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第5話

 「…なんで、そうめん?」 「涼しい時にそうめんを食べられるのは、今年はこれが最後かもしれない」 雅季と皐の間で、いつかと同じやり取りが繰り返された。夕食の食卓に、久しぶりに皐が加わっている。雅季は皐の存在に気付くと、無意識に気を引き締めていた。 「先生、つゆ温かいのにする?」 「…ああ」 雅季が席につくと、瞬はお湯で作ったつゆをその前に置いた。テーブルには涼しげな器に盛られたそうめんと、天ぷらが並んでいる。  心なしか、今夜はいつもと違う空気が流れているような気がした。瑠璃が普段よりも大人しく、雅季は度々皐の視線を感じている。 「最近、蒼太どうですか」 皐の直球な質問が、食卓を一瞬で張り詰めさせた。皐から話しかけてくるなんて滅多にないことだ。雅季は、斜め前からじっと自分を見つめる皐を見返した。 「…相変わらずだけど」 「相当気に入っているみたいです。珍しく」 皐を見据える雅季の視界に、正面に座る瞬の姿が入っている。動きを止めている彼を、直視することができない。 「…そのうち飽きるだろ。本気じゃない」 「本気だと思います。蒼太なりに、ですけど」 皐はそう言い切ると、雅季に向けていた視線を瞬に移した。これまで通りだったら、瞬は絶対に参加してくる話題だ。 (……試してる) 皐の意図を察知した雅季は、普段と違う饒舌な彼女に納得した。勘の良い彼女が二人のことを知るのは、時間の問題だろう。それよりも、瞬が皐に何も言っていなかったということが、雅季には意外だった。 「ヒナちゃん、今日、屋上で岬先輩と二人でいたって本当ですか?」 「…ああ。何で知ってるの?」 「あずさの仲の良い先輩が見たって。あ、噂にはなってないと思います」 瑠璃の突然の言葉に、雅季は面喰った。あの時屋上には、他には誰もいなかったはずだ。やはり学校内だと、どこで誰に見られているかわからない。 (…キスされそうになったところは、見られていないんだな) あの現場を見られていたのなら、保健室での時と同様に噂になるはずだ。 (…さすがにまずいな。どうにかしないと) 岬の過度なアプローチは、そろそろ放っておくわけにはいかない。しばらくすれば飽きるだろうと思っていたけれど、皐の言い分からすると、それはまだ当分先になりそうだ。  夕食後、皐を送って行くのはいつも瞬の役目になっていた。けれど今夜、彼女が指名したのは雅季だった。半ば強引に選ばれた雅季は、肌寒くなった夜道を皐と並んで歩いた。 「…それで?」 しばらく続いていた沈黙を、雅季があえて破った。 「わたしが一番守りたいのは姫です」 話があって、わざわざ雅季と二人きりになったのはわかりきったことだったが、皐の第一声は、そんな雅季の予想を大きく裏切った。 「次がヤサオ君。なので、必然的に先生も含まれます」 皐のその公式に些か疑問を感じたが、あえて遮らなかった。 「蒼太は性格に難ありだけど、彼はわたしの同志」 皐と自分は、似ていると言われることが多いけれど、それは表面だけだと雅季は前々から思っていた。彼女は一見不愛想に見えるけれど、本当はとても素直で実直で、周りの人間を大切にしている。内面は、自分よりもむしろ瞬の方が似ていると感じていた。 「別れたんだ。俺が振られた」 雅季はただ事実を言葉にした。皐は表情を少しも変えずにいる。夕食時の様子で、すでに見当はついていたのだろう。 「―それは、球技大会の後ですか」 何でも見透かす彼女には慣れていたつもりだったが、放たれた鋭い言葉に、雅季は目を見張らずにはいられなかった。 「…なんで」 皐は雅季をじっと見据えながら、何やらいろいろ考えを巡らせているように、しばらく押し黙っていた。 やがて口を開いた皐の漆黒の瞳は、深い色をして揺らいでいた。真実を理解したけれど、正解はわからない――そんな困惑した表情に映った。 「――ごめんなさい」 皐は顔を強張らせて張り詰めた声で謝ると、決意したように唇を引き締めている。 「わたしは、ヤサオ君の意思を尊重する―」 皐はそう宣言すると、後はもう何も言わずに歩き続けた。彼女のそんな様子は初めて見るようで、雅季はそれ以上追及できなかった。  雅季と別れて電車に乗った後、皐は自宅の最寄り駅で岬と会った。彼もまだ制服のままで、改札の前で見知らぬ女子高生達と話しながら皐を待っていた。  岬が手を上げた視線の先に皐の姿を見ると、彼女達は腰が引けたように去って行った。 「皐といると、女の子が寄りつかないんだよねー」 片手にコーヒーショップのカップを持ちながら、岬は残念そうに呟いた。 「蒼太がそんなに執着するの、意外だった」 隣を歩く岬の話には耳をかさず、皐がおもむろに言うと、岬はキョトンとした顔をしたが、すぐに彼女の言いたいことを理解した。 