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第4話

 目を覚ますと、雅季は保健室のベッドの上だった。カーテンに囲われた室内が、薄っすらと橙色に染まっている。 「雛野先生、起きました?」 気配に気付いたのか、小林がカーテンを静かに開けて入ってきた。彼女に具合を訊かれながら、雅季はぼんやりとする頭の中で、状況を思い出そうとした。 (…試合中のボールが、飛んできて…) 「鼻も骨折はしていないようですね。痛むようなら、病院で診てもらってください」 「…球技大会…」 「もう終わりましたよ。じきに雪村君が来てくれるので、彼と一緒に、今日はもう帰宅してください。一応、週末は安静にしていてくださいね」 ――真っ赤に染まった坂道を、雅季は瞬に付き添われて下った。彼は雅季の荷物を持ちながら、雅季の身体を労わるようにして側に寄り添っている。 「…決勝、どうだった?」 「…負けちゃった。やっぱり倉田のチームには敵わなかったよ」 「…残念だったな…」 二人はぽつりぽつりと、久しぶりの会話を紡いだ。いつもとは違う、居心地の悪い静寂が纏わりついて重く圧し掛かる。 「…ありがとう、先生。…瑠璃を庇ってくれて」 ボールを受けた時のことが、雅季の記憶の中になんとなく思い出された。あの時、雅季の背後には瑠璃がいた。 「先生がボールを避けていたら、瑠璃に直撃してたもんね…」 咄嗟にした雅季の判断を、瞬はちゃんと理解していたのか。そういえば、隣のコート側にいたはずの瞬が、一番にボールに気付いて雅季に叫んでいた。  彼はいつのもように、雅季を見つめていたのだろうか。いつも、授業中に向けてくる甘ったるい眼差しで。いつも、玄関で迎える愛おしそうな瞳で―。 「…先生のそういうところ、…俺、…大好きだった」 突然、雅季の足が前に進めなくなった。歩き方を忘れてしまったかのように、動かない。 (――だった) 雅季の少し先で、同じように立ち止まっている瞬の足の先が見える。 「…先生、俺…ごめん――」 瞬の声が、震えている。 (――ごめん) 彼の言葉を、心の中でただ反復した。感情まで、麻痺したように動かない。 「…もう、…好きって、言えない…」 涙に濡れたような彼の声が、消え入りそうに揺れている。 「…だから…俺…、先生と、別れなきゃ……」 純粋な彼の感情は、純粋な言葉となって、純粋な彼自身を苦しめている。雅季はひどく落ち着いた様子で、傍観者のように、そんな彼を見守った。 「どこまで?」 雅季の無感情な声が、沈黙の中で響いた。 「どこまでやめる? 朝、一緒に登校するのも?」 雅季の言葉はいつもと変わらず、淡々と続く。 「夕食は? 前に離れた時、瑠璃ちゃんがすごく心配してたから」 瞬は次々に溢れる涙を、震える指先で懸命に拭っている。これではまるで、自分の方が別れ話を切り出したみたいだと、雅季は他人事のように思った。 「そんなに泣くな。俺は大丈夫だよ」 瞬はいつも、雅季の為に泣いてくれる。こんな、最後の時まで―。 (――動け) 捕らわれた様に固まってしまった足を、雅季は何とか前に出そうとした。  雅季が再び歩き始めると、瞬は息を殺して涙を堪えながら後に続いた。俯いて雅季の後をついてくる彼は、まるで親に叱られた子供のようだと、雅季は変わらず冷静に思った。 ――長い、長い、道のりだった。 幾度となく二人で通った道。当たり前のように二人の目に映っていた街並み。見ようと思って見たことのなかった景色が、今日に限って目に焼き付いた。  早く一人になりたかった。けれど雅季の部屋の前に着くと、途端に離れることが怖くなった。別れを言って、ドアを閉めて、一人になったら――。 「荷物、ありがとう」 瞬の手からかばんを受け取ると、雅季はその中からキーケースを取り出す。  キーケースのスナップを外す。  家の鍵を手に持つ。  それを鍵穴に差し、回す。  カチャッと、音が鳴る。  ノブを引くと、ドアが開く。  ―一連の動作が、スローモーションのように目に映る。 「じゃあ」 パタン、と音を立ててドアが閉まると、もう永久に、そのドアが開くことはないように感じた。  「先の事は、どうなるかわからない」――以前、雅季は瞬との未来をそう言った。 あれは誤りだ。どうなるかは、わかっていた。わからなかったのは、「それ」がいつ訪れるのか、ということだけだった――。  ―ドアが閉まった瞬間、雅季は足の力が抜けてズルッとその場に崩れ落ちた。張っていた気が緩んだ途端、涙が止め処なく溢れ出していた。 「…っ―…」 声にならない泣き声が、堰を切った様に込み上げてくる。胸を押さえるようにして、血の滲んだシャツを握り締めると、酸素を欲して喘いだ。 (…なんだ、これ…) 息ができない。苦しい。痛い――。 (――…こんなに…?) 覚悟していたはずだ。受け入れていたはずだ。 ―自分は大人で、男で、彼は恋を憶えたばかりの子供。永遠に続く恋愛じゃないことぐらい、始めからわかっていた。それを承知で、その上で、自分は彼と恋人になろうと決めたのだ。 「それ」が、やってきただけ。ただ、それだけのことだ――…。  ―「ヒナちゃんは男子生徒とデキていて、保健室でイチャついてた、って」 岬はクスッと笑うと、八重歯をのぞかせた。 「まさか本当になるとはね」 球技大会の最中、誰もいない校舎の片隅で、瞬は岬と対峙した。  小林を呼びに行った先の体育館で、たまたま皐から岬が保健室にいたことを聞いた時、瞬はもう覚悟を決めていた。 「先生は、傷付けないで」 痛いほど拳を握りながら、岬に最後の懇願をした。望むことはもう、ただそれだけだ。 「傷付けないよ。――僕は」 岬は血の滲んだ瞬のシャツを見つめた。