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第55話「当たり前こそ大切なこと」

その人の良い不気味な笑顔に圧倒されて、鷹夜はおずおずと首を傾げた。 「なん、でしょう?」 ここまで来て、こんなにも自分の事を話したのにまさかやはり、まずい人間たちだったのだろうか。 そう思わざるを得ないような恐ろしさが、今の前田にはあった。 「俺と先輩のセックス、いつ見ます?」 不穏な空気の中、前田だけが楽しそうな声でそんな事を言った。 「、、、、、は?」 「ちょっと待て何の話しだ!!!」 ガタンッ ゴッ 「いたッ!」 前田の横にいた西宮は顔を真っ赤にしながら勢い良く立ち上がり、勢い良く前太ももをテーブルにぶつけた。 その音で、まばらになってきていた周りの客が一斉に彼らのテーブルの方を向いたのだった。 時を同じくして土曜日の芽依の仕事は、「竹内メイ」特集の雑誌の撮影とインタビュー取材が半日。 後の半分は最近良く呼ばれるバラエティ番組の収録が午後から4時間と、ボイストレーニングで終わりだった。 「最近てジム行ってる?」 「行ってるよ。何で?」 「んー、再来月に出る雑誌の表紙の仕事も来ててさあ。でもこれガッツリ脱ぐやつなんだよね」 ぽわんとした頬を膨らませて、何やら悩ましげに中谷が言った。 ボイストレーニングの休憩中、芽依の面倒を見ているボイストレーニング講師の鈴木紗代子(すずきさよこ)は使っているピアノの調子がおかしいのか、先程からずっと鍵盤の端から端まで指を行ったり来たりさせている。 絶対音感はないが芽依でも分かる程、明らかに一音、変にズレた音が聞こえる瞬間があったので練習を中断したところだった。 「え、ダメ?今の俺」 「ううん、確認しただけ。あと、割と久々のこう言う仕事だから大丈夫かなって」 「ん、?」 「"僕まだ"も脱ぐシーンはあったけど健全だったじゃない。これは久々にメイのエロを全展開って感じだからさ、本気って言うか。謹慎前の仕事っぽいでしょ?」 「あー!、うん、そうね」 「やだったりしない?大丈夫?」 「ぜーんぜん。脱ぐの好きって訳じゃないけど、身体作るの好きだし大丈夫だよ」 鷹夜の前で脱ぐのは好きだけど。 何て付け足そうとして、慌ててグッと唇を結んだ。 先日の一件があってから未だに自分を許してくれない恋人と、芽依は一切連絡を取り合っていなかった。 向き合いたいのにここまで放って置かれると、最早こちらとしてもどうしたらいいのかが分からない。 分からない上に、捨てられるのではないかと言う不安と中々進展がない荘次郎の事で、芽依の頭はパンパンになり、またパニック寸前まで来ていた。 (鷹夜くん、、鷹夜くん、会いたい。会いたいよ。ごめんね、俺がいけなかったから、鷹夜くん) 仕方なくピアノではなくてキーボードで代用する事になりレッスンの続きが始まったが、芽依の心はどこかその場からは離れている。 その違和感は分かりやすく、何度か講師の鈴木に怒られる事となった。 (鷹夜くん) 先日、泰清と松本に言われた言葉が芽依の頭の中でグルグルと回っていた。 一体いつまで。 2人が言ったのは、同じようなそんなセリフだった。 「芽依さー、今日ちょっと集中力なかったね」 「ぇ、」 「撮影は大丈夫だったけど、最後のボイトレかな。ちょっと何か、上の空?だった」 痛いところを突いてくるのは長年一緒にいるからだ。 それとは別に、伸びて欲しいと思っているからこそ、中谷は彼にそうやって声を掛ける。 何度目か、携帯電話に鷹夜からの連絡がないかを確認した芽依は肩を落としたところで、更に中谷からのそんな言葉を急に投げられ、当然とは思いつつも更に少し肩を下げた。 今はやめて欲しかった。 いつもよりもショックを受けやすいし、彼らしからぬネガティブなときだからだ。 (そう言えば中谷って前から、俺のことあんまり甘やかさなかったなあ、、いや、ジェンに対してもそうだったっけ) 確かに今日は、最後のボイストレーニングが本当にダメだった。 