「…いつ気付くかと思ってたよ。遅かったね」 岬は少しも悪びれずに、涼しい顔でコーヒーを啜る。皐に見透かされることは、始めからわかりきっていた。 「最近の皐、余裕無くしてたもんね。恋ってすごいなぁ…」 他人事のように言うと、岬はわざとらしくため息をついた。 「て言うか、皐が俺に嘘つくなんてねー。地味にショックだったよ…」 瞬と雅季の関係を訊かれ、皐は少しも躊躇わずに嘘をついた。旧知の仲である岬の性格を把握していて、瞬に忠告までした。 「そんなに大事な友達なんだね。…でも、だからこそ、何もできなくて歯痒いんでしょ」 二人は赤信号で歩みを止めると、知り尽くしているお互いの心を見透かし合う。  球技大会の日、生徒会長の皐は球技には参加せず、運営に専念していた。養護教諭を呼びに体育館に現れた瞬の、慌てた様子に気付いた彼女は声をかけた。瞬のシャツには血が付いていて、その経緯を説明する彼の唇にも薄っすら血が滲んでいた。  皐は話を聴き終わると同時に、岬が球技大会をサボって保健室で寝ているのを思い出していた。二人が別れたのがその日だったと知り、全ての事柄が繋がったのだ。けれど真相を知ったところで、皐にはどうすることもできない。  瞬は雅季の為に身を引いた。大切な雅季を傷付けてまで、彼自身を守った瞬の気持ちを考えると、皐が安易に、雅季に真実を伝えることはできなかった。  岬は瀬戸のように、明確な脅迫をしたわけではないだろう。彼のことだから、瞬自身が自分の意思でそうするように仕向けたはずだ。瞬にとって、岬はきっかけに過ぎない。二人が教師と生徒である限り、解決策はないのだから。 「…そんなに、何に執着しているの」 いつの間にか青に変わっていた信号にせっつかれて歩き出した岬の背後で、皐はまだ立ち止まったままだ。 「……自分でも、よくわからない」 横断歩道の真ん中で立ち竦んだ岬の向こうで、青信号が点滅していた。  旧校舎の中で唯一、お化け屋敷としては使わない予定の化学室は、今は物置と化している。使わない机や椅子、段ボール箱に埋もれるようにして、瞬はいつもの作業場をここに移して、絵を描いていた。美術室は翌日の学園祭に向けて、すでにホラー映画のセットのようになっていて、とても絵を描けるような環境ではない。  ついこの間までまっさらだった大きなキャンバスには、瞬の巧みな筆遣いと感性によって、素晴らしい一枚の風景画になっていた。学園祭の準備の合間を縫って描き続けていたこの絵も、今日で完成する。 「こんな所に隠れてた」 最後の仕上げに熱中していた瞬の前に、いつの間にか教室に入ってきていた皐がキャンバスの陰からぬっと顔を出した。 「会長さん! もう皆帰ったかと思ってた…」 集中していた瞬は、急に現れた皐の姿に飛び上がって驚いた。心臓がバクバクと鳴っている。  彼女は構わず無言で瞬の側に寄った。そういうタイプの人間に慣れている瞬は、特に気にするわけもなく、彼女の次の動向を黙って見守った。  皐と二人きりになるのは久しぶりだ。学園祭の準備に追われて、彼女は毎日忙しそうにしていた。とうとう明日が本番だ。 「……ごめん」 絵の中の幼い少年の姿を、皐は思いつめたような眼差しで見つめた。瞬は「何が?」と訊こうとしたが、開きかけた口を閉じる。訊くわけにはいかないと、無意識に感じた。  皐はもう、いつもの見透かすような瞳に戻ってそんな瞬を窺ったが、彼女も先を続けようとはせず、開いた窓から外を眺めている。 「…満月」 ぽつりと零した皐の言葉に反応して、瞬も窓の外を振り返った。ずっと窓を背にしていたので、全く気付かなかったが、背後の夜空に真ん丸の月が美しく輝いている。  いつかベランダの仕切り越しに、雅季と見上げた月を思い出した。電話だけで繋がっていたあの頃、二人きりで会うことは叶わなかったけれど、心はしっかりと繋がっていたあの頃。 「…月が綺麗ですね」 あの時聴いた雅季の台詞じみた言葉が、自然と瞬の口をついて出ていた。月の光を浴びた雅季の美しい横顔が、今でも鮮明に浮かぶ。皐は愁いを帯びた瞬の横顔を見上げた。 「…言う相手が違う」 「……え? 何が?」 瞬は皐の言っている意味がわからず、首を傾げて彼女を見下ろした。皐はジッと瞬を見据えながら、無感情な声で言った。 「愛してる」 瞬は目を丸くして彼女を見つめ返した。 「夏目漱石が、I love youをそう訳した。直接的に言えない日本人の、遠回しな告白」 皐はもう一度、まばゆい光を放つ満月を見上げながら、言った。 「月が綺麗ですね――」 皐は月から目を離さずにいたけれど、隣で瞬が泣いているのが空気を伝った。  瞬は口に手を当てながら、音もなくボロボロと涙を零していた――。  今朝の職員用のロッカールームは異様な光景だ。