悲鳴によって制止された。雅季と岬が同時に入口を見ると、二人の女生徒が顔を真っ赤にして佇んでいる。 「す、すみません!」 一年生らしき彼女達は、激しく動揺した様子で平謝りしている。 「…あーあ、あと少しでモノにできたのに。彼女達のおかげで助かったね、先生」 岬はわざと大きな声で言うと、ポリポリと頭を掻いてベッドから降りた。雅季はその背中を、後ろからおもむろに蹴飛ばした。いつも通りの無表情を崩さずに言った。 「ふざけるのも大概にしろ」  翌日には案の定、「転入生が保健室でヒナちゃんに迫っていた」という噂で持ちきりになった。 「えー、あの転入生男が好きなの?」 「相手はヒナちゃんだよ? あの美人には男だって惚れるでしょー」 「迫った後、ヒナちゃんに蹴飛ばされてたってー」 「あははっ! うけるー!」 例によって、雅季がいる給湯室の横の廊下を、笑い合いながら女生徒達が通り過ぎた。例によって、雅季の隣には相原がいた。 「…本当か?」 いつもの薄ら笑いは消え、相原は怒りを押さえ込んだような声で雅季に訊いた。 「…別に、何かされたわけじゃない」 雅季は冷静に答えると、尚も追及しようとする相原を置いて外に出た。 (よかった。深刻な噂にはなっていないようだな…) 生徒に見られてしまった以上、噂になるのは覚悟していた。学校とはそういうものだ。  岬があの時、わざわざ自分が無理に迫ったような言い方をしたおかげで助けられた。 (まぁ、事実だけど…) そのあと、雅季が普段通りのテンションで彼を大袈裟に蹴飛ばしたおかげで、笑い話のような噂となって広まることに成功した。想定通りになって、ホッと胸を撫で下ろす。 (…大丈夫かな、アイツは…)  ―あちこちから聞こえる噂話を避けて、瞬は屋上に逃げ込んでいた。フェンスに寄りかかるように腰掛けながら、空を仰ぐ。 保健室でのできごとは、昨夜のうちに雅季から聞いていた。きっと噂になるからと、瞬が噂で知る前に、雅季の口から教えてくれたのだ。 「何もされてないから」と、「告白されたけど、ちゃんと断ったから」と、雅季は珍しく優しく、正直に言ってくれた。 「…言えたらいいのに」 歯痒い。つらい。苦しい。――雅季は自分のものだと、叫びたくて堪らない。 「あ、また会ったね、雪村君」 今一番聞きたくない声が、容赦なく瞬の耳に侵入してきた。岬は瞬の側に来ると、フェンス越しに遠くの景色を眺めた。 「箱根に行くの?」 岬は瞬に視線を向けるわけでもなく、唐突に言った。 「本見てたでしょ? この間」 言われて、岬と最初に会った時に自分の手に箱根の本があったことを思い出した。―岬はあの時、そんな所まで見ていたのか。 「…暇つぶしだよ。旅行雑誌、読むのが好きなんだ」 「同じ本、ヒナの家にもあったなぁ」 何気なく口に出した言葉に、瞬の表情が微かに固まったのを岬は見逃さなかった。 「…貸してたんだ。先生も見たいって言うから」 「ふーん」 岬はフェンスを掴んで、ブラブラと身体を揺すっている。 「噂、聞いた? 僕が保健室でヒナに迫ってたってやつ」 「…学校中がその話で持ちきりだよ」 「噂ってすごいよね。あっという間に広がって。事実かどうか知っているのは、当人達だけなのに」 岬が何を言いたいのか、瞬はすぐに理解できないでいた。 「…噂、事実じゃないの?」 「うーん…事実だけど、そう仕向けたのは僕達なんだよね。本当だったら今頃、別の噂になっていたかもしれない」 岬は揺らしていた身体を止めると、ニッコリと瞬を見下ろした。 「ヒナちゃんは男の転入生とデキてて、保健室でイチャついてたって」 瞬は思わず眉をぴくりと動かすと、奥歯を噛みしめて岬を鋭く見上げた。岬はその突き刺すような眼差しを、にこやかに受け止めている。 「もしそうなっていたら、被害を被るのは生徒よりも教師の方だよね。立場があるもん」 ――警告だと思った。瞬の脳内で、警告音がけたたましく鳴り響いている。  球技大会の朝は快晴だった。開催される球技の内、バスケットボールを取り仕切ることになっていた雅季は、早めに登校して準備に備えた。  職員室に着くと、自分が一番乗りのようで誰の姿もない。ガランとしていて、朝の日差しだけが降り注いでいる。窓を開けていると、校庭の奥のバスケットコートで、複数のグループがハーフコートずつ使って練習をしているのが見えた。  瞬は朝の光を浴びて、汗をキラキラと散らしながらボールを追っていた。