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第2話

 「先生さようならー」  「さようならー」  「気をつけてね。お母さんとちゃんと手をつないで。寄り道しちゃだめよ、変な人に声かけられてもついてかないで」  「お世話になりました先生。ほら、たっくんもばいばいしましょうね」  鉄格子を嵌めた門の前までやってきて、幼稚園に入るのをためらう。  まわりは若い母親ばかりで、まれに会社帰りだろう父親や祖母らしき年配の女性が子供の手を引き帰っていくが、悦巳と同年代の若者はさすがにいない。  「っし」  いつまでこうしてたって始まらない。  すれ違う保護者に軽いノリで挨拶しつつ迷いを吹っ切って門の中へ入り、園児とじゃれていた保育士に声をかける。  「あの、児玉みはなを迎えに来たんすけど」  「お兄さんですか?みはなちゃんはたしか父子家庭のはずですけど……」  「あー、兄っていうか……親戚っすかね?父親の都合が悪いんで今度から俺が代わりに迎えにくることになったんす、ま、よろしく」  へらへらいい加減に挨拶する。誠一の話によれば先日まで違う人間を迎えにこさせていたらしい。  「今連れてきますので少々お待ちください」  教室へ消える。間をおかず保育士に手を引かれ、黄色い鞄をさげたみはなが出てきた。相変わらず表情に乏しい子だなと思う。  「よかったわねみはなちゃん、お兄さんが迎えにきてくれたわよ」  保育士がにこやかに話しかけても反応しない。肩と眉の上でぱっつん切り揃えた髪に縁取られ秀麗な顔が際立つ。  「んじゃ帰ろっか、みはなちゃん」     何の気なく手をさしだす。他のお母さん方がしているのを真似ただけなのだが、これが裏目に出た。  みはなは一瞬手をむずつかせるも、決心つかずおずおずとひっこめてしまう。むっつり結ぶ唇に生来の癇の強さが浮き出る。  「みはなちゃんは恥ずかしがり屋さんね」  保育士がとりなすも俯いたまま。  保育士に挨拶して幼稚園をでる。快活に手を振る保育士にみはなは目立たず手を振り返す。  つかずはなれず微妙な距離で帰途につく。  誠一とみはなが住むマンションまで徒歩十五分、居心地悪い沈黙が漂う。  ズボンのポケットに手を突っ込み、あくびひとつぶらぶら歩く。  ふと隣を見ればみはながいない。  迷子かと慌てて見回せば、十メートルほど後方においてけぼりにされ俯き加減にとぼとぼ歩いていた。  「!やっべ、」  失態に気付き小走りに引き返す。相手が子供だということを忘れついいつもの調子で歩いていた。  子供の歩幅は小さい。こちらに合わすつもりがないとどうしても置き去りにしてしまう。初日からこれじゃ思いやられるとため息ひとつ、今度はみはなの歩幅に注意して合わせつつ幼女を手懐ける話題をさがす。  「今日はなにして遊んだんすか?」  「ありさんを見てました」  「そっか。ほかには?」  「くもさんを見てました」  「あー蜘蛛って脚がいっぱいあって気持ち悪いっすよね」  「お空に浮かんでるほうですよ」  ひっかけかよ。  「他には?友達と遊ばなかったんすか」  「ななみちゃんがおままごとしてるところを見ていました」  「……見てただけ?みはなちゃんはしなかったんすか?おままごとって役あんじゃないすか、お父さんお母さんとか……」  「みはなはねこです」  「飼い猫役だったんすか?」  「ずっとダンボールに入ってました」  ……捨て猫かよ。  子供の感覚は理解できない。ひょっとしていじめられてるんじゃないかと勘ぐる。  しかしおっとりしたペースで話すみはなからはいじめられっ子の自虐も仲間はずれの疎外感も感じられず、本人がぜんぜん役割を苦にしてないならいじめとは呼べないかと納得する。  