去年は去年で、時代がタイムスリップしたような、または某テーマパークの控室のような光景だったのだが。  普段は何の変哲もないスーツ姿やジャージ姿しか見ないこの部屋に、今は様々な高校生がひしめき合っている。有名校のブレザーの制服や、息子から借りたという学ラン。中年の教師陣は少し気恥ずかしそうに、けれど懐かしいと言って、まんざらでもない様子だ。高校生、というには無理がありすぎる面々だが。  相原は竹下が用意した黒い長ランを着ていた。高い詰襟をきっちりと上まで締め、端正な知的な顔で、切れ長の目に眼鏡を掛けたその様は、まるで不良達を裏で操る黒幕のような風貌だ。 「…似合いすぎ」 「惚れた?」 「裏番長に興味ない」 雅季と相原の軽快なやり取りに、周りの教師陣も笑いながら加わってきた。 「雛野先生、違和感ないなー。生徒に交じったら、わからなくなりそう」 「ここの制服とは、盲点だったなぁ。考えましたね」 「…はあ」 竹下が気を利かせて、雅季の分の衣装も用意してくれようとしていた。相原の長ランに合わせて、雅季には短ランを。しかし雅季は当初の予定通り、瞬が用意した制服を着ることにした。雅季の部屋のクローゼットに保管していたそれは、瞬の部屋の香りはもう薄れてしまっている。雅季はロッカーの扉の前で、鏡を見ながらネクタイを結び始めた。 「…普通着るかね。別れた男の服なんて」 雅季にだけ聞こえる小さな声で、鏡の向こうの相原が言う。雅季は黙ったまま、キュッとネクタイを締めた。  ――普段と違ってカラフルに飾られた校内は、すでにお祭り騒ぎではしゃぐ生徒達の笑い声に包まれている。朝のホームルームに向かう廊下で、雅季は生徒達の黄色い悲鳴や冷やかしの声を、四方八方から投げかけられた。雅季と相原の制服姿は、女生徒を中心に瞬く間に話題の的になっていた。 「ヒナちゃん、こっち向いてー!」 三年一組の教室を横切る時、雅季は思わず呼びかけに反応すると、振り向いた瞬間に眩しいフラッシュに晒された。反射的に閉じた目を開けると、目の前で一組の女生徒がカメラをかまえている。「記録係」と書かれた腕章を着けている彼女のずっと背後で、窓に寄りかかりながら、こちらを見ている瞬の姿が目に入った。  瞬の制服に身を包んでいる雅季を、彼は眩しそうに目を細めて見つめている。その眼差しは、これまでずっと、雅季に差し出されてきた温かさを今も尚、宿していた。雅季は目頭がじんわりと熱くなるのを感じると、色めき立っている生徒達の中を通り過ぎた。  賑わう校内を制服で歩いていると、雅季は一生徒として溶け込んでいた。学校の関係者以外の人々からは、普通に生徒と認識されているようだ。  手の空いた雅季は、旧校舎へ急いでいた。前評判からすでに話題になっていた、旧校舎全体を使ったお化け屋敷は、思った通り大盛況のようだ。本校舎の窓からチラっと見えただけで、旧校舎前の渡り廊下は行列で埋めつくされている。  窓の外に気を取られていた雅季は、前方から現れた人影に気付かず、そのまま衝突した。 「! すみません!」 相手も前方不注意だったらしく、雅季が謝るよりも先に慌てて頭を下げた。尻もちをついていた雅季は、側に落ちていた物体に気付いた。USBメモリのようだ。 「…これ、落とした?」 ぶつかった生徒に拾って差し出すと、彼はひどく慌てた様子で、ひったくるようにしてそれを奪った。同時に雅季の顔を確認すると、怯えたような顔をした。 「はい、すみません!」 彼はうろたえたようにして、逃げるようにその場から走り去った。 (…なんだ?) ぶつかったのが教師だと気付いて、まずいと思ったのだろうか。雅季は不思議に思ったが、自分の目的を思い出し、先を急いだ。  ―旧校舎の前は案の定、遊園地のアトラクション待ちのようにごった返していた。「最後尾」と書かれた札を掲げた生徒が、おおよその待ち時間を大きな声で叫んでいる。  どうしようかと考えあぐねていた雅季に、皐が後ろから声を掛けた。 「入りたいのですか」 彼女はお化け屋敷だけでなく、学園祭全体を取り仕切っている。ちょうど他の様子を見回ってきたところのようだった。 「…雪村、中にいる?」 二人はしばらく、お互いに真剣な眼差しで見つめ合った。言葉数の少ない二人は、顔を合わせると、よく無言で会話する。 「生物室の準備室に、一人でいます。ついて来てください」 やがて皐はそう言うと、先頭に立ち行列の間を縫って入口の前に出た。そこには受付をしている副会長の高坂がいた。彼女が座る机の上には、旧校舎内のルートを示す地図と小さなランタンがいくつか並んでいる。それらを持って旧校舎内をまわるのだろう。入口のドアの上には、おどろおどろしい大きな文字で「亡霊学校」と書かれていた。このお化け屋敷のテーマだ。 「探し物は二階にあると思います。