雅季を抱えた時に付いたのだろう。 「これから傷付けるのは、キミでしょ?」と、岬は勝ち誇ったように、目を細めて瞬を眺めた。瞬は握った拳を、爪が食い込むほど強く握る。 「ごめんね。本当はこんな、脅迫みたいな真似したくないんだけど。キャラじゃないしね」 岬は彼なりに、申し訳なさそうに吐露した。 「…先生は、岬には落ちない」 瞬の最後の抵抗にも、彼は可笑しそうに笑うだけだった。 「皐にも言われたよ。でも、いいんだ。ヒナのことは欲しいけど、とりあえず一番の目的は叶うから」 無邪気な笑顔を瞬に向けて、彼は言い放った。 「僕、ヒナがキミを好きなのが嫌みたい。愛しそうで、幸せそうで、――むかつく」 ――雅季が瞬に、「好きだ」と言葉にしたのは二度目だった。面と向かって言ったのは、初めてだ。瞬の方はもう幾度となく、口癖のように、うっとおしがられるぐらい、伝えてきた言葉。 無口な雅季が、自分の気持ちを表に出すのが苦手な雅季が、「好きだ」と、言葉にしてくれたのに――。 「…先生―…」 自分の部屋に辿り着いた瞬は、足元が崩れ落ちると、ドアに凭れて嗚咽にも似た声をあげた。  ――一番大事な人を、自分の手で傷付けた。守りたいと思っていた、この手で。  瞬は額に両手を当てて、声を殺して泣いた。瑠璃が玄関のドアを開ける音がしていた。  土曜日の夜。夕食のメニューはハッシュドビーフだ。雅季が雪村家を訪れた時、瑠璃がすでに一人で作り始めていた。瞬はまだ帰っていないようだった。  彼女は料理をするようになって、少しずつレパートリーを増やしている。一から作っていたハッシュドビーフの味見をして、最後に雅季が少し味を調えた。 「幽霊画なんて、わたし描けるかなー?」 瑠璃は早くもおかわりをしながら、学園祭で美術部が担当するお化け屋敷での役割の話をしていた。  美術部員はそれぞれ、幽霊を題材にした絵を描くことになったようだ。俗に「幽霊画」と言われる絵を雅季も見たことがあるが、身の毛のよだつような恐ろしい形相をした絵から、美しい雪女を儚げに描いたような、美麗な絵まで様々だ。  今回はお化け屋敷に使うので、前者のような絵を求められているのだろう。確かに、あのような「幽霊画」が旧校舎の暗闇で浮かび上がれば、とても気味の悪い雰囲気が出るだろう。ただでさえ人一倍怖がりの瑠璃が、自分でそんな絵を生み出せるのだろうかと雅季は思った。 「お化け屋敷の一部だから、怖ければどんな感じでもいいよ」 「怖いのなんて無理―!」 三人の食卓での会話はいつも、主に瑠璃がメインでしゃべっている。それに瞬が応え、雅季は大抵いつも聞き役だ。時々話を振られれば、それに対する返事をするぐらいだ。今日も、いつも通りの夕食の時間が過ぎて行く。 「ヒナちゃん、お腹すいてないんですか?」 一向に量の減らない雅季の皿を見て、瑠璃が首を傾げた。 「…ごめん、昼食べすぎたかな」 せっかく瑠璃が作った料理を残してしまい、雅季はとても申し訳なく思った。自分の分は少なめに盛っていたが、それでも全部は喉を通らなかった。 「温かいお茶、淹れようか」 瞬は席を立つと、自分の皿と一緒に、雅季の残した皿を下げてキッチンに向かった。  球技大会を終えたばかりにも関わらず、学校内はもう次のイベントに向けて動き出している。球技大会の後の休みが明けると、瞬は久しぶりに通常の登校時間に学校へ向かった。雅季はちゃんと起きられただろうかと心配しながら、雅季の部屋の前を通りすぎる。  昼休みになると、瑠璃と旧校舎に向かった。昼食後、早速お化け屋敷に関わる全員が、皐によって召集されたのだ。  多くの人間が出入りするようになると、いよいよ旧校舎の静寂は失われるだろう。瞬は図書室の横を通り過ぎる時、いつものように、この扉の向こうに雅季はいるだろうかと考えた。確かめようとはしなかった。  さっきからやけに、図書室の外をバタバタと通り抜ける足音が聞こえてくる。もはや落ち着ける場所はどこにもない。雅季は今日を最後に、学園祭が終わるまでの間は、昼休みに図書室に来るのはやめようと決めた。今、目の前にいる彼も理由の一つだ。 「僕も手伝うことになったんです。お化け屋敷」 「なら、早く行け」 「行きますよー。ちょっとヒナの顔、見てから行こうと思って」 岬は不愛想な雅季に全く怯むことなく、睦言のように甘く囁いている。正式に雅季に振られたことなど、少しも気にしていないようだ。 (厄介だな) 彼はきっと、何を言っても諦めないだろう。そもそも岬が、自分に本気だとは思っていない。たまたまタイミング良く見つけた、自分好みのおもちゃで遊んでいるだけなのだ。一度飽きてしまえば、もう見向きもしなくなる。 (退屈しのぎ…) それが一番、当てはまる言葉だと思った。  すでに将来を決められている彼は、その中で、彼なりに人生を楽しもうとしているのだろう。 (…まあ、でも、もう…) 岬に嫉妬する恋人はもういないのだから、別段困るわけではない。  ――瞬と瑠璃が図書室の横を通り過ぎようとした時、中から出てきたのは岬だった。 「あ、雪村兄妹。偶然だね」 岬は二人を見ると、愛嬌のある顔を向けた。瞬は彼を一瞥すると、挨拶を交わしている瑠璃を置いて先を急いだ。岬は雅季と会っていたのだと、すぐにわかった。  「お兄ちゃん、怖すぎる…」 瑠璃の声に促されるようにして、瞬は声のする方をゆっくりと振り返った。怯えた表情で立ち竦む瑠璃の背後で、美術室にいる全員が同じように怯えた顔をしながら、遠巻きに自分を見ている。  放課後、美術室で作業をしていた瞬は、早速、幽霊画に没頭していた。構想を練っていて、ひたすら下描きを繰り返していた瞬の周りには、いつのまにか恐ろしい形相をした幽霊達の絵であふれ返っていた。足の踏み場もないぐらいに散らばっている。  