「最近の幼稚園じゃへんな遊びが流行ってるんすね……みはなちゃん、それって楽しいっすか?」  突然みはなが立ち止まる。  悦巳を見上げきっぱり宣言する。  「みはなはもうすぐ五歳です。あかちゃんじゃないのでちゃんづけはよしてください」  何か言い返そうと開いた口を再び閉じる。少し迷った末、呼び方を改める。  「……みはなさんは幼稚園児なのにとってもしっかりしてるっすね」  「みずはらさんは大人のひとなのになんだかとってもいいかげんですね」  言われちまったよ四歳児に。  悦巳をそっけなく名字で呼んで駄目だししたみはなは寄り道もよそ見もせず、マンションの方角へと歩いていく。  水色のスモッグを着た小さな背中に追いつくや、悦巳は引き攣り笑いで頬を掻く。  「ちみっこに名字で呼ばれんのへんなかんじだな……俺の事は悦巳でいっすよ?」  「わかりました、みずはらさん」      行くところがない悦巳に同居を提案したのは誠一だった。  「みはなの世話を含めた家事全般をやってもらうんだ、住み込みのほうが都合いいだろう」   「けど俺家賃なんて払えないっすよ、さっき言ったとおりホントすっからかんで」  「家賃はいい」  願ったり叶ったりの申し出だ。  本音を言えば身ひとつで漫画喫茶を渡り歩く生活も体力的にきつくなってきたのだ。食事や用足しは店内で済ます事が出来ても入浴はできず、着たきりのスウェットは匂う。誠一の背後に控える黒スーツが時々顔を顰めるのは、おそらく悦巳から漂う匂いのせいだろう。  寝室からリビングへと再び場所を移し、契約書をのせたテーブルを挟み、これから雇用主となるだろう男と対峙する。  ソファーにゆったり掛けて足を組み、男は落ち着いた口調で雇用条件を述べていく。  「お前に頼みたいのは俺の一人娘、みはなの世話だ。俺が仕事で留守にしてるあいだあいつの面倒を見てやってくれ。幼稚園の送り迎え、料理、掃除、洗濯……まあそんなところか。心配しなくてもみはなは年の割にしっかりしてる、それほど手はかからんだろう」  「いきなり言われても……」  「施設にいたんならガキの世話は得意だろう」  「自分の子供なら自分で面倒みりゃいいっしょ?」  「なんでもすると言ったのは嘘か?」  誠一は強引だった。弱みをつかまれた悦巳は交換条件を飲むしかない。  「わかったら契約書に判をおしてもらおう」  「契約書まで用意してるんすか。本格的っすね」  感心半分あきれ半分、契約者を手にとって記載事項に目を通す悦巳の眉根が寄る。  「……あの、質問いっすか」  「なんだ」  「条項1、過失で怪我を負わせた場合は死をもって償うってのは」  「程度にもよるが仮に娘がお前の過失で片腕を骨折したら全身複雑骨折を覚悟してもらう」  「条項2、幼稚園の送迎をさぼった場合は監視任務につくボディガードが相応の措置をとるって……」  「安心しろ、法律に抵触しない範囲の措置だ」  「安心要素どこっすか」  記載条項を読み、死と隣り合わせの危険任務の実態を痛感するにつれ冷や汗が伝う。  漫画喫茶から見知らぬ男たちに拉致され高級マンションの一室に軟禁状態にある悦巳は、片手で髪かきむしり毒づく。  「わけわかんねっすよ、どうして俺があんたの娘のお守りしなきゃいけないんすか。そもそも俺あんたのばあちゃんを詐欺にかけたヤツっすよ?せこいとはいえ犯罪者っすよ?そんなやつに可愛い一人娘を預けていいんすか、心配じゃないんすか」  非難の調子を帯びた声でなじれば、悦巳がテーブルに放った契約書をすくい、誠一が沈着に口を開く。  