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第56話「隣にいて」
「別に今日でも良かったのに」
「うるさいお前は黙ってなさい」
「本当、あの、遠慮しますそれだけは」
気がつくと、時刻は17時を回っていた。
結局、昼食を食べ終わった鷹夜、西宮、前田の3人は西宮の買い物に付き合いながら話し足りない部分を話していった。
鷹夜が恋人であるMと未だにセックスができていないと言う話しをしていた為か、前田は「分からなかったり不安があるなら、俺と先輩のセックス見ればいいじゃないですか」と言うサイコパス的な発案をしたのだが、顔を真っ赤にして前太ももをテーブルにぶつけた西宮に強制的に却下され、流石に鷹夜も「それは申し訳ないので」と断った。
正直なところ見てみたい気もするが、西宮の人権を汚すわけにもいかなかったのだ。
「じゃ、また今度。また行き詰まったらいつでも連絡して下さい。俺、フリーランスだから時間の調整はしやすいので」
最後にそう言って微笑んだ前田の笑顔は、元の爽やかな好青年と言ったものに戻っていた。
恐らくこれが外面で、気を抜くとあのサイコパスじみた笑みに戻るのだろう。
絶対にあれが素の笑い方だと鷹夜は困ったように笑って返した。
「本当にいつでも連絡してね。あいつじゃなくて俺の連絡先にでいいから。あと、あんまり1人で悩まないでね」
「はい。本当にありがとうございました」
「いいえ、全然。本当に連絡して。悩み過ぎてダメになる前にね。いい?」
「はい」
西宮は最後に念を押して鷹夜にそう言うと、ニコッと笑って彼から離れて行った。
新宿駅の改札の中で2人を見送ると、鷹夜は自分も急いで帰路に着いた。
来る前と違って心は晴れ晴れとしている。
これなら、芽依の荘次郎の一件が落ち着くまで待ってから2人の今後について話し合いをしても、多分冷静に自分の事やこれからこうなって行きたいと言う目標を話せるだろう。
鷹夜にとって、西宮と前田との時間は本当に貴重なものとなった。
(たまには良いやつ買おうかな)
何となく気分が上がって、新宿駅構内にある弁当屋で少し高い弁当を夕飯にと買って、鷹夜はその弁当が入ったビニール袋を見るたびに頬を緩ませながら、疲れていると言うのに軽い足取りでマンションまで帰って行った。
「めっちゃ美味そう」
牛カルビの乗った弁当を眺めながら、思わず独り言が出たのは19時過ぎで、部屋のテレビはお笑いバラエティ番組にチャンネルを回してあった。
いくつかMC番組を持っている売れっ子コンビ芸人が番組内で行われる企画やらを説明している。
鷹夜の視線は目の前のローテーブルに乗った弁当に釘付けだが、何やら身体を張った企画をやるようだ。
このご時世にしては珍しい。
(芽依に写真撮って送ろうかなあ)
タレがたっぷり塗られた牛カルビが白飯の上に5枚程乗っていて、仕切りの向こうの小さな部屋にはにんじんや里芋の煮物とたくあん、ひじきの和え物と、卵焼きがひとつ入っている。
これで1200円。
構わんな、とまた笑みが溢れる。
「、、、あ」
違う、喧嘩して、芽依を避けていたんだった。
充電器に繋いでベッドに放り投げていた携帯電話を手に持って構えてから、鷹夜はやっとそれを思い出した。
あまりにも気分が良くて忘れていたが、確かに彼は今、恋人である小野田芽依と喧嘩中で連絡を取っていなかったのだ。
「、、、」
都合の良い話かもしれないが、途端に寂しさが胸を締めて行った。
人生が楽しくなくなって、迷う事も悩む事も増えて絶望していた時期に、今日あった良い事をそっと話す相手がいるのは良い事だなあと思わせてくれたのは芽依なのに、最近は全然彼と話していない。
お互いにセックスができなかった事に焦ったり、友人の事で悩んだり、2人の関係や信頼の仕方ですれ違ったり。
人生は色々だ。