暗いので気を付けてください」 皐はランタンを一つ雅季に手渡すと、周囲の人間にも聞こえる大きさで言って、雅季を通してドアを閉めた。 「雛野先生、どうしたの? 探し物?」 呆気にとられていた高坂が、首を傾げながら皐に問いかけた。 「昨日ここに来た時、落としたみたい。すぐに必要な物らしい」 それらしく理由をこじつけると、皐は高坂の隣に腰掛けて受付に参加した。  「亡霊学校」のシステムはこうだ。一人に一つずつ、小さなランタンと地図が渡され、一グループ最大三人までで入る。一人ずつで入場する客もちらほらといた。  地図に記されたルートを順番に周り、それぞれの教室に設置されている血文字を探し出すというものだ。各教室で見つけた文字を並べると、ひとつの物の言葉になる。ルートは下の階の教室から始まり、最後の美術室で完成した言葉の物を、今度は記憶を頼りに、降りて行きながら見つけていく。制限時間は三十分。ランタンは三十分経つと消えるように設定されている。クリアできなかった場合、足元さえ見えない真っ暗な中を、手探りで出口まで進む事になるのだ。それに加えて、それぞれの教室や廊下には様々な恐怖の仕掛けがある。演劇部の面々による、ホラー感満載の迫真の演技も待ちうけている。全て皐によるシナリオと監修だ。  以前からの幽霊の噂も合わさって、「やばいくらい怖いらしい」と、前評判からとても話題になっていた。 「…なんか恨みでもあるのかな」 皐の徹底した恐怖の演出に、瞬は感心を通り過ぎて執念のようなものすら感じてしまった。  関係者だけで、前もって実際にデモプレイをした時には、あまりの怖さに泣き出す女生徒もいた。とりわけ、三十分後になると強制的に訪れる漆黒の闇が、本当に恐ろしかった。  それを踏まえた結果、各階にサポートする人間を配置することになったのだ。リタイアした人を出口まで案内したりする為で、懐中電灯を常備している。一階と四階の階段付近に一人ずつ、三階には記録係を兼ねている岬が、そして二階の生物準備室に瞬が待機していた。  各階から、絶叫にも似た悲鳴が頻繁に聞こえてくる。瞬はすでに暗闇に慣れた目で、時々外の様子を窺っては、一人きりの時間を持て余していた。  そこに突然、準備室をノックする音が聞こえると、油断していた瞬はビクッと身体を跳ねさせた。ここに人がいるのを知っているのは関係者だけだ。驚いた拍子にドキドキと打ち始めた心臓を落ち着かせると、そっとドアを開けた。 「――話があって来た」 ランタンのほのかな明かりに照らされて、暗闇の中から現れたのは雅季だった。幽霊以上にあり得ないはずの訪問者に、瞬は目を丸くして言葉を失う。 「お前は何も言わなくていいから。俺の話を聴いてほしい」  瞬はひどく狼狽していた。ランタンの僅かな光の中で、ぼんやりとその表情が浮かび上がっている。闇に包まれた、静まり返った空間は、やけに心臓の鼓動の音だけが響いていた。二人の呼吸や、唾を飲み込む音さえ互いに伝わるようだ。遠くの方では、客達の叫び声や悲鳴が、ひっきりなしに聞こえている。  雅季は静かに息を整えると、決心したように彼の瞳を見つめた。 「俺はずっと怖かった。―お前の初恋が、いつか終わるのが」 雅季がおもむろに話し出した内容は、瞬の心を激しく揺さぶり始める。 「十代の恋愛は移り気だ。ましてお前は初恋だから、長くは続かない―そう思っていたし、それでいいと納得していた。だから、先の事はわからないと言った」 瑠璃と話していた言葉の意味の真実を、包み隠さずに告白した。 「お前に別れを切り出された時、その『いつか』が来たんだと思った」 瞬の呼吸が何か言いたそうに少し乱れたが、そのまま開きかけた口を結んだ。 「―…だけど」 雅季は揺れるランタンの光の中で、微かに瞳を潤ませる。 「…俺の、願望なだけかな…」 口元でうっすらと、自嘲的に笑うと、雅季は瞬に視線を投げかけた。 「今も、お前の態度全部が、俺を好きだと言っているような気がする――」 ランタンのせいでそう見えるだけなのか、瞬の瞳も揺らいだように雅季には見えた。 瞬の側まで歩み寄ると、彼を見上げてゆっくりと手を伸ばした。佇む彼の頬に手を添えて、そっと撫でる。 「俺を見つめる瞳は、今までと何ら変わらない」 瞬が雅季だけに向けてきた、優しくて、穏やかで、愛おしそうな眼差し。 「俺を扱う態度は、今でもすごくあったかい」 別れた後、思うように食事が取れなくなった雅季を労わってくれていた。 「…泥酔したのも…」 普段飲酒などしない瞬が、泥酔するまで酒を飲んだこと。その時、「好き」と囁きながらキスしたこと。今思えば、あれは相原が雅季の部屋に泊まったすぐ後の出来事だった。 「…俺が相原と寝たと思って、ショックだったんだろ」 瞬はびくりと身体を震わせると、その顔を僅かに強張らせた。  