「事前に確認しておくが幼女に性的な興味はないな」  「……ストライクゾーンは美少女と美女とぎりぎり美熟女で幼女はアウトっす」  「ならば問題ない。早速明日から頼む。幼稚園は九時からだ、その前にみはなを起こして飯を食わせて支度をしろ」  誠一が席を立つ。黒スーツが待ちかねたように従う。  呆然とする悦巳をリビングに残し、黒スーツ二人組を率いて去っていく傲慢な男の背にたまらず叫ぶ。  「おい待てよ、勝手に話進めんな、俺まだオーケーしてないっすよ、今日からここに住めって言われたって自慢じゃねーけど料理なんかできねえし子供の世話なんかむりだし俺なんか雇うよりちゃんとした家政婦さん雇ったほうが絶対いっすよ、そっちのがあの子のため……どこ行くんすか!?」  「会社に戻る。仕事が残ってるんだ」  「は?だってあの子、みはなちゃんだっけ、今起きたばっかなのにひとりぼっちで残してくんすか!?」  子供より仕事を優先する無責任な父親を非難するも、時すでに誠一は玄関へ至り、黒スーツが押さえたドアからマンションの廊下へ出て行く。こればっかりは正論の抗議にもさっぱり耳を貸さず、ついさっき対面を済ませたばかりの元詐欺師の家なき男と年端もいかぬ愛娘を残し、携帯で部下に指示をだしつつ去っていく。  「ああ、俺だ。今から戻る、豊島商事との会談をセッティングしておけ。こないだ台湾から輸入したジャスミンティーはあるか?じゃあそれをお出ししろ。専務は奥方の影響でハーブティーにこってるからな……」  キレる。  「~人の話を聞け!!」  悦巳が目一杯のばした手の先で無情にもドアが閉まり、黒スーツに挟まれた男が姿を消す。  閉まったドアを呆然と見詰める悦巳、怒涛の如く畳み掛ける展開に混乱しきって立ち尽くす彼のもとへ軽い足音がやってくる。  つられて視線をおとせば、いつのまにかみはなが寄り添っていた。  騒ぎを聞きつけ寝室から抜け出したのだろう、たった今父親が出て行ったドアを見つめる顔には何の感情も浮かばない。  瞬きもせずドアを見つめるみはな。  初対面の女の子とふたりっきりで取り残された悦巳は、ドアを開け放って誠一を追うか一瞬迷うも、寝起きのみはなを一人残していくのはまずいと考え直す。  「………勝手なヤツ……」   不満げにぼやき、その場に屈みこんで視線の高さを調節。  「まあ、そんなわけで。いきなりでびっくりしたと思うけど、現行形で俺もびっくりしてんだけど……よろしく?でいいのかな?」  語尾に疑問符がつく。首を傾げて言う悦巳をじっと見つめるみはなの顔には、神秘的とさえいっていいだろう聡明さが感じられる。  「ご心配なく。自分の事は自分でできますからご迷惑おかけしません」    実際その通りだった。  みはなは素直で手のかからないとてもいい子だった。  「ただいまー……ってだれもいねっすね」  ドアをしっかり施錠し、土足のままあがりこむ。どうもまだ洋式マンションの作法に慣れない。  悦巳が誠一から預かった鍵でドアを施錠する間、みはなは既に軽快な足音を響かせ台所へ行っていた。  「そうだ、おやつは」  「自分でやります」  「……そ」  どこからか用意した子供用の椅子に上がり、皿に盛ってラップを掛けたプリンと牛乳を冷蔵庫からとりだす。マグカップに牛乳を注ぎ右手に持ち、左手に皿を持ち、間違いがないよう慎重な足取りでテーブルへ運ぶ。椅子を引いてよじのぼり、スプーンを手にして黙々と食べ始める。   本当は悦巳の仕事のはずだったのだが。  「しっかりしてんなあ……」  感心してしまう。この年で誰かにしてもらうのを待つのではなく自分から動く姿勢が身についてるのはいっそいじましい。  みはなは一生懸命手を動かし、一口ずつプリンをすくって口に運ぶ。