背の高い彼は、歴としたバスケット選手に見える。高校に入った後、元々スポーツ万能な上に、どんどん背も伸びていった彼は、仲が良かったこともあり、バスケ部部長の倉田によくスカウトされていた。瞬にとっても、雅季が顧問であるバスケ部は、とても魅力的に映ったようだ。  けれど、彼は自分の好きなことを優先させた。いつも雅季に纏わりついていた彼が、案外しっかりと芯を持っていることを知り、雅季は感心したのだった。 (…もう、ずっとまともに話してないな…) 瞬は朝も練習すると言って、雅季とは別に登校するようになっていた。帰りも、夕食の時間より遅くなることがほとんどで、顔を合わせることはなかった。  避けられている、と気付いていた。球技大会を理由にしていた瞬が、今日を終えた後どうでるのだろうかと考えると、雅季の胸は押し潰されるように息苦しくなる。 「泣くなよ」 「別に泣いてない」 窓辺に佇む雅季の背後に、いつの間にか切なげな声をさせた相原が寄り添っていた。彼は雅季の腕に手を添えて、雅季の髪に鼻先を触れさせている。 「…近い」 いつものように彼の身体をグイッと押して逃れると、相原は普段の調子に戻っていた。 「むしろ場所をわきまえて、抱きしめなかったことを感謝してほしいね」  各球技はそれぞれの場所でトーナメント式に同時に進行していく。バレーボールは体育館で、ソフトボールとバスケットボールは校庭で行われた。  自分のチームが負けると、生徒達は各々好きな球技の応援にまわっていった。進行していくに連れ、観客が増えていくのだ。 「お兄ちゃん、勝ち残ってますか?」 バレーボールに出場していたはずの瑠璃が、バスケの試合を見守っている雅季の傍らに現れた。彼女のチームも負けたようだ。全学年が参加する球技大会で、一年生のチームが最後まで勝ち残ることはあまりない。 「残ってるよ。次、決勝」 「え! すごい!」 コートを二面使って行っているので、雅季の担当とは別ブロックの瞬の試合は見ていなかったが、結果の報告を受けると、彼のチームは順調に勝ち続けているようだ。 (…もし、優勝したら…) 瞬にせがまれて乗った賭けが、今では遠い過去のできごとに思える。 「―先生! 後ろ!」 突如聞こえた瞬の叫び声が、幻聴のように雅季の鼓膜に響いた。反射的に振り返ると、雅季をめがけて、すごい勢いでバスケットボールが飛んできていた。  ―避けねば、と咄嗟に思ったが、そうしなかった。次の瞬間には、大きな鈍い音と共に激しい痛みが雅季の顔面を襲った。 「ヒナちゃん!」 反動で倒れ込んだ雅季に、近くにいた瑠璃や生徒達が叫び声をあげながら駆け寄ってくる。  雅季は鉄のような匂いを感じながら、クラクラと眩暈がする中で、瞬の声だけが鮮明に聞こえていた。その声を一番近くで感じた瞬間、フワッと身体が浮かんだ。  瞬に抱き抱えられると、雅季は久しぶりの彼の香りに、心がホッとするのを感じていた。  保健室に辿り着くと、養護教諭の小林は出払っていた。校庭にはいなかったので、バレーボールをやっている体育館の方に行っているのだろう。  空いているベッドにそっと雅季を下ろすと、瞬はまず雅季の鼻血を止血してから小林を呼びに行こうとした。 「先生、大丈夫…?」 瞬は青白い顔をして、心配そうに眉間に皺を寄せながら、雅季の血だらけになった顔をティッシュで拭っている。何日かぶりに間近に見る彼の顔は、懐かしささえ感じてしまう。できれば笑顔が見たかったと、雅季は朦朧とする意識の奥で思った。 「…瞬……」 焦がれていた彼の温もりに、無意識に引き寄せられるようにすり寄っていた。 「……好きだ…」 「――…」 瞬は微かに身体を震わせると、雅季の唇を受け入れていた。血に湿ったキスは、鉄の味がする。  僅かに触れた唇が離れると、雅季はそのまま身体の力が抜けて瞬に凭れかかった。雅季の髪を撫でながら、瞬は苦しそうに瞳を潤ませる。 そして、ゆっくりとベッドに寝かせると、体育館へ急いだ。 ――保健室に雅季一人が残されると、隣のベッドのカーテンが静かに開いた。岬は血に染まったTシャツで寝ている雅季を眺めると、血の痕が残る唇にそっと触れた。 「ん…、…瞬…」 無意識の中で、雅季の唇が恋人の名を呼ぶと、岬は冷徹な眼差しで雅季を見下ろした。 「やっぱり嘘だったね、ヒナ…」  

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