その様子を見守っていた雅季は、頬に添えていた手を彼から離すと、ぎゅっと握りしめた。眉を寄せて、唇を噛みしめる。気付くと、瞬を見つめる視界が霞んでいる。 「――…ごめん」 何かを悟ったように、雅季の張り詰めた声が空気を震わせた。  瞬は、潤んだ瞳で苦しそうに自分を見つめる雅季を、同じように苦しそうな顔で見つめ続けている。 「…わかっていたのに。お前は、何より俺を大事にしてくれる。俺自身だけじゃなくて、俺の家族も、思い出も、立場も……」 『俺が先生を守る為には、何をしたらいい――?』 いつか、瞬が雅季に差し出してくれた言葉がよみがえる。瞬をわざと傷付けた雅季に、彼は他には何も言わず、ただそう言ってくれた。  彼の行動理念は、いつだってそれだった。雅季に想いを伝えて、他には何も求めなかったことも、瀬戸と対峙したことも、いつだって。瞬の中で、自分の気持ちよりも何よりも、最も優先すべきもの。当たり前のように与えてくれていた愛情が、雅季の涙となって次々に溢れた。 (…どうして、俺は―…) こんなに確かなものを疑っていたのか。なぜ信じることができなかったのか。大きな後悔だけが、波のように押し寄せてくる。 「俺が臆病だったせいで、お前を傷付けた―…」 「……傷付けたのは、俺だよ…?」 上擦った泣き声で吐き出した雅季に、瞬は唇を噛みしめた。 「俺を傷付けることで、一番傷付いたのはお前だ」 雅季は涙を拭うと、その瞳を真っ直ぐ瞬に向けた。 「……俺を、守る為に――…」 雅季が自力で辿り着いた正解は、瞬が一人で、必死に守り続けた決意を大きく揺さぶった。  瞬は拳をきつく握り締めて、今にも雅季を抱きしめてしまいそうな自分の身体を、ありったけの理性で押さえ付けた。  小さく震える瞬を見て、涙を堪える泣き虫なはずの瞳を見て、雅季は固く閉ざした彼の拳にそっと触れる。 「――邪魔してごめん。もう行くから」 最初に「何も言わなくていい」と言った雅季は、言葉通り何の返答も求めなかった。  「亡霊学校」に足を踏み入れた瞬間から、様々な恐怖イベントが雅季にも降りかかってきていた。雅季はいつも通りの平常心でそれらをかいくぐった。演劇部の精鋭も呆気にとられるぐらい、颯爽と生物室へと歩みを進めた。  瞬に自分の気持ちを全て打ち明けると、少しだけ心が軽くなった気がした。彼が、雅季を抱きしめたいと全身で言っているのがわかった。同時に、その気持ちを必死に耐え続けていた姿は、彼の決意の大きさを物語っていた。  全てを理解した皐が、瞬の意思を尊重して口を閉ざしたのも、わかるような気がする。この現状を何とかする為には、雅季が自分で答えを見つけて打破するしかないのだと思う。  生物準備室を後にし、来た道を戻ろうと階段に向かうと、下から階段を上がってくる人影と目が合った。ランタンの明かりに浮かび上がった姿は、雅季と同じ制服を着た大柄の男子生徒だった。 「…一人なんて度胸あるな」 すれ違いざまに雅季が声をかけると、彼は雅季をまじまじと見た。 「…ああ。お互い様だろ?」 彼は野太い声で答えると、ズカズカと階段を上がって行く。  雅季は彼の態度に違和感を抱くと、しばらく立ち竦んで考えを巡らせた。思案した後、踵を返して後を追うと、彼は二階には寄らず、そのまま上の階に進んでいた。  気付かれないように後を追うのは簡単だった。ただでさえ闇しかない空間だ。周りからは悲鳴や仕掛けの音が響いている。  男子生徒は三階に辿り着くと、ルートには含まれない化学室の方へ向かった。確か化学室は、物置として使われているはずだ。雅季の違和感はすでに不信感へと変わっていた。  すれ違った時の彼の態度は、雅季が教師だとは思っていないようだった。ここの生徒なら雅季を知らないはずがない。制服を着ている雅季を、何の疑いもなく生徒だと思い込んだようだ。  それに加えて、彼の声に聞き憶えがあった。花火大会の夜、同じこの場所で、同じように暗闇の中、すれ違った警備員。あの時、雅季は顔を伏せていたので、相手の顔を見たわけではないが、同じシチュエーションで聞いた声は、あの時の警備員に似ている。  化学準備室の前で立ち止まった彼は、辺りをキョロキョロと確認すると、小さくドアをノックした。すると中からそのドアが開いた。中に誰かいるようだ。 (…なんだ?) 雅季は少し躊躇したが、そこまで悪い想像には至らず、何をしているのか確かめる為に、同じようにドアをノックした。  再び訪れた漆黒の闇の中で、瞬は手のひらに食い込んだ爪の痕を眺めていた。 できることなら、雅季の細い身体を、この腕の中にきつく抱きしめたかった。できることなら、もう全てを告白してしまいたかった。  赤裸々に語ってくれた雅季の本心は、瞬の心を深く抉った。瞬の心情を理解した雅季は、自分の本音を曝け出しただけで、瞬には何も求めなかった。肯定も、答えも――。  