時折スプーンをおき、両手でカップを包んでんくんく牛乳を飲む。  向かいの椅子に行儀悪く片膝立てた悦巳は、特にやることもなくみはなのおやつ風景を眺め、最後の被害者とのやりとりを回想する。   児玉華は変わった人物だった。  彼女が豪邸に住まう資産家の未亡人だという情報を掴んだのはもっとずっとあとで、最初に振り込め詐欺の電話をかけた時はその他大勢の被害者と同じく一人さびしく余生を送る普通の老婆だろうと侮っていた。児玉華は勘が鋭く、第一声から悦巳の正体を見抜いていたにもかかわらずすぐさま電話を切らず人懐こく話題を振ってきた。序盤で正体を看破されたら即電話を切るのが振り込め詐欺の鉄則だが、のらりくらりとぼける華にいつしか悦巳もむきになり、リベンジのリベンジと延長戦にもつれこんで長電話になってしまうのが常だった。  ミイラとりがミイラになる。  庭だの屋敷だの言動の端々に金持ちの匂いが漂っていたため、逃すには惜しいえものだという下心があったのは否定しないが、毎日のように電話を掛けるうちに詐欺師と互角に渡り合うユーモアを持つしたたかで柔軟な人物像そのものに惹かれ始めた。   時折ボケと自演をまじえ笑いを誘う華との攻防は、しかし突然意想外な形で打ち切られた。  兆候はあった。その少し前から物忘れが激しくなり記憶のつながりがあやふやになった。「もしもし、おれだよおれ」の第一声ですぐ相手を断定していた老婆が、「どなたですか」とおっとり頻繁に聞き返すようになった。華が痴呆にかかっていること、症状が日に日に進んでいることは電話越しに話しているだけの悦巳にさえひしひしと感じられた。  だからってなにができる?  ばあちゃんが日に日にボケてくことがわかったってどうにもできない、実際会った事もないんだから。  最後の電話で華は薔薇の開花を心待ちにしていた。  その前もその前も、いつ咲くかいつ咲くかととっくに枯れて散った薔薇の開花を心待ちにしていた。  薔薇咲く庭は華の自慢だった。おれおれさんもいらっしゃい、薔薇を見ながらお庭で飲む紅茶は最高よと招待されたがそのたび曖昧に笑ってごまかした。  ……いけね、また思考が暗くなってる。  気分を変えようと大あくびをかます。  目一杯口をあけて伸びをする悦巳に、両手でカップを包んだみはながびっくりする。  振り込め詐欺集団の元仲間に追われる悦巳を、みはなの世話と引き換えに匿う誠一の思惑はわからない。本人の言を信じるなら復讐が目的だというが……  「うさんくせーなあ」  おもわず地がでる。  大体悦巳の頭は難しいことを考えるのに向いてないのだ。かぶりを振ってつきまとう疑惑を払い、椅子を引いて台所へ向かう。   冷蔵庫の扉を開ける。喉の渇きを覚え、直接パックに口をつけて牛乳を一気飲み。  「お行儀悪いですよ」  顔を上げる。  カウンターの向こう、テーブルにきちんと掛けたみはなが牛乳パックを持つ手元を咎めるように見やる。  「牛乳はこうやって飲んだほうがうまいっすよ」  「…………本当ですか?」  「マジすマジす。みはなさんもどぞ、チャレンジ一発」  悪戯っぽく笑い、牛乳パックをちょいと掲げてみせる。  みはなは半信半疑。  悦巳に悪気はない。ただ、たった四歳のみはながあまりに何からなにまでちゃんとしているから少しからかってみたくなったのだ。  ささやかなきっかけで少しでも距離が近付けばいいと内心目論み手じゃくでけしかける。   「一気にぐいっと」  「ぐい、ですか」  「ぐいーっと。人生何事も経験あるのみっす」  好奇心に負けたか笑顔に唆されたか、悦巳の手から渡されたパックをおもいきって顔の上で逆さにする。  次の瞬間、悲劇が発生した。  