瞬は焦点の定まらないような虚ろな目をして、無表情でポリポリと頭を掻いた。 「……先帰る」 「え、ちょっとお兄ちゃん! この幽霊達は? 片付けてよー!」 瞬はぽつりと呟くと、喚く瑠璃を背にして、音もなくスーッと美術室から出て行った。 「…雪村先輩、幽霊が乗り移ったんじゃねぇ?」 瞬の背中を見送った一人の男子生徒が囁くと、瑠璃の喚きは悲鳴へと変わった。  この一週間、相原は何も訊かなかった。雅季が何も言わずとも、すでに異変を察知していたらしい。大学時代からの、雅季に対する彼の特技だ。  雅季は相原と二人で、久しぶりに居酒屋に来ていた。教師達の行きつけの、学校の側にある和風居酒屋だ。雅季から誘ったのは初めてだったかもしれない。彼はいつもの軽口を封じて、ただ雅季の傍らにいた。 「そんなに飲んで、あとで後悔しても知らないからな」 雅季は料理にはあまり手をつけずに、アルコールばかりが進んでいた。しばらくその様子を見守っていた相原も、ついに見かねて窘めた。 「…酒に逃げる人間の気持ちを理解している」 「…飯島みたいなこと言って」 すでに目の据わっている雅季を、相原は半ば呆れ顔で見ていた。 「…なんで別れた?」 相原が唐突に、今まで触れなかった核心を突いたが、雅季は相変わらず表情一つ変えない。相原はもう何本目かの煙草に火を付けだした。 「…十代の恋愛感情なんて、そんなものだろ」 相原のライターを持つ手が固まった。耳を疑った。 瞬の方が雅季を振ったとは夢にも思っていなかった相原は、苦々しげに舌打ちをした。 「…煙草の匂い」 「え?」 「大学の時から、変わらないな」 相原は昔からずっと、同じ銘柄の煙草を愛用している。癖のある独特な苦い香りは、人によって好き嫌いのはっきり分かれるような感じの香りだ。最初は雅季も苦手だった。 「……落ち着く。安心する…」 雅季は呟きながら、トロンとした瞳を閉じてテーブルに突っ伏した。相原の煙草の香りに包まれて、大学時代に戻ったような気分だった。 「…くそっ…」 相原はもう一度舌打ちをすると、火照った顔で小さく寝息を立てている雅季を見つめていた。  二人が雅季のマンションに帰りついた時には、もう日付が変わっていた。  相原は千鳥足の雅季を何とか連れて部屋に辿り着くと、スーツのジャケットを脱がせてベッドに寝かせた。 「……変だな…」 相原がジャケットをハンガーに掛けていると、雅季はひとり言のようにぽつりと呟いた。酔いの所為で朦朧とする意識の中を彷徨っている。 「何が」 「……酔ってるのに、まだ痛い…」 虚ろな目を薄く開いて胸に手を当てながら、雅季は天井を見つめた。視界が、滲んだように霞む。―初めて瞬に抱かれた時にも、見た光景だ。 「…もう寝ろ。俺は帰るから」 「泊まっていけば」 予想外の雅季の言葉に、相原は思わず動きを止める。 「…襲われても知らねーよ?」 「よかったな、チャンスだぞ」 相原は顔を歪めて、軽はずみな言動を繰り返す雅季を見下ろした。ベッドの端に腰を下ろすと、スプリングが軋み、雅季の身体が揺れる。 「…後で後悔するって言っただろ」 「……どうでもいい」 一向に天井だけを見つめて、自分を見ようともしない雅季に苛立つと、相原は雅季のネクタイに手を掛けた。首元を緩め、ゆっくりと引き抜く。 (…他の男に触られたって知ったら、傷付くかな…) 相原はそのまま、片手で雅季のシャツのボタンを外していく。  やがて、ほのかに火照った白い肌が露わになると、相原は思わず喉を鳴らした。酔いで湿った息遣いをして、瞳を潤ませている雅季の扇情的な姿態は、相原の理性を刺激して止まない。 (…まだ、傷付いてくれるのか―…?) 雅季はまわらない頭の中で、ぼんやりとそんなことだけを考えていた。  相原はベッドに乗り上げると、雅季の上に伸し掛かり無理矢理視界に割り込んだ。 「ここでアイツに抱かれたのか?」 欲情を宿した相原の瞳が、眼鏡の奥から鋭く雅季を突き刺した。  その瞬間、我に返ったようにカッとなった雅季は腕を振り上げたが、なんなく相原に押さえ込まれた。 「キスされて、身体中舐められて、後ろに突っ込まれて―」 言葉で雅季を辱めながら、相原ははだけた胸元をそっと指でなぞる。 「俺に同じこと、して欲しいんだ?」 「っ―…」 雅季は掴まれた腕に必死に力を込めながら、彼から逃れようともがいたが、酔いに侵された身体には、うまく力が入らない。 「今更、抵抗? 人のこと散々煽っておいて、それはないんじゃない?」 相原の冷徹な声が、容赦なく雅季を追いつめて行く。 「忘れさせて欲しいんだろ? あのガキのこと」 もがいている雅季の顎を強引に掴むと、相原は薄笑いを浮かべた。 「アイツより、うんと気持ちよくしてやるよ――」 彼の唇が近付いてくると、雅季はありったけの力を振り絞って足を上げた。 「―――っ!」 雅季の渾身の膝蹴りが、相原の腹に打ち込まれると、彼は腹を抱えて倒れ込んだ。 「―…いっ…てーー…」 相原は痛みに呻いたが、程なくしてそれは笑い声に変わっていた。 「…相変わらず容赦ないな、お前…」 雅季は身体を起こして息を上がらせながら、呆気に取られて彼を見守った。 「――それでこそ、雅季だよ」 その台詞を聞いて、雅季はようやく彼の真意を理解した。 (―…わざと…) 雅季は再び瞳を潤ませた。今度は、相原に対してだった。彼の気持ちを、自分は軽々しく踏みにじったのだ。 「この俺を慰み者にしようなんて、百年早いんだよ」 ニッと口の端を上げた彼は、いつもの調子に戻っている。雅季の良く知る、軽口を叩き合う相原だ。彼はベッドを降りると、腹をさすりながらドアに向かった。 「あっちで、寝かせてもらうわ」 「…ごめん、皇―…」 一瞬、ノブに掛けた手の動きを止めたが、相原はそのまま出て行った。  