自分でも集中できていないなと察せるくらいには、頭の中に泰清や松本の言葉が蘇り、最終的には鷹夜の顔が浮かんできて苦しくなってしまったのだ。 何もかも手につかなくなる程ではないにしろ、明らかに影響は出てしまっていた。 「中谷って、俺のこと嫌い?」 鷹夜の事、そして泰清や松本からの厳しい言葉と中谷の言葉が重なった芽依は、25歳らしからぬ子供のような質問を彼女に投げる。 相手を困らせるとは分かりつつも、止める事ができなかった。 そして本当は彼女ではなく、似たような台詞を鷹夜に言いたかった。 「もう俺のことは嫌いになった?」と、恐ろしくて口にもできない質問が、形を変えて、求め先を変えて、試すように中谷へとぶつけられたのだ。 「は?めんどくさ。なに」 「ひどッ!!」 帰りの車の中では中谷の携帯電話から流行りのアーティストの曲が流れている。 たまにチラリとバックミラー越しに芽依を眺め、泣きそうな顔で窓から外を見ている彼の様子を伺って、中谷はため息ではないが静かに息をついた。 「厳しいこと言ってんのは、アンタにこの仕事続けて欲しいからだよ」 「、、、」 「嫌いとかじゃない。大切だから頑張って欲しいの」 ここ数日やけに上の空だった芽依だが、今日は特に酷かった。 復帰してからだいぶ経っているが、ついこの間やっと漕ぎ着けたドラマが終わったばかりで疲れが溜まっているのだろうと彼女は勘違いしてくれている。 それにまた人気が盛り返してきたところで、きっと少し心細いのだろうなとも思われていた。 だからこそ、腐らないで集中して頑張れと言いたくて呆れながらも言葉を続けてくれる。 「それに最近すっごい調子良かったし、周りからの評判もめちゃくちゃ良かったんだから」 「え、そうなの?」 「そうだよ!」 ここで一度激励しておこうと言うのが中谷の考えだった。 しかし別段、中谷が思っているような理由で上の空になっていたわけではない芽依は、窓の外の過ぎゆくネオンの景色を眺め、彼女のそんな言葉に何の気無しにバックミラーにある視線を見つめ返した。 2人の視線はいつも通り、何ともなしにパチンと交わった。 「社長も嬉しそうだったし、こないだのソロシングルだってかなり売れたじゃない。復活したんだなあって思ったよ」 「中谷に褒められるとくすぐったいね」 「あはは!そんなもんよ。でも本当にね、社長も私も嬉しいんだよ」 彼女のふわふわした頬の肉が、今度は嬉しそうにふわんと膨れている。 もちもちしていて見るからにすべすべだ。 触った事はないが、見ているだけでよく分かる。 「、、ジェンがいたときも、もちろん良かったけどさ」 そして薄目を開いて懐かしそうに前を向いた。 信号が青に変わると2人が乗っている黒いワゴン車はゆっくりと進み出した。 中谷は運転が上手い。 芽依は自分で運転していないとたまに酔うときがあるが、彼女の運転で酔った事はほとんどなかった。 「アンタ、何かあるたびにジェンが、ジェンなら、とかずーっと言ってて、あ、こいつ自分で考えるの放棄してるな?って思ってたけど、最近はちゃんと自分で考えて、自分で学びに行って、人と話して、ぜーんぶ頑張ってるじゃない。しかもそれが全部ちゃんと実になってた。すごいことなんだよ。そして、私はすごく安心したのよ」 何だか意外な言葉だった。 ただ単に中谷が珍しく自分にいなくなったジェンの話しをしてきたと言うのも芽依からしたら驚きだったが、それだけではなくて、彼女が言っているくらいには自分はジェンに頼りきりだっただろうか、そして中谷はあの頃それを気にしていたのだと知って、少しポカンとした。 2人でデビューしてからの日々は必死過ぎた時代で、正直思い出せる事は少ない。 けれど確かにいつもそばにいて大体の事は決めてくれて、引っ張って行ってくれたり、芽依の1番そばにいたからこそ1番彼の好みや考えを理解していたジェンに何かと任せてしまっていた記憶はいくつもある。 (俺、あの頃は本当にジェンに甘えてたんだなあ) あの頃と比べて最近は感じた事のなかった仕事への実感がある。 歳を取ったと言うのもあるが、それはもしかしたら中谷が言うように、自分から人と関わるように努め、信頼されるにはと動き、腐らずきちんと物事と向き合っているからかもしれない。 