「!げほっけほっ、」  「みはなちゃん!?」  我を忘れ敏捷な身ごなしでカウンターを飛び越える、激しくむせて咳き込むみはな、顔の上で逆さにしたパックから一気に口へとながれこんだ牛乳に仰天する、大量の牛乳をスモッグの胸元が吸収し真っ白に染まる。  「ごめんみはなちゃんっ、俺がばか言ったから……うわ、どうしよこれ服も床もびしょびしょ、雑巾、いやあとあと、まず服どうにかしねーと明日着てくのに染みになるって俺の馬鹿!?」  涙目でせきこむみはなの背中を甲斐甲斐しくさすり椅子からおろし、浴室の方へと引っ張っていく。緊急事態なので手を繋いでも文句は言わない、苦しくてそれどころじゃないのだろう。  「ちょっと我慢して、今すぐきれいきれいすっから!」  脱衣所の洗濯機の前に立たせ、あたふた慣れない手つきでスモッグを脱がそうとするが上手く行かずさらに狼狽。無理もない、幼女の服をひん剥いた経験なんて十九年の人生で皆無……じゃない、施設育ちの悦巳は年少の子の着替えを手伝う事がよくあってだから幼女のパンツや裸を見るのは初めてじゃないのだがけっして下心や性的興味はなくて、さておきこのスモッグというへんてこな上掛けは着脱が簡単そうでいて慣れない人間にとっては実に脱がしにくい服で、みはながいかに大人しく従順にされるがままとはいえ手こずる始末。  「バンザイして」  悦巳の指示に従って両手を上げバンザイのポーズ、そのタイミングを見計らって裾を一気に捲り上げるも、今度は首の部分が引っかかって抜けなくなる。  「ホントごめんみはなちゃんじゃないさん、しょうがねえ今ハサミもってくっからちょっとだけ我慢して、だいじょぶ痛くしないから」    「なにを痛くしないんだ?」  氷点下の声が耳と背中に突き刺さる。  開けっ放しのドアのむこうにいつのまにか男が立つ。誠一だ。  よかった、助かったと安堵に胸なでおろす暇もなく、顔筋を不規則に痙攣させ眼光の圧力だけで人を殺せそうな誠一の険悪な表情に、自分が今いかに誤解を招くのっぴきならぬ状況に直面してるか脳髄に浸透していく。    スモッグの裾を捲られ、まっ平らな胸とぽこんとしたおなかの幼児体型をさらすみはな。  ほぼ半裸のみはなと向き合い、今しもスモッグを脱がそうと額に汗して格闘する悦巳。  なお悪い事にみはなの口のまわりには白くねばねばした液体が付着して、スモッグの胸元には白い染みができてバンザイでパンツ丸出しでこれじゃあまるで……  「染みになっちゃうと困るので、みずはらさんがお洋服を脱がしてくれているのです」  怒れる一児の父の拳が頬げたに炸裂し、悦巳は錐揉み吹っ飛んで洗濯機に激突した。  「ひどいっすよ、全然話聞いてくれねーんだから。殴られ損じゃねっすか俺」  「あんな光景見たらだれだって誤解する」  「詫びひとつなしっすか?開き直るんすか?」  その日の夜みはなを寝かしつけたあと、頬を腫らした悦巳と仕事を終えた誠一はリビングで向き合っていた。  「今日は帰り早かったっすね、誠一さん」  「初日だからな。様子を見に帰って来たんだ」  夕食はデリバリーで済ませた。  児玉家にはどこぞの厨房で使われるような巨大冷蔵庫があり、世界中の調味料香辛料をはじめとして魚肉野菜に至るまで業者が配達する新鮮で豊富な食材が常備されてるのだが、生憎と悦巳は料理が出来ない。誠一にそう申し出たところ出前のメニューを放ってよこされた。  「ただし毎日出前はだめだ、栄養が偏る。徐徐に料理を覚えていけ」  「覚えてけって……誰に習えば」  「知るか。自分で考えろ」  一児の父のくせになんて身勝手な男だ。  おいてもらってるんだから文句を言えた立場じゃないのは百も承知だが、唯我独尊と傲岸不遜を足して割ったような雇い主の態度に憤慨する。