土曜日の早朝にも関わらず、瞬は学園祭の準備をする為、学校へ行こうと家を出た。  廊下に出ると、ちょうど他の部屋のドアが閉まる音がした。反射的に目を向けると、雅季の部屋の前に相原が立っていた。彼も瞬の音に気付いたのか、こちらを振り返っていた。 「―――」 瞬は思わず目を見開き、彼の出で立ちに息を呑んだ。相原は昨日と同じスーツを着ていて、ネクタイをはずした胸元は少し肌蹴ている。  雅季の部屋に泊まって、これから帰るところのようだった。瞬はそのことに気付いた途端、頭に血が上っていた。次の瞬間には、相原に掴み掛かっていた。 「―おはよう、雪村」 すごい勢いで胸倉を掴まれた相原は、涼しい顔をして笑みを浮かべていた。彼の身体から、雅季と同じボディーソープの香りを感じた瞬は、身体を震わせた。 「っ―…先生に―…」 直接的な言葉にできない瞬に対して、相原は鋭い眼差しを向けた。 「なんで怒るの? 自分が雅季を捨てたクセに」 「っ―…」 瞬は開きかけた口を閉じると、必死に歯を食いしばって耐えた。相原はそんな瞬を見据えると、掴まれた胸倉を、ゆっくりと引き剥がしにかかる。 「安心しな。俺がたっぷり慰めてやったから」 わざと意味深な含みを持たせて言うと、すかさず瞬の拳が飛んだ。相原は間一髪でその拳を止めると、真剣な眼差しで瞬を見つめた。瞬は捕らわれた腕を震わせながら、息巻いている。 「――なんで傷付けた」 怒りを押さえたような低い声で、相原は彼の拳を潰す勢いで握っている。 「――…っ」 瞬は激昂した目つきで相原を睨むと、彼の腕を乱暴に振り払い、質問には答えず足早にその場を去った。  「おかえり」 夕暮れのマンションの前で、瞬は買い物帰りの雅季と遭遇した。 雅季は白いパーカーにジーンズという格好で、いつものようにひよこのエコバッグを手にぶら下げている。先に瞬に気付いて、声をかけたのは雅季だった。 「…夕食の買い出し?」 「ああ。今日は俺が作るよ」 「…何?」 「トンカツ」 二人は郵便受けに来ると、隣り合ったポストを開いて中身を取り出した。 「…重くない?」 瞬は今夜のメニューを聞くと、夕刊を手に取りながら少し心配そうに言った。 「最近ずっと、胃に優しいものばっかりだっただろ。お前ら成長期なんだから、ガッツリしたのも食べないと」 「……うん」 ここ数日、瞬が作る夕食は全て消化の良い物、喉を通しやすい物ばかりだった。湯豆腐、雑炊、うどん。雅季の分はいつも少なめに盛りつけられ、雅季はそれを残さず食べた。  エレベーターに乗り込むと、七階のボタンを押す瞬の背後で、郵便物の確認をしていた雅季は、一枚のハガキを見て手を止めた。 「……先生、今朝…」 ハガキは京都の実家からのものだった。先日の麻有の誕生日に、雅季が贈ったプレゼントのお礼状だ。ハガキの表には、麻有が雅季の贈った大きなクマのぬいぐるみを、嬉しそうにギュッと抱きしめている写真が印刷されている。  雅季はその微笑ましい姿に、思わず顔を綻ばせてしまっていた。やがて視線を感じて顔を上げると、雅季を見つめていた瞬と目が合った。彼はその瞬間、パッと視線を逸らせる。 「…悪い、何か言った?」 「…ううん。何でもない…」 瞬が言い淀んでいる内に、エレベーターは二人の住む階に到着した。雅季はもう一度ハガキに目を向けると、裏を捲って添えられているメッセージを読んだ。字は高季のものだ。 「! 先生? 着いたよ?」 閉まりかけたドアを慌てて押さえると、瞬はエレベーターの奥から出てこない雅季に声を掛けた。雅季は瞬の声にハッとして顔を上げると、眉間に皺を寄せながら急いで降りた。 「…先生?」 「悪い、ボーっとしてた」 瞬の横を通り抜けると、足早に部屋に向かった。 『瞬君によろしく。いつでも連れて来いよ』――お礼の文末に、高季はそう添えていた。  パーカーを着ている雅季の姿は、ずっと前から密かに瞬のお気に入りだった。普段はスーツ姿の多い雅季が、パーカーを着ると途端に幼く見えるのだ。中でも白い色は、雅季にとても似合っている。無垢な美少年といった風貌で、瞬の目にいつも眩しく映った。  そのことを言ってしまうと、もう着てくれなくなってしまう気がして、瞬はこれまで「かわいい、かわいい」と思いきり愛でたい気持ちを、必死に心の中に抑えていたのだ。  瞬は食事中、正面に座る雅季を盗み見ていた。痩せたな、と感じていた。白いパーカーに埋もれる、同じように真っ白で透き通るような肌。襟足の長い漆黒の髪が、首すじを流れている。目にかかる前髪を揺らしながら、長い睫毛の下に憂いを帯びた瞳を伏せている。やり場のない気持ちに奥歯を噛みしめながら、瞬は雅季の艶やかな姿態に眩んでいた。  雅季のすらっと長く細い指先は、だいぶ前に箸を置いたままだ。瞬と瑠璃の為と言って作ったトンカツは、やっぱり雅季にはまだ重いようだった。小さめのロースカツを自分の分にしたようだったが、それさえもまだ半分以上残っている。  瞬の淹れた温かいお茶を啜りながら、雅季はどこか遠くを見ているようだった。携帯電話の着信音がリビングに響くと、雅季はパーカーのポケットをまさぐった。 「―はい。ああ、何? …ライター? 見当たらなかったけど…」 電話の相手の声は聞こえなかったが、瞬にはすぐに思い当った。今朝の相原の姿が目の前に浮かぶ。彼の言葉が、頭の中で延々とリピートされていた。 「ちょっと待て」と言うと、雅季は通話口を押さえるように、携帯電話を胸に当てた。 「悪い、戻ったら片付けるから」 二人にそう言うと、リビングを出て自分の部屋に帰って行った。  相原の置いて行ったライターを、探しに行ったのだろう。瞬の胸の痛みは、募る一方だった。  ライターは寝室で見つかった。