ポケットに入れていた携帯電話が震えた。マナーモードに設定していたので、音は鳴らない。皐からのメールだった。交代の時間はまだ先のはずだと、不思議に思いながらメールを開く。 『まだ美人先生と一緒?』  「――」 やはり、雅季を中に入れたのは皐のようだ。瑠璃と仲直りをした後の皐は、それまでの挽回をするように、半ば強引に雅季と瞬に近付いていた。夕食の時、わざと岬の話をして試していたこともわかっていた。そして全てを察した皐が、瞬の気持ちを優先して沈黙を守ってくれていることも知っている。 「…本当、いい友達だな」 彼女のメールの内容を、瞬は些か不思議に思った。  雅季がここを出て行って、もうだいぶ経つ。瞬に会いに来ただけの雅季は、とっくに旧校舎から出ていると思っていた。雅季が持っていたランタンも、すでに明かりは消えているはずだ。まだ中にいるとしたら、真っ暗な中で行動している事になる。  雅季のことだから、怖くて動けなくなっているような事はあり得ないが、ならば、なぜまだ出ていないのか――。何か根拠があるわけではなかったが、ふと嫌な予感が瞬を襲った。  ―それを確信に変えるように、瞬の頭上で大きな物音が響いた。  ドシン!と、何かが倒れたような音だった。その後にガシャン、とガラスが割れるような音が続く。この部屋の真上は化学準備室。誰もいないはずの部屋だ。  瞬は一気に不安を募らせると、部屋を飛び出し、急いで階段を駆け上がった。  雅季の髪に、割れたランタンの破片が飛んだ。床に倒れ込んだ雅季の上に、学生服を着た警備員の男が馬乗りになってくる。 「見られたんだから、仕方ない。口封じするしかないよな?」 雅季を押さえ付けながら、彼はニタッと笑うと、雅季のシャツを力任せに引き千切った。ボタンが音を立てて飛び散る。 「何、お前。男犯す気?」 彼の背後に、同じようにニヤニヤとしている男が立っていた。彼も同様に制服を着ているが、やはり生徒ではないようだ。二人は雅季が教師だと気付いていない。 「男に興味はないけど、コイツなら全然イケるな。その辺の女よりずっとクる――」 彼は雅季の肌蹴た白い胸元を、舐めるように見つめた。ゴクリと喉を鳴らす音が、雅季の耳にも届く。 「副会長にバレても知らねーよ?」 「アイツは関係ねーよ。こっちはとっくに冷めてんのに、向こうがしつこいだけ」 (―…副会長って…) 入り口で受付をしていた高坂の事か。それを聞いて、雅季の中で全ての真相が繋がった。 「ちゃんと携帯で撮れよ。これをネタに黙らせるんだからな」 雅季の上に乗っている男が、乱暴に雅季のベルトに手を掛ける。 「叫んでもかまわねーよ? あちこちから聞こえるし」 勝ち誇ったように男は言うと、ベルトの留め金を外し始める。その瞬間、雅季の頭上の先でガチャガチャとドアノブを回す音が響いた。その音は男の手を止めたが、鍵が掛かっているドアは開かない。 「――次の客か?」 「…いや、次はまだ先のはずだ」 背後の男が携帯電話の画面を確認している。その内に、ノブを回していた手はドンドンとドアを叩き始めた。 「先生! 先生いる?」 雅季の聞き慣れた声が、扉の向こうに聴こえた。叫ぼうとした雅季の口を、男が咄嗟に封じた。  人の気配はしていた。けれど何の返事もなく、瞬はますます不安を掻き立てられる。  ――雅季の身に何かが起きている。焦りが瞬を突き動かし、叩いていたドアを、今度は壊す勢いで蹴飛ばし始めた。旧校舎は老朽しているとはいえ、そう簡単には壊れない。 「――どうしたの?」 暗闇の中から、カメラを首に下げた岬が現れた。記録係の岬の担当は、そういえばこの階だ。血相を変えた瞬の様子に、ただ事ではないと感じたのだろう。岬は眉間に皺を寄せ、困惑した色を浮かべている。  瞬は口を開きかけると、岬の背後から続いて現れた姿に気を取られた。岬はなぜか、体育教師の多田を引き連れていた。 「―雛野先生が、中に―」 瞬の言葉に、二人は途端に表情を強張らせた。間髪いれずに、多田は手に持っていた鍵の束を使って、急いでドアを開けた。  ドアが開け放たれると、瞬の視界に、押さえ付けられた雅季の姿が飛び込んだ。一瞬で逆上した瞬は、気付いた時には、雅季の上に乗っていた男を殴り飛ばしていた。 「瞬! やめろ!」 尚も男の胸倉を掴んで殴ろうとした瞬を、雅季の張り上げた声が止めた。  息を上がらせた瞬は、肩を上下させながら冷静さを取り戻すと、やがて男を放した。そこにすかさず岬が駆け寄り、ポケットから取り出した手錠を男に掛けた。  時を同じくして、もう一人の男は逃げようとしたが、出口を多田に阻まれて難なく取り押さえられた。岬がまた同じように手錠を掛けている。おもちゃの手錠のようだ。  雅季に寄り添って、肌蹴たシャツの前を合わせていた瞬は、テキパキとした二人の様子に呆気にとられる。 