が、不満をぶつける度胸はない。流れ流れてやっと見つけた潜伏先、隠れ家としては申し分ない環境のマンションを放り出されて路頭に迷うのは想像するだに恐ろしい。  裏切り逃げた仲間の追跡に恐れ怯え神経をすり減らし、漫画喫茶に寝泊まりする生活にもどるのはまっぴらごめんだ。   とりあえず一時間におよぶ申し開きで昼間の誤解を晴らす事には成功したが、代償は大きい。  平伏する悦巳を前に偏屈な沈黙を守る誠一が、自身の価値観に照らし合わせ寛大な判決を言い渡す。  「今回は未遂ですんだから恩情で許すが次に同じ過ちがあった場合去勢か射殺か選べ」  「どっちにしろタマとるんすね……」  情状酌量、推定有罪。  「んなに心配なら監視カメラなり盗聴器なり好きなだけ仕掛けときゃいいのに……」  「いい心かけだ。採用しよう」  「すんな」  みはなとは別ベクトルで疲れるこの人。  いい機会だからもう一度真面目に話し合おう。  どうして祖母の仇を家政夫として雇い入れたのか、復讐が目的だと言いつつ家においてくれるのか、こいつの行動は矛盾と謎だらけで信用できない。娘がいるということは既婚者なのだろうが、母親の姿がないのも気がかりだ。  だが、当面一番の気がかりは。  「今日はあの黒スーツのおっかないおっさんたちいないんすか」  「家の中までついてこない。俺だってプライベートな時間がほしい」  それを聞いて安堵に胸をなでおろす。  誠一とふたりきり、静寂漂うリビングで向かい合う気詰まりな時間にむず痒さを覚え、対面の男をさりげなく観察する。  「誠一さんて今いくつなんすか」  「二十六だ」  「若っ。じゃ二十一で結婚したのか」  「まあな」  「大変っすねー」  「十九の若い身空で毎日毎日一人暮らしの年寄りに生存確認の電話をかけてたどこかの若造ほどじゃない。役所の福祉課よりまめじゃないか」  イヤミなヤツ。  集中して何かを読んでいた誠一がふと目を上げる。  「能無しめが、どこの世界に雇い主と差し向かいでゆるりと寛ぐ家政夫がいる?茶のひとつでも淹れてこい」  面倒くさげに手を振って悦巳をリビングから追い払う。   渋々腰を上げ台所へ行ったものの肝心の紅茶がおいてあるところがわからない。  片っ端から引き出しを開けひっかき回し中身をあさるも見つからず舌を打つ。  「紅茶のパックみつかんねっすよ、切らしてるんじゃないっすか」  「馬鹿」  伸び上がって振り返れば、帝王の貫禄でソファーに掛けた誠一が嘆かわしげに首を振る。  「インスタントなんてとても飲めたもんじゃない、茶葉から蒸らして淹れるんだ。戸棚の一番下に茶壷があるだろ?」  戸棚の一番下に陶器のポットがあり、蓋をとれば乾燥させた茶葉が詰まっていた。  「………最初からそう言えよ……こっちはインスタントっきゃ飲んだことねー庶民だっての」  ティースプーンでおおざっぱに茶葉をすくってカップに投入、腹立ち紛れにじょぼじょぼ派手に湯を注げば高さのせいで飛沫がとぶ。  「あちっ!?」  手の甲に熱湯の飛沫がはねる。火傷した手に息を吹きかけ、なにやってんだと虚しくなる。  背に腹は変えられない。警察に突き出されるのがイヤなら返事はハイで家政夫の仕事をこなせ、ご機嫌をとれ。  「超性格わりぃ……ホントにばあちゃんと血ぃ繋がってんのかよ」  カップをふたつ手に持ち引き返す。  「遅い。紅茶ひとつ淹れるのにいつまでかかってる」  確信した、こいつは自分の手を動かすとなれば座布団を横にずらすのさえ厭うタイプだ。  読み物から顔を上げるなり文句を言い、悦巳がもうひとつ持つカップに目を眇める。  「お前も飲むのか?」  