雅季が相原を膝蹴りした拍子にでも落ちたのだろう、ベッドの側に転がっていた。 (朦朧としていたとは言え、馬鹿なことをしたな…) 雅季は電話を切ると、片手に携帯電話、もう一方にライターを握ったまま、ベッドの上に仰向けに寝転がった。 (…相原に、また酷なことをした―…) 彼の自分への気持ちを知っていながら、それを逆撫でするような真似をしてしまった。  本気で相原と寝ようとしたわけではなかった。酔いに後押しされて、自暴自棄になっていた雅季は、ただ漠然と瞬のことだけを想っていたのだ。  窓辺に置かれたひよこのぬいぐるみが、雅季を見ているように感じた。隣には先日増えた、お風呂用のおもちゃのひよこが並んでいる。サムとエリザベス。そして一緒にポストカードが立て掛けてある。箱根の、紅葉の景色。 (…なんで、あんな目で見るんだ――…) 瞬の存在を常に過敏に感じている雅季は、彼が自分に向けてくる視線に気付いていた。エレベーターで、優しい眼差しで自分を見ていた。食事中、熱を帯びた眼差しで自分を見つめていた。まるで――… (…愛しい、みたいに―…) ズキン、と大きな音を立てて胸が痛んだ。それは嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからない痛みだ。 (…俺を好きじゃない瞬を、俺は今まで知らない…) 瞬は雅季と出会った瞬間に恋に落ちた。それ以来、彼が向けてくる眼差しは、いつも優しくていつも愛しそうだった。 (……同じ) 彼が向ける眼差しは、これまでと何ら変わりないように思えてしまう。けれどそれは、未練がましい願望なのかもしれない。  以前は毎日とまではいかなかった雪村家での夕食も、親密になるに連れて頻度が増え、いつの間にか毎日の日課になっていた。  それは今も、瑠璃に心配をかけたくないこともあって、夕食を共にする日常だけは変えずにいる。今となっては、唯一残された接点だ。  今夜は珍しく、瞬は倉田達と夕飯を食べると言っていた。日曜日の今日も美術室に行って作業をしていたから、その後そのまま彼らと合流したのだろう。  最近は学園祭の準備で、普段よりも遅い時間になった夕食を瑠璃と終えると、彼女の携帯電話が鳴った。瑠璃は「お兄ちゃんだ」と画面を見ながら呟くと、通話ボタンを押した。 「はい。…え、倉田先輩? …はい、…はい」 電話の相手は瞬ではなく倉田のようだった。瑠璃は彼と話しながら、困ったような目線を雅季に向けている。  その様子を見て、異変を感じた雅季は「貸して」と言って手を差し出した。彼女は少し躊躇ったが、大人しく携帯電話を渡した。 「――倉田? どうした。雪村は?」 電話口に突然現れたのが教師である雅季だと気付くと、倉田は明らかに狼狽え出していた。一通り事情を聞き出すと、雅季は倉田の家の住所を訊いて電話を切った。 「迎えに行ってくるから。瑠璃ちゃん、一人になっちゃうけど。ちゃんと戸締りしてて」 雅季は瑠璃に言うと、泥酔しているらしい瞬を迎えに行った。  家族が留守の倉田の家で、瞬を含めた数人で「家飲み」をしていたようだ。 酔い潰れた瞬をそのまま泊めることもできたが、瞬はいつも、瑠璃が一人になってしまう為外泊はしないことを知っていた倉田が、心配して電話を掛けてきたのだった。  教師の雅季に飲酒がばれたとあって、他の連中は逃げるように帰ったのだろう。雅季が着いた時には倉田しかいなかった。 「ヒナちゃん、ごめん! 反省してます!」 着くと早々に、倉田は両手を合わせて怯えた顔で謝罪した。雅季は倉田の担任であり、元顧問でもある。 「…お前一人が犠牲か。災難だな」 「薄情な連中っスよ!」 「自業自得だけど」 「……」 部屋に上がると、瞬はベッドに横になっていた。向こう側を向いて、抱き枕らしい大きなイルカを抱きしめている。 「…雪村。帰るぞ」 彼の肩を揺すって声を掛けると、瞬はピクっと反応して振り返った。雅季の顔を確認すると、彼は赤い顔をだらしなく緩ませた。 「先生だー。 先生―…」 幼い声で嬉しそうに言うと、瞬は雅季の首に腕を巻き付けた。猫のようにゴロゴロと喉が鳴っているように感じる。 「…あの、雪村は、いつもは一人だけ飲まないので…。免疫がないんだと…」 抱きつかれて微動だにしない雅季を見た倉田が、おそるおそる背後から言った。 「…お前、墓穴って言葉知ってる?」 ぼそりと雅季に返されると、倉田は「あっ」と言って青ざめた。  倉田の家は学校の向こう側だったが、歩けない距離ではないので、雅季は瞬を支えながら夜道を歩いた。支えると言っても、酒臭い瞬が後ろから雅季の首に巻き付いた格好だったが。 (…なんで酒なんて…) 倉田がポロっと漏らした台詞によると、瞬は友達同士でそういう機会がある時でも、一人だけ飲まないでいたようだ。真面目な彼らしい。 (…何かあったのか…?) 人はつらいことがあると酒に逃げる。つい先日の自分がいい例だ。 「先生―…、先生…」 酔っている瞬はおぼつかない足取りで、相変わらず甘ったるい声で雅季を呼んでいる。 「…歩きづらい」 雅季は文句を言うけれど、その腕を引き剥がそうとはしなかった。久しぶりに感じる瞬の温もりは、雅季を眩ませる。  ―「おかえりなさい! ありがとう、ヒナちゃん」 瑠璃に出迎えられて、雅季は瞬を引きずったまま彼の自室に向かった。真っ暗な部屋に入り、電気をつけようとする雅季のうなじを、瞬がおもむろにペロッと舐めた。 「っ…! ちょっ―…」 ビクンと身体が反応すると、雅季は慌てて彼を引き剥がした。正面に向き合うと、彼の大きな腕にそのまま抱きすくめられてしまう。 「…先生の匂い…、先生の味…」 (な…、に―…) 酔いの所為で無意識なのか、瞬はきつく雅季を抱きしめると、匂いを嗅ぐように深く鼻で息を吸いながら、味わうように首にペロペロと舌を這わせている。 