「雛野先生、大丈夫ですか?」 雅季の乱れた服装を見て、状況を察した多田が心配そうに声を掛けた。捕えられた男達は「先生」と呼ばれた雅季に驚いているようだ。 「大丈夫です。かまわず行ってください」 「―後で説明します」 「はい。大体は理解したつもりです」 「外に出たら、岬は戻って証拠写真を撮るので、このままにしておいてください」 教師間でやり取りすると、多田は二人の男を引き連れて部屋を出た。岬は懐中電灯を片手に、多田を先導して行った。  ―「―先生、平気?」 後に残された瞬は、心配げに雅季の顔を覗いた。 「ああ。平気――」 雅季は優しい眼差しで瞬を見つめた。瞬の予想に反して、雅季はケロっとしている。 「お前が来てくれると思ってた――」 雅季が瞬の胸に頭を沈めると、瞬の方が泣きそうになりながら顔を赤く染めた。 「…状況が、よくわからないんだけど…」 この部屋に踏み込んだ途端、怒涛のようにいろいろな事が過ぎ去った。瞬は一人置いてきぼりだ。はてなマークでいっぱいの瞬に、雅季はまず瞬の所を去った後のことから、順を追って説明した。  ――「お化け屋敷に乗じて、USBを売買していたんだろ。多田先生と岬は、現行犯で捕まえる為に張り込んでいたんだろうな」 雅季は運悪くその現場に踏み込んでしまった為に、口封じと称して襲われそうになったのだ。 テーブルの上には、USBメモリがいくつか入った袋と、現金で膨らんだ茶封筒が残されている。側には携帯電話が置かれたままだ。それで共犯の高坂と連絡を取り合っていたのだろう。受付を担当していた彼女なら簡単に画策できる。そもそも、お化け屋敷に便乗しての取引を計画したのも彼女のはずだ。関係者でなければ、こんな計画は立てられない。 「…でも、なんで岬達はそれを知って―」 「…まあ、全ては飯島の策略だろ」 皐が何をきっかけにして情報を得たのかはわからないが、彼女のことだ、このお化け屋敷を利用されて黙っているはずがない。運営の妨げにならないように、ひっそりと現行犯で捕まえるよう段取りをつけたのも彼女だろう。岬に証拠となる写真を撮らせ、力の強い体育教師を確保要員として配置した。外に連れ出された男達も、周りにそれとバレないように、うまく連行されたはずだ。  今思うと、皐は雅季を旧校舎に通した時、わざわざ高坂に聞こえるようにして、雅季が行くのは「二階」だと強調していた。きっと今頃、高坂も皐に取り押さえられているだろう。 「…USBの中身は?」 「…買い手はここの生徒だし、時期から考えて、次の中間テスト問題かな」 彼らはここの制服姿の雅季を、簡単に部屋に通した。  旧校舎に向かう途中、ぶつかった生徒を思い出していた。彼は相手が教師だと気付くと、USBメモリを、慌ててひったくった。 「さすがヒナ! 全部お見通しですね」 先導を終えて戻ってきた岬が相槌を入れた。彼は警察がするように、パシャパシャと証拠写真をカメラに収め始める。 「高坂と彼らは、警備の仕事中に、ここでテスト問題の売買をしていたらしいです。けど学祭の準備で使えなくなって、次の中間の分は、運営中に売買する事を思いついたそうですよ。それが不運の始まりですね」 岬はカメラから視線を上げて、ニッコリと笑った。  それが、この「亡霊学校」に、とても力を入れていた皐の怒りを買ったわけか。  そういえば、以前瞬におぶられて警備員とすれ違ったのも、実力テスト間近の日だった。あの時三階から聞こえた物音も、やはり幽霊なんかではなかったのだ。 「―じゃあ、俺行くね」 いつの間にか雅季の側から離れていた瞬が、明らかにさっきよりも、よそよそしい態度になっていることに気が付いた。瞬は岬には一度も視線を向けず、足早にこの場を去ろうとした。 「――待て」 有無を言わさない響きで、雅季の声が瞬を引き止める。  写真を撮り終わり、証拠品を透明の袋にまとめていた岬も、つられて手を止めた。雅季は瞬と岬に交互に視線を向けている。普段の冷静さを取り戻した雅季は、思考回路をフル活動させた。 「―…そういうことか」 しばらくして、雅季は一人納得したように呟くと、二人を睨みつけながら腰を上げた。 「岬。カメラ構えろ」 雅季は迷いのない足取りで瞬の側まで来ると、おもむろに彼の胸倉を掴んで引き寄せた。そして強引に彼の唇を塞いだ。 「――!」 目を見開いて固まっている瞬に構わず、雅季は更に深く口付ける。  しばらくしてハッと我に返った瞬は、慌てて雅季を引き剥がしにかかった。 「先――」 瞬は息を弾ませながら、顔を真っ赤にしたかと思うと、次の瞬間には青白くなっていた。雅季はそんな彼を尻目にシレッとしている。 「―こんなの、脅迫の材料にならない。お前ら二人して俺を見くびってるだろ」 岬を振り返ると、彼は呆気に取られて固まっていた。