この一言で、今までこらえにこらえた何かが限界ぎりぎりまで膨れ上がる。  「……俺みたいなケチな詐欺師とさしで茶あしばけないってんなら捨ててきますよ、もったいねえけど。そっすよね、うっかりしてました、貧乏で汚え使用人の顔が真ん前にあったらせっかくの高級紅茶がまずくなりますよね!」  やってられっかこんな茶番。もうクビんなってもいいや、なるようになりやがれ。  あてこすりと皮肉とイヤミを交えて挑発すれば、誠一はそれには返さずテーブルに置かれたカップのうちひとつに口をつける。  淹れたての紅茶から漂う湯気が誠一の顔をなで、伏し目がちの表情を曖昧にする。  その動作があまりに優雅なもんで不覚にも見とれてしまう。  「ぶっ」  口に含んだものを即座に吹き出す。  「!?うわばっちい、」  肩を上下させ激しく咳き込む誠一から被害の拡大を恐れとびのく、カップをテーブルに叩き置き口元を覆いえずく様子は泥水を呷ったが如く尋常じゃない。  「なんだこの紅茶は。どうやって淹れた?」  「どうって……カップにざかざか茶葉ぶちこんでその上からじょぼじょぼお湯を……」  「直接?」  「え、駄目なんすか」  それを聞くや腕一閃、一抹の未練なく正常な味覚を麻痺させるほど濃縮されたカップの中身をぶちまける。  「いつからお前は茶漉しの存在を全否定できるほど偉くなった?」  憤懣やるかたない顔つきで空っぽのカップと雫滴るテーブルを睨みつけ、沸々と滾りたつ怒りを抑えた凄味ある低音で吐き捨てる。  「酷い味だ。こんなまずい紅茶は生まれて初めてだ。色が濃すぎるし茶葉が浮いててとても飲めたもんじゃない。紅茶ひとつまともに淹れられないのか、お前は」  「んな事言ったって淹れ方知らねーし」  「ホウレンソウの灰汁でも啜ったほうがましだ」  完全に機嫌を損ねてしまったようだ。  紅茶浸しとなったテーブルを苛立たしげに一瞥、読み物を中断して席を立つやとりつくしまなく寝室の方へ歩いていく。  「もう寝る。後始末しておけ」  「ちょっと待てよ、いくらなんでも酷くね……」  理不尽にして非道な仕打ちに反発、試しに一口含んだ次の瞬間盛大に吹き出してぽたぽた雫をたらす。  ドアノブを握って振り返った誠一が呆れ果て、口を押さえて床に突っ伏す悦巳に告げる。  「紅茶ひとつまともに淹れられん家政夫にやる給料はない、ただ働きがいやなら技能を身につけろ」  「誠一さん、ちょ、話聞いてくださいっす、たしかに酷い味だけど不可抗力で」  ドアを開けて去っていく誠一を追い駆け出しかけ、誠一が片手にさげた読み物が目にとまる。  うさぎのイラスト入り連絡帳。  名前の欄には丸っこいひらがなで「こだまみはな」。  憤然とした響きをたてドアが閉まり、リビングに一人残された悦巳は、紅茶浸しのテーブルにため息を吐く。  「……なに熱心に読んでんのかとおもったら……」  傲慢な雇用主に対し怒りを維持しようと努めるも、引き締めた頬は自然と緩み、こみ上げる微笑ましさで口元は綻ぶ。  紅茶をぶちまけるという突飛な行動も、連絡帳を熟読する習慣がばれるのを防ぐための照れ隠しだと思えば可愛く見えてくる。  美味しい紅茶をご馳走してあげるわ。  紅茶ひとつ淹れられないくせに。  電話越しの華の誘いと今聞いた誠一の皮肉とが絡まりあって、人様に言えない過去持ち世間の片隅に閉塞していた無気力フリーター青年の眠れる闘志をかきたてる。  「………やってやろうじゃん」  ばあちゃんとの約束を果たせなかった俺が、孫のあんたにとびきり美味い紅茶をご馳走してやる。

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