「…んっ―…」 強烈な快感が、雅季の背筋を走り抜けた。火照った瞬の身体に包まれ、もう触れることはできないと思っていた彼の熱に浮かされると、雅季の胸は早鐘のように高鳴り、抗えなくなってしまう。 「先生…好き…」 「――」 雅季が息を呑むと、次の瞬間その口は瞬によって塞がれていた。 「んぅ―…」 アルコールの匂いを纏った瞬の舌が、雅季の口腔をねっとりと掻き回した。熱い舌に貪られて、酔いが移ったかのようにクラクラとした雅季の足元が崩れると、二人はベッドに倒れ込んだ。  瞬は尚も雅季の唇を求めながら、甘い言葉を繰り返している。 「好き…先生…、大好き…」 (…酔ってるだけだ、…本気じゃない―…) 雅季は自分に必死に言い聞かせながら、頭では抵抗しなければとわかっていた。けれど彼の温もりは、強烈な媚薬のように雅季の身体中に沁み渡って簡単には抜けない。 「先生…、大好きだよ…」 瞬のトロンとした瞳に見つめられて、雅季の胸はズキンと切なく鳴った。 「ヒナちゃん、お水持ってきました」 瑠璃が部屋のドアを開けた瞬間、雅季は上に乗っていた瞬を思いきり蹴飛ばしていた。壁にぶつかって呻いた瞬は、そのまま意識を失った。  ―とても甘くて幸せな夢を見たような気がする。瞬は重い頭で起きると、アラームを止めた。起き上がると、自分が制服を着たままなことに気が付いた。 「……なんでだっけ」 ぼんやりとした頭でリビングに行くと、瑠璃が学校に行く支度をして出るところのようだった。 「お兄ちゃん! 大丈夫? お酒抜けた?」 「……酒?」 頭の働かないままの瞬を見かねて、瑠璃は呆れたように説明した。 「憶えてないの? 倉田先輩の家で泥酔して、ヒナちゃんが迎えに行ったんだよ?」 瞬の顔から一気に血の気が引くと、反対に目はバッチリと覚めた。瑠璃はその様子を横目に、更に瞬を追いつめた。 「酔っていたとはいえ、妹がいる家でイチャつかないでよね。ヒナちゃん相当怒ってたよ?」 瑠璃は意地悪くニヤっと笑うと、何やらご機嫌の様子で、弾んだ足取りで部屋を出て行った。  今日の美術の授業は写生だった。学校の敷地内で、各自テーマに沿った場所に散らばっている。グラウンド、弓道場、教室、それぞれ様々な場所で描き始める中、瞬は一人ぽつんと渡り廊下の側にいた。  本校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下だ。側には数本の木が植えられていて、柔らかい風に吹かれて、葉擦れの音が心地良く響いている。  瞬は木の下に腰を下ろすと、幹に寄りかかりながら渡り廊下を見渡した。ちょうど良い距離で渡り廊下全体が見える。その向こうにはコスモスの花壇があり、構図としても申し分ない。コスモスの見頃真っ只中で、花壇では薄紅色や真っ白の花々が咲き乱れている。  元々人通りの少ないこの場所は、授業中なこともあり、時が止まったかのように静かだ。聴こえる音と言ったら、時折奏でる葉擦れの音ぐらいだ。  スケッチブックを広げて、対象を目に捉えると、そこにいつかの雅季と自分の姿が現れた。去年の春、身体測定があった日の二人だ。瞬は目標だった「雅季の身長を超える」事が叶って、嬉々として雅季を探しまわった。もう一つの目標を叶える為に。  あの頃は、想いを告げられただけで幸せだった。雅季の側にいられるだけで満たされていた。それが段々、想いが募っていくのと比例して欲張りになっていった。もっと近くにいたい、もっと触れたい、特別になりたいと――。  静寂の中で、渡り廊下の木の床板が、突然軋んだ音がした。過去に想いを馳せていた瞬は、ハッとして本校舎側を見ると、そこに雅季がいた。   あの日と同じ、図書室に向かうところなのだろう。雅季は渡り廊下を半分ほど進んだところで、瞬の存在に気付き、少し驚いた様子で立ち止まると、その目はすぐに怒りを宿した。 「…美術の時間だろ?」 雅季は睨みをきかせながら、瞬の手にスケッチブックがあるのを一瞥した。瞬は気圧される中、それをギュッと握りしめている。 「…写生だから」 雅季は室内履きの靴のまま瞬の側までやってきて、スケッチブックを覗き込んだ。そこにはまだ描き始めたばかりで、かすかに渡り廊下だと見てとれる、鉛筆の線が引かれているだけだ。 「…テーマは?」 こんな地味な場所で人知れず描いている瞬を不思議に思ったのか、雅季は訝しげに訊いた。 「…学校生活の思い出」 小さな声で瞬が答えると、雅季は何も言わないまま、瞬の頭上からもう一度スケッチブックを見つめた。そして見比べるように、正面の景色を眺める。 「…思い出、か…」 ぽつりと呟いた雅季の横顔を見上げると、瞬は眩しそうに目を細めた。  雅季の愁いを帯びた美しい横顔が、自分と同じようにあの日を見ていた。たぶん、瞬とは違った意味を持って――。 「…先生、昨日…ごめん―…」 「飲酒した事? 泥酔した事? キスした事?」 怒りを含んだ雅季の声が一気に並べ立てると、瞬は唇を噛みしめて口を噤んだ。 「それとも、好きだって何度も囁いた事か」 瞬はカァッと顔が熱くなると同時に、冷や汗が滲んだ。雅季はその様子を横目に見つめている。 「…お前、何か隠してる?」 瞬はわずかに身体を震わせたように見えたが、次の瞬間には、それは錯覚だったかのように、彼は引き締まった顔をしていた。 「全部、ごめん。酔ってて、何も憶えてない」 瞬らしからぬ冷ややかな声に、雅季は苛立ちを募らせた。 「…勝手だな。散々、人のこと振り回しておいて」 「…抵抗すればよかったのに」 「できるわけないだろ! 俺はお前が好きなんだから!」 雅季が思わず声を荒げると、瞬は言葉を詰まらせて顔を歪ませた。  