恋愛ひとつにしても、関係ないところまで本当は全部関係していて、影響が出てしまう。
そして何気ない何かでポッと解決してしまって、怒っていた事を忘れてしまう。
「、、、芽依」
いや、怒ってはいる。
愛してはいるし心は変わっていないが、まだ鷹夜は怒っている。
これ以上分かってくれないなら、芽依を捨てる覚悟だってある。
甘やかして、努力してくれて、いつも自分を好きだと言ってくれる彼であっても、ただこの一点だけは許せないと言うところを妥協しなくちゃならなくなるなら、捨てた方が、この先の自分がきっと幸せだからだ。
「、、、」
鷹夜は芽依と出会うまで、本当にドン底にいた。
芽依も鷹夜と出会うまで、人生のドン底にいた。
出会って励まし合い、愛し合って這い上がれた。
けれどまたそこに戻るくらいなら、鷹夜は芽依を切り離せる。
いくら楽しくて幸せな時間のある恋でも、またドン底まで引き戻されるような過ちを何度もされるくらいなら、捨ててしまった方が後の自分が幸せなのだ。
鷹夜は余裕がないわけではない。
けじめが強くあるだけだ。
「はあ」
ため息を吐きながら、それでも彼はいい加減にしよう、と携帯電話を握り直して画面の電源を入れ直した。
パッと明るくなった画面の真ん中、右側に、連絡用アプリのアイコンが浮かんでいる。
通知が何件か溜まっていた。
開いていないだけで誰から連絡が来てるかは分かっている。
先程までやり取りをしていた西宮と前田。
それから長谷川、駒井だった気がする。
本当に謝るべき理由を芽依が理解するまで許す気は毛頭ないが、それはそれとして、現状のこれについては話し合わないのはダメだろう。
そう思った鷹夜は芽依とのメッセージページを開いて、先日送られてきた「鷹夜くん、まだ怒ってるの?」と言うメッセージを読み返してまた胸糞悪くなりつつ、仕方なく返事を打ち始めた。
荘次郎の事がある以上、今2人の間にある問題は一旦保留にするしかない。
彼の問題が解決してから話し合うとして、それまでは言わば少し距離を置いた状態を保ち、けれど、好きじゃなくなったわけじゃないと安心はさせてやらないとまた芽依が暴走しそうだ、などと、鷹夜は考えを巡らせていた。
そして結局、こう送った。
鷹夜[久しぶり]
鷹夜[怒ってない訳じゃないけど、今、芽依がどんだけ追い詰められてて大変なのかは分かるし、心細いのも分かる。荘次郎くんのこと心配だよな。だから、その問題が終わるまでは俺たちのことを特に話し合いする気はない。お前がそわそわして色んなものがダメになりそうで怖いから、とりあえず、嫌いになんてなってないからってだけ言っとく。後はもう普通にしよう。全部終わったらちゃんと話し合おう]
また少し突き放すような言い方のような気もしたが、何度か文章を読み返した後、意を決して鷹夜はそのメッセージを芽依に送信した。
「、、、はあーあ」
フッと肩から力を抜き、割ろうとしていた割り箸をテーブルに置いて後ろのベッドに寄り掛かる。
いつも通りの白い天井は無表情で、テレビの音は壁1枚隔てているかのように遠く聞こえた。
(好きなだけじゃダメなんだなあ)
そんなありきたりな事をぼんやりと考えた。
「寂し、」
西宮たちと会って楽しかったのに。
良い弁当も買って気分が上がってたのに。
今後も大丈夫だ、とりあえず現状の芽依が自分にビクビクしている状態は良くないから一回安心させよう、そう思っただけなのに。
何だか少し意地悪な文章も、やっぱりあんまり余裕のない自分も、すぐそばにいた筈の芽依が遠くに行ったような感覚も、肌が触れ合う距離にいてくれないのも、全部。
全部虚しくて、寂しくて、涙が出そうになった。
ブブッ
「ん、」
返信は速かった。
芽依[今話し合わない方が俺は辛い]
「、、、、」
芽依からの返信を予想していなかったわけではないが、鷹夜の胸は思っていたよりもドンと重たくなった。
でも、だって、じゃあ、どうしろと?