こんな岬を見るのは初めてだ。 「…先せ―」 背後で動揺した声が聞こえると、雅季は振り向きながら、すかさず彼の頬に拳を打ち込んだ。 「―特にお前。こんな脅迫に屈するぐらいなら、そもそもお前を受け入れてない」 瞬は殴られた頬を押さえながら、涙目で雅季を見つめた。 「それから、岬。お前が散々、コイツ泣かせてたんだな」 全ての事情を察知した雅季は、今度は岬に向き合うと、変わらず苛立ちを含んだ声で言った。 「コイツ苛めるのはもうやめろ。泣かせていいのは俺だけだ」 雅季が当然のように言い切ると、若干偏ったガキ大将的な言い分に、二人の子供は唖然とした。 「――アハハハッ! やっぱ面白いね、ヒナ」 岬はいつもの調子を取り戻すと、初めて会った新幹線の時のように笑い転げた。 「なんか、むかつき通り越して馬鹿らしくなっちゃった。―いいよ、もうやめる」 笑いすぎて涙目になりながら、岬はあっけらかんと言うと、鳴り出した携帯電話を手にした。 「―皐から呼び出しだ。行かなきゃ」  岬がいなくなると、二人は沈黙に包まれた。部屋の外では、相変わらず叫び声が響き渡っている。雅季に殴られた拍子に座り込んでいた瞬は、赤くなった頬をさすりながら雅季を見上げた。佇んでいる雅季が、睨みを利かせて瞬を見下ろしていた。  そして無言のまま懐中電灯を手に持つと、廊下側のドアではなく化学室に通じるドアから出て行った。瞬は慌ててその後を追う。  化学室の中は、廊下側のドアの窓に暗幕が掛けられ、反対側の窓にはカーテンが引かれているだけだったので、薄暗い程度だった。 「先生! 待って! 俺―…」 「ここ物置だろ。替えのシャツとかない?」 こんなシャツのままでは外に出られないと、雅季は物が散乱する教室内を物色している。 「―先生、ごめん!」 瞬は思いつめた声で叫んだが、雅季は何の反応も示さず、室内をウロウロと徘徊している。 「俺も愛してる!」 雅季の足元がズルッと滑った。  何の前触れもなく、いきなり飛び出した愛の告白に面食らったせいだ。 「―…『も』って、なんだよ…。俺がいつ――」 不意打ちに、思わず顔を真っ赤にしてしまいながら雅季は瞬を振り返る。彼は子供のように、顔をグチャグチャにして泣いていた。 「…先生と見る景色は全部…、綺麗です…」 「――!」 グズグズと鼻を啜っている瞬の台詞は、二人でベランダから見上げた月を、目の前に蘇らせた。あの時の言葉の意味を今更知られて、雅季はますます顔を赤らめてしまう。 「……ずるいな、お前…」 怒ってやろうと思っていたのに。いつものように。  しばらく無視を決め込んで、ひたすら瞬が謝って、そしたら、そのうち許してやろうと。口ではいつまでも文句を言いながら、そう、いつものように――。  足の踏み場もないぐらい、物であふれている教室の片隅に、ポッカリとあいた小さなスペースがあった。教室の一番後ろ、窓際の一画に、まるで秘密基地のように。そこで壁のようにそびえ立っているのは、イーゼルに乗った大きなキャンバスだった。  雅季はそのキャンバスを懐中電灯で照らすと、息を呑んだ。  仄暗い夕闇の中で、純白の雪に覆い尽くされた、真っ赤な灯籠が並ぶ参道。灯籠の一つ一つが淡い光を放って、しんしんと降りつもる雪を照らしていた。遠くの夜空には、弓を張った月が輝いている。  厳かな静寂に包まれているその参道を、紫地の着物の上に羽織を着た女性が、小さな少年と手をつないで歩いていた。少年と母親は幸せそうに微笑み合っている。温かい笑い声が今にも聴こえてくるようだった。 「…昨日、仕上がったんだ」 雅季の側に、いつの間にか瞬が寄り添っていた。  言葉を失って佇んでいた雅季の頬を、ひとすじ涙が伝った。目の前に浮かび上がったものは、雅季の思い出だった。 (……ほらな) 雅季はそっと、思い出の中の母の面影に指を伸ばした。彼女の優しい笑顔が、指先に触れる。 (…こんなに、大事に扱ってくれるんだ―…) いつだって自分は、瞬の温かい愛情に包まれているのだ。今までも、これからも――。 「…先生…、抱きしめてもいい…?」 弱弱しい声が隣で聴こえた。彼は壊れ物でも扱うかのように、おそるおそる雅季に手を伸ばすと、触れるか触れないかの距離でその手を彷徨わせている。  雅季は彼に向き直ると、泣きすぎて真っ赤になったその瞳を見上げた。まだ涙ぐんでいる、濁りのない無垢な瞳は、真っ直ぐ雅季を映し込んでいる。 「…抱きしめたら、もう二度と離すなよ」 瞬の頬に手を添えると、指先に涙が落ちた。彼はその手を握りながら、何度も何度も頷く。 「先生は、俺の生涯の恋だよ――…」 最上級の告白に、瞬きさえできなくなった雅季を、瞬はゆっくりと、力強く抱きしめた。  

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