雅季は息を上がらせながら、「くそっ」と小さく呟くと、その場にしゃがみ込む。 「…でも、先の事はどうなるかわからないんでしょ?」 瞬の声音が弱弱しく変わると、雅季は顔を上げて彼を見た。 「瑠璃と話してるの、聞こえたよ。…先生の好きは、ずっとじゃないんでしょ? 俺が先生を好きだったから、それにほだされただけなんだ…。現に、もう相原先生と―…」 乾いた音が、小さな静寂の空間で響いた。雅季が瞬の頬を叩いた音だった。  ――頬を赤くした瞬は、顔を伏せたまま言った。 「―いつか来る終わりを、俺が早めただけだ」  ――雅季が去った後、瞬はスケッチブックの影で奥歯を噛みしめた。 自分が欲張らなければ、こんなことにはならなかった。せめて卒業するまで我慢していたら、こんな風に雅季を傷付けることだけはなかったのだ。  ――叩かれた頬が、風に吹かれてヒリヒリと痛んだ。  右の手のひらがジンジンとしている。「好き」と幾度となく囁かれながら、甘いキスを繰り返されれば、雅季には抗える術などない。  雅季は図書室に行くのを止めて、職員室に引き返していた。 (…ずっと変だったのは、それが原因だったのか…) 雅季が瑠璃と話した言葉が、彼の中でずっと燻っていたのだ。いつか彼が苦しそうに吐き出した言葉が、脳裏によみがえる。「先生を失いたくない」と――。  雅季の言葉を聞いて、瞬も自分と同じように不安を抱えていたのだ。 (…相原がどうとか言ってたな…) 気持ちが高ぶって思わず手を出してしまったが、瞬は相原のことを何か言いかけていた。 ―「お前、雪村と何か話した?」 授業を終えて戻って来た相原に単刀直入に訊くと、彼はしばらく無言で雅季を見つめた。 「…何かって?」 「そういうのいいから」 容赦なく彼の駆け引きを切った、余裕のない雅季の様子に相原は苦笑する。 「土曜の朝、マンションでばったり遭遇したこと? アイツ、俺とお前が寝たと思ったみたいだったけど」 ―土曜日の夕方、エレベーターで言いかけた言葉。雅季が夕食中、ライターを探しに出た事。真面目な瞬が飲酒した事。一瞬にして晴れた霧が、頭で考えるよりも先に雅季の身体を突き動かした。咄嗟に職員室を出て行こうとした雅季の腕を、相原が掴んで止めた。 「今更否定して、意味ある?」 相原の真剣な眼差しに見つめられて、雅季は怯んだ。瞬の誤解を解いたとして、その後は? 『いつか来る終わりを、俺が早めただけだ』 (…そうだ、このままなら…) 必死に、以前の関係は守り抜いているのだ。このままなら、恋人としては叶うはずないと思っていたものが、手に入る。――この距離でなら。 (―…永遠) 雅季の身体から力が抜けたのを感じると、相原は掴んでいた腕を解放した。  「お兄ちゃん、ヒナちゃんに許してもらえなかったの?」 大きなキャンバスに向かっている瞬の向かいで、瑠璃が盛大にため息をついた。 「今日の夕食、ヒナちゃんが作るって。お兄ちゃんにメールさえしないなんて重症だね」 瞬はいつもの作業場で、いつもなら窓側に置くキャンバスを反対側に置いていた。自分が窓際に座り、自分だけがキャンバスに向き合える位置だ。  二人が別れたことは、瑠璃には気付かれていないようだった。あの翌日にはもう、いつも通り食卓を囲み、いつも通り接することに全神経を注いでいたのだから。  瑠璃は今回のことも、ただ雅季が未成年の飲酒と、瞬がした泥酔の上の行為に怒っているだけだと思っているようだ。  大きなキャンバスに立ちはだかれて、瑠璃から瞬の表情は見えない。一向に何の反応も示さない瞬に、瑠璃はもう一度深いため息をついた。 「わたし、今日は皐さんと食べるから。門限までには帰る」 「え、仲直りしたの?」 瞬が思わず立ち上がると、椅子がガタッと音を立てて倒れた。見えた瑠璃の顔は、照れくさそうに頬を染め、唇を尖らせていた。 「…別に喧嘩してたわけじゃないもん…。お兄ちゃん達と違って」 小さくぼそぼそと言うと、瑠璃は自分の作業机に戻っていった。彼女は友達の長谷と並んで、苦手な幽霊画と格闘し始めている。  瞬は幸せそうな表情の瑠璃を眺めると、倒れた椅子を起こして座った。大きな壁に遮られて、目の前には誰の姿も見えなくなる。自分と絵だけの空間だ。  まだ真っ白のキャンバスの上に、昨夜の自分の愚かな行為が映し出された。だいぶ酔っていたが、無意識ではなかった。今となっては全部、憶えている。  全て酔いの所為にして、焦がれていた愛しい人を抱きしめた。雅季が抵抗しないのをいいことに、何度も、何度も、キスをした。朦朧とする意識の中で「好き」と、本心を吐き出していた。  ―「できるわけないだろ! 俺はお前が好きなんだから!」―雅季らしからぬ荒い声が、つい出てしまったような本音が、瞬の胸の奥に突き刺さって抜けない。  雅季の部屋に来たのはどれくらいぶりだろうか。思い返していくと、それはあの日だった。高季が瞬を訪ねて、美術室まで来てくれた日。雅季に誕生日プレゼントをあげた日。雅季に制服を着せた日。とても、幸せを感じたあの日――。  今夜の夕食を作ると言った雅季の方が瞬よりも早く帰宅したので、雅季は自分の部屋のキッチンで作り始めていたのだ。テーブルには豚肉の生姜焼きと揚げなす、大根サラダが並んでいる。 「…悪かった。叩いて」 雅季は箸をいじりながら、上目遣いでこっそりと覗うように瞬を見た。彼は生姜焼きに伸ばしかけた手を止めて、そんな雅季をキョトンと見つめている。 「…ううん」 「でも許したわけじゃないから」 「…うん」 瞬はフッと微かに口元を緩めると、弱弱しく微笑んだ。  二人の喧嘩の形。大抵いつも瞬が雅季を怒らせて、ひたすら瞬が謝って、しばらくすると雅季がそれを許す。