荘次郎の問題と2人の問題と、それを抱えて冷静に話し合えるくらい、芽依は許容範囲の広い人間だろうか。
すぐにパニックになりそうな気しかせず、持ち上げて掲げた携帯電話の画面を見ながら、仰向けの鷹夜は重たいため息を吐いた。
ブブッ
また携帯電話が振動して、新しいメッセージが届く。
芽依[自分勝手なのは分かってる。鷹夜くんに自分の都合押し付けてるのも分かってる。でも今じゃダメ?家に行っちゃダメ?もし時間作ってもらえるなら明日の朝でも昼でも行きたい。鷹夜くんが良いって言うまで部屋に入らない。鷹夜くんに触らないから。絶対に]
(あか、勝手に触ったの、気にはしてるんだ)
向き合う気があるのだろうか。
多少いつもよりも気を遣っていて大人っぽい文章に、鷹夜の中でほんの少しだけ期待したい気持ちが生まれていた。
鷹夜[明日仕事は?]
手短にそう打つと、やはり返信はすぐに返ってきた。
まだ仕事だろうに、休憩中なのか。
芽依[元々半休にしても良いって言われてた日だから、午後からにしてもらった。鷹夜くんと話したい]
「、、馬鹿だなあ」
そこで鷹夜は立ち止まってしまった。
話すにしても何をどこまで言い合うのだろうか、と。
西宮たちと話して確信を持った未来の自分と芽依の姿は、芽依が佐渡ジェンを乗り越えなければ絶対に叶う事がないだろう。
そこまで話せるだろうか。
また泣き言を聞く羽目になるのではないだろうか。
そんな不安が胸の内を曇らせていくのだ。
『俺だけは特別扱いして下さいよッ!!鷹夜さんッ!!!』
「、、、」
頭の中に、一瞬だけ嫌な記憶が蘇った。
トラウマなんてものにお前を刻んでたまるかと、すぐにそのイメージをかき消すように、鷹夜は一瞬目を閉じてグルッと首を振る。
過去に大切にして、大切にし過ぎて調子に乗らせてしまい、大きな裏切りを受けた後輩の最後の必死な叫びだ。
たまに脳裏に蘇るが、今来るか、と気持ちの悪さが胸に広がり、口の中が粘つくような感覚がした。
一瞬思い出しただけでも吐きそうだった。
もしも芽依があんな風に何でもかんでも人のせいにして逃げようとしたり、自分可愛さに言い訳を並べてきたら、もう本当にその瞬間に鷹夜の愛はフツリと冷めるだろう。
(今は話し合うべきときなのか、?)
それがもう分からなかった。
芽依は鷹夜の話し合いたい事を分かっていて会いたいと言っているのだろうか。
鷹夜としてはお互いに落ち着いた状態で話したいのだ。
一気に、全てを。
先日の一件から、この先の2人の事まで全てを。
だからこそ落ち着くまで、一旦保留にしたかったのに。
ブブッ
手の中の携帯電話が再び震えた。
芽依[こないだの、鷹夜くんが本当は何て言いたかったのかきちんと考えた]
「、、、」
ブブッ
芽依[何日か前のメッセで、まだ怒ってるの?なんて聞いてごめんなさい。俺の方が、まだジェンのこと引きずってんの?ってはなしなのに]
「え、」
その文面に、鷹夜は流石にポカンとした。
芽依の方からその名前が出るとは思っておらず、また、きちんと理解した上で謝られるとも思っていなかったからだ。
(何だ急に、何かあったのかな。また誰かに何か言われた?言われた、のかもしれないけど、、)
それでも、逃げずにその名前を出した。
これは鷹夜からしてみれば、芽依の成長の大きな一歩だった。
見ないように考えないようにしてきた佐渡ジェンと言う存在を、鷹夜がではなく自分から口に出している。
逃げ続けている事実を自覚したと言う事だ。
「んん、、」
過去の彼や自分と向き合う覚悟があるのだと、それと引き換えに鷹夜が戻ってきてくれるなら容易いのだと、彼は鷹夜に伝えたかったのだ。
ブブッ
芽依[いつも押し付けてごめん。でも、今すぐ会いたいです]
何だか、あまりにも可愛らしいメッセージだな、と思ってしまった。
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