あくまで、自分主体で。 (俺、変わったんだなあ) 車体前方にある窓から、進んでいく道の先を見る。 そろそろ自分のマンションの近くだ。 「ジェンがいなきゃ無理だったアンタが、ひとり立ちして、しっかり自分の足で芸能界歩き始めたんだなあ、って感じてるよ」 (あ、) その瞬間、自分の必死な声と、鷹夜の必死な声が頭の中に蘇った。 『俺、もう鷹夜くんに頼る気はない。1人の人間として、社会人として自分の脚で立つ。ぐだぐだ甘えるのはもうやめる!!』 『手を離せッ、手を!!』 『だから!!これからは、下心を持って鷹夜くんに優しくする!!誰よりも優しく、大切にして絶対傷付けない。だから、こいつは下心があるんだって思いながら、俺に優しくされて欲しい!!』 脳内に蘇ったのは、もう懐かしく感じる記憶だった。 芽依から鷹夜への初めての告白だ。 結局このときは断られてしまったけれど、アリ寄りナシ、と言う何とも嬉しい返事が聞けた日だった。 (鷹夜くん、) 彼はそこでやっと、自分がまたぐだぐだに鷹夜に甘え始めていたのだと自覚した。 そしてやっと、泰清や松本の言っていた言葉と心の中で本当に向き合った。 頼っている。 甘えている。 そしてそれは、一体いつまで。 ジェンがいなくなってぼろぼろになり、恋人に裏切られて死にそうになった自分は、あの日、鷹夜と言う自分の被害者に助けられた。 元から知り合いでもなく、彼に何かされたわけでも何でもない。 街中で肩をぶつけられたわけでもない。 なのに芽依は鷹夜を騙して傷付け、泣かせてしまって、その後もしばらく苦しめたのに、結局は彼のお人好しに救われて、今、ここにいる。 (忘れてた、、馬鹿過ぎる。忘れてた) 鷹夜に命も心も救われておいて、一体、いつまで、まだ助けてと縋る気なのだろう。 最近仕事が上手くいっていたのだって、鷹夜が常に自分に誠実で安心させてくれていたからだ。 人と関わる怖さを忘れさせてくれたのは彼だったのだ。 恐ろしい事実に気が付いた途端、胸は何トンもの鉛が乗ったように重く苦しくなって、思わず芽依は胸の中心を押さえた。 ドグンッドグンッと痛いくらいに大きく心臓が波打っている。 (馬鹿過ぎる、、!!) 泰清と松本の言葉の意味が、やっと理解できた。 いや、理解する恐怖に打ち勝って、やっとその問題に向き合えたのだ。 「って言うか信用しなさいよそこは」 「え、」 「こんだけ長く付き合ってて俺のこと嫌い?じゃない!信用しなさいよ!察しろよ!あ、男の人に察しろ、は禁句かな」 「ん、と?、何の話ししてんの?」 「だ、か、ら。この人は俺のことが好きだし、嫌いになったりしないし、信用できる。俺はこの人に大切にされてるって、ちゃんと理解しろと言うこと」 「、、うん」 鷹夜もそう言いたかったのではないのか。 ジェンの代わりにしないと言っておきながら、ジェンのように目の前から消えるのではないかとずっと疑っている芽依に。 中谷が言うように、芽依は周りを信用していない。 好き好んで自分から離れていく人たちだと彼らをずっと疑っている。 そして1番いなくなって欲しくない鷹夜を、どう腕の中に留めておこうかと模索している。 (全然信じてないじゃん、、全然、鷹夜くんへの感謝が足りない。いなくなられるのを待ってるみたいだ) 胸の痛みは消えない。 何より、鷹夜が何を考えて本当は何を言いたかったのか。 どうして押し掛けてしまったあの夜に自分を突き放したのか理解してしまった今は、彼に心から「ごめんね」と言いたくて、変な手汗が滲み出ていた。 (ずーっと引き摺ってるんだ、俺だけが、、それを鷹夜くんに当て付けて、大丈夫だよって言って欲しくて、これじゃまるで八つ当たりだ。それを何度もされてるんだから、鷹夜くんがどうしたら良いか分からなくなるのなんて当たり前だったんだ) 鷹夜も言いたかった筈だ。 離れるわけないんだから、信用してくれよ。 って。

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