口ではいつまでも文句を言いながら。―出会ってから、幾度となく繰り返されてきたパターン。これから先も、きっと。 「瑠璃ちゃんと飯島、仲直りしたんだ。よかったな」 「うん。いつの間に、って感じだよ」 「…そういえば今日見かけた時、飯島、浮かれてたな…」 能面のような表情の彼女のどこが、と言われれば上手く答えられない。しかし、最近の皐はどことなく変だったように思う。学園祭のことで頭がいっぱいなせいかと思っていたが、彼女は瑠璃の為に距離を取って、自分は息を殺しながら、ただジッと待っていたのだろう。二人が仲直りをしたということは、瑠璃が答えを出したということか。皐のあの様子からすると、良い答えを。 「…変だよな」 大根サラダばかりを、シャリシャリと食べ続けていた雅季の箸が止まった。ぼんやりと虚ろな目は、どこか遠くを見ている。 「一番近くにいた相手なのに、悪い答えを出すと、途端に距離ができる」 ひとりごとのようにぽつりと呟く。雅季は、皐と瑠璃のことを考えながら、大学時代の相原との関係、恋人でなくなった瞬のことが重なっていた。雅季は瞬の視線に気付くと、僅かに潤んだ彼の瞳を受け止める。 「俺はそうなりたくない。お前とは」 雅季の真剣な、優しい眼差しに触れて、瞬は堪えられなくなる。 「…俺も、先生を失いたくない―…」 まばたきをする度に、瞬の瞳から涙がポロポロと零れる。シャツの袖でそれを拭いながら、必死に息を殺すその姿を、雅季はやっぱり愛しいと感じてしまう。  ―「でも先生の好きは、ずっとじゃないんでしょ?」―瞬の、あの言葉は間違っている。 (……困ったな) このままでは、自分は永遠に瞬に片思いかもしれない――雅季はぼんやりとそう思ったが、不思議と心は穏やかだった。  雅季に想いを伝えただけで、幸せそうにしていた瞬の姿を思い出した。あの時の彼の気持ちが、今ならわかるような気がする。  屋上から眺める瞬の姿は、自分の知らない他人のように見えた。 (…三年になってからだけで、もう何人目だ?) 校舎の裏の陰で、瞬は女生徒と一緒にいた。様子から察するに、いつものごとく告白に呼び出されたようだ。遠くてよくわからないが、彼は雅季に見せる普段の顔とは違っている。優しい表情で、物腰柔らかな様はいつも通りだが、どこかよそゆきの顔だ。  女生徒は顔を赤く染めて、俯きがちにしている。彼女の緊張が、こちらにまで伝わってくるようだ。瞬は頭を掻いている。困った時の彼の癖だ。 (…いつか、誰かを好きになるんだよな) ひっきりなしに痛んでいた雅季の胸は、今はもう痛みに慣れ過ぎて鈍感になっているようだった。引き換えに喉の辺りにずっとある違和感が、そのまま胸に続いていて重い。 (…次は、何の障害もない相手を…) 瞬の側にいることを選んだ以上、彼が次の恋をするのも間近で見ることになるのか。素直な彼はきっと、恋をしたら隠せない。 (…俺を見つめたあの瞳で、別の誰かを見つめる…) 年相応の相手と、ごく普通の恋愛をする。友達にも言えて、家族にも紹介できて、堂々とデートができて――。雅季には何一つ、叶えてやれなかったことだ。 (俺を抱きしめたあの腕で、別の誰かを抱く――) 瞬の大きな手が視界に映る。彼の姿を見ていると、遠くにいるはずの彼の温もりが、匂いが、リアルな記憶となって雅季を包んだ。 (俺に触れたあの唇で、あの指先で、あの身体で――) いつの間にか、フェンスを掴んでいた手に力が入っていた。手のひらに金網が食い込んでいる。 「本当モテますね、雪村君」 ひんやりとした風と共に、隣に岬が現れた。雅季は驚いた素振りも見せずに、一瞥しただけだった。彼は雅季と並んで、眼下を眺めている。 「こんな所から盗み見ですかー?」 岬は咎めるような口ぶりに似合わない、爽やかな笑顔を向けた。 雅季は無言で、相変わらず瞬を見下ろしている。女生徒は俯いたまま、ペコペコと瞬に頭を下げて、駆け足でその場を去った。残った瞬が、息を吐いたのが肩の動きでわかる。 「あーあ、振っちゃった。かわいい子だったのに」 雅季は身体の向きを変えると、フェンスにそのまま寄りかかった。 「…どこにでも現れるな、岬」 「ここは元々、僕の指定席ですよ? 今回ばかりは、ヒナから飛び込んできたんだなー」 岬の視界に、こちらを見上げる瞬の姿が映った。静けさの中で、風に乗った声が聞こえたのだろう。彼は岬に気付いたようだった。たぶん、隣にいる後ろ姿が雅季だということにも。  岬は小さく手を振りながらにっこりと笑いかけると、彼を尻目に雅季の正面に向かい合った。カシャン、とフェンスが鳴り、岬は金網に両手をついて雅季を囲った。 「飛んで火にいる夏の虫――って、やつですね」 「…また誰かに見られたら困るんだけど」 「そしたら、また僕が守ってあげます」 「…そもそもが、お前のせいだろ」 岬はケラケラと無邪気に笑うと、自然な流れでその顔を、雅季の顔に重ねようとした。  程なくして彼の唇は、雅季の手のひらに制止された。 「…キスぐらい、よくないですか? 挨拶ですよ」 「ここは日本だ」 雅季の手に顔を押しやられると、岬は頬を膨らませてドイツ語で小さく文句を言う。  雅季はふと何気なく、もう一度眼下に視線を向けていた。 「――操立て? …の、わけないか。恋人、いないって言っていましたもんね?」 屋上を見上げていた瞬と目が合った。―ように、思った。それは一瞬で、彼はすぐに顔を伏せて、その場から消えた。 「…ああ。いない」 岬は、誰もいなくなった校舎裏をいつまでも見下ろしている雅季の横顔を見ていた。何の感情も宿していないような、冷たく美